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亡蜀記  作者: コルシカ
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魏呉の頽廃


        三十七


 蜀が王朝として安定した運営をおこなうことができたのは、魏と同盟国の呉が内部で混乱をきたしていたからである。

 まず呉であるが、赤烏七年(二四四)に丞相の顧雍が亡くなって、陸遜が丞相に任命された。

 呉ではそのころ太子の孫和と魯王の孫覇の後継争いが激化している。

 群臣も太子派と魯王派という二派にわかれて、たがいに派閥の主を次期皇帝候補に推していた。

 首都の建業からはなれたところにある武昌に駐屯している陸遜は、そのことを知り憂いた。

 (太子と魯王が地位をひとしくし、官吏が子弟をそれぞれの皇子に仕えさせるなど、あってはならぬ……)

 こう考えた陸遜は、衛将軍である全琮に書簡を送った。

 「子弟に才能があれば、任用の心配をすることはない。私的に太子と魯王に出仕して営利をもとめてはならない。それがうまくいかなくなると、禍のもとになる。

 ふたりの皇子の勢力が均衡すると、かならず対立する。これは古人がこぞって忌み嫌うことである」

 しかし、全琮の妻は全公主であり魯王孫覇を応援している。

 (丞相は建業から離れているので、世情に疎いな)

 魯王を全力で後押ししている全琮からすれば、陸遜の書簡は迷惑な諫言であった。

 陸遜はそれでも全琮の能力を高く買っているので、政争によってそれが失われるのを憂慮して、ふたたび書簡を出した。

 「あなたは金日磾の行いをまねず、ご子息を擁護されているようだが、それはあなたの家を転覆させることになるでしょう」

 ちなみに金日磾とは前漢の武帝の臣で、子が武帝に寵愛されていることをいいことに好き放題したので、わが子が皇室と家の害になると判断して殺したことを指している。

 全琮は次男の全寄を魯王にはりつけていたので、

 (陸遜は、わが子を殺せといっているのか)

 と激怒した。

 全琮は妻の全公主に、

 「陸遜は太子を擁護しているだけでなく、わが家のふるまいにも難癖をつけてくる」

 と告げた。

 全琮と全公主、そして魯王の寵臣である全寄を敵にまわした陸遜は、かれらによって孫権にさんざんな誣告をおこなわれた。

 建業にいない陸遜は、全琮からの返書がないのを訝りながらも、

 「陛下(孫権)をお諫めしなければならぬ」

 と上疏をおこなった。

 しかし魯王を愛している孫権は、陸遜が知っている孫権ではない。

 「太子は、皇室の血統において正統です。

 魯王は皇子ではあっても藩臣なのですから、ご寵愛になり官を授けるときには、太子と差をつけなければなりません。

 太子と魯王がそれぞれふさわしい身分になれば、群臣は安心するのです。

 叩頭し血を流して申し上げるしだいです」

 孫権は、陸遜からの上疏を無視した。

 「妙だな……上疏がだれかにさえぎられているのかもしれぬ」

 そう感じた陸遜は、なんども孫権に上疏をおこなった。それでも、孫権から陸遜への返答はなかった。

 「こうなれば、一刻も危機を放置しておられぬ。陛下に拝謁する」

 じかに孫権に拝謁して、意見を述べるべきだと決意した陸遜は、

 「どうか、都にのぼることをおゆるしください。なんとしても太子と王の分をはっきりさせ、得失をたださせてください」

 と孫権に訴えた。

 孫権は、陸遜の上疏を読んでいないわけではない。

 分別くさい態度をとる陸遜を、うるさく感じていたのである。

 陸遜に返書を送らなかったのは、

 「太子と魯王の件に、なんじは口をだすな」

 といったつもりであった。

 しかし群臣でも最高位にいる陸遜が、

 「魯王の待遇を太子よりひくくすべし」

 としつこく忠告することは、皇帝である孫権がきめた処遇に異を唱える不遜な行為であると感じた。

 「丞相を、流罪とせよ」

 ついに孫権は陸遜から丞相の位を剥奪し、流罪を命じた。これには魯王派の群臣たちの讒言があったことを、暗にしめしている。

 「丞相が流罪だと……」

 「太子と魯王の処遇を、書簡で陛下とやりとりしていただけだというではないか」

 官民ともに愛された陸遜は、こうして丞相の位から転落した。

 流罪となった後も、陸遜は孫権の使者に、なんども問罪された。

 「陛下……私がお気にいらぬなら、なにもこのようなことをなさらずとも、潔く自裁いたしましたものを」

 陸遜は涙を流し、ついには憤りを発して死んだ。享年六十三である。

 呉は名臣をこの二宮のあらそいでつぎつぎと殺害し、みずから国力を弱めていった。

 一方の魏であるが、大将軍の曹爽が政治の実権をにぎり、太傅の司馬懿は病を理由に自宅にひきこもるようになった。

 いわば司馬懿は、わざわいを避けたのである。曹爽一派が隙をみせたときに政変をおこし、みずからが政治の実権をにぎるつもりであった。

 曹爽は飲み物、食べ物、乗り物、衣服を天子と変わらぬものにした。

 妻妾は曹爽の邸にみちあふれているのに、先帝曹叡の女官をうばってきて、音楽を楽しんだ。

 そういう悪事を可能にしたのは、何晏、鄧飄、丁謐ら浮華の徒たちがつくった偽の詔であり、曹爽やじぶんたちの利益のためならば、かれらは偽の詔をいくらでも平気でつくった。

 曹爽は自宅に地下室をつくり、朝までだれにもしられない宴会をひらいた。

 正始八年(二四七)から九年(二四八)は曹爽たちの絶頂期であった。

 そうなると曹爽は鄧飄らにそそのかされて、皇帝になりたいと志望するようになってきた。

 そのとき障害になるのは、病と称して自宅にひきこもっている司馬懿である。

 曹爽は李勝を司馬懿の自宅を訪問させ、

 「太傅の病が篤いかどうか、その目でみてきてくれぬか」

 と依頼した。

 司馬懿は李勝がじぶんの邸を訪問すると聞いて、すべてのことを理解した。

 曹爽をあざむくために、仮病をつかったのである。

 李勝に会った司馬懿は、幾度も李勝のことばを聞きまちがえ、牀に横たわって粥をこぼすなどじぶんがあたかも重病であるとよそおった。

 曹爽のもとに帰った李勝の報告で、曹爽と何晏らは安堵した。

 「来年は、大将軍が天子になられるぞ」

 鄧飄は泥酔して、曹爽をもちあげた。

 しかし、年があらたまった正始十年(二四九)の正月、曹叡の陵墓へ皇帝曹芳をともなって参詣した曹爽が洛陽城を出た隙に、司馬懿とその子司馬師、司馬昭が兵をあげた。

 司馬懿はすばやく郭太后から詔をうけとると、曹爽の兵権をとりあげ、実権をにぎった。

 曹爽たちと浮華の徒らは、おびえてなにもすることができず、結局司馬懿に処刑されることになった。

 司馬懿がおこした政変で、ふるえあがった人物がいた。夏侯覇である。

 かれは、漢中で劉備と戦って死んだ夏侯淵の次男である。

 このとき夏侯覇は征蜀護軍であったが、

 「司馬懿は曹氏を誅滅させたあと、かならず夏侯氏も滅ぼすであろう」

 といった。

 そのとき近臣が、

 「それならば、いっそのこと蜀に亡命なされたらいかがでしょう」

 と忠告した。夏侯覇は眉をひそめて、

 「蜀は、わが父を殺した仇敵の国であるぞ」

 とつぶやいた。近臣はそれでも、

 「しかしながら、あなたさまは蜀主である劉禅のご親戚におあたりになります。

 劉禅はあなたさまの亡命を疑わず、歓迎してくれるにちがいありません」

 と蜀への亡命をすすめた。

 「ふうむ……」

 奇縁奇遇である。

 四十九年前の建安五年(二〇〇)に、夏侯覇の従妹で十三、四歳の少女がいた。

 ある日その少女はたきぎとりにでかけたまま、家に帰ってこなかった。

 じつはその少女は人にさらわれたのであるが、さらった者とは、なんと劉備の股肱の臣である張飛であった。

 当時劉備は曹操から逃れてふたたび独立し、袁紹と組んで曹操に敵対していた。

 夏侯氏は沛国の譙県の出身なので、少女の家は譙県にあったのであろう。その近くまで張飛は来たということか。

 山中で美しい少女を見つけた張飛は、彼女に惹かれ、その姓が夏侯氏であると知った。

 「曹操の父も、もとの姓は夏侯氏であったときいた。名門だな……よし、この娘をわが妻にしよう」

 ということで、じぶんの妻にしてしまった。

 張飛の妻は、娘を産んだ。

 その娘は長女で、劉禅がまだ太子であったときに宮中に入り、建興元年(二二三)劉禅が即位したあと、皇后に立てられた。

 張氏敬哀皇后である。

 この皇后はそれから十四年後に逝去したが、いまの劉禅の皇后も張飛の娘である。

 つまり延煕元年(二三八)年に敬哀皇后の妹が、皇后に立てられたというわけである。

 いずれにせよ、いまの蜀帝劉禅は、夏侯覇の従妹が産んだ娘の夫なのである。

 「ゆえに、あなたさまが蜀に亡命なさっても、粗略にあつかわれることはないはずです」

 近臣は、ねばりづよく夏侯覇に蜀への亡命を説いた。

 「そうよな……」

 夏侯覇は、歴史の奇縁を頼ろうかという気になってきた。

 司馬懿はじぶんに敵対する者をすべて殺すような非情なところがあるので、わざわいがふりかかる前にと、ついに夏侯覇は少数の従者をつれて蜀に奔った。

 夏侯覇の逃走は、魏の警察網にはひっかからなかった。推測するしかないが、夏侯覇の逃走が突発的であったのか、まわりの者の口が堅かったか、いずれかかもしれない。

 夏侯覇は追撃されることなく、益州に入った。ひたすらに陰平をめざしてすすんだ。

 陰平は郡名でもあり県名でもあるが、益州と魏の最西端にある国境にあるのが陰平郡で、郡府があるのは陰平県である。

 夏侯覇の逃走経路は、雍州の隴西郡から南下し、益州の武都郡に入ってから、その西南に位置する陰平郡をめざしたのであろう。

 武都郡や陰平郡は峻険の地で、道は険しく、山谷の高さや深さは想像に絶する。

 道に迷った夏侯覇は、谷からうごけなくなり、食料も尽きたため、馬を殺して食べた。

 履もやぶれ、足からは血がながれている。

 従者たちも疲弊しきっていたが、

 「主がうごけないのであれば、道を探ってまいります」

 とそれぞれ探索にでかけた。

 「天に身をゆだねるしかないか……」

 夏侯覇は、岩に身をよこたえた。

 陰平郡の地理を知らない従者たちは、道を発見できずに帰ってきた。

 「よい。司馬懿に斬殺されるより、天地に見守られて死にゆくほうがましよ」

 夏侯覇は、疲れきった笑顔を見せた。

 しかし、蜀の陰平県の郡府にいる役人が、不審な侵入者を発見した。

 「われは夏侯覇である。蜀の天子にとって遠縁にあたるので、亡命してきた」

 夏侯覇の説明を聞いた役人は、

 「わかりました。陛下にすぐ連絡いたします。それまで郡府にある宿舎でお休みください」

 と夏侯覇を陰平県へ丁重に案内した。

 蜀では大司馬の蔣琬が病死したあと、大将軍の費禕が補弼にあたっていたが、漢中に駐屯しているため、成都にいる劉禅がはじめて国事を見るようになった。

 ちなみにこの年、蜀の延煕十二年に劉禅は四十三歳になっていた。

 四十歳をこえるまで政治に関わらなかったことは、皇帝としてきわめて異例である。

 しかし劉禅は父の劉備が臨終の際に、

 「朕が亡くなれば、なんじら兄弟は丞相(諸葛亮)を父と思って仕えるのだぞ」

 と弟の劉永とともに遺言されていたので、それを遵守していたのである。

 諸葛亮と蔣琬、費禕が宰相として優秀であったため、劉禅はじぶんの意見をあえて口にしなかった。

 それは、ある種の美徳である。

 「三国志」には劉禅の美徳を讃える記載が皆無であるため、劉禅暗愚説が後世に広まることになった。

 さて、劉禅は夏侯覇が亡命し、陰平県で療養していることを聞くと、

 「夏侯将軍をすみやかに扶け、成都にお連れするように」

 と群守にねんごろに命じた。

 「われは、死なずにすんだのか……」

 夏侯覇は胸をなでおろし、成都に案内された。

 成都の宮殿で夏侯覇と会見した劉禅は、

 「あなたの父上は、戦陣において命を落とされた。だが、わが父が殺害したわけではない。悪く思われるなよ」

 と優しさを見せた。

 (劉禅は、悪逆の君主ではないようだ)

 夏侯覇も、劉禅の優しさに触れ、拝礼した。

 それから劉禅は自分の子を紹介し、

 「この子らは、夏侯氏の甥になる。よろしく善導してやってほしい」

 といった。

 夏侯覇は蜀において皇室の連枝として優遇され、亡命したことを後悔しなかったであろう。

 夏侯覇は車騎将軍にまで昇進したが、その没年は不明である。

 蜀の費禕は、司馬懿がおこなった政変を是か非かと考え、ふたつの論を立てた。

 ひとまず甲論と、乙論とする。

 甲論は、司馬懿の行なった政変を正しいものとする。国家を乱していた曹爽と浮華の徒たちを誅殺したことは、官民の願望にそったものである。

 司馬懿は、先帝曹叡からあたえられた任をまっとうしたといえる。

 一方の乙論は、曹叡は司馬懿と曹爽に協力して政治をおこなうように、と遺言したのである。

 しかし曹爽は権力を独占した。司馬懿は曹爽の瑕疵をさがすことで、忠告をおこなわず、戒めることもしなかった。

 しかるに一朝にして曹爽の一族一味を族滅したのである。それは国を経営してものごとの大本をおろそかにしない大人のやりかたといえるかどうか。

 もしも司馬懿がいまの皇帝である曹芳の身を案じているのであれば、つじつまがあわないことがある。

 司馬懿が挙兵した日に、曹芳の身柄は曹爽の手にあった。にもかかわらず、司馬懿は洛陽城の門を閉じ、曹芳に判断をせまったのである。

 これでは曹芳は気が休まらず、忠臣が君主のために深慮をおこなったといえるであろうか。

 以上のことを考えると、曹爽に大悪があったといえず、奢侈でうぬぼれていたというだけで、かれの位を廃して処刑したのはよしとしても、幼児まで殺して不義の名をかぶせ、曹爽の血統を根絶やしにし、皇族の何晏まで殺したのは僭越ではなかろうか。

 乙論は、そのように論じている。

 このふたつの論は、後世の歴史を論ずるにおいて、先駆であろう。

 歴史の事件には、かならず表と裏がある。

 勝ちと負けがあって、勝てばかならずそれは正義である、と政治の権力の図式を歴史にあてはめようとするのは、無理がある。

 それを費禕は、試論してみたのである。

 魏でも司馬懿のやりかたはすぎた粛清であり、私欲の行動ではなかったかと考えた者も多かった。

 その筆頭が司空の王淩である。

 いまの皇帝の曹芳は若く、曹爽の専断をおさえきれなかったように、司馬懿が曹芳に代わって王朝を専断するであろう。

 そうなれば、みかけは曹氏の王朝でも、実質は司馬氏の王朝になってしまうのはとうぜんであった。

 王淩は、幼帝の存在が曹氏の王朝を弱体化させると考え、楚王の曹彪を皇帝にすげかえると同時に司馬懿を排除しようと画策した。

 曹彪は、曹操と孫姫のあいだの子であるので、年齢は壮年にたっしている。

 司馬懿はすでに七十三歳であり、八十歳の王淩にくらべれば若いが、持病に苦しめられていた。

 王淩は八十歳でも、健康である。

 しかしその密謀は、多くの者を誘いすぎたため、司馬懿に漏れた。

 挙兵しそこなった王淩は、司馬懿に叛逆を赦されると騙され、処刑された。

 「人のこころはわからぬな……」

 王淩と司馬懿は、関係が悪かったことはない。しかし、王淩はじぶんの正義にこだわって皇帝を交代させ、司馬氏を覆滅させようとした。

 司馬懿は、王淩や叛逆者の一族を処刑したことに疲れをおぼえた。

 持病は篤くなり、司馬懿は牀から起き上がることができなくなった。こんどは曹爽を騙した仮病ではない。

 高熱でうなされた司馬懿の夢に、王淩がでてくるようになった。

 (諸葛亮は、身内に裏切られなかっただけましであったな……)

 そう内心で苦笑した司馬懿は、嘉平三年(二五一)八月、病死した。

 司馬懿が生前固辞しつづけた、相国の位が追贈された。

 呉の孫権は、赤烏十三年で六十九歳である。

 若い頃敵対した曹操や劉備の六十代と比べて、孫権は老耄となっていた。

 太子の孫和とその弟である魯王の孫覇は、群臣が二派にわかれて激越なあらそいをくりかえしている。

 あらそいを見かねた陸遜らの口を封じるように殺したことは、さきに述べた。

 「めんどうなことになってきたことよ」

 孫権はいまになって、太子と魯王のあらそいがめんどうになってきた。

 じしんが両派閥のあらそいを助長したにもかかわらず、それを不快に思うのだから、孫権の老耄は深刻なものがある。

 ついに侍中の孫峻に、

 「子弟たちはむつみ合わず、臣下たちは分かれて派閥をつくっている。

 このままでは近い将来、袁紹の子らのように孫家は兄弟のあらそいにつけこまれて敗亡するであろう。

 ふたりのうちのひとりが帝位に即けば、かならず大乱が起き、天下の笑いものとなるぞ」

 といった。

 そうならないように諫言して死を賜った陸遜らのことを、孫権は忘れているのである。

 それだけ、かつての孫権がもつ英明さは衰えていた。

 「……と申しますと、いかがいたしましょうか」

 孫峻がなかば呆れつつ訊くと、孫権はみなが驚愕するような命令を発した。

 「太子(孫和)を廃し、魯王(孫覇)には死を賜う」

 「そ、それはまことですか」

 孫峻はなんどもその命令がほんとうか訊きなおしたが、孫権は眠そうにうなずくだけであった。

 ただちに太子の孫和は、幽閉された。

 その孫和より孫権に愛されていると自覚していた魯王の孫覇は絶句し、

 「……なにゆえ、われが死なねばならぬ」

 としぼりだすようにいった。

 自殺をうながす使者を前に、孫覇は毒を仰いで死んだ。

 これまで太子を中傷しつづけ、魯王を扶助してきた与党の全寄、呉安、孫寄、楊竺らはみな処刑された。

 かれらの罪は、孫覇と同調して孫和をおとしいれたというものである。

 しかしそのしくみを助長したのは、皇帝である孫権に他ならない。

 八月に太子を廃した孫権は、十一月に、

 「孫亮を太子とし、潘夫人を皇后とする」

 と決定した。

 潘夫人は孫権に当時もっとも愛された女性で、末子ながら孫亮は潘夫人が産んでいる。

 これらのあらそいを、

 「二宮の変」

 といい、晩年老耄した孫権の履歴をけがすものとして、歴史にのこった。

 さらに太元元年(二五一)、改元にもかかわらず、八月一日に呉は大風に襲われた。

 江水と海水があふれ出し、陸に流れ込んだ。

 平地では多くの家が流され、人が溺れ死んだ。呉郡には孫堅の墓である高陵があるが、そこに植えられていた松がことごとく根こそぎ倒れた。

 「皇室が乱れたのが、わるかったのではないか……」

 呉の臣民は、そのようにうわさした。

 このようなとき皇帝は善政をこころがけ、臣民を安んずるべきであるが、老憊した孫権は急速に政治への関心を失いつつあった。

 「大赦をおこなえばよい」

 孫権の善政とは、そのようなものであった。

 かれは若い頃から大酒を呑んでいたので、脳が萎縮していたのかもしれない。

 十一月に大赦をおこなった孫権は、建業の南郊において祭祀をおこなったあと、病に伏した。老衰した身体で寒気にあたったので、肺炎に罹患したともいわれる。

 みずからの死期をさとった孫権は、もっとも信頼していた孫峻と全公主、奸臣の孫弘を枕頭に呼んだ。

 「あとつぎのことなのだが……あれでまちがいはなかったかな」

 老耄と高熱で意識が混濁している孫権は、いまさらこのようなことをいいだした。

 「ご聖断に誤りがありましょうか。おこころを安んじられませ」

 全公主の返事に納得しないのか、孫権はうなりだした。

 (ごじぶんが皇室を混乱させたのに)

 孫峻はいくらか冷えた目で孫権を見やって、

 「群臣は、陛下のご快癒を心から願っております。また立太子の件は、官民そろって慶賀し、不満をのべるものはおりません。陛下のご聖慮はまちがいではありませんよ」

 と話しかけた。

 「この世の序列や秩序を乱したなら、無理が生じる……その無理を押し通すと反動が生じ、皇室は転覆する」

 孫権はそういうと、眠りについた。

 「陛下はだれにむかって、あのようなことをおっしゃったのでしょうか」

 孫峻は、全公主にいった。

 「あれは、死にゆく人のうわごとですよ。

 いまさら前太子(孫和)を呼びよせてどうなるというのですか。皇后には口外しないようにしてくださいよ」

 ときっぱりと断じた。

 それでも混濁する意識の中で、目を覚ませば孫権は、

 「子孝(孫和)は、まだこないのか」

 とうわごとをくりかえした。

 孫権は廃太子を復位させ、あとつぎにしたつもりらしい。

 そのたび孫峻と孫弘は遁辞をかまえて、孫権の決断をなんども伝え、納得させた。

 「そうなのだな……」

 そのたびに孫権は涙をながした。ついに孫和を召して太子に復位させる、とはいわなくなった。

 十二月になっていよいよ孫権の病が篤くなってくると、

 「子明(孫亮)はまだ若い。独断で政治をおこなえば、社稷は傾くであろう。

 諸事に善処できる年齢になるまで、すぐれた補弼の臣も国政をまかせるのがよい。

 後事を託してよい臣とはだれか、群臣で議論させるように」

 といいだした。

 孫峻と孫弘は詔をかざして群臣を召し、

 「次代の天子を補佐して、呉の国力を増すことができる者はだれか」

 と討議させた。

 その討議に、時間はかからなかった。

 「諸葛恪こそが適任でありましょう」

 ほぼ、全員が一致してこのように結論を出した。

 孫弘は佞臣であるので、諸葛恪のような公正な人物を好まない。なにしろ、諸葛恪はあの諸葛謹の長子なのだ。

 「子遠(孫峻)どの、陛下は諸葛恪を好まないので、討議の結果を裁可なさらぬであろう」

 孫峻も孫権の側に仕えて久しいので、そのことはよく知っている。

 「大将軍(諸葛恪)を陛下が好かぬと、よくご存じですな……」

 「以前陛下は、諸葛恪は主張が強すぎるので、彼此の計量を誤ることがある。ゆえに国家の大事を任せることはできぬ、と仰せになりました。

 諸葛恪ではない者を、陛下に推薦すべきです」

 「そうであれば、会議を行なう必要はなかった。とにかく朝臣の意見を陛下にお伝えするだけはしなければならぬ」

 孫峻はそういって、孫権の枕頭で朝臣たちの総意をつたえた。

 すると孫権は、

 「元遜(諸葛恪)は、その性格が剛直であるゆえな……」

 といって、朝臣たちの意見を喜ばなかった。

 つまり諸葛恪は強情で、ひとの意見を聞き入れない性質をもっているということだ。

 「ゆえに子明(孫亮)の意をくまず、独裁するであろう」

 とも孫権はいった。諸葛恪は人に従うのをきらう。諸葛恪を長年用いてきた孫権にはそのことがよくわかるのである。

 「ほかの者を宰相として推すように」

 孫権のことばを、孫峻はいましめた。

 「いまや、諸葛恪にまさる臣は呉にはおりません。なにとぞかれをお召しくださいませ」

 孫権はついに折れ、武昌にいる諸葛恪を召す使者を発した。

 孫弘は孫権によって、太子孫亮の傅佐を命じられた。

 孫峻は、

 「大将軍である諸葛恪が太子の太傅であり、あなたは少傅です。ふたりで協力して太子を補佐していただきたい」

 と孫弘にいった。

 (潘皇后とともに、じゃまな諸葛恪を葬ってやる)

 拝礼しながら、孫弘はそう考えていた。

 諸葛恪は、まもなく建業に急行してきた。

 孫弘は諸葛恪に会って、

 「わたしは少傅に任じられました。どうかよろしくお指図をたまわりたい。

 もはや陛下はたちあがることはできますまい……それなのに孫峻は陛下にご裁可をたまわるべく、病室に入っています。

 それが陛下の病を篤くしていると、潘皇后は憂いておられます。どうかご看病は潘皇后におまかせくださいますよう、おとりはからいいただけないでしょうか」

 と懇願した。孫弘と潘皇后はいずれ諸葛恪を除いて、じぶんたちで政治をおこなおうと思っている。

 孫権は病牀で新年を迎えた。太元二年(二五二)である。

 重篤な病気の孫権ではあるが、ときおり気分がよくなり牀の上に身体をおこした。

 「ちかごろ孫峻と孫弘の顔を見ぬ。ここによんでくれ」

 孫権は潘皇后に命じて、孫峻と孫弘をよんだ。

 「年が明けて春となったが、朕は夏まで生きることがかなうまい。そこで詔をくだしておきたい。

 まず子孝(孫和)のことだ」

 孫峻と孫弘は目をあわせた。廃太子の孫和を復帰させるということではなかろうか。

 あるいはいまの太子の孫亮を東宮から追いはらうつもりではなかろうか。

 「子孝をいつまでも僻地に閉じ込めておくのはしのびない。南陽王に封じ、長沙にうつすように」

 孫峻と孫弘は胸をなでおろした。長沙は孫権の父である孫堅が太守に任ぜられた土地であり、孫氏にとって由緒ある土地である。

 「つぎは子揚(孫奮)だが……」

 孫奮は、自殺させられた魯王孫覇の弟である。

 「かれを斉王とし、武昌に居住させよ」

 副都である武昌には、実子をひとりでもおいておきたい孫権の真情であろう。

 「うけたまわりました」

 「まだある」

 孫権には男子が七人いて、そのうち三人はすでに亡くなっている。上のふたりは病死し、四男の孫覇は自殺させられた。

 「子烈(孫休)を琅邪王とし、虎林に居住させよ」

 孫休は十六歳であるが、読書好きで、性格は温順である。

 ただしその能力は軍事にむいていないと判断した孫権は、江水の中流に位置する虎林に孫休を居住させた。

 (江水の上流に孫奮を、中流に孫休、下流に太子を置けば、諸葛恪の軍事の失敗を補える……)

 孫権は後事を託した後も、病状のつらさをうったえたので、改元をもういちどおこなった。

 「神鳳」という元号へ、二月改元した。

 それでも孫権の体調は悪化をつづけ、ふだんうつらうつら眠ってばかりいた。

 そんなとき、潘皇后が急死するという事件がおこった。病死ではない。

 調査の結果、女官が六人逮捕された。

 潘夫人は、皇后になるまでどれほど孫権への讒言によって人を傷つけてきたかわからない。

 その恨みを忘れない人によって、女官が実行犯として潘皇后を絞殺したのである。

 神鳳への改元は、皇室の不祥を払うことができなかった。

 侍中の孫峻は、枕頭に潘皇后があらわれないのを孫権がいぶかると察して、

 「皇后は急病で、おかくれになられました」

 と告げた。孫権は、

 「そうだったのだな……」

 と涙をながした。

 四月にはいって、いよいよ孫権の死期がおとずれた。

 孫峻と孫弘にむかって、孫権はにわかに目をはっきりとあけて、

 「人を呼んでくれ」

 といった。呼ばれたのは、諸葛恪、孫弘、太常の鰧胤、将軍の呂拠である。

 「わが病は篤く、ふたたび諸君をみることはできまい。諸事を諸君に委ねたい」

 諸葛恪は、

 「われらは陛下に厚いご恩をうけています。死んでも陛下のおことばを奉じる覚悟です」

 と泣きながらいった。

 こまかい指示をだした孫権は力尽きたように眠りについた。

 「今日は、われが残ります」

 孫弘ひとりを残して、三人は部屋を出ていった。

 しかし孫峻は、いやな予感がしていた。さきほどの指示は孫権の遺言なのではなかろうか。

 そうなれば孫権が夜中に崩御した際、孫弘ひとりが残っていれば、遺言を改竄される可能性がある。

 孫峻は諸葛恪に、

 「今夜もし陛下がお亡くなりになれば、孫弘がご遺言を曲げるかもしれません」

 と耳打ちした。諸葛恪もうなずいて、

 「われもそう思っていた。きやつならやりかねん。明日の朝はやくともに陛下のもとに行こう」

 と孫峻に同意した。

 その夜、孫峻は眠る孫権の顔をながめていた。

 (陛下も、もう七十一歳になられるのか)

 建安五年(二〇〇)に兄の孫策が暗殺され、十九歳であった孫権が孫一族と群臣を率いることになった。

 孫権は辛辣ないいかたをすれば、軍事的才能がない人であった。赤壁の戦いは周瑜の才能によって勝ち、劉備と関羽を荊州から駆逐できたのは呂蒙と陸遜の策による。

 しかしながら孫権は長い生涯読書をかかさず、学びつづけた人であった。反面酒を愛し、酒癖はわるく、群臣を辟易とさせた。

 (このお方は、どこがすぐれていたのであろうな……)

 孫弘はそんなことを考えながらも、孫権は今夜亡くなるであろうという勘をはたらかせて、ひとり寝室にのこった。

 (諸葛恪が宰相になれば、われは粛清される)

 諸葛恪の嫌悪を知悉している孫弘は、孫権が死に、その死が諸葛恪に知られるまえに、詔を書きかえようと画策していたのである。

 孫弘の勘は、あたった。

 孫権は、孫弘がうつらうつら眠っているうちに息を引き取ったのである。

 「やった」

 おもわず声をあげた孫弘は、室外に早足で出ると衛士に、

 「よいか、室内にはだれも入れてはならぬ。

 これは陛下の詔である。詔にそむけば、なんじは死刑だ。いのちがけでこの室をまもれ」

 とちいさくさけぶようにいった。

 (これから、諸葛恪を除く詔を書き上げねば……)

 夜明けは近い。孫弘にとってめざわりな者は全員孫権の偽詔によって排除するのだ。

 しかし、天は孫弘に味方しなかった。

 きのうの孫弘のうごきを怪しんだ孫峻と諸葛恪が、夜明けとともに孫権の寝室にちかづいていたのである。

 「ここから、なかにお入れすることは禁じられております」

 衛士のことばに、いよいよ事態の緊迫を感じとった孫峻と諸葛恪は、

 「だれがそう申したか」

 と衛士につめよった。

 「陛下の詔である、と中書令(孫弘)さまが……」

 うろたえた衛士から目をそらした孫峻は、

 「思ったとおりだ。陛下はもう亡くなられている」

 と諸葛恪にいった。うなずいた諸葛恪は衛士に、

 「その詔は孫弘に偽造されたものだ。昨日よりわれが陛下にかわって命令を下すことになっている。ここを通せ」

 とおだやかにいってきかせた。

 「……わかりました」

 衛士はうっすら事情をのみこんだようで、諸葛恪と孫峻を室に入れた。

 「陛下、陛下……」

 ふたりは孫権によびかけてみたが、まったく反応はない。

 「ご逝去されています」

 孫峻は涙をながして、諸葛恪に告げた。

 「なんということか」

 諸葛恪は孫権の遺体にすがりついて、泣いた。やがて身をおこした諸葛恪はきびしい目つきで、

 「それにしても孫弘……陛下の崩御を秘して群臣をあざむくとは。

 きやつをこのことをわれらが知らぬ態で、わがもとに呼びだしてくれ」

 と近侍にいった。

 孫弘は孫権の死がまだ知られていないと思い込んでいたので、別室で偽の詔を書いている手を止めて、孫峻のもとにむかった。

 「陛下のご看病を、怠けていたのではない。

 事務が滞っていたので、文書を作成していた。これから太傅(諸葛恪)のもとにむかうであろう」

 といい、諸葛恪のもとにむかった。

 「太傅がお待ちです」

 「わかっている」

 諸葛恪も孫峻も、昼には胴から首がはなれているであろう、と孫弘はほくそ笑んだ。

 「やあ少傅(孫弘)、なんじはこの席には座れぬ。席を汚すことになる」

 諸葛恪の不穏なことばに、孫弘はあおざめた。

 「汚れるとは……人をなんとこころえる」

 「なんじは、人ではない。獣にももとる」

 孫弘の背後に、兵たちがずらりとならんだ。

 あっ、とさけんだ孫弘に、

 「すでに陛下は亡くなっておられた。なんじは陛下の遺言を曲げ、われらをたばかったな。

 死をもってつぐなえ、この奸臣が」

 諸葛恪の剣が、孫弘にむかって振り下ろされた。

 孫弘は即死であった。諸葛恪は兵たちに、

 「孫弘を葬るまでもない。江水に棄ててこい」

 と命じた。

 その日、孫権の喪が発せられた。

 享年七十一である。

 三ヶ月後に、建業の北にある蔣陵に葬られた。

 司馬懿と孫権が相次いで死去したことにより、時代はあらたな世代にうつったと印象づけられる。

 諸葛恪は新皇帝の孫亮を補佐し、評判のよい政治をおこなった。

 百官の行儀を品級にさだめて整え、官吏を監視する制度を廃止した。

 軍事においても、孫権の死に乗じて南下してきたおなじ諸葛氏の諸葛誕と胡遵を、名将丁奉の活躍で撃退した。

 しかし諸葛恪の性格は、部下の功績を己の功績と勘違いするところがある。

 「このいきおいを利して、合肥を攻略してやろうぞ」

 といいだしたのである。

 「こんどは蜀にも協力を要請し、二正面作戦をとる」

 諸葛恪は得意げな顔でいいきったが、群臣たちはいい顔をしなかった。

 たしかに呉軍は大勝したが、その直後の出師では兵たちに疲労がのこっている。

 しかも合肥は孫権がなんども攻撃したのに陥落させることができなかった難攻の地である。

 中散大夫の蔣延が、

 「さきの戦いとは、攻守が逆です。攻めるわが軍に余裕がありますが、敵は必死です。

 どうかお考えなおされますよう」

 と諫めたところ、諸葛恪は、

 「出師の前に不吉なことを申すな。この者をつまみだせ」

 と蔣延を朝廷の外に連れ出した。

 朝臣たちは、粛然とした。

 蔣延のようになりたくなければ、じぶんの案に賛成せよ、と諸葛恪は朝臣たちを脅したのである。

 孫峻は、眉をひそめてその光景を見ていた。

 (先帝がお嫌いになられたのは、諸葛恪のこういうところだったのかもしれぬ)

 ひそかに孫峻は自問自答した。

 (先帝に諸葛恪を推薦しつづけたのは、ほんとうに正しかったのか……)

 いわば、諸葛恪は独断専行の人である。

 すぐれた宰相とは、議論百出を待って意見を決めるものだから、どうしても諸葛恪の批判者を許さない態度は、器が小さく見える。

 「わかったか。では、司馬(李衡)に蜀へ行ってもらおう。徴兵も同時に行なえ」

 朝臣たちは、口をつぐんで退出していった。

 孫峻は、

 (いまの蜀に、外征するちからはあるのか……)

 と内心あやぶんでいた。

 なぜなら、この年の正月に蜀の宰相である費禕が暗殺されたからである。


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