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亡蜀記  作者: コルシカ
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姜維の日々


         三十八


 費禕はある種万能の人で、内政にも軍事にも長けており、性格もおおらかであった。

 そのおおらかな性格に危険を感じとったのは、越嶲郡の太守である張嶷である。

 かれはかつて書簡を送って、費禕に忠告したことがあった。

 「あなたは博愛の人です。ですが、新たにわが国へ降伏した者を信用しすぎるのは、いかがなものでしょうか。

 むかし後漢の名将である岑彭は軍を率いながら、また光武帝に信頼されていた来歙は節を杖としながら、ともに刺客によって殺害されました。

 いま、あなたの位は尊く実権は重いのですから、過去の事件をかんがみて、どうか警戒なさってください」

 張嶷は名将軍であると同時に、名行政官でもある。異民族のおおい越嶲郡でも、異民族になつかれて、その統治は評判が高い。

 (費禕は、蔣琬にまさるともおとらない宰相だ。いや、いま費禕になにかあったら、蜀の王朝をだれが差配できようか)

 かつて諸葛亮が臨終の際、李福に後継者を訊かれ、蔣琬と費禕をあげたが、その後の人材の名を告げなかった。

 蔣琬と費禕以外に、蜀の宰相としての器をもつ人材がいなかったからである。

 (蜀のために、命を大事にしてもらいたい)

 と張嶷は思っている。

 費禕のおおらかさは、不用心さと紙一重であると気づいていたのは、張嶷だけであった。

 正月に、費禕は大宴会を催した。

 この会に招かれた者のなかに、郭循がいた。

 かれはかつて魏の中郎であったのだが、西平に侵攻してきた姜維と戦い、降伏したため、蜀に連行された。

 郭循は猛将であったため、劉禅によって左将軍に任命された。

 劉禅に厚遇されながらも、郭循は魏への忠誠を棄てなかった。

 (この宴会のさなか、劉禅を刺し殺してやろう)

 みずからも死ぬことになるが、郭循の覚悟は固かった。

 宴会で劉禅にちかづこうとした郭循であったが、劉禅の側近に、

 「ここからは左将軍(郭循)でも、おちかづきになれません」

 とやんわりと止められた。

 (劉禅が無理ならば……)

 郭循は、標的を変えた。

 蜀の宰相である、費禕を殺害することにしたのである。

 病気がちであった蔣琬から国政をあずかってから費禕は、過誤なく行政をおこなっている。

 軍事にいたっては至極慎重で、

 「魏の雍州隴西郡を支配下におけば、そこより西の領土はすべて蜀のものになる」

 とくりかえし豪語して軍をうごかそうとする姜維をしばしば諫めた。

 「われらは故丞相(諸葛亮)に遠くおよばぬ」

 といって、姜維に一万以上の兵をあたえなかった。

 そのため諸葛亮の時代にくらべて軍事費が減少し、国力をたくわえることができた。

 つまり費禕は魏にとって、蜀を強力にする宰相であり、障害になる。その存在を消すことは、魏にはおおきな益になる。

 (ならば、今日費禕を刺殺してやろう)

 郭循は剣をひきよせて、機会が来るのを待った。

 やがて費禕が泥酔し、左右の臣と談笑しているのを見て、そっとちかづいた。

 「おや……左将軍、どうかしたかな」

 費禕は、まだ郭循の殺意を感じとっていない。

 郭循は最小のうごきで、費禕を袈裟斬りにした。鮮血が飛び散り、費禕は即死したのである。

 「蜀の右手を斬り落としてやったぞ」

 たからかに叫んだ郭循は、その場で近衛兵に斬られて死んだ。

 「大将軍が斬られたのか……」

 劉禅はおどろいたが、殺害現場にはちかづくことを左右の臣にゆるされなかった。

 (また蜀は、諸葛亮のころのように魏をなんども攻めるようになるのであろうな)

 劉禅は騒然としている宴会で、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 費禕の後継は、もはや姜維しか残っておらず、諸葛亮の弟子であるかれは北伐をくりかえすであろう、と直感したのである。

 順を追って姜維の北伐を列挙すると、こうなる。

 延煕三年(二四〇)、姜維は隴西に兵を出したが、揚武将軍の郭淮に追われて彊川口に退却。

 延煕十年(二四七)、隴西、南安、金城、西平諸軍に兵を進め、郭淮および夏侯覇と洮西で戦った。

 これは四郡の羌族餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞らが結束して叛乱をおこし、涼州で名を知られた異民族・治無戴らも加わり、蜀に救援を出してこれに応じたものであった。

 姜維は為翅にいた討蜀諸軍の夏侯覇を攻撃したが、これを予想していた郭淮の援軍に敗れ、餓何・焼何は討死した。

 やむなく姜維は治無戴の部族を引き連れて帰還し、成都にちかい繁県に住まわせた。

 延煕十一年(二四八)、河関・白土に拠った蛾遮塞は郭淮に討たれて大敗、武威郡を包囲していた治無戴は。郷里においてきた家族を襲う姿勢をみせた郭淮と龍夷の北で戦い敗れた。

 姜維は治無戴を迎えるため、彊水を経て西に向かい、陰平太守の廖化には成重山に城を築かせ、敗れた羌族たちをそこに収容した。

 郭淮は諸将の反対をおしきって兵を二分し、夏侯覇には沓中にいる姜維を攻撃させ、じぶんは廖化を攻撃した。

 姜維はあわてて廖化の救援にむかったため、治無戴と連携して戦えなかった。

 延煕十二年(二四九)、郭淮は夏侯玄に代わって征西将軍・都督雍涼諸軍事に任命され、雍州刺史には陳泰が任命された。夏侯覇が蜀に亡命する。

 この年、姜維は蜀と魏の国境ちかくにある麴山に二城を築き、牙門将句安と李歆らにこれを守備させ、羌族の人質をあつめて魏の諸郡を攻撃させた。陳泰は、

 「麴山は堅固であっても、兵糧は険阻な道をとおって遠い本国から運ばねばならず、羌族は姜維の兵役をきらって味方しないのは明らかです。

 今城を包囲すれば、戦わずして陥落させることができるでしょう。救援の兵がきても、山道は険しく、とても兵をうごかせる場所ではありません」

 と郭淮に献策した。

 うなずいた郭淮は、討蜀護軍の除質と南安太守の鄧艾らを陳泰に率いさせて麴山を包囲し、きびしく内外の連絡を遮断した。

 句安らの挑発にも相手しなかったため、城兵は飢えて食糧を分け合って食べ、水源を断たれたので雪をあつめて水の代わりにした。

 姜維は牛頭山脈を越えて麴山に至ったが、陳泰はうごかない。逆に郭淮へ、

 「将軍は牛頭にすすんで姜維の帰路を断ち、私は南下して益州へ入り、白水沿いに東へすすみます。これで、姜維だけでなく、句安も捕らえることができるでしょう」

 といった。

 郭淮が洮水に布陣すると、姜維は帰路を断たれるのをおそれて兵を返した。句安たちは孤立したので、魏に降伏した。

 延煕十三年(二五〇)、姜維は涼州の西平郡に軍をすすめたが、得るところなく撤退した。

 詳細は不明である。

 姜維は連年兵をうごかしながら、成果をあげることができなかった。もっとも姜維にいわせれば、

 「大将軍(費禕)がわれに一万以上の兵をあたえなかったので、勝つべき局面で勝てなかったのだ」

 ということになる。

 さて、呉を発した諸葛恪の使者である李衡は姜維に会い、切々と説いた。

 「古人にこういうことばがあります。聖人にも時をつくることはできず、時が至れば、それを失ってはならないと。

 いま魏の政治は、司馬氏ににぎられています。朝廷の内にある者と外にいる者はたがいに猜疑しあって、分断されているのです。

 また昨年の冬に、魏は呉に大敗したので民の怨嗟の声があがっているはずです。

 曹操以来、魏の滅亡のかたちがこのようにはっきりあらわれたことはありません。

 いまこそ呉が魏の東を攻め、漢(蜀)がその西へ侵入すれば、魏は二正面作戦に周章狼狽するにちがいありません。

 訓練した重厚な兵をもって、薄く軽い兵にあたるのですから、勝利は必至です」

 「ふうむ……」

 姜維も軍事においては、諸葛亮の弟子であるから蜀随一の能力をもっている。

 呉と蜀が協力して魏を攻めたことはあるが、魏の西と東を同時に討てば挟撃された魏は苦戦するはずが、過去の戦役においては呉と蜀が苦戦して兵を退いている。

 (そのような戦歴にくわえ、呉は信用ならぬ)

 姜維は過去に蜀から呉に働きかけて、

 「出師する」

 と孫権が約束しておきながら、兵を出さなかったことがあるのも気がかりであった。

 (しかし……孫権は死に、司馬懿も亡き魏を攻めてみたい)

 姜維は出師に、かつてない熱望をもった。

 蜀の正義は魏を伐つことによって、天下に証明される。蜀の国民はかつての費禕がおこなったおだやかな政治に慣れながら、物足りなさを感じているはずだ。

 かつて敢然と魏を攻め、司馬懿と対決した諸葛亮の勇姿にあこがれているのは、姜維だけではないはずなのである。

 (費禕が死んだいま、われは数万の兵を動員できる……呉の誘いにのってみる価値はある)

 「漢(蜀)の天子に、ご聴許たまわってみることにします」

 姜維は、上書を劉禅に提出した。

 李衡を引見し、姜維の上書を読んだ劉禅は、

いやな予感がしたが、黄門令の宦官である黄皓に視線をおくった。

 黄皓は、かなしげに首をふった。劉禅は表情をかえずうなずいて、

 「去年の冬に魏の大破した呉の太傅(諸葛恪)は、まもなく出師して淮水の南を大規模に制圧するという。

 これほど勇壮なことはない。わが国も連携して兵を出そう」

 といった。姜維の思惑どおり、蜀も出師することになったのである。

 (諸葛恪と姜維は、似ているな)

 劉禅は、黄皓にあとで宮室にくるようにつたえた。

 「大将軍(費禕)が亡くなられて、衛将軍(姜維)は気がおおきくなられているようです」

 黄皓は、前半生が不明の宦官である。

 諸葛亮存命時から劉禅の話相手になっていたようであるが、蔣琬と費禕、董允といった重臣が亡くなって、劉禅の唯一の相談相手になっている。

 「宦官ごときに、なにができようか」

 「黄皓こそ、漢(蜀)をむしばむ佞臣ぞ」

 と群臣の評判はことごとく悪い。

 ところが、黄皓こそ劉禅の真意を汲むことができる唯一といっていい臣下だったのである。

 蔣琬と費禕に、

 「故丞相(諸葛亮)の好戦思想をひきつぐ群臣は、まだおおい。

 黄門令(黄皓)は、陛下の盾になってお命をまもってくれよ」

 と黄皓の手をとって、頼まれたことがある。

 黄皓も中華の一州しか有さない蜀が、魏を討滅できるとはとうてい思っていない。

 (陛下のおこころに沿って、なんとか魏か司馬氏に蜀を禅譲しなければ)

 という信念を劉禅と共有している。

 「洛陽の元直(徐庶)さまがおっしゃるには、魏の曹叡には秦朗というおさななじみがいて、佞臣を演ずることによって、曹叡の真意を群臣に伝えていたといいます。

 私が秦朗になれるかどうかはわかりませんが、陛下が私を寵愛することによって佞臣を演じ、いずれは陛下のおこころを政治軍事に反映させることができるかもしれません」

 黄皓は、そういった。

 「なんじが、そこまで朕のことを思ってくれていようとは……」

 劉禅は、感動した。黄門令という地位を利用して、なるべく黄皓をじぶんのそばにおき、魏との要らぬ戦をせぬよう意思を黄皓に伝達した。

 蔣琬と費禕が生きていたころまでは、それはうまく機能していたのだが、ふたりの死後、姜維が宰相を兼任することによって、それは厳しくなったといわざるをえない。

 中央にはいないが、劉禅の同志といえば、越嶲郡太守で、撫戎将軍の張嶷がいる。

 張嶷は諸葛恪が大軍を率いて北伐すると聞くや、

 「このような軽率な出師は、かならず失敗する」

 と断言して諸葛瞻に書簡を送った。

 諸葛瞻は、諸葛亮の晩年にもうけた実子である。

 諸葛瞻は黄皓の正体を知っているし、張嶷とも親交はふかい。

 (この国は、われの父がおこなった呪縛にとりこまれている)

 諸葛瞻は、そう思っている。

 この年、二十七歳で、父の諸葛亮が劉備から三顧の礼を受けて出廬した年齢とおなじである。

 諸葛瞻には画才があり、学問にも長じており、父が諸葛亮でなければ芸術家か学者として大成していたかもしれない。

 芸術や学問にうちこむことができる環境になかったため、諸葛瞻は官界からでることなく誠実さをつらぬいている。

 蜀の官民は、年々諸葛亮への敬慕を篤くしている。そういう人々の目は遺子の諸葛瞻にそそがれ、諸葛瞻は父の面影をそこなわないように慎重に生きているのである。

 「さすがに、あの丞相のお子よ」

 諸葛瞻の評判は、すこぶるよい。

 劉禅や黄皓、張嶷からすれば、諸葛瞻の政治軍事の才能は亡父におよばないものの、

 (諸葛瞻の誠実さは、買うことができる)

 と信頼している。

 張嶷の書簡の内容は、こうである。

 「孫権は亡くなったばかりであり、いまの皇帝は幼弱です。

 太古、遺児を託された周公旦は、その才能をもってしても流言をふせぐことができず、臣下の叛乱に悩まされました。

 かつて聞いたところによると、孫権は生殺賞罰の権を、けっして臣下に任せなかったそうです。

 ところが臨終において、にわかに太傅(諸葛恪)を召して後事を託したということですので、これはまこと憂慮すべき事態です。

 それなのに太傅は幼帝がいる建業をはなれて、魏を討伐しようとしています。おそらくそこに深慮遠謀の策はありますまい。

 百のうち一でも失敗があれば、先見の明をもつ者でさえ予見できない事態が生じるでしょう。

 あなたがこの出師をやめるよう太傅に忠告なさらないかぎり、だれが忌憚なく忠告できましょうか」

 諸葛瞻は、諸葛恪の従弟である。

 いまや呉の太傅である諸葛恪はだれの忠告も聞かないかもしれないが、蜀からきた従弟の書簡ならば読むにちがいなく、そこにまごころを感じることができれば、

 「よけいなことをいうな」

 と書簡を破棄するはずはないのである。

 張嶷はそこを配慮して、諸葛瞻に書簡を書いてもらうよう依頼したのである。

 「それはよい」

 大勢を見抜ける諸葛瞻は、さっそく書簡を諸葛恪に送った。

 「いまは鋭気を養うときで、大軍をうごかすときではありません」

 諸葛瞻は文章にも長けているので、理路整然と従兄を説いた。

 しかしじぶんの才能を過大評価して客観視できない諸葛恪は、

 「ふん」

 と書簡を属官に投げ捨て、

 「なんじには、大数がわからぬのだ」

 といった。数にはめぐりあわせ、運命という意味があり、諸葛亮の不肖の子である諸葛瞻ごときにはそれがわからぬ、ということである。

 「こんどは丁奉らに頼らず、じぶんで魏軍を撃破してみせてやる」

 諸葛恪は、そう思った。群臣たちは昨年の大勝は丁奉ら戦場で戦った将軍たちの功と見て、諸葛瞻はその僥倖にあずかっているのだと感じているであろう。

 (われの軍事における才能を、見せつけてやる)

 諸葛恪は軍を出すことに前のめりで、昂奮状態におちいっている。

 一国の最高権力者が国を空けることで、よくないことがおきるのは魏の曹爽が証明しているが、それから諸葛恪は学ぶことがなかった。

 ついに諸葛恪は、州と郡から二十万という大軍を徴兵し、首都建業を出発し、江水を渡って国境にむかった。

 蜀の姜維もこれを聞き、

 「それでこそ、忠武候(諸葛亮)の族子よ。諸葛瞻などという腰抜けとは、わけがちがう」

 といい、数万の兵を率いて、武都郡から北へむかって出撃した。

 姜維率いる蜀軍は、まず石亭を攻撃し、董亭を経て、南安郡を縦断するように進撃した。

 ここまでは、めずらしく蜀と呉の連携はうまくいっている。

 一方の呉軍を率いている諸葛恪は、大軍をもって進軍していることに機嫌がよかった。

 「ふふ。この武威をもってすれば、淮水までたやすく進軍できる。

 淮水の南にある領土と民を、すべて呉のものとすることができるな」

 と左右の臣に笑いかけた。

 しかし名将の丁奉は、慎重な姿勢をくずさない。

 「わが軍は、大軍です。国境ちかくに住む民は逃散してしまいます。

 ゆえにわが軍は進めど進めど、敵の民を捕獲することはできません。

 それより、合肥新城に兵をおいて包囲し、救援にくる魏軍を撃破する方が益はおおきいのではないでしょうか」

 丁奉の献策はまさに的を射たもので、諸葛恪はたちまちじぶんの策をけなされたと不機嫌になった。

 しかし有能な諸葛恪は、丁奉の策がすぐれていることを理解はしているので、

 「ふん。はじめからそのつもりであったわ」

 とつよがりをいった。

 呉軍は魏の国境を越え、たちまち合肥新城を包囲した。

 魏の朝廷は、にわかに震撼した。東西からの急報である。

 合肥新城は呉軍に包囲され、南安郡の郡府は蜀軍に包囲されているという。

 司馬懿のあとを継いだ司馬師は冷静沈着な宰相であるが、さすがに内心狼狽した。

 中書郎の虞松に、

 「かつてない事態だ。どうすればよいかな」

 と訊いた。虞松の頭脳は、明晰である。

 「ものごとには、弱そうにみえて強いものと、強そうにみえて弱いものがあります」

 「ふむ……それで」

 「はい。いま諸葛恪は大軍を率いているのですから、わが国の領内を存分に侵攻できるのに、合肥新城を包囲したままうごきません。

 これは、諸葛恪のねらいが合肥新城を陥落させることではなく、やってくるわが軍の援軍と戦うつもりなのです」

 「なるほどな……それにまちがいあるまい」

 司馬師は、うなずいた。虞松はつづける。

 「ところが城を攻めても陥落させることができず、援軍と戦うこともできなければ、呉軍の士気は阻喪し、兵は疲れて、けっきょくは敗北することになるでしょう。

 魏の諸将をすぐに発進させないのは、あなたさまの利になります」

 「そのように、見ることもできるのだな」

 「西方戦線の姜維ですが、重装備の軍を率いて、領内に深々と侵攻してきました。

 これは呉軍に呼応していることが明らかですが、結局兵糧はわが国の麦をあてにしているため、長期戦は不可能です。

 姜維の思惑は、わが軍が主力を東に注力するので、西方が空になるというものです。

 そこでこちらは、関中の諸軍を西に急行させ、蜀軍の不意を衝けば、姜維を退けることができるでしょう」

 虞松の策が理にかなっていると腑に落ちた司馬師は、

 「そのようにするであろう」

 と安堵の表情を見せた。

 合肥新城は、満寵の進言によって建築された難攻不落の城である。

 二十万の呉軍は、やすやすと合肥新城の包囲を完了した。

 「魏の名将はすべて死んでいるはずだ。この城の城主はだれか」

 諸葛恪の問いに、

 「張特です」

 と属官は答えた。

 「聞いたことのない名だな……一月も経たずにこの城を落としてやろう」

 攻める城の守将を分析もしない諸葛恪の傲慢さとは、このようなものである。

 (合肥新城を落とすだけでなく、寿春まで兵をすすめることができるな)

 諸葛恪のあまい思惑で、呉軍の猛攻がはじまった。

 張特が凡将であれば、すぐに魏軍に援軍を要求するであろう。それをたたく。

 ところが張特はねばりづよく戦い、いつまで待っても魏軍の援軍は来なかった。

 合肥新城は、難攻不落の要塞である。

 城壁に攻め上った呉兵はことごとく撃退され、それをなんどもくりかえすうちに鋭気は削がれていった。

 「張特ごときに、名をなさしめてどうする」

 連日諸葛恪は怒鳴り、それにおびえた諸将は昼夜攻城の兵を繰り出したが、死傷者は増えるばかりであった。

 二十万の大軍であるから、兵を交換して合肥新城を攻撃するものの、兵たちは城壁にとりついては落とされ、魏の援軍は来なかった。

 「いったい、どうなっている」

 諸葛恪は尋常でないいらだちを見せるなか、戦況は膠着状態に入った。

 司馬師は虞松の献策を容れて、

 「虚があるのは、西方の姜維さ」

 といった。

 つまり合肥新城と南安郡を比較すれば、合肥新城の方が魏にとって重要である。ゆえに魏の主力群は呉軍にむけられるであろうと姜維は考えている。それが虚、なのだ。

 司馬師は西方の征西将軍で都督雍涼諸軍事である郭淮と雍州刺史の陳泰に使者を出した。

 「関中の兵すべてを率いて、南安郡の包囲を解くように」

 司馬師の命令を受けた郭淮は、

 「なるほど、そうきたか」

 と司馬師の命令の目的を即座に理解した。

 郭淮は名将とはいいがたいが、曹操によって夏侯淵の司馬に任命されてから、さまざまな蜀将と戦って経験値を積んでいる。

 夏侯淵が戦死したとき劉備の追撃をためらわせたのは郭淮であり、諸葛亮との戦いでも司馬懿に従った。

 姜維との戦いは曹叡が崩御した翌年の正始元年(二四〇)からはじまっている。若かった姜維の戦術におくれをとったことはない。

 陳羣の子である陳泰が雍州刺史になってからは、郭淮はよき協力者を得たので、ひとり東奔西走する必要はなくなった。

 陳泰は良将なので、

 「私が先行して、姜維にあたります。姜維は諸葛亮ほど慎重ではありませんので、兵糧としてわが国の麦をねらっているはずです。

 退路をふさぐように兵を配置すれば、戦う前から撤退するでしょう」

 といった。若い陳泰は老将の郭淮にとって、たのもしい存在である。

 南安の郡府を包囲していた姜維に、急報がはいった。

 「敵大軍が、わが軍に接近しつつあります」

 「そのようなことが、あるか」

 思わずさけぶようにいった姜維は、信じられないといった表情をした。

 「主戦場は、合肥新城ではないか。囮ではないのか」

 偵探を放ち、真偽を確認した姜維は、

 「関中の兵を、ことごとくこちらにむけてきたな……」

 と舌打ちした。陳泰の先陣が天水郡と南安郡の境にある洛門という土地に達したとき、

 「全軍、撤退する」

 と姜維は即断した。

 (呉との約束をまもって出陣したのに、諸葛恪はなにをぐずぐずしているのか)

 姜維は、諸葛恪をなじりたくなった。

 呉軍が淮水に達するほど突出していれば、魏は防戦一方となり、関中の兵を南方と首都洛陽の防衛にまわすはずではないか。

 (二十万という大軍があれば、よけいな策など無用であろうに……)

 姜維は、戦場に悔いをのこして撤退した。

 諸葛恪は、三十日を経過しても、合肥新城を陥落させることができなかった。

 土を盛って城壁を見下ろす工事までして戦闘を再開したが、張特の守備が鬼気迫るものがあり、いっこうに城壁を越えることができない。

 不運も重なった。

 この年の夏は酷暑であり、生水を飲んだ呉兵が次々と下痢をおこしたり、病気に罹患する兵があとをたたなくなった。

 「嘘を報告しているわけではなかろうな」

 熅然とした諸葛恪は、現場を実検するといいだした。

 「太傅が疫病に罹患されるので、行かれてはいけません」

 現場を知る軍吏に止められた諸葛恪は、ふてくされて椅子に身をなげだした。

 あらたに病死した兵の数を報告に来た軍吏を、

 「兵の士気を、下げるつもりか」

 とさけんで斬ろうとしたこともある。

 結局だれも諸葛恪をおそれて、兵の実情を報告する者はいなくなった。

 朱桓の子である朱異らの献策もことごとくしりぞけた諸葛恪に不満をもった都尉の蔡林などは、軍中に兵の死体があふれかえるさまを見て、なんと魏に降伏してしまった。

 (負けて帰国すれば、太傅は部下に責任をおしつけて、処罰される)

 と絶望したからでもある。

 呉軍の疲弊を知った守将の張特は、策をもちいることにした。

 これから呉軍に降伏する、というのである。

 「魏の法では、百日が過ぎれば降伏しても家族の連座が適用されません。呉軍に攻められて九十日が経過しています。

 四千いた兵も半数が死傷しました。あと十日待っていただければ、城門を開けて投降するでありましょう」

 「そうか。よくわかった」

 張特の投降を鷹揚に受け入れた諸葛恪であるが、内心はひどく動揺していた。

 (たった四千の兵だと……)

 そう、合肥新城の城内には兵が四千しかいなかったのだ。死傷者は二千というが、呉軍の死傷者は数万ではきかない。

 しかし、諸葛恪をさらに唖然とさせる出来事がおこった。

 降伏するといったはずの張特が、一日で城壁を厚く補修し、防備を強固にしたばかりか、

 「われには、戦いによる死あるのみである」

 という短い文章の書簡を呉の軍吏に手渡した、というのである。

 「張特め、われをたぶらかしおった」

 烈火のごとく怒った諸葛恪は、全軍で猛然と総攻撃をおこなったが、合肥新城は息をふきかえしたかのごとく、その防備はびくともしなかった。

 洛陽の司馬師は、そのようすを聞き、

 「そろそろ、呉軍をしまつする頃合だな」

 といった。

 叔父の司馬孚に二十万の兵をあたえただけでなく、鎮東将軍の毌丘倹と揚州刺史の文欽にも大軍をもって合肥新城に救援をおくった。

 「魏の大軍が、合肥新城にむかっています」

 呉の偵探からの報告を聞いた諸葛恪は、

 (してやられたか……)

 とはげしく机を叩き、

 「全軍、撤退する」

 と命じた。

 もっと早く魏軍の救援が来ていれば、それを迎え撃つ準備は呉軍にできていたのである。

 しかし、今数万の死者をかぞえる呉軍にはその気力も体力もない。

 「撤退するとは、ほんとうか」

 「兵をむだに死なせただけであったな……」

 呉の諸将は、諸葛恪に失望したようすで話しあった。

 (われは、失敗したわけではない)

 おのれのあやまちを認めたくない諸葛恪は、なんと、

 「帰還はするが、建業には還らぬ」

 といいだした。

 (太傅は、なにをいっておられるのか)

 兵たちの不満が増大したのは言うまでもない。

 一方の合肥新城の守将であった張特は、将軍の名と列侯の地位が司馬師からあたえられた。

 諸葛恪は、二十万の兵を半減させる大敗を喫したのに、江水の付近に兵をとどめ、

 「ここで屯田をおこなう」

 といいだした。諸将が仰天したのはいうまでもない。

 軍の元帥たるもの、勝っても負けても皇帝に報告するのが慣例である。

 自尊心のつよい諸葛恪は、じぶんの敗北を直視しようとしなかった。

 (陛下の兵を、私兵にするつもりか)

 呉の諸将は諸葛恪のみにくさを認識しはじめた。

 丁奉はそれを黙認するわけにいかぬと考え、ひそかに使者を建業に送り、実情を報告した。

 呉の朝廷で政務をとりしきっているのは、武衛将軍の孫峻である。

 (どうも、われは諸葛恪を買いかぶりすぎていた……)

 反省した孫峻は皇帝の孫亮に献言して、すみやかに建業に帰還するよう、諸葛恪に詔を下した。

 諸葛恪は三度目の詔で、ようやく建業に還った。

 しかし不機嫌な諸葛恪は、自宅にこもったまま、孫亮に戦の復命をすることがなかった。

 呉の民衆たちも、諸葛恪の不遜な態度に手のひらをかえしたごとく不満を噴出させた。

 (われの才能を、理解する者はいない。また戦に勝利して、それをわからせてやる)

 そう考えた諸葛恪は、

 「こんどは徐州と青州を攻めてやる」

 と近臣に計画を話しだした。

 軍の元帥でもある諸葛恪に、諸将はだれもさからえない。

 「太傅(諸葛恪)は、そのようなことをいっているのか」

 孫峻は、仰天した。これを敢行されれば、こんどは呉が滅亡してしまう。

 (諸葛恪を除くしかないか……)

 孫峻は重い足どりで、皇帝の孫亮に内密で拝謁した。

 「朕は、先の出師も反対であった。先帝が崩御して三年、喪に服し、内政に専念してくれると期待していたのだが」

 孫亮は建興二年(二五三)には十一歳であるが、聡明な人柄である。

 人払いをさせた孫峻は、

 「魏の徐州と青州は、防備が厚く、合肥を落とせなかった太傅に、勝ちをのぞめるべくもありません」

 といった。孫亮は首をかしげて、

 「ならばなぜあわててそこを攻めようとするのか」

 と孫峻に問うた。孫峻の声がちいさくなった。

 「徴兵された兵は先の敗北を知っているので、逃亡しようとするでしょう。

 しかし船に乗せてしまえば逃亡のおそれはありません……太傅は、魏軍と戦うのではなく、二十万の兵と船、兵糧をみやげに魏に降伏するつもりなのです」

 「なんと……」

 愕然とした孫亮であったが、それを否定できないじぶんもいる。

 「それをふせぐためには、太傅を斬るしかありません。そのために陛下は、太傅をねぎらう宴会を催してください。

 後のことは、私が善処いたします」

 孫峻は諸葛恪を暗殺する計画を万全にして、諸葛恪を酒宴に招いた。

 「いまごろ慰安の酒宴とは、おかしいな」

 勘のするどい諸葛恪は、いぶかしんだ。

 戦場から還ってまもなくならわかるが、月日は経って、今は十月である。

 「解せぬ……」

 解せないことといえば、諸葛恪が先の遠征にむかうまえに、役所の中に喪中の男が喪服をつけたまま侵入したのである。

 諸葛恪の従者がその男を問いただしたところ、その男は、

 「じぶんでも、よくわからないのです……」

 という。男が侵入したところを、役所のだれも発見していなかった。

 まだ、ある。

 諸葛恪が遠征して退却している最中、東興という場所で白い虹が、諸葛恪の船にまとわりついた。さらに帰還して諸葛亮が孫権の墓に参ったときも、馬車に白い虹がまとわりついたのである。

 「不吉なことが、つづいている。これは、なんぞや」

 酒宴の朝になった。

 眠れなかった諸葛謹が顔を水で洗おうとすると、

 「このにおいは、なにか」

 水がなまぐさい。もっといえば、血のにおいがする。

 胸騒ぎがした諸葛恪は、馬車に乗ろうとしたが、そのなまぐさい衣を犬がひっぱってはなさない。

 「犬が、われを酒宴に行かせまいとしているのか……」

 諸葛恪は、さらに不審の念をつよくして馬車に乗った。その馬車に、すぐに別の馬車がちかづいてきた。

 「私は、張約の使いです。張約は宴会におりますが、異様な雰囲気です。

 太傅を殺害するための、宴やもしれません」

 「なんだと」

 諸葛恪は、あおざめた。ちかごろの不吉な出来事が頭によぎった。

 (毒殺されるのかもしれぬ)

 諸葛恪は、近侍に自宅から薬酒をもってこさせるよう命じた。

 宮門では、孫峻が出迎えた。

 「ご体調がお悪いと聞いています。すこしお休みされてから、宴会場に行かれては……」

 孫峻は、いつも諸葛恪に配慮をみせてくれる。諸葛恪は、

 「よい。薬酒を持参しているので、それを飲む」

 と答えた。孫峻は、

 「それは、ようございました。それでは、中に」

 と諸葛恪をいざなった。

 (こやつが、われを殺すわけはないな)

 諸葛恪は、疑いを払って宮中に入った。

 そのまま孫亮に拝謁し、宴を開いてくれた謝辞を述べた。孫亮はひとことも先の敗戦にはふれず、諸葛恪をねぎらった。

 宴席について、宴がはじまっても諸葛恪は用心のため、持参した薬酒しか飲まなかった。

 しばし時を経て、

 「陛下、こちらに」

 と近習が孫亮を中座させた。

 諸葛恪は、それに気づかない。それを合図に孫峻が立ち上がって、

 「太傅に罪あり。詔によって捕縛する」

 と剣を抜いた。

 おどろいた諸葛恪も剣を抜いて立ち上がり、

 「なんじごときに、何ができる」

 と叫んだ。しかし孫峻の気魄は満ちている。

 突進して、諸葛恪を袈裟斬りにした。

 皇帝がいない宴会場に、血の雨が降った。

 諸葛恪に不穏を伝えた張約も斬られ、孫峻は剣を鞘におさめると、

 「諸葛恪は、抵抗したので討ち取った。これから一族を捕縛する」

 といった。捕吏をつれて、諸葛恪の家に急行した。

 諸葛恪の家でも、奇妙なことがおきていた。

 召使いの女から、血のにおいがするのに気づいた諸葛恪の妻が、

 「そなたの衣服から血のにおいがしますよ。それに、どうして目を上にむけているのですか」

 と声をかけた。するとにわかに女は棟にとどくほど高く飛び上がった。切歯して、

 「旦那様が、孫峻に殺されました」

 というではないか。

 唖然としている妻の所に、諸葛恪のふたりの子が駆け込んできた。

 もともと諸葛恪には三人の子がいたのだが、長男の諸葛綽は二宮の変の魯王に従っていた。

 魯王の死後、諸葛恪は諸葛綽に冷眼をむけて、

 「なんじの主は陛下のお怒りに触れて死んだ……主が死ねば従も死ね」

 といい、毒を飲ませて自殺させた。

 家に害をなす者は、長男であろうと容赦しない諸葛恪の冷酷さがうかがえる。

 よっていま駆け込んできたのは次男の諸葛竦と三男の諸葛建である。

 ふたりは呆然とする母親を馬車にのせ、建業を脱出した。

 しかし孫峻の追っ手は執拗に三人を捜索し、江水沿いの白都で馬車を発見し、ふたりの息子を斬った。妻の処遇は不明である。

 諸葛恪の遺体は、葦のむしろでくるまれ、建業の南にある丘陵の石子岡に棄てられた。

 「ふふ、諸葛恪を斬っただけで宰相の座がころがりこんできたわ」

 孫峻は、皇帝の孫亮に丞相、大将軍に任命されたのである。

 あれほどの忠臣であった孫峻が、権力の座につくことにより傲慢になり、じぶんにさからう者たちをつぎつぎと処刑するようになるので、権力というものはおそろしい。

 蜀では、姜維が諸葛恪横死の情報を聞いていた。

 (諸葛恪……なんじもそこまでの男だったか)

 姜維は呉との連携で魏への侵攻をなんどもおこせると期待していたので、おおいに失望した。

 孫峻はちいさくまとまった独裁者でしかなく、諸葛恪の才能にはとおくおよばない。

 (われも忠武候の享年にちかづいている)

 忠武候とは諸葛亮のことで、この年姜維は五十一歳である。

 (結局は忠武候のように、漢のみが天下に正義をしめすしかない)

 蜀単独で魏へ挑戦しつづけた諸葛亮こそが、姜維にとってめざすべき理想である。

 劉禅も、黄皓から諸葛恪の死を知らされた。

 「太傅(諸葛恪)は、若いころから才能はあっても倨傲であった。忠武候の兄(諸葛謹)も、それをあやぶんでいたが、こうなってしまったな」

 劉禅はおだやかな表情をくずさず、黄皓にいった。

 「呉との連携は孫峻が宰相となったいまは、期待できません。衛将軍(姜維)が、ふたたび大軍で出師するのではないでしょうか」

 黄皓は、魏への出兵をきらう劉禅を気遣っている。

 「わが国だけでなく、魏と呉も人材は払拭しかかっている。戦の果てにしか、平穏はおとづれぬよ」

 黄皓は目をあげて、

 「そのときまで、魏との和平をお待ちになるのですか」

 と訊いた。劉禅は、目を閉じただけであった。

 延煕十六年(二五三)は、正月に費禕が死に、十月に呉の諸葛恪が死んで、波乱の年を終えたのである。


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