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亡蜀記  作者: コルシカ
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費禕


         三十六


 魏の司馬懿は、正始五年(二四四)の正月に、呉の諸葛恪が揚州に侵入したのを追い払い、洛陽に帰還した。

 諸葛恪は軍事に意気揚々であるが、敵が諸葛亮や朱然さえ勝てなかった司馬懿であることがわかると、孫権は兵を退かせたのである。

 戦わずに勝った司馬懿の凱旋軍が洛陽にちかづくと、沿道の人々は増え、歓喜の声をあげた。

 「諸葛亮が死んだいま、太傅(司馬懿)さまにかなう敵はおらぬ」

 「そうよ。それにくらべ、大将軍(曹爽)は父(曹真)に似ぬお子であることよな」

 臣民が司馬懿を賞賛することを耳にするたび、曹爽は酒浸りになった。

 「おもしろくないことよ……」

 不機嫌な曹爽を観察して、ひとつの策をたてたのは浮華の徒のひとりである侍中尚書の鄧飄である。

 かれは司馬懿や呉のことについてふれず、

 「大将軍は、蜀の大司馬である蔣琬のことをご存じですか」

 と問うた。

 曹爽はすこし考えて、

 「知っている。ぶなんな政治をしているようだな……軍事についてはよくわからないが」

 と答えた。

 鄧飄は我が意を得たりと、

 「蔣琬はかつての諸葛亮のように、漢中に幕府を設置して軍事も統括しているはずなのですが、諸葛亮とちがっていちども雍州に侵入してきません。

 これをどうお考えですか」

 と訊いた。

 「ふむ……諸葛亮のように用兵にあかるくないのではないか。雍州刺史の郭淮をおそれているのかもしれぬな」

 張郃亡き今、西方における郭淮の評判はすこぶるよい。

 「まあ、郭淮は西方の守将にはふさわしいかもしれませんが、名将ではありません。

 蜀の姜維には、軍才で劣るでしょう。その姜維を配下にもち、国民に信頼されている蔣琬が、漢中からいちども軍を発したことがない……しかも、かれは漢中にはおらず、涪城にいると確認がとれました」

 「なに……蔣琬は病かなにかで、涪城に移っているのか」

 「おっしゃるとおりです。しかもその病は篤く、成都から医者が来て涪城で療養しているとのことです」

 蔣琬の病は、いよいよ重くなった。

 劉禅は、

 「公琰(蔣琬)にもはや政治をみることはできない。後継者は丞相(諸葛亮)の遺言どおり、文偉(費禕)でよい」

 と決断し、尚書令の費禕を大将軍・祿尚書事に任命した。

 このこまかい人事までは鄧飄は知らなかったが、蜀の異常事態を察知して、軍事に空白が生じていることは偵探から聞いている。

 「蜀を攻めるべきかと思うかね」

 曹爽は、身をのりだした。

 「おおいに。わが軍が漢中に侵攻しても、蔣琬は立てません。

 蔣琬より能力が劣る総帥が、軍を掌握しているはずです。蜀は諸葛亮の死後、人材が払拭されているはず……大将軍の威光に、蜀の将兵は一網打尽となりましょう。

 太傅(司馬懿)にばかり名誉をたてさせるのは、美徳ではありません。

 いまこそが、蜀を征伐する好機です」

 鄧飄は、たたみかけた。それにおされるように曹爽は、

 「よし、蜀を討伐するであろう」

 といってしまった。

 (父の遺志を果たし、魏の臣民にわれの力をみせつけてやる)

 曹爽の父である曹真は、かつて四つの路をつかって蜀に侵攻したが、大雨にたたられてみずからも病を発し、撤退せざるをえなかった。

 (父が生きていたら、司馬懿なぞに西方で武勲をたてさせることはなかった)

 いまでも曹爽はそう考えている。

 さっそく曹爽は、弟の曹羲に蜀を攻めるための情報を収集させようとした。

 「兄上、それはおまちください」

 曹羲は青ざめて、曹爽の命令をさえぎった。

 (また浮華の徒のだれかが、兄をそそのかしたな……)

 曹羲はいまの蜀を攻めるべきではない、と説いた。

 「雍州は郭淮によって平穏が保たれており、蜀軍から人民をまもる必要はありません。

 ところが兄上が大軍を率いて蜀を攻めるとなると、西方の民と異民族を大勢軍役に駆り出さねばならず、せっかくの平穏が破れてしまいます。

 そもそもなにゆえいま蜀を攻めねばならぬのでしょうか。

 蜀が衰えれば、蜀の官民も益州から逃げ出すはずです。しかしそのような話をきいたことがありません」

 「それが、宰相の蔣琬が病で立ち上がることもできぬのだよ。あとは蔣琬以下の凡将しか蜀にはおらぬ」

 曹爽は、自慢げにいった。

 「つべこべいわずに蜀について調べてこい」

 曹羲は、うなだれて部屋を出ていった。

 蜀についての情報をあつめた曹爽は、

 (諸葛亮がおらぬ蜀なぞ、ひとひねりよ)

 と鼻息を荒くして、配下をつかい朝廷に、

 「蜀を攻めるべし」

 という声を広めさせた。

 「大将軍みずからが軍を率い、蜀を征伐することについてどう思うか」

 幼帝の曹芳は、むろんじぶんでその是非を判断できない。

 群臣たちは、賛成の声をあげた。むろん曹爽に事前から仕込まれた声である。

 太傅の司馬懿はこの会に出席していたが、

 (蜀のどこにほころびがあるというのか)

 と疑念をもっていた。

 曹爽の父である曹真とともに蜀を攻めたとき、司馬懿は軍をあたえられて漢水をさかのぼろうとしたが、益州がもつ峻厳な自然の要塞に圧倒された記憶がある。

 「太傅はどう思うか」

 曹芳から意見をもとめられた司馬懿は、

 「私が南方から帰還したのが正月でしたので、兵たちは疲弊しています。

 まだそれからひと月しか経過しておりませんので、まずは兵たちを休養させてほしいと存じます」

 司馬懿の発言は、曹爽の遠征に対する反対意見だ、と曹爽はうけとった。

 「それもそうか……」

 「どうしてもいま出師せねばならぬわけでもなし」

 賛否の声はひとしくなった。

 曹爽は、

 (司馬懿め、われに功をあげられるのをきらっておるな)

 と横目で司馬懿を見た。このままだと出師じたいがなくなってしまう。

 そこに思わぬ賛成の声をあげた者がいた。

 散騎常侍・中護軍の夏侯玄である。

 「蜀を征伐するなら、いましかありません。

 かつて蜀に攻め込んだときは秋の大雨に遭って退却せざるを得ませんでした。

 それを想えば、いま出師するのが時期としてはちょうどいいのです」

 かれの父は夏侯尚で、美妾を愛するあまりに病没したという恍惚の人である。

 夏侯家は皇室とは血縁関係にあり、夏侯玄も貴臣である。また文才もあり、「楽毅論」という戦国時代の名臣を研究した論文も書いている。後世王羲之がこれを書写したことによって、夏侯玄の名は不朽となった。

 夏侯玄は自尊心が高く、それを先帝曹叡にきらわれて左遷されていたが、曹爽が権力をにぎると、浮華の徒とまじわって中護軍として権力に返り咲いた。

 夏侯玄は文武ともにすぐれた才能をもっていたので、名声もある。

 これによって、ついに曹爽の出師は曹芳によって許可された。

 (このような戦は、人命と軍資をむだにするだけだ)

 司馬懿は、ためいきをついた。

 家に帰ると長子の司馬師が、

 「せっかく父上が魏の国力を増大させても、浮華の徒たちがそれを消費してしまう。

 国力の補填に何年要することになるか……」

 と憂いた。魏が堅固な蜀を攻めて失敗すれば、呉の孫権を喜ばせるだけである。

 「そういうな……陛下の決定だ」

 司馬懿はうつむいて、つぶやいた。むろん、司馬師にいわれずとも魏の現状は、誰よりもよく理解している。

 曹爽は七万もの兵を率いて出発した。

 長安に駐留している兵をあわせての数であるが、山岳戦になるので十万は要らないとの判断である。

 長安で、どの道から蜀に侵入すべきか軍議がおこなわれた。

 かつて曹爽の父の曹真はもっとも長安に近い子午道を選択した。司馬懿が諸葛亮の死後蜀軍を追撃したのは褒斜道であった。

 さらに古くは曹操が南鄭に達した故道がある。

 鄧飄は地図をなぞって、

 「まだ、ひとつ通っていない道があります。

 駱谷道から侵攻してはいかがでしょう」

 といった。

 「なんだと」

 この提案に真っ先に反対したのは、参軍の楊偉である。楊偉はかつて曹叡の宮殿を増築することを諫止するほどの硬骨漢なので、いうことにはばかりはない。

 「太祖(曹操)をはじめ、元候(曹真)も、太傅(司馬懿)も名将です。

 それなのに、だれひとり駱谷道を選ばなかった。駱谷は谷が深く、長くまがりくねった道がつづき、嶺を三つも越えなければなりません。

 敵が少ないにしても、敵に到達するまでに難所を踏破しなくてはならないのだから、成功はむずかしいのです」

 楊偉は駱谷がこれまで使用されなかったのは、成功する見込みがないからだといいたかったのである。しかし曹爽に遠征をすすめたひとりの李勝は、

 「あなたがそう考えているということは、敵もそう考えている。ゆえに防備は薄いとみることもできる」

 といった。征西将軍に任じられた夏侯玄も、

 「他の三道では、蜀を制圧できなかった。ならば駱谷道しか残る道はないではないか」

 と鄧飄に賛成した。

 ついに魏軍は長安を進発して、西へ進み、軍を南にむけた。

 このころようやく蜀では、魏の大軍が領内に侵入しつつあることを知った。

 「賊は、十万の大軍を擁しています」

 偵探の報せに、官民はおおいにあわてた。

 しかし蜀には曹爽や鄧飄が期待したように、軍事における逸材が払底したわけではなかった。

 漢中の総督として、蜀の名将である王平がいた。

 かつて王平は街亭の戦いで、馬謖の布いた陣の欠点を指摘し、蜀軍が敗走したあとで千人の兵を率いて壊滅をふせぎ、戦いつつ退くことに成功している。

 諸葛亮の死後は前護軍に累進して、漢中に駐屯していた蔣琬の補佐をしていたが、蔣琬が病になって涪城にうつったあとは、前監軍・鎮北将軍に任ぜられて漢中を掌握していた。

 「魏軍の先鋒は、駱谷道を進行中」

 と情報が入ったとき、漢中在住の諸将はあおざめた。

 なぜなら蜀の主力軍は蔣琬について涪城にうつっており、漢中にいるのは三万の兵だけであったからである。

 「彼我の戦力差がおおきすぎる」

 「これでは勝負になるまい」

 漢中の諸将は、

 「いまの兵力では、魏軍をふせぐことはできません。漢城と楽城の守りを固め、敵を漢中に侵入させるのはやむをえないでしょう。

 そのあいだに、涪城から主力軍の救援がかけつけるはずです」

 と王平に進言した。

 「そのように、最初から尻込みしてどうする」

 王平は寡兵で大軍を退けた経験があるので、弱気になっている諸将をはげました。

 「考えてもみよ。漢中は、涪城から千里のかなたにあるのだぞ。

 もし敵が侵攻して陽安関をおさえてしまうと、容易に敵軍を叩けなくなる……いますぐに劉敏と杜祺を興勢山に派遣し、われがふたりをささえよう。

 もし敵が黄金谷に支隊をむかわせれば、われが千人の兵をひきいてその敵を殲滅する。

 こうして魏軍をふせいでいるうちに、涪城から主力軍が到着するであろう。これこそが上策というものだ」

 陽安関は、漢城の西にある陽平関のことである。魏軍が斜谷から漢中にむかうと、陽平関に達する。

 劉敏は蔣琬の外弟である。蔣琬とおなじ零陵郡出身で、かねてよりその有能は知られていた。

 いまは左護軍・楊威将軍になっている。

 杜祺は王連によって選抜された才能で、軍事のあかるさは劉敏におとらない。

 劉敏と杜祺は、王平の策にすばやく反応し、

 「鎮北将軍(王平)の策は、もっともすぐれている。われらで興勢まで急行し、敵をふせぎましょう」

 とともに軍を引き連れて進発した。

 あとで思えば、劉敏と杜祺のこのすばやい対応が魏軍の出鼻をくじいた、ということになった。

 ふたりは興勢山に到着すると、

 「できるだけ多くの旗を、下の敵軍から見えるように立てるのだ」

 と配下の兵たちに命じて、あたかも大軍がいるようにみせかけた。

 興勢山は楽城から近く、ここを魏軍に通過されると漢中の防衛は容易ではなくなってしまう。

 それを熟知している劉敏と杜祺は、百里にわたって旗をたてさせて大軍を偽装し、興勢山を死守するかまえをとった。

 ほどなく王平も兵を率いて興勢山に到着した。多数の漢(蜀)の旗がたなびく光景は、まさに圧巻である。

 「はは、木よりも旗の方が多いではないか」

 王平も満足したようすで、山上から魏軍を見下ろしている。

 「これで、魏の将兵は別の道をさがしはじめるでしょう」

 劉敏と杜祺も、王平に笑いかけた。

 「大軍が通ることができる道は、ここしかない。それならわが軍をこれほど連れてくることはなかったな」

 王平は年齢を重ねても、豪胆である。王平は数千しか兵を率いてこなかったので、曹爽の側近に実戦経験が豊富な軍師がいれば、迷わず山上に軍をむけたであろう。

 しかし、曹爽をはじめとして、側近の将兵は実戦経験がないので、興勢山に立ち並んだ旗の多さを見て驚愕した。

 「蔣琬は病気で、多数の兵を動員できないのではなかったのか」

 そうさけんだ曹爽に、鄧飄は、

 「いそいで別の道をさがしてまいります」

 と答えた。

 しかし地理にくわしい王平は、興勢山を越える道をすべて少数の兵で封鎖しているので、鄧飄が派遣した兵は、いたるところで撃退されて帰ってきた。

 「どの道にも蜀の兵がいます。前へは進むことができません」

 「ええい」

 偵探の報告を聞いた曹爽は、いらだちはじめた。

 「敵も隙をみせるはず。それをみのがさないように、布陣しましょう」

 鄧飄も、力なくいった。

 一方成都は、曹爽の侵攻に無策なはずはなかった。

 蔣琬は病気であるが、代理として蜀の政治軍事を掌握している費禕は健在である。

 費禕は蔣琬にくらべて鋭利な能力をもち、ある種の天才であった。

 たとえばその記憶力は卓越したものがあり、書物の記録をしばしみつめているだけで、その大まかな趣旨を理解することができた。

 みるだけで万事理解できるので、人の数倍の速さで仕事をこなしてしまい、しかもそれを後に忘れることがなかった。

 費禕が尚書令から昇進して大将軍・祿尚書事になった後任に、尚書令になったのは董允である。

 董允も蔣琬や費禕とおなじく諸葛亮に信頼されていた人物で、つねに劉禅の近くにいて、若い皇帝を教導してきた。

 尚書令になった董允は、

 「文偉(費禕)とおなじくらいの仕事はこなさなければ……」

 と考えていたが、十日も経たないうちに仕事は停滞してしまった。

 董允は嘆息して、

 「文偉と能力や力量がこれほど隔絶しているとは、思わなかった。

 われは終日仕事にとりかかっているのに、寸暇さえない」

 と周囲に語ったという。

 董允に政務の異能を賛嘆された費禕は、蜀からの使者をからかう癖のある孫権を感心させるほどの外交能力をもち、諸葛亮の北伐に同行したこともあって軍事にもあかるいという、いわば万能の人である。

 漢中の王平からとどいた急報に接した劉禅から、費禕に詔が下された。

 「なんじに節をもたせる。いそいで兵を率いて漢中に行き、賊を殲滅せよ」

 というものである。

 費禕は、いつもどおりすばやく出師の準備にとりかかった。

 そのいそがしいさなかに、光祿大夫の来敏がやってきた。

 来敏は後漢王朝を創設した光武帝の勲臣である来歙の末裔で、父の来豔は後漢王朝の司空であった。

 居住していた荊州の新野県も戦乱にまきこまれたため、来敏は姉にともなわれて、姉の夫である黄琬がいる益州に避難した。

 黄琬は劉璋の親戚であったので、客として遇されていたが、劉備が益州に入ると、典学校尉になった。

 来敏は突飛なことをいったり、おこなったりするので、しばしば免職されていたが、このときは光祿大夫である。

 「大将軍(費禕)、ひとつ、囲碁でもやりましょう」

 費禕が出陣前に多忙をきわめている中、こういうことをいうのが、来敏なのである。

 しかし、費禕も一種の奇人ではあるので、来敏のことを嫌ってはいない。

 「いいですね。一局やりましょうか」

 といいだしたものだから、周囲はあきれた。

 対局しているあいだにも、兵馬が行き交い、至急の文書がやりとりされていた。

 対局が、終わった。

 「いや、光祿大夫(来敏)どのは、碁が達者であられるな。完敗です」

 頭を下げた費禕に来敏は、

 「いえいえ、いささか大将軍を試しただけです。

 今回の戦役において、将帥としてあなたほどの適任者はいない。かならず賊を撃退してくださるでしょう」

 といって、費禕の落ちついた態度を褒めた。

 「ご期待に、応えましょう」

 奇人の来敏による試験に合格した費禕は、ゆうゆうと出発した。

 時期は三月であるが、費禕が王平の救援に向かったのは閏月の三月である。

 (王平は、よく魏軍をくいとめているな)

 漢中にはいってくる情報によると、魏軍はまだ興勢山を越えていないらしい。

 一方の曹爽は苦戦しているようすを、曹芳に連絡しなければならないが、あたかも善戦しているかのように書簡を書いていた。

 しかし皇帝から従軍させられている監視役の護軍は、正確に戦況を朝廷に伝達した。

 「大将軍(曹爽)の軍は、興勢で敵にはばまれ、滞陣しているらしい」

 「やはり、戦場の経験がないお方は……」

 魏軍苦戦の情報は、すぐ朝廷内にひろまった。

 (やはり、曹爽では無理だったのだ)

 司馬懿は、戦場に送る書簡を書きはじめた。

 ただし、書簡の宛名は曹爽ではなく夏侯玄である。

 司馬懿は夏侯玄の能力を高く評価しているが、今回の遠征は夏侯玄の誤りだと思っている。

 ただし、夏侯玄が有能であるかぎり、失敗を糺す見識はあるはずであり、それに期待したのである。

 「むかし、武帝(曹操)は二度漢中に侵攻しましたが、あやうく大敗の憂き目に遭うところでした。

 そのことは、あなたもご存じでしょう。

 興勢の路は先が険しくなるばかりであり、蜀兵が路を占拠しているのであれば、進むことができても満足な戦はできない。

 そのうちわが軍の退路を断たれると、軍は転覆してしまいます。そうなったとき、あなたはどのような責任をとられるおつもりか」

 司馬懿からの書簡が届くまえに、魏軍の本営では参軍の楊偉が、鄧飄と罵り合いをしていた。

 「この現状をどうみているのか。どう見ても退却すべきなのだ」

 楊偉のいった現状とは、軍事物資の輸送不備のことである。

 曹爽は大軍を動員するにあたって、西方の住民と羌族をつかった。

 しかし軍事物資が多すぎて、輸送に使用した牛、馬、驢馬らがつぎつぎに死んでいった。

 そのため輸送にあたった者たちは、泣きわめき収拾のつかないありさまとなった。

 「なぜ退却をすべきか。輜重は興勢山を越えれば山ほどあるではないか。

 戦って負けたわけでもあるまいに、退却などすべきではない」

 鄧飄は怒って反論し、おなじ浮華の徒の李勝がそれを支持した。

 楊偉も目をいからせて、

 「大将軍、鄧飄と李勝を斬るべきです。国家の大事をそこなう者だからです」

 とさけんだ。

 「ぬかしたな」

 鄧飄と李勝は楊偉に食ってかかり、口論は果てがなかった。

 「口論はもうよい。なにか、この戦況を打開できる策はないのか」

 曹爽は、うんざりしたようにいった。

 楊偉のいうことはわかるが、ここで退却してしまえば、遠くまで蜀征伐に来た意味がなくなる。

 「とにかく敵の変化を待つ。その隙をついて攻撃できる準備だけ整えておけよ」

 そういった曹爽は、なおも滞陣をつづけた。

 しかし敵は熟練の王平である。隙などみつかるはずはなかった。

 曹爽が待っていた蜀軍の変化は、まもなくおこった。大将軍の費禕が戦場に到着したのである。

 費禕は王平らをねぎらったあと、敵陣の位置を確認すると、

 「よし。私の軍で、敵の退路を閉じてやろうぞ」

 と軽快に軍をうごかしはじめた。

 魏軍にも、変化はあった。司馬懿の書簡が、夏侯玄のもとに届けられたのである。

 (これは、大将軍の体面を気にしている場合ではなくなった……)

 事態の深刻さに気づいた夏侯玄は、本営にむかって、曹爽に面会した。

 「いま撤兵しましたら、損害は軽微ですみます。どうか、ご決断を」

 曹爽は思わず椅子から立ち上がって、

 「征西将軍(夏侯玄)ともあろう方が、そのように気弱になってもらっては困りますぞ」

 といった。

 (もうすこし気骨のある男かと思っていたが……)

 曹爽が内心夏侯玄を見下しているときに、偵探から急報が入った。

 「敵が三方から展開し、わが軍の退路を断つうごきをはじめました」

 「なんだと」

 曹爽は、驚愕した。蜀軍の成都からの救援を想定していないわけではなかったが、実際退路を断たれる危機に瀕するまで、なにもしないのが曹爽の軍事的能力の実態であった。

 「退路がふさがれる、と私はさきに申しましたぞ。これでも、大将軍は陣をうごかさずにおられますか。

 私は陛下からあずかった兵を殺すわけにはまいりませんので、さきに退却させていただきます」

 夏侯玄はそういいのこして、本営を出た。

 残された曹爽は、呆然とするだけであった。

 かわりに鄧飄が本営に走り込んできて、

 「このままでは全滅します。退却のご命令を……」

 と懇願するようにいった。

 「お、おう」

 曹爽が全軍の撤兵を命じる前に、諸将はかってにおのおのの軍を退却させていたので、魏軍は大混乱におちいった。

 そのようすを見た費禕は、

 「はは、戦わずに敵は壊滅するぞ。

退路はひとつだけあけておけ。追いつめられた鼠は猫を噛むからな」

と笑った。敵を完全包囲してしまうと、かえって敵は死力をつくして戦うので、逃げ道をあけておくのは、兵法の常道である。

「よし。全軍で魏軍を追撃するぞ。漢中から叩き出してやれ」

蜀軍は、いっせいに三方から魏軍を攻撃した。

魏軍は必死に退却したが、多くの牛馬を失っていたので蜀軍に追いつかれ、大敗した。

この大敗によって、曹爽は軍事のまずさを知られてしまったといっていい。

一方で洛陽にのこった司馬懿は、いながらにして蜀遠征の失敗を見抜いたということで、信望をあつくしたのである。

蜀の大司馬である蔣琬は、病の床にあった。

費禕と王平が曹爽を漢中でたたきのめしたあと、延煕九年(二四六)の十二月に病没した。

後任は諸葛亮の遺言のとおり、大将軍の費禕である。軍事においては姜維を衛将軍に昇進させ、ともに政治の要にあたらせた。

蔣琬は死後恭候と諡され、後は子の蔣斌が継いだ。

蔣琬の死後、国政は費禕が引き継いだが、蔣琬と同様、じぶんは成都から外地にあっても、国の恩賞や刑罰はすべて、費禕に諮問されてから実施された。それほど蔣琬と費禕は蜀の官民から信頼されていたということだ。

蔣琬とおなじく、費禕もみずから魏を討伐することには消極的であった。

衛将軍の姜維が、

「羌族たちを味方にして、大挙して魏を攻めましょう」

となんども献策したにもかかわらず、費禕はそれを許可せず、姜維にあたえる兵はいつも一万人以下であった。

費禕の明敏な頭脳からすれば、守勢にまわった魏を大破することは到底無理で、現状を維持するのが最善策だと知っていたのであろう。

はやる姜維に、費禕はこういった。

「われらの才能は、丞相(諸葛亮)にとおくおよばない。丞相ですら中原を平定することはできなかった。

ましてや、われらではなおさらである。

国を保ち、民を治め、つつしんで社稷をまもるに越したことはない。

魏を討ち滅ぼす功業をたてることは、能力のある者の出現を待ってからにしよう。

僥倖をあてにして、一戦で勝敗を決しようとは考えまい。もし、おもいどおりにゆかなかったとき、悔いてもおよばないのだからな」

蔣琬の死から二年後(二四八)、鎮北将軍の王平の死後は、諸葛亮に倣って費禕が漢中に駐屯した。

盤石にみえた費禕の治世が、思わぬ悲劇によって断絶するとは、このときだれも予想しなかったのである。


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