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亡蜀記  作者: コルシカ
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蔣琬


         三十五


 蜀軍が帰還したあと、蜀では大赦がおこなわれた。

 大赦とはふつう皇室に慶事があったとき、免罪がおこなわれることをいうのだが、今回は丞相である諸葛亮の死を悼むためにおこなわれたのであろう。

 「もはや、丞相はこの世にはおられぬのか」

 と絶望したひとりに李平(李厳)がいる。

 (丞相が王になれば、われはその王朝の丞相に抜擢されるであろう)

 才気煥発な李平を野に放っておく諸葛亮ではない。

 職務怠慢という態で諸葛亮に謀叛をそそのかした罪をとわれて梓潼郡で平民におとされていた李平だが、ひそかな期待をもっていた。

 しかもわが子の李豊も有能であったため、罪は問われず、中郎参軍として成都にいる。

 (丞相は、いつかわれを復位させてくれるということだ)

 李平は、うれし涙を流した。

 ところが、である。

 それから三年が経過して、李平にとどけられた報せは、吉報ではなく諸葛亮の訃報であった。

 李平は、その場に昏倒した。

 この辺境の地でなすことなく生を貪ってきたのは、ひとえに諸葛亮の赦免の使者が到着するのを期待していたからであり、その唯一の希望が消えた今、李平は生きる希望を失った。

 やがて李平は、病を発して死んだ。

 李平ほど絶望しなかったものの、諸葛亮の死を知って涙をながした流人に、廖立がいる。

 かれは諸葛亮がおこなった人事を批判して、汶山郡に流されたが、妻子とともに農耕して自給自足の生活をおこなっていた。

 「われは、ついに左衽で終わることになろう」

 左衽とは、左の襟を下にして着物を着ることで、野蛮な生活を指している。

 さすがは「楚(荊州)の偉材」と諸葛亮に評されただけあって、高尚なたとえである。

 すなわち諸葛亮が生存し宰相でいる間は、蜀の国民は魏呉や異民族からばかにされない国家でいられるが、かれの死後は蜀は国としての威厳を維持できなくなり、廖立の住む汶山郡は野蛮な辺境と化すであろう、といったのである。

 廖立は李平より精神が強靱だったのか、諸葛亮の死後も生き続けた。

 のちに姜維が部隊を率いて汶山郡を通過したとき、

 「そういえば、廖立が住んでいたな」

 と思い出し、この偉材を訪ねた。

 「公琰(蔣琬)や文偉(費禕)に、丞相のまねができるわけがなかろう」

 廖立は諸葛亮に身分を剥奪されたとはいえ、尊敬の念は強く、その毒舌は健在であった。

 「はは、おかわりありませんな。たいしたものだ」

 姜維は苦笑と安心を混在させた返答をのこして、去って行った。

 むろん廖立はこのような性格なので、汶山郡の配所で亡くなった。妻子は赦免されて、蜀郡に帰還した。

 諸葛亮が生きているときは臣民は安心であったが、その死後偉大さに気づかされるようになった。

 「陛下は、政治をおこなうことができるのか」

 ひとことでいって、皆の不安は劉禅である。

 劉禅は劉備の遺言を忠実にまもり、諸葛亮に政治軍事を全面委任した。しかし、その諸葛亮が亡くなったとき、劉禅はどのように蜀の国を経営していくのか。

 諸葛亮が生きている間は、諸葛亮の意志にだれもがしたがった。劉禅じしんも、諸葛亮を賛して協力した。

 ではつぎの執政者は、諸葛亮ほどの輿望があるのか。

 それがない場合、劉禅じしんによる聴政をのぞむ声があがるであろう。

 劉禅の政治力は、未知数である。

 かれの本質が暗愚であれば、国家は傾いてゆかざるをえない。

 朝廷にある不安というのは、まさにそれであった。

 しかし、蜀軍をみごとに撤退させて意気揚々と復命した楊儀には、その不安はまったくなかった。

 「つぎの丞相は、われであるかぎり、みなは心配無用ぞ」

 楊儀はまわりの者たちにも、そういってまわっている。

 なにしろ諸葛亮が遠征したときに設置する幕府の最高実務者たる長史を長年つとめてきており、司馬懿と戦ってこれを撃退したという勲功をたてたのである。

 「とはいえ……」

 魏延が妙な夢を見て、占わせたところ大凶が出て、現実も転落したということを楊儀も聞いている。

 「都尉(趙正)に、占わせるか」

 楊儀は筮(周易の占い)の名手である趙正を召して、念のためじぶんを占ってもらった。

 「どのような卦が出たか」

 「はい……」

 趙正は首をかしげて、

 「まずわが身を修め、家を治めよ、という卦が出ました」

 と結果を楊儀に告げた。

 「なんぞや、これは。まるで女に出るような卦ではないか」

 出世や発展の卦が出るものとばかり期待していた楊儀は、まるで家にこもって身を修めていよといわれたようで、不機嫌になった。

 このことからほどなく、顕官の任免が行なわれた。

 車騎将軍 呉壱

 尚書令  蔣琬

 後軍師  費禕

 後典軍  王平

 中軍師  楊儀

 この人事をきいた楊儀は激怒した。

 丞相の位は諸葛亮を偲んで空位にしているものの、実質の執政者は尚書令の蔣琬である。

 「公琰(蔣琬)の政治は、鈍刀で牛をさばくようなものだ。

 肉になるまで、時間がかかりすぎる。なぜわれを尚書令にせぬか」

 と家人にあたりちらした。

 じつは中軍師の職は、閑職である。

 ふだんはなにもすることがなく、ただ執務室でじっとしているだけ、というのが実態であった。

 楊儀が尚書であったとき、蔣琬はその部下の尚書郎であった。

 「われは、公琰の無能さを知っている。陛下にとりいって尚書令になったのだ。

 丞相(諸葛亮)の遠征のたび従軍し、激務をこなしてきたのはわれなのだぞ」

 やがて、楊儀の憤懣の声は家中にとどまらず、国政の中枢にいる者たちにむけて発せられるようになった。

 「車騎将軍(呉壱)は、皇室の縁故(妹が劉備の妻すなわち皇太后)にすぎず、死んだ李平(李厳)にはおよばない。

 後典軍(王平)など、文字は十字しか書けない無知ではないか」

 以前諸葛亮の人事を批判して無位無官に落された廖立と、おなじことを楊儀はするようになった。

 呉壱や王平の有能さや、人格の気高さを周囲の臣は知っているので、しだいに楊儀から距離をおくようになった。

 それでも楊儀は、周囲に誹謗中傷をまきちらすことをやめなかった。このころすでに楊儀のこころは崩壊していたのかもしれない。

 「中軍師をなんとかなだめなければな……」

 楊儀と協力して五丈原からの撤退を成功させた費禕は、あえて楊儀を訪ねて慰めた。

 「なんの用だ」

 酒のにおいをさせて費禕を出迎えた楊儀に、費禕はいった。

 「荒れておられるようだが、漢(蜀)は、かならずあなたの力を必要とするときがくる。

 そのときのために、力を養っておくよう天がくれた配慮なのではありませんか」

 「ふん……」

 ふてくされた楊儀は、横をむいてまた酒を呑みはじめた。

 費禕のことばは、ただのなぐさめではない。

 戦地であれほど有能さを発揮した楊儀のことを、そばで見ていた費禕はだれよりよく知っている。

 「このような無為がたえられようか」

 楊儀は、机をたたいた。

 要するに、楊儀は黄老思想の韜晦という意味が理解できない、あくまで実務の人なのであった。

 「文偉(費禕)よ。なんじもわれの不遇がわかるであろう。

 あのときわれは、主力の軍をあげて魏延と力をあわせるべきであった。そうすれば、今日のような没落はなかったであろう。

 後悔先に立たず、とはこのことさ……」

 さすがの費禕も、楊儀のこのことばにはぞっとした。

 この発言は、いま蜀王朝の主宰者に叛逆する者が出てきたときは、楊儀が同調するということである。

 思い返せば楊儀の経歴は、不満と嫉妬にあふれている。

 最初に荊州刺史の傅羣の主簿となったが、かれに従うこともせず関羽のもとに身を投じた。

 その後中央で尚書になったが、尚書令の劉巴とそりがあわなかった。

 先述したとおり劉巴は気骨の人といってよく、荊州四郡を平定した劉備にひとりで戦いをいどんだこともある。

 ところが奇縁奇遇で益州に身を寄せた劉巴は、劉備に仕え諸葛亮にみとめられたのである。

 法正のあとに尚書令になった劉巴は、清廉で倹約をこころがけていた。かつて劉備と諸葛亮と敵対していた過去をもってして、このようなみごとなふるまいができる劉巴を、楊儀は尊敬するどころか、つねに不満であったのだから、楊儀の偏屈さが垣間見られる。

 (つまり楊儀は、ものごとにおいてじぶんが主にならなければ不満なのだ)

 費禕は、そのことに気づいた。

 (結局……楊儀は寄ると触ると魏延と争っていたが、ふたりは相似形であったからこそ、たがいをゆるせなかったのだな)

 費禕は大きくため息をつくと、さきの発言を劉禅に報告することにした。

 (楊儀のような者が国権をにぎると、またたくまに国が滅びてしまう)

 そう考えたからである。

 自宅に帰った費禕は、楊儀の発言を書簡にしたため、劉禅に上表した。

 「そうなのか」

 劉禅は喜怒哀楽を表面に出さない性質があり、楊儀の発言を知っても激怒どころか不満さえ見せなかった。

 (文偉がいうくらいだから、事実なのであろうな)

 とひそかに楊儀に失望した劉禅は、

 (なるほど、楊儀は丞相に後継として指名されなかっただけのことはある……)

 と納得もした。

 このあと補弼の臣をまねいて、上表の内容をかれらに示し、楊儀の処置を決定した。

 年は建興十三年(二三五)の正月になっていた。

 「楊儀については、中軍師を罷免し、庶民に落して漢嘉郡にうつす」

 漢嘉郡は成都からみると西南にあり、荒廃している郡である。

 これを通達された楊儀は驚いて、

 「漢嘉など、人が住むところではないではないか」

 と絶叫した。漢嘉郡にうつされるあいだもずっと蜀の上層部を罵っていた楊儀は、流刑地に落ちついてもすぐに筆を執り、みずからの不満を長々と上表した。

 「丞相となって国を差配すべきわれが、このような極地に流されるとは、だれかの陰謀である」

 酒びたりになり、目も妖気を孕んだようになった楊儀を、家族たちは遠巻きから見守るしかなかった。

 楊儀の書いた上表の書簡は、かつてないほど激越な誹謗中傷の書であった。

 楊儀の上表を一読した劉禅は、

 「楊儀のことだが、すでに気がふれているように見受けられる」

 と蔣琬と費禕にそれを手渡した。

 「これは……」

 「ほんとうに楊儀が書いたものですか」

 ふたりも、狂気にまみれた書簡を直視するに耐えない気分であった。

 「庶民に落とすだけでは、改心せぬようだ」

 劉禅は費禕に命じて漢嘉郡の捕吏に、楊儀を牢獄に収監することとした。

 じぶんの家に捕吏がやってくるのを見た楊儀は、

 「われの首を刎ねるつもりだな。そのような恥辱は断じて受けぬ」

 とうなり、毒をあおって死んだ。

 楊儀はその偉才を劉備に見いだされ、諸葛亮にはおおいに活用されたが、ふたりが亡くなった後、水を失った木のように枯死した。

 「われらは、丞相(諸葛亮)のように北伐をくりかえして国を経営する能力はない。

 楊儀は、死ぬべき運命にあったのかもしれぬな」

 劉禅の淡々とした述懐に、蔣琬と費禕は意外な感想をもった。

 (陛下は、じつは現実をよく把握しておられる方なのかもしれぬ)

 魏延と楊儀は相似形であったが、乱世にしか生きることのできない悍馬であった。

 蜀は諸葛亮という巨星が墜ちた後、守勢を主とした戦略へと転換してゆくことになる。

         ※

 諸葛亮が死去したことにより、魏の曹叡以下臣民は、おおいなる安堵の中にいた。

 蜀はいうなれば諸葛亮の国であった。それの柱石が死去したとなればどうか。

 強力な蜀軍が魏領内に侵攻すれば、迎撃する魏軍は数ヶ月も西方に大軍を駐屯させねばならず、その軍資の費えははなはだしいものであった。

 その不安から解放されるのである。

 なんとか諸葛亮をしりぞけた司馬懿は大尉に昇進し、曹叡からおおいに称揚された。

 「魏はこれから盤石であろう。ならばその権威を四海にしめしてもよいのではないか」

 曹叡は青龍四年から、巨大建築物の造営をはじめた。

 洛陽宮の大修理にはじまり、昭陽宮と太極殿の起工がおこなわれた。

 魏は蜀に対して費やしてきた軍費を、増築によって浪費していたのである。

 もちろん蜀も呉も、まったくうごきは見せなかった。両国とも長年の魏との連戦で、経済は疲弊している。

 曹叡の目は、遼東にむけられた。

 先述したとおり、遼東の王を自称しているのは公孫淵で、独立国の様相をたもっている。

 これを蜀と呉が静かな間に、滅ぼしておきたい、ということである。

 はじめは毌丘倹に遼東を攻めさせた曹叡だったが、それに失敗した結果、司馬懿にその大役がまわってきた。

 魏の景初二年(二三八)、司馬懿は遼東征伐に出発した。

 (諸葛亮の兵とくらべれば、公孫淵などどれほどのことがあろう)

 と司馬懿は思っている。それだけ、蜀軍との死闘は司馬懿を総帥として成長させていたということだ。

 長雨にたたられたが、それをものともせず、司馬懿は公孫淵を打ち破り、その首を斬った。

 「一年で遼東が、魏の領土になった」

 歓喜した曹叡ではあったが、その身体は病魔に冒されていた。

 曹叡は司馬懿が洛陽に帰還するまで生きていたが、三十四歳の若さで崩御した。

 後継は曹叡の実子ではなく、養っていた幼い斉王の曹芳となった。

 明帝と追号された曹叡に後事を託されたのは、むろん大尉の司馬懿である。

 しかしともに後事を託された曹真の子、大将軍の曹爽は、権力を曹氏の手にとりもどしたかった。

 司馬懿を太傅という名誉職にまつりあげ、実権は曹爽がにぎった。

 曹爽のまわりには浮華の徒、いうなればうわついた小才子である何晏や鄧飄らが抜擢され、魏の王朝の雰囲気はずいぶん悪くなった。

 「いまは韜晦をきめこむしかないか……」

 司馬懿は息子の司馬師、司馬昭とともに、政治の表舞台から身をかくすように生活するようになった。

         ※

 一方の蜀は、どうだったか。

 諸葛亮の死によって蜀の官民は、

 「わが国は、これからどうなるのであろうか……」

 と不安に駆られたのは事実であろう。

 皇帝の劉禅を補佐し、百官を率いることになったのは、蔣琬である。

 「亡き丞相じきじきに、後事を託されたとか……」

 「どのようなお人なのかな」

 人々は諸葛亮の後継者としての蔣琬の人柄や、能力をまったく知らない。

 なぜかというと諸葛亮が漢中にとどまっているときや、雍州に侵攻しているとき、蔣琬は成都にとどまって兵站を管理していたからである。

 武勲というものがない蔣琬は、いわば内助の功を尽くしつづけたわけだが、こういうはたらきは、国民に理解されない。

 蔣琬には、大人の風格がある。

 落ちついていて、喜怒哀楽をおもてに出さない。諸事淡々と処理するその態度を見た百官は、

 「尚書令(蔣琬)は、ぞんがい大物なのかもしれぬ」

 「そうじゃ。あの丞相が後事を託した人だからな」

 と感じはじめ、信頼を寄せはじめた。

 建国の大元勲である諸葛亮とくらべられつづけた蔣琬はつらかったのかもしれないが、まったくそれを意に介さないようであった。

 東曹掾の楊戯は無口な人で、蔣琬が話しかけても返事さえしないことが多々あった。

 それを見た近臣が、

 「尚書令が話しかけても返事さえしない楊戯は、あなたのことをばかにしているのではないでしょうか」

 と蔣琬にいった。ここでも蔣琬は微笑んで、

 「人の心は、人の顔がそれぞれちがうように、おなじではない。

 面従腹背つまりわれと意見がちがうのにその場ではうなずき、あとでさからうのはよくない。

 東曹掾(楊戯)は、われに賛成すればかれの意見に反することになるので黙していたのだ。東曹掾は、信頼できる人物だよ」

 と諭した。

 (尚書令は、とにかく尊大な態度をお見せにならない……)

 百官は、蔣琬の人に接する態度に好感をもつようになった。

 督農の楊敏は、楊戯と反対に歯に衣着せぬものいいをする人である。

 蔣琬の行政を俯瞰して、

 「事業をなすにおいて、すっきりしない。前任の丞相にはとてもおよばない」

 と批判した。

 これを聞いた人が、

 「陛下を補佐している人を、貶すにもほどがある」

 と憤りを発して、楊敏の発言を蔣琬に伝えた。蔣琬の属官は怒り、

 「督農(楊敏)を取り調べるべきです」

 と蔣琬に訴えたが、蔣琬はふだんどおりの物腰で、

 「われが丞相におよばぬのは、事実である。取り調べする必要はない」

 と属官をなだめた。

 「行政がすっきりしない、と批判したことを問いただしたいのです。お止めくださるな」

 属官はなおもひきさがった。

 「われが丞相におよばないのは、万人の知るところである。事を機敏に処理できなければ、督農のいうとおりすっきりしないであろう。

 これは事実であるのだから、取り調べする必要はないぞ」

 と蔣琬はなおも楊敏をかばった。

 のちに、楊敏はある事件に連座して逮捕されて獄に下された。周囲の人は、

 「尚書令にあれだけ悪態をついたのだ。死刑はまぬがれまい」

 といった。しかし蔣琬は私怨によって、罪を軽重する人ではない。その点は諸葛亮とおなじであった。

 楊敏は軽微な刑で、すぐに釈放された。

 「尚書令は、どことなく亡き丞相に似ておられるな……」

 官人は、しだいに蔣琬の風格を敬うようになってきた。

 司馬懿が遼東を攻めた年、蔣琬は劉禅から、

 「卿は諸軍をひきいて漢中に駐屯し、呉が軍を動かすのに連携して、東西から賊(魏)の隙に乗じるように」

 と詔をさずけられた。

 (蜀はずっと魏と戦わずいれば、国の士気が落ち、魏との国力差が大きくなる)

 蔣琬もそのことは、充分に承知している。

 詔を受けた蔣琬は、さっそく漢中に移動して出撃の準備を整えた。

 しかし呉の軍事が活発ではなく、これでは劉禅のいうとおり東西からの挟撃ができない。

 やむなく、蔣琬は軍を漢中にとどめたまま越冬した。そのうち魏からの偵探からおどろくべき報せを受けた。

 「曹叡が死んだのか」

 曹叡は英邁で強敵であったが、まだ三十代の半ばである。

 「司馬懿と曹爽が、幼帝を補弼する体制となったようです」

 偵探は、さらに魏のいびつな政治体制について説明した。

 「寡頭政治というものは、かならず王朝を弱体化させる……新しい幼帝の曹芳とは何者か」

 「はい。曹叡の養子らしく、誰の子かさえ魏の近臣は知らないそうです」

 「ふうむ……」

 考え込んだ蔣琬は、

 (尊敬を集めぬ幼帝のもとで、司馬懿と曹爽の権力争いが起きる……その隙をつくのはわるくないな)

 と感じた。では、魏のどこを攻めればもっとも有効なのか。

 (あの丞相でさえ、雍州の渭水のほとりに侵攻しただけで戦果はあげられなかった)

 最初の諸葛亮が行なった北伐だけは、天水郡をしたがわせて、東西の交通を遮断させ、天水郡より西の南安郡、隴西郡、さらには涼州を蜀に帰属させるというものであったが、

 (これでさえ、司馬懿に阻まれて成功しなかった……)

 ならば司馬懿が蜀軍に向かわなければ、策戦は成功したのか。

 呉軍が大軍を北上させれば、司馬懿は迎撃のために呉軍に向かうであろう。

 それと同時に蜀軍が魏に侵入すれば、司馬懿より能力の劣る将が出てくる。

 (それなら勝算は、ある……)

 主戦場を渭水のほとりではなく、荊州の上庸と魏興郡がいい。

 漢中にいる蔣琬は、いまや大司馬に昇進している。この策戦を劉禅に上表した。

 漢水を利用して船で下ってゆく、魏の二郡を奪取するというものである。

 劉禅は蔣琬の策を見たとき、父の劉備が呉を攻めたときを思い出した。

 「大司馬(蔣琬)はこういっているが、皆はどう思うか」

 尚書令に昇進した費禕も、劉備の呉攻めのことを思い出した一人である。

 「もしわが軍が勝てず、撤退するとき先帝のように追撃され、困難が予想されます。

 ゆえにこれは良策とはいえますまい」

 「そうか……」

 費禕のように、反対意見を述べる将官はおおかった。みな諸葛亮の戦術をじかに見てきた者ばかりである。

 (丞相の影響力は、まだ衰えていないか)

 こう感じた劉禅は費禕に命じて、

 「大司馬の真意をたしかめてきてくれぬか」

 と漢中に派遣した。

 費禕とは盟友である蔣琬は、

 「なんじが来てくれたのなら、話しやすい」

 と策戦の細かな意図を説明した。

 「まずは、魏の涼州を蜀の領土としたい」

 蔣琬は費禕に、上表に書けていないみずからの意図をくわしく説明した。

 「私も涼州は、蜀にほしいと考えていました」

 費禕も蔣琬のくわしい戦略を聞くことができて、劉禅に説明できるので安心した。

 「わが軍が戦わねばならぬのは、雍州刺史の郭淮になるが……。尚書令は、郭淮をどう評価するか」

 「以前の張郃にくらべれば、能力は劣ると考えます」

 「われもそう考えている。そこで姜維を涼州刺史に任命して、西方の羌族を味方にする政略をしかけてみてはどうだろうか。

 われは魏興郡と上庸郡を攻めるが、姜維の政略が成功したなら、軍の向きをかえてかれを支援する。

 そのためには漢中から、水陸の要地になる涪城を拠点にしたい」

 「なるほど……そのようなお考えでしたか」

 涪県は涪水のほとりにあり、漢中にくらべると成都に近くなる。涪水は、漢水にも江水にもつながっているので、蔣琬の戦略を遂行するのには、つごうがよい。

 費禕は蔣琬が書いたくわしい策戦の書簡をもって、成都に帰還した。

 劉禅は書簡を熟読したあと、

 「涪城はたしかに戦略的にどこにも行きやすい地ではあるが、敵国から遠すぎるな……やはり大司馬には漢中にとどまってもらおう。

 それから姜維を涼州刺史に任命して、呉が軍をうごかし次第、羌族を調略させてみよう」

 といった。

 費禕は、

 (意外と、軍事の要をはずしておられないお方だな)

 と劉禅の判断をよしとした。

 しばらくして呉から使者が成都にやってきて、北伐を敢行するという。

 「結構。大司馬に出陣をゆるす、と伝えよ」

 劉禅は、即答で蔣琬の出陣を許可した。

 劉禅からの使者が漢中に急行したが、不運にも蔣琬は病気に罹患していた。

 熱病である。

 蔣琬に代わって軍を率いることができるのは、姜維だけである。そこで蔣琬は姜維に、

 「わが軍がうごかなければ、孫権は漢(蜀)に不信感をもつ。

 われに代わってなんじが軍を率いて、隴西郡を攻めよ」

 と命じた。

 「かしこまりました」

 雍州の西端にあるのが隴西郡であり、羌族がいるのは隴西郡だけではないが、隴西郡の羌族を調略すれば、その西にある涼州を奪取しやすくなる。

 姜維は蔣琬の代わりに軍を率いて、隴西郡に侵入した。

 羌族は魏を嫌い、蜀を好んでいるので、姜維の軍はおおいに歓迎された。

 西方の擾乱を聞いた曹爽は、郭淮にそれをおさめるように出撃を命じた。

 「郭淮ごときをおそれるわれではないが……」

 姜維は羌族を調略して蜀に引き込むために出撃したのであり、蔣琬には、

 「郭淮が出てきたら、むりに戦わずともよい」

 と念をおされていた。

 「目的は達している。撤退するぞ」

 姜維は軍を引いたが、郭淮はしつこく追撃してくる。

 (このまま軍の向きをかえて、郭淮を撃破してやろうか)

 とも考えた姜維ではあったが、蔣琬との約をたがえてはならじと交戦せず、州境の彊中まで撤退した。

 ここでようやく、郭淮の追撃はやんだ。

 姜維にとっては消化不良の戦となったが、魏の君臣に、

 「蜀軍は、いつでも雍州をねらっている」

 と思い込ませることが肝要である。

 (大司馬が快復すれば、魏の荊州西部を攻めやすくなる……むだな出兵ではなかった)

 姜維が帰還すると、蔣琬の容態はさほど悪いようではなかった。しかし、眉をひそめた蔣琬は、

 「呉は魏に出兵しなかった。われらはだまされた、ということだ……」

 といった。

 「そうだったのですか」

 姜維は驚いて、蔣琬を見た。

 孫権が朱然や全琮らをつかって北伐したのは翌年、すなわち蜀の延煕四年(二四一)であり、姜維の出陣の翌年である。

 つまり孫権は蜀を狐疑して、軍をうごかさなかったのである。

 費禕はふたたび漢中におもむいて北伐の計画をねりなおしたが、蔣琬の病は悪化していた。

 (軍をうごかすな、ということかもしれぬ)

 蜀軍による魏の北伐は、無期限の延期となった。

 一方の蜀にとっては同盟者である孫権は、はげしく落胆していた。

 朱然や全琮たちは、結局魏にしりぞけられ敗退したのだが、それが原因ではない。

 太子の孫登が、病死したのである。

 孫登は、ひじょうによくできた人で、病弱であるじぶんを自覚しており、人を適材適所に配置したり、学識を積む謙虚な人柄であった。

 この有能な太子は臣下からも愛され、

 「陛下の次世代も、太子がおられれば安泰よ」

 と口々に話し合った。

 孫権には長子の孫登と次子の孫慮というふたりのすぐれた後継者がいたが、ふたりとも孫権を残して早逝してしまったのである。

 呉の群臣は、おおいに動揺した。

 「だれが太子になるのであろうか」

 そのような悲しみに、おいうちをかけるような訃報がとどいた。

 朱然と全琮が撤退を完了した六月に、諸葛亮の兄の諸葛謹が死去したのである。

 享年六十八であった。

 諸葛謹は面長で、馬面であった。

 あるとき孫権は群臣を集めた会を催し、その宴会場に驢馬を引いてこさせた。

 孫権はその驢馬の顔に、

 「諸葛子瑜」

 と書かせた。驢馬が諸葛謹にそっくりだという冗談である。

 諸葛謹は誠実一路の人であり、このような孫権の悪謔にも機嫌を悪くしない。

 「筆をたまわり、二字を書き加えてもよろしいでしょうか」

 と孫権に願い出た。孫権がそれを許すと、驢馬の顔面に、

 「之驢」

 と書き加えた。

 「諸葛子瑜の驢馬」という意味になった。

 群臣たちは大笑いした。孫権もそのような機知はおおいに好む人であるから、

 「二文字で、この驢馬は君のものになった」

 と喜んで、驢馬を諸葛謹に与えた。

 諸葛謹の後継は、長子の諸葛恪である。

 諸葛恪は才能がきらびやかで、それをひけらかす癖がある。

 蜀の使者が呉に来たとき、孫権は、

 「諸葛恪は乗馬が好きである。丞相(諸葛亮)に良馬を送っていただけまいか」

 といった。諸葛亮は諸葛恪の叔父である。

 「ありがたきしあわせでございます」

 と諸葛恪はすぐさま頭をさげた。

 「まだ馬は来ておらぬぞ。どうして礼を申すか」

 孫権が諸葛恪に訊くと、

 「蜀は陛下の外厩ですので、馬はかならず届きます」

 とこともなげに答えた。

 蜀が呉の馬屋とは、ずいぶん傲慢ないいかたである。が、孫権は尊大な人でもあるので、それに追従したのである。

 呉に生まれ育った諸葛恪は、父の諸葛謹のように徐州から茨の道を素足で歩くような経験をしたことがない。

 きらびやかな才知をひけらかす諸葛恪を見て、諸葛謹は、

 「わが家は、恪で滅びる……」

 といった。誠実さにおいて諸葛謹におとらない諸葛亮も、この甥を遠くから見ていて、重大な任務をあずける器には見えなかった。

 ゆえに諸葛恪が兵糧をつかさどるようになったときいて、陸遜に書簡を送った。

 「わが兄は年老いてしまい、その子の恪はぬけめがあります。

 兵糧は軍のもっとも重要なもので、私は呉からとおくはなれているとはいえ、不安をおぼえました。

 足下はどうか至尊(孫権)に提言して、かれを転任させていただきたい」

 (たしかに、そうだな……)

 と感じた陸遜は孫権にそれを伝え、諸葛恪は他の軍務に転任させられた。

 しかし孫権は、陸遜や諸葛亮のような堅実さよりも諸葛恪の覇気を好んだ。

 (陸遜も諸葛亮も、年をとって果敢ではない。諸葛恪は、父の爵位を継がせるまでもなく、おおいに活躍させてやろう)

 諸葛恪は、すでに威北将軍なのである。

 諸葛謹の封邑は、弟の諸葛融が継いだ。

 しかし、呉には太子の席が空位のままである。

 そこで孫権は翌年の赤烏五年(二四二)に、三男の孫和を立てて太子とした。

 むかしから孫和は孫権に愛された子であったので、立太子は当然のことと思われた。

 しかし、今孫権は若い後宮の貴人を愛しており、その子らの孫覇や孫亮を溺愛している。

 孫権は臣民に不安をあたえないように、あえて立太子を急いだのであろう。

 孫権の内意を汲んだ群臣は、孫和の四人いる弟すなわち孫覇、孫奮、孫休、孫亮をすべて王として封じるべきだと上奏した。

 孫権はそれを却下したものの、ふたたびの上奏をうけて、

 「覇だけを魯王とする」

 といういびつな決定をした。孫奮以下はまだ王には年齢的に早い、という意図もあるのかもしれないが、群臣は、

 「魯王(孫覇)だけは陛下のお気に入りであられる」

 という見方をした。

 孫権のこの封建が、後年「二宮の変」と呼ばれる王朝を二分する大騒動になるとは、このとき、だれも予想はしなかったのである。


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