6 王配は嫌らしく少女の胴に頬を寄せる
夜、アルゲは屋敷の一室で迎えを待っていた。向かえにはティコとウーレイが座っている。
声を上げたのはティコだった。
「しかし、嫌な予感がいたします」
ウーレイがそれに同調する。
「召使もつけずに、一人で来いだなんて、きっと何かあるに違いありません」
アルゲは頷いて見せた。
切っ掛けは数日前の夜、屋敷に宮殿の女官が数人馬車にのって現れたことだ。彼女たちは王配の使者だと告げてきた。突然の来訪に驚いたが、二階応接間に彼女たちを案内して、アルゲは話を聞いた。
「王配陛下は、アルゲ殿とお会いしたいと仰せです」
「わたしとですか?」
「はい……それも密やかに……誰にも悟られないようにしなければならないとも仰せなのです」
「用件は?」
女官らは顔を見合わせた。その女官は先を続けた。
「それはわたしたちが言えることではありません。あなたが陛下とお会いしたときに、直接聞けばよろしいでしょう」
アルゲはこの申し出に不吉な予感を覚えた。アルゲが例の遺跡に旅立つ時期が、もうすぐそこまで来ている。あと一週間のうちに、アルゲは王都を出て、かの地へ向かうだろう。その前に王ではなく、王配から秘密で会いたいとは、どういうことだろうか。
ふと、アルゲは顔を上げた。女官らに問う。
「王様はこのことを知っておられるのですか?」
女官らは今一度顔を見合わせた。その女官が、アルゲに言う。
「いいえ。絶対に知らせてはなりません。わたしたちは詳しくは申し上げられませんけれども、もしそうなれば、王配陛下とアルゲンティア殿を必ず悲しませる結果となりましょう」
ますます嫌な予感がする。アルゲはこの申し出を断りたかった。
「お断りはできますでしょうか?」
その女官は殆ど真に受けないという態度で返答した。
「そんなことができるはずもありません」
アルゲは若い。まだ十六だ。女官たちがもっと年上であるのは間違いがない。宮廷につかえ経験を重ねている彼女たちに、アルゲは言い返す気概を持ち合わせていない。
「……わかりました」
部屋の扉は開けさせていた。いつ王配からの迎えの馬車が来てもいいようにするためだ。
「王配陛下はわたしに何を言うおつもりだろう?」
アルゲが聞けば、二人は顔を見合わせた。ティコがアルゲを見た。
「わかりません……」
ウーレイもアルゲを見ている。
「でも、王様に内緒でだなんて……おかしな噂を招くことにもなりかねません。まさか、アルゲ様の美貌を見て――」
ティコがウーレイを制止した。
「おかしなことを言わないで!」
「ごめんなさい」
ウーレイが顎下でこぶしを握りながら、ティコにそういった。アルゲは頭を悩ませながら考える。
「でも、秘密にするだなんて、そんなことができるのかしら。宮殿には宦官がうろついているし――わたしは、その――目立つし」
アルゲの美貌のことだけではない。人質として送られてきたはずのアルゲが王配と密会など、人の口の端に登らぬわけがない。
部屋の外、開け放たれた扉の脇に立たせていた召使が叫ぶ。
「お迎えの馬車が到着いたしました!」
アルゲはすぐに立ち上がり、不安な心を押し込めながら二人を連れて部屋を出る。中央の曲がり階段を下りて玄関ホールに着く。
すでに待機していた二人の召使がアルゲの姿を見て、玄関の大扉を開く。屋敷の塀のずっと上に丸い月が出ていた。その月明かりの下、一台の馬車が玄関先に停まろうとしている。ちょうど今来たばかりなのだろう、車輪がひどく緩やかに動いている。
馬車は豪華な造りだが装飾は控えめだ。御者は黒いコートを羽織っている。御者が御者台を降りると馬車の扉を開けた。中から控えめなドレスを着た女が出てきた。
アルゲは扉の先、石段を下りたところにいる。その女はそこまで近づいて、アルゲに言った。
「わたしは王配陛下の使いで来ました、ウテと申します。アルゲンティア殿にはこの馬車でわたしと一緒に陛下のところまで着いてきてもらいたいのです」
ウテの顔は青白く、生気がない。どんよりとした雰囲気をまとう女だった。アルゲは頷いて、背後を振りかえる。二人の召使に軽く言った。
「じゃあ行ってくるね。すぐに戻るよ」
ティコが泣きそうな顔で言う。
「ここで待っています。ついて行ければ、どれだけいいか」
ウーレイは「お気をつけて」と言って、思案するような顔つきでアルゲを見た。
アルゲは馬車に乗り込んだ。馬車はそろそろと動き始める。アルゲは数日前に王配の配下の女官が来た時と同じ質問をウテにした。
「今回はどのような用件なのですか?」
「わたしはそれについて答えられません」
ウテはそっけなく言った。そして、窓の外を見る。アルゲはもう一度別のことを聞いた。
「王配陛下は、なぜ今回のことを秘密にしたいのですか?」
ウテはゆっくりと窓から眼を離しアルゲを見る。
「あまり軽々しくそういう話をしないでください」
「しかし大事な話です」
ウテはアルゲを見てから、ゆったりと窓へ顔を向ける。馬車が道を駆けていく。アルゲは焦らされていると思った。ウテはゆったりと、またアルゲを見る。彼女は静かな声で言った。
「……どこに……誰の……目が……耳が、あるともしれませんよ」
その言いざまがあまり気味が悪かったので、アルゲはぞっとした。脅しなのかもしれない。そこまでアルゲは思った。ウテの雰囲気はアルゲをぞっとさせる。
それでも、アルゲは唾を飲み込んで聞いた。
「なぜ、わたしたちが誰かに見られなければならないのでしょう」
「わたしたち、ではなくあなたでしょう」
ウテは窓を見ている。暗い街並みの中にはぽつぽつと照明がある。その明かりの周囲だけはよく見えるから興味深い。大体は壁のランプで、石組みの色が見えるくらいだ。たまに家の中だったり、店先の様子だったりがわかる。月明かりはぼんやりと建物の輪郭をあらわにしている。そこに壁があるのも屋根があるのもわかる。だが、暗いヴェールが街全体を覆ってしまっていた。こう見れば、王都の繁栄もどこかへ隠れてしまったようだ。
「もうすぐ着きます」
ウテが言った。アルゲは何も返さずに窓を見続けている。窓面にウテの横顔が反射した。二人とも別々の窓の向こうを見ていた。
馬車は宮殿に入らずに街の一角で止まった。小さな屋敷の前だった。
「ここは?」
「ある貴族の屋敷です。それが誰かはあなたがもし調べればすぐにわかることでしょう。しかし、今はそれはどうでもよいことです――さあ、早く!」
ウテはアルゲを急かした。ウテは玄関を開けると、アルゲの背を押し、半ば押し込めるように中へ入れてから、外の様子を見ながら玄関扉を閉めた。
玄関ホールには誰も迎えに来ていない。
「こちらです」
ウテの案内で、一階を進む。すぐに一つの部屋の前で止まった。ウテが部屋をノックする。
「蒐集官殿をお連れしました」
「入って」
男の声が中から聞こえる。
ウテが扉を開けて、アルゲが中へ入る。ウテは部屋に入らずにその扉を閉めた。
アルゲは王配、リリイ・フォン・ジークフリートと二人っきりになった。丸い幼い顔、柔軟な表情、王配に違いなかった。しかし表情とは裏腹に、この招待にはいやらしい思惑があるはずだ、とアルゲはずっと思っている。
「よくきてくれたね、うれしいよ」
リリイはにこりと笑う。口角が上がり、頬が丸くなるから、目元に少し皺ができた。その様子はとても穏やかな人の表情に見える。
「アルゲンティア・フォン・ダレナーハイド、陛下の思し召しにより参上いたしました」
「さあ、こちらへ」
立ち上がりアルゲに寄っていたリリイは、部屋の窓際のソファをアルゲに示した。
部屋は普通の大きさで、応接間のようだった。部屋の一方の壁際にデスクと椅子、両の壁際に書棚が設えられている。もう一方の壁際にテーブルとソファがあって、そこの壁に大きな窓があった。
リリイがまず座ったから、アルゲはその正面に座った。リリイは柔らかそうな表情を崩さぬまま、アルゲを見つめた。
アルゲは緊張している。リリイに聞いた。
「今日はどういったご用件ですか?」
「今日は……お前と話したかっただけだよ」
「わたしなんかと……どうしてでしょう?」
「その身の光栄とは、思わないか?」
リリイはテーブルの上に用意されていた杯にワインを入れる。二つ入れて、一つをアルゲの方へ寄せた。
アルゲはその酒を怖くて飲めなかった。リリイもまた飲まない。アルゲはその杯を見ながら、リリイに言った。
「もちろん、陛下からお呼びいただけたのは大変な光栄です。しかし、その理由がわたしには見当もつかないのです」
「それは先ほど話したろ? ただ、お前と話したいんだ」
リリイは親し気な声で言った。リリイはアルゲの顔をじっと見ながらささやく。
「初めて見たときから……美しいと思っていた。その鼻、その口……お前の身体の全ては繊細に見える……雪で、軽い美しい雪で作られた細工物のようだ……」
アルゲはそんなことを言われたものだからぞっとしてしまった。もしかして、この男はアルゲを篭絡しようとしているのだろうか。
「ありがとうございます」
「……まだ、うれしくないか?」
リリイはアルゲの隣へ移動した。アルゲは驚いた。そして嫌な気持ちでいっぱいになった。今すぐここから出たくて仕方ない。このことは予想できていた。しかし、いくらかある予想の中で最悪のものだった。
「この身体に触れれば……おまえは崩れてしまうかな?」
「実際、わたしの身体は雪で出来てはいませんわ」
「そう! そうか!」
にたり、とリリイは笑った。その笑みはいつものものと変わらないはずなのに、なぜか以上に気味悪く感じられた。もはや柔軟な雰囲気はなく、もっとどろりとした嫌なものを纏った表情だと思う。
「お前、初めてみたときから気にかけていたよ」
「そんな……わたしはただの田舎娘です」
「お前はどうして……全部を持っているんだい?」
言いながら、リリイはアルゲにもたれようとした。アルゲは彼の小さい体を両手で抑えながら小さな抵抗をする。
「わたしは何も持っていませんよ。本当に、わたしは無力な小娘です……」
「嘘をつけ」
リリイは幼い声で、拗ねるように言う。アルゲに抱き着いて、頬をアルゲの胴体に寄せかけた。
「おたわむれを!」
「いいではないか……このにおいをかがせておくれ」
アルゲはついリリイを突き飛ばした。リリイは小さな悲鳴を上げたが、すぐに相好を崩した。下品に、卑しく笑っている。
「ああ……おれの女神……」
「これがご用件ですか? わたしは、帰ります!」
アルゲの心臓は高鳴っている。アルゲはソファから立ち上がって、よろめきながら扉の方へ歩み寄った。
アルゲが背後を確認すると、リリイは杯を仰いでいた。
「今度、北へ旅立つんだって?」
アルゲは扉近くの壁に両手をついていた。
「え?」
「あれはお前を殺そうとしているよ」
アルゲはぞっとした。あれ、とは王のことのはずだ。それでも聞いた。アルゲははだけたドレスを肩まで引き上げる
「誰の話を、しているの!」
「わかりきったこと。おれの妻だ」
「わたしを殺そうと――?」
リリイは小さな体でソファを這って、肘あてに上体を乗せた。アルゲをうっとりと眺める。
「そうだよ……。ああ、だからお前はずっと気をつけておかないといけないよ……おれはお前が死ぬのをみたくないよ……ああ、お前、きれいだよ……今まで、どんな大芸術家もお前のような彫像を作ることはかなわなかった……」
「どうして、王がわたしを殺すの?」
アルゲは叫んだ。背を壁につける。怯えを感じながら、リリイを見ている。
リリイは幼い顔で、くすくすと笑う。
「――その怯えた顔をもっと見たいんだ。なんて、お前は上品な娘なんだ……その胸元の艶やかさ、しなやかな脚! もっと、こっちへ来ておくれ」
「うるさい!」
アルゲは扉をあけ放った。ウテが外で、壁にもたれていた。
「あ」とウテが言うのを、アルゲは無視して玄関に向けて走る。
後ろからウテが走ってきた。
「お送りしますよ!」
「うるさい!」
アルゲは泣いていた。扉の取っ手を両手でつかんだ時、心臓の高鳴りは頂点に達していた。ウテの走る音が聞こえてくる。すぐにこの扉を開けなければならない。――扉は開いた。
馬車の近くには御者が佇んでいたが、アルゲはそれを無視して門へ走る。鉄門扉の鉄の条を手でしっかりとつかんで、門を引き下げる。息があれる。それでも背後を見やってから、門に開いたわずかな隙間から外へ走り抜けた。




