8話 記憶をたどって
「それで、綾乃さん、聞いてる?」
え、と綾乃は顔を上げる。クラスメイトがこちらを見ていた。
クラスメイトは綾乃の態度にあからさまなため息を吐く。
「綾乃さん、寝てたの?」
「あ、いや……そういうわけじゃないよ」
言って、綾乃は視線を伏せて机を見る。クラスメイトはその様子を馬鹿にして、他の席の女子のグループに視線をやった。そこから、くすくすと笑い声が漏れる。
「だからさあ、綾乃さんっていっつも昼休みに何してんの? って聞いたんだよ。なんでいっつもお昼休みにトイレに居て、出てこないの?」
彼女は大きな声で言った。先ほどの別の席に集まっているグループから、くすりくすりとこれ見よがしな笑いが聞こえてきた。
「……」
「お腹が弱いの?」
にやにやしながら、髪を複雑に結った彼女はこちらを見下してくる。他に友人や用事があってクラスの半分が出てしまうと、教室の中はお決まりのグループしかいなくなる。綾乃はそれが居心地わるくて仕方がない。それに、そこにいれば彼女たちの嘲笑の対象にされて遊ばれるのは明白だった。綾乃はそれが固定化され、自分は何をしてもいい人間なんだと彼女たちに思われるのが嫌だった。だって――。
「あなたまさかお昼ごはんもトイレで食べてたりしないでしょうね」
教室の何人かが爆笑した。
「違うよ……まさか」
別のクラスメイトが叫んだ。
「そうだよ! 綾乃さんはちゃんと、教室の端っこでひとりでしっかり食べてるよ! トイレに行くのはいつもそのあとだもんね!」
また何人かが爆笑した。目の前に立つ彼女は、今は声の方を向きながら、涙の粒を目に浮かべながら笑っている。
その時教室の扉が開いた。メガネをかけた、陰気そうな少女が顔を俯かせながら自分の席へ向かう。
綾乃を見下していたクラスメイトが彼女に向って叫ぶ。
「ねえ、林さん!」
彼女はこちらを見た。綾乃の前にそのクラスメイトがいるのを見て、怖がって動けなくなってしまった。教室の真ん中でポツンと立っている。彼女の周りにはいくつかのグループがあるが、みんなが彼女を馬鹿にしようと彼女のことを見ている。綾乃には次の展開がわかる。きっと彼女が何かを言う。それは臆病で、卑屈で、声が小さくて何を言っているのかわからないはずだ。
「……あの——―」
林が口を開いた瞬間、そのクラスメイトは耳に手を当て、大きな声で叫んだ。
「え?」
「……」
林はそれだけで恐怖を感じてしまって、ぷるぷると太った手を揺らしている。綾乃はみんなに合わせて笑みを浮かべていた。それでも本心は何も面白いと思っていない。そう思うことで、この場の雰囲気に加わることを正当化している。
「早く座りなよ、授業、始まっちゃうよ?」
言いながら、彼女は林の机の上に座っている。それは綾乃の席の隣だった。
林は俯きながらこちらへ来た。
「授業始まるんだけど? 頼んでくれない?」
彼女は腕を組みながら、林に言った。
「えと」
「え?」
彼女は林が何かをぼそりと言おうとするたびに大声で一喝する。そのたびに林は身を縮めた。
「わたしに、ここをどいてくださいって頼んでよ」
「……どいてください」
クラスメイトはにやにやしながら、綾乃を見た。
「綾乃さんも、こんな人と隣だったら嫌でしょう? どうして隣同士の席なんだろうね」
「ははは」と、綾乃は歯を見せる。
「綾乃さん、林さんにどっかいってって、頼んでみなよ」
綾乃は彼女に返事ができなかった。林を見ると、すでに泣きそうな顔になっていた
その時、一限目の始まりを告げるチャイムが鳴った。みんなが急いで席に戻ると、先ほどのクラスメイトがこちらへ向けてプリントを掲げていた。
あれは、と綾乃は思う。たしか次の授業の宿題の紙だ。
「えっ、えっ」
林は慌てている。昨日あのクラスメイトが先生から言われて、みんなにプリントを配っていた。林だけのけ者にされたのだ。数学の教師は筋肉質な男の教師で、怖い感じがある。そのくせクラスの雰囲気に乗っかってくる人間で、林に異常に厳しい。
林の席に、くしゃくしゃに丸められた白紙の宿題の紙が投げつけられた。
「綾乃さん」
林は慌てて、綾乃に懇願する表情をする。綾乃のプリントを今から見せてくれ、と頼まれている。教室中のみんなが綾乃を見ていた。みんな、綾乃に期待した目を向けている。綾乃はそっぽを向いた。林の顔は見れなかった。
数学の授業の初めに宿題の回収があった。後ろから前にプリントが回されていく。右列、林の席の一番後ろのクラスメイトが彼女の前に来た時、彼女は俯いて苦しそうな顔で首を振っていた。
「せんせー! 林さん、宿題やってません」
クラスメイトがことさら大きな声で言った。プリントの回収が終わった後、先生は林をじっと見つめてから、言った。
「お前、どういうつもりやねん」
教師は屈強な身なりの男だった。眉をしかめて、林をにらみつけている。もともと気の弱い彼女は、もう萎縮して弁明どころではなかった。
ああ、どうかそれ以上はやめてあげて――。自分は彼女に何もしなかったのにそう思った。
「林!」
ほとんど怒声に近い声で教師が怒る。林はびくりと身体を大きく縦に震わせた。
隣に座っている綾乃もいたたまれなくなった。
「……わた――」
「え?」
教師が問う。林の小さな声量が、教師をさらにいらだたせている。
くすくす、と教室中で笑い声が怒った。綾乃は小さく汗をかきながら、俯いている。横目で隣の林を見る。心のどこかで、ああ私でなくてよかった、とは思わなかったろうか……。
林がこのような扱いを受けるようになったのは一か月以上前からだ。特段クラスメイトたちと仲良くない綾乃は、林がこうなった理由を知らない。ただ気が付けば、彼女がいいように扱われる雰囲気がクラス中にできていた。それを知ってからは、綾乃はその空気に乗った。もし、反発して彼女を助けたとしても、自分が林と同じ扱いに落ちるだけだと、わかっていたからだ。
(でも、わたしはそんなにひどいことは……していない)
別に彼女にチョークを投げたこともない。彼女が座る椅子を、わざとらしく後ろから蹴ったこともない。別に、脅すようなことを言ったこともない。……彼女が可哀そうで、いたたまれないと思うのは自分の良心だ。この心の痛みがある限り、自分は他の人たちと違う……。
アルゲは目を覚ました。どっと汗が身体中で垂れる。胸が苦しい。部屋には窓がないから外の時間を知れない。部屋は真っ暗闇だった。
アルゲは部屋の外に出た。廊下は暗く、人の影がない。廊下の窓から、外が薄闇の中にあると知る。だとしたら今は夜明け前のどこかの時間だろう。アルゲは部屋を見た。なぜだかベッドには戻りたくなかった。部屋が暗いからなのもあるだろう。部屋中の蝋燭をつけてもよかったが、なぜだか気分ではなかった。アルゲは手に動かされるように、たった一つ燭台に蝋燭を立ててそれを燃やす。
アルゲはそれを片手に屋敷を徘徊しようとした。
玄関のロビーまで行って止まる。まっすぐ行けば使用人の部屋だ。ウーレイとティコが寝ているだろう。
アルゲは上を振り仰ぐ。上階へ。曲がり階段を上がって二階へ行く。階段の板はきいきいと音がした。昼間は全くそんな音は気にならないのに、今は不思議とうるさい。その音を気にかけながら二階へ着くと、左右を見る。青白い廊下、月明かりがそこを照らしているが、廊下の奥は真っ暗闇だ。
アルゲは裸足だった。自分の足が古い絨毯を一歩一歩踏みしめる。古い絨毯の毛は逆立っていて、足裏に痛かった。適当な小さい客室を覗くと、そのまま中へ滑り込んだ。エンドテーブルに燭台を置くと、ベッドで仰向けになった。
アルゲは大きなため息を吐く。なんだか無性に胸が痛くて、掻きむしりたくて仕方がない。アルゲは自分の白い肌に赤い筋をいくつもつけたけれど、触りたいのは皮膚ではなかった。もっと、奥の奥。そこは爪先では触れられないとわかっているのに、触れようとする努力を止められない。
その時、ドアがノックされた。アルゲは心の底から驚いて、上体をベッドから弾かせるように起き上がる。
アルゲの応答を待たずに、扉がぎいと音を立てて開いた。
「アルゲ様……」
少し開いた扉から覗き込んだのは、ウーレイだった。彼女は薄い寝巻を着ている。
「どうしてここへ?」
アルゲは声が上ずった。急なことに心臓が跳ね上がっている。
「……夜におかしな音が聞こえたので、気になってしまったんです……途中、アルゲ様だと気が付きました……でもどうして、こんなところへ?」
ウーレイは扉の向こうでこちらへ来ていいものか思案しているようだった。アルゲは汗が頬を落ちるのがわかった。目を閉じて深呼吸し、ベッドに腰かける。
「おいで」
アルゲが言うと、ウーレイは扉を閉めて音のない足音でアルゲの傍に膝を下ろした。
「かわいいやつ。お前、わたしを心配したのね?」
「はい、あなた様のことが心配でした」
言いながら、ウーレイはアルゲの胸を凝視している。
「いいわ。来なさい」
アルゲはベッドにあおむけになる。その時、彼女の手がウーレイの髪の毛をさっとひと撫でして、こちらへ来るように促した。
ウーレイは一度立ち上がってから、アルゲの傍にくっついて寝た。
「この胸の傷は何ですか? どうしてこんなところへ?」
燭台の光が、ウーレイの濃い青色の髪の毛をぼうっと照らしている。火の光が彼女の眼に輝きを与えて、彼女の背後に黒々とした影を与えた。アルゲは、壁に映った彼女の陰を覗きながら、言った。
「この傷はね、わたしがわたしの心を捕まえようとした後だよ」
ウーレイはひたとアルゲの身体にくっついて、彼女の脇腹から胸を優しく撫でつけた。
「どうして」と、ウーレイはささやいた。「心に用事があったのですか?」
「何もない。何もなかったんだわ。ただ、わたしはわたしの心に聞いてみたかったの。わたしの胸のいら立ちの全てを、わたしはこの心にぶつけてやりたかったの」
「ああ……あなた様のいら立ちを受け止めるのに都合のいいものが、ここにおりますよ」
「わたしはお前のことが大事だから、そんなことはできないよ」
「わたしはあなた様のことが大事です」
ウーレイの薄い服越しに感じる彼女の腹筋は固く引き締まっていた。
「なぜここへ?」
ウーレイはアルゲの身体に顔をひたとつけながら聞いた。
「わからない。気がつけばいた。たぶん、むしゃくしゃしていたんだと思う」
「次からはわたしの名をお呼びください。あなたが一言叫べば、わたしはすぐにでもおそばに参ります」
「そんなことをしたら、お前に悪いよ」
「まさか!」
「そのまさかだ。わたしは夜の散歩にお前を連れて行ったりできないよ。それはひどいことだ」
ウーレイは上体を起こして、アルゲに覆いかぶさるようにした。彼女の髪と、脇、その他のいろいろな部分が毛深い。彼女の眉はそのせいで色が濃い。寝巻は薄く、燭台の光がその下を見せた。
ウーレイはアルゲの胸元にキスをして、そのまま彼女を抱きしめた。
アルゲは何も考えずに、この家来の仕草を許してやる。彼女の頭をなでて強く首筋をなめた。




