3、黒玻璃温室
扉は、思ったよりもあっけなく動いた。
重く閉ざされているはずのものが、子どもの力で押せてしまう。そのことが、かえって気味が悪かった。黒玻璃の表面が、鈍い音も立てずにわずかに開く。隙間から、ぬるい空気が流れ出た。
甘い匂いが、いっそう濃くなる。
花の香りなのに、春の庭で嗅ぐものとはまるで違った。息を吸うほどに胸の内側へ貼りついて、吸い込んだはずの空気がそこに溜まってしまうような重さがある。けれど嫌悪だけでは終わらない。吐き気がするのに、もっと深く嗅いでしまいたくなる。そんな匂いだった。
リリアは扉の隙間から中を覗き込んだ。
暗い。
真っ暗ではない。けれど、どこから明るいのかわからない薄い光が、温室の内側をぼんやりと濡らしていた。壁も天井も黒いガラスで囲われているせいか、灯りがまっすぐ届かない。輪郭が曖昧になって、水の底を見ているみたいだった。
怖い。
それなのに、足が後ろへ下がらない。
「おいで」
やさしい声が、すぐ向こうから呼んだ。
リリアは喉を鳴らした。扉の縁に手をかけたまま、ほんの少しだけ力をこめる。開いた隙間は人ひとりが通れるほどに広がり、その奥からぬめるような湿気が頬を撫でた。
一歩、足を踏み入れる。
石の床はひやりとしているのに、空気だけが妙にあたたかかった。夜の冷たさとは別の、何かが息をひそめて熱を持っているようなぬくもりだ。肌が粟立つ。上着の襟元を押さえても、ぞわりとした気配は消えなかった。
扉が背後で細く軋む。
振り返ったわけではないのに、出口が遠くなった気がした。
温室の中は、静かだった。
暖炉の爆ぜる音もない。人の話し声もない。外で降っているはずの雪の気配すら、ここまでは届いていなかった。耳に入るのは、自分の浅い呼吸だけだ。そのはずなのに、完全な静けさには思えない。見えない場所で何かがゆっくり擦れ合い、身じろぎしているような、そんな気配がある。
視線を巡らせる。
黒いガラスに囲まれた内側には、背の低い植え込みがいくつも並んでいた。けれど庭園の花壇のような整い方ではない。濃い緑とも黒ともつかない葉が、行儀よく植えられているというより、這いまわりながら群れているように見えた。葉の縁はぬれたように光り、ところどころに、夜の闇を切り取ったような花が咲いている。
黒い花だった。
花弁は薄く、やわらかそうなのに、光の当たり方で刃物めいて見える。重なり合うたびに艶が変わり、深いところでは紫が混じり、縁にはわずかな青まで潜んでいた。美しいと思った。思ったことに、すぐぞっとする。
こんな花を、リリアは見たことがない。
なのに、知っている気がした。
いつからだろう。夜の底でふと目を覚ました時、目を閉じても残る黒い影を、何度か花に似ていると思ったことがある。夢の中で、咲いていたような気もする。匂いも、たぶん前から知っていた。ずっと遠くで嗅いでいたものが、今は目の前まで来ているだけだ。
「きれいでしょう」
声は、あくまでやさしい。
褒めてほしいものを見せるような調子だった。
リリアは答えなかった。きれいだと思ってしまったことを、そのまま口にしたくなかったからだ。そんなことを言えば、もう戻れなくなる気がした。
足元で、何かがわずかに動いた。
はっとして下を見る。
石の継ぎ目に沿って、細い根が這っていた。草の根のようでも、蔓のようでもある。けれど土からのびたものというより、床そのものが黒く筋を引きながら生き始めたみたいだった。一本見つけると、その先にまた一本、さらにその先にもと、いくつも絡み合っているのが見えてくる。
根は、温室の奥へ向かっていた。
リリアは知らず知らず、その先を追う。
中央に、少しひらけた場所があった。黒玻璃の天井が高く抜けていて、そこだけ湿り気のある薄明かりが溜まっている。まるで月明かりのようなのに、月は見えない。その真ん中に、背の高い一本が立っていた。
花ではない、と最初は思った。
木にも見えない。茨の束にも、黒い枝にも見える。けれど近づくほど、それが花なのだとわかる。人の背丈ほどもある茎から、重たげな黒い花弁がいくつも垂れている。咲いているというより、ゆっくりと開き続けている途中のようだった。花弁の隙間では、何かが濡れたように艶めいている。
甘い匂いは、そこから来ていた。
胸が苦しくなる。
一歩進むたびに、頭の中の輪郭が少しずつぼやけていく。考えごとが遠くなる。その代わりに、胸の奥へ沈んでいたものだけが浮かび上がってくる。眠れない夜の心細さ。西棟の長い廊下。誰も来ない扉。窓の向こうを通り過ぎていく黒い背中。
やめて、と言いたいのに、声が出ない。
「知りたかったのでしょう」
囁きが耳に落ちる。
「どうして自分だけ、こんなに寒いのか」
リリアは唇をきつく噛んだ。
寒いのではない。いまはむしろ熱いくらいだ。頬も耳もじんとする。なのに、胸の中だけは冬のままだった。誰にも触れられず、灯りも届かない場所が、そこにずっと残っている。
「どうして、あの人は見てくれないのか」
今度こそ、足が止まった。
あの人。
そう呼ばれてすぐ、誰のことかわかってしまう自分が嫌だった。否定する間もないほど、身体の奥が先に反応している。喉のあたりが痛くなる。
「ちがう」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
ちがうわけがない。ほんとうは知っている。夜になるたび思い出すのは、母の顔より先に父のことだ。怒っている顔も知らない。笑うところもほとんど見たことがない。それでも、見てほしかった。たった一度でいいから、自分を見て、自分に言葉をくれるところを。
「かわいそうに」
甘い声が、慰めるように揺れる。
「なら、教えてあげる」
その瞬間、中央の大きな花がわずかに動いた。
花弁が開く。
ほんのわずかなはずなのに、温室の空気が変わった。匂いが一気に濃くなり、息をするたび胸の内側へ黒いものが入り込んでくるような感覚がある。リリアは思わず片手で口元を押さえた。
頭がくらりとする。
足元の根が、いつの間にか近くまで来ていた。靴の先に細く触れ、逃がさないようにまとわりついてくる。強く締めつけるわけではない。そのやわらかさが余計に気味が悪かった。歓迎されているみたいだった。
リリアは後ずさろうとした。けれど、うまくいかない。床が遠い。手も足も自分のものではないみたいに重い。
視界の端で、黒い花弁がふるえた。
温室のあちこちで、同じように花が開いている。
さっきまで閉じていたものが、ひとつ、またひとつと静かに咲いていく。黒い色ばかりなのに、闇が増えていくのではない。むしろそこだけ色が濃くなりすぎて、周囲の景色が削られていくようだった。壁も床も遠のき、花だけが近づいてくる。
「いや……」
声はほとんど息に溶けた。
帰らなければ。
そう思うのに、身体が前へ引かれる。中央の花から目を逸らせない。あそこに何かがある。知ってはいけないもの。けれど、自分の一部みたいに懐かしいもの。
花弁のあいだから、白いものが見えた気がした。
人の指先に見えたのかもしれない。布の端だったのかもしれない。あるいは、ただの光のいたずらだったのかもしれない。それでもリリアは、そこに母の気配を感じてしまった。
知らないはずなのに。
「おかあさま……?」
呼んだのは自分でも意外だった。声に出した瞬間、胸の奥に隠していたものがいくつも崩れ落ちる。母に会いたかったのだと、そこで初めて認めてしまった気がした。
返事の代わりに、花がもう一段深く開く。
内側は黒ではなかった。もっと濃い夜の色だ。底なしの水面みたいに揺れて、見ているだけで足元がなくなる。
リリアの呼吸が乱れた。
温室の外で、何かが鳴った。
金属がぶつかるような硬い音だった。遠くない。地下へ続く通路の方だ。続けて、人の足音が重なる。ひとつではない。複数だ。階段を駆け下りる音が、石の中で低く反響する。
はっとして顔を上げる。
温室の空気がわずかにざわめいた。花弁がふるえ、足元の根がびくりと身をよじる。さっきまでやわらかくまとわりついていたものが、急に落ち着きを失ったようだった。
外から、短い声が飛ぶ。
誰かの命令だった。低く、無駄がない。言葉までは聞き取れないのに、それだけで温室の奥まで緊張が走る。
リリアはその声を知っていた。
聞き間違えるはずがない。何度も遠くから聞いた。廊下の向こう、中庭の先、重い扉の前。自分には関係のない場所で、人を動かす声。
胸がどくんと跳ねる。
次の瞬間、黒玻璃の扉が大きく開いた。
冷えた空気が流れ込み、甘い匂いを一瞬だけ押し返す。燭台の灯りよりも鋭い気配が差し込んで、温室の影が切り裂かれた。先に入ってきた騎士たちが周囲へ散る。その背後に、黒い影が立っている。
黒い外套。軍装。灰銀の瞳。
レオンハルトだった。
父だ、と認識した途端、リリアの喉が熱くなる。
来てくれた。
その思いが、何より先に胸を貫いた。
怖いとか、叱られるとか、そういうものはその次だった。温室の空気がどれだけ異様でも、足元に何が絡んでいても、あの人がここにいるなら終わるのかもしれない。助けてもらえるのかもしれない。
そんなこと、思うべきではないのに。
思ってしまった。
父が一歩、温室の内へ踏み込む。
それだけで、花々が息を止めたみたいに静まった。甘ったるい匂いの底へ、冷たい鉄の気配が落ちる。足元の根がさっと退きかけ、またためらうように震える。灰銀の視線はまっすぐ前を向き、迷いなく温室の中央へ注がれていた。
リリアは唇を開いた。
声を出さなければ、と思う。
おとうさま、と呼べばいい。ここにいると伝えればいい。怖いと、助けてと、一言でも言えれば。
けれど喉はこわばって、最初の息しか出てこなかった。
それでも父は確かにそこにいる。
遠い回廊の向こうではなく、窓の下でもなく、いまこの温室の中に。
リリアは震える指先を握りしめた。足元の根がまだ絡んでいるのも忘れて、ただ父の姿だけを見つめる。
来てくれた、と、もう一度思った。




