2、甘い声の行く先
廊下へ出た途端、城の静けさが肌に触れた。
昼の西棟は、もう少しだけやわらかい。侍女の足音があり、扉の開閉があり、遠くで誰かの話す声もする。けれど夜は違う。石の壁も床も、長い回廊も、息をひそめてこちらを見ているようだった。
リリアは足を止めずに歩いた。
夜着の裾が、足首にかすかに触れる。羽織った上着だけでは心もとない。けれど寒いのかどうか、自分でもよくわからなかった。背筋には冷たいものが走っているのに、頬だけが熱い。胸の奥で、心臓が小さく速く打っている。
「こっちよ」
声は急かさなかった。
ただ先に立って、待っているようだった。
廊下の角を曲がる。燭台の火がひとつ、細く揺れている。その下を通ると、自分の影が壁に長く伸びた。子どもの影は薄くて頼りない。少し足を止めれば、すぐに闇へ溶けてしまいそうだった。
遠くでは、まだ冬至祭の気配がしている。
誰かが杯を置いた音。笑い声。扉の向こうで交わされる低い会話。西棟まで届く頃には、どれも形をなくして、ただあたたかなざわめきだけになる。
それは、いつものことだった。
同じ城の中にいるのに、そこへ入っていくことはない。呼ばれることもない。困らせずに過ごしていれば、それでいい。
リリアはそう思ってきたし、そう思う方が楽だった。
それなのに今夜は、その遠い音がいつもより耳に触る。自分が置いていかれていることを、壁の向こうから何度も教えられているみたいで、胸の奥がひりついた。
「ひとりで歩けるのね」
やわらかな声が、また耳元へ落ちる。
褒められたような気がして、リリアは少しだけ唇を引き結んだ。
そんなこと、褒められるほどのことではない。西棟の中なら、一人で歩くしかないのだから。
けれど、その言葉は不思議と胸に残った。転ばないように、迷惑をかけないように、静かに歩くことばかり覚えてきた。そのことを、誰かに見つけてもらった気がした。
歩きながら、ふと視線を上げる。
長い回廊の先に、外へ面した窓があった。夜の庭は白く沈み、雪をかぶった木々が黒い影を落としている。昼間なら見慣れた景色なのに、今は別の場所みたいだった。
その窓辺に立ったことがある。
たしか、去年の冬だった。
雪が降った日の夕方で、庭に面した中庭を、父が騎士たちと横切っていくのが見えた。黒い外套の裾が雪の上で重く揺れて、周りの誰よりも目についた。話しながら歩いていたわけではない。騎士や副官が言葉を交わしていても、父だけはほとんど口を開かなかった。それでも、あの人がいれば、その場の空気はきちんと父の方を向く。
リリアは窓の陰から、ずっとそれを見ていた。
あの時、ほんの少しだけ思ったのだ。もし今ここで窓を叩いたら、気づいてもらえるだろうか、と。
もちろん叩かなかった。
子どもじみているし、みっともない。そう思ったからではない。叩いても、見上げてもらえない方がこわかった。
結局、父は一度も上を見ずに行ってしまった。
その背を見送った時の、胸の奥がすうっと冷える感じを、リリアはまだ覚えている。
「会いたかったのね」
声が言った。
リリアは思わず立ち止まった。
「ちがう」
小さく返す。誰に聞かれたわけでもないのに、言い訳みたいな声になった。
会いたい、と思ったことがないわけではない。けれどそんなこと、自分で認めてしまうのは苦しかった。会いたがって、それで何も起きなかった夜を、いくつも知っているからだ。
また歩き出す。
回廊の先は、だんだん人気のない場所へ繋がっていく。西棟を離れ、主塔へ近づくあたりで、壁に掛けられた織物も古いものに変わった。狼の紋が織り込まれた濃い色の布。昼に見れば立派だと思うのに、夜の下では影ばかりが深く見える。
そこを通るたび、背筋が伸びる。
主塔には父がいる。
そう思うだけで、子どもの足でも自然に音を潜めてしまう。会いに行くことなどないのに、近づくだけで息苦しくなる。
熱を出した夜も、そうだった。
胸の内に落ちてきた記憶に、リリアの足が一瞬鈍る。
あれは冬の終わりだった。喉が焼けるように痛くて、頭が重くて、夜なのか朝なのかもわからなくなっていた。侍女は何度も額の布を替えてくれたし、医師も来た。苦い薬も飲まされた。だから、放っておかれたわけではない。
それでも、熱に浮かされながら何度か扉の方を見たことだけは覚えている。
ふとした拍子に、あの人が入ってくるかもしれないと思った。何も言わなくても、寝台のそばへ来てくれるかもしれないと。
結局、朝まで扉は開かなかった。
熱が下がったあと、それを残念だと思った自分が、いちばんみじめだった。
「来てほしかったのに」
甘い声は、責めるでもなく、笑うでもなく、ただ知っているように言う。
リリアは首を振った。けれどその動きは弱かった。
否定しても、胸の奥では別のものがうずく。どうしてそんなことまで知っているのだろう。この声は。どうして、見られたくないところばかり、やさしく触ってくるのだろう。
廊下を曲がるたび、甘い匂いが濃くなっていく。
花の香りなのに、庭や温室の花とは違う。もっと深くて、やわらかくて、逃げ場がない。胸いっぱいに吸い込むと、ふっと足元が軽くなるような、逆に沈むような、変な感じがした。
どこへ向かっているのか、もうリリアにもわかっていた。
地下へ降りる階段の前に立った時、その予感は形になる。
そこは昼でも人の少ない場所だった。使用人が通るような明るい階段ではない。石の壁に挟まれた細い下りで、燭台の火も半分ほど落とされている。下からは冷たい風が上がってくるはずなのに、今夜は湿ったぬくもりが混じっていた。
思わず足が止まる。
ここから先は、よくない。
理屈で知っているわけではない。ただ、子どもでもわかる種類の気配があった。近づいてはいけない部屋。開けてはいけない扉。触れれば叱られるより先に、もっと別のものが起こりそうな場所。
リリアは階段の一段目を見下ろした。
「帰りたい?」
囁きは、変わらずやさしい。
帰りたい。
そう思えばいい。そう答えればいい。
なのに、喉の奥は何も言えなかった。
帰ったところで、眠れない。寝台に戻って毛布をかぶっても、この匂いはたぶん消えない。この声も。胸の中に残ったざらつきも。
それに、ここまで来てしまった。
今さら戻って、明日の朝を迎えて、それで何が変わるのだろう。西棟の窓の下を父が通っても、きっと同じように見送るだけだ。熱を出しても、扉を見てしまうだけだ。何も起きないまま、長い夜が重なっていく。
「知りたいのでしょう」
その一言に、リリアの睫毛が震えた。
何を、と問う前に、胸の奥が先に答えていた。
どうして自分だけがこんなふうなのか。
どうして夜になると、誰もいないはずの場所がこんなに苦しいのか。
どうして父は、同じ城にいるのに遠いのか。
どうして母のことを思い出そうとすると、きれいな肖像画より先に、言いようのないさみしさばかりが浮かぶのか。
知りたい。
それはたしかに、ずっと胸の底に沈んでいた。
リリアはゆっくりと階段へ足をかけた。
石の段は冷たく、少しだけ湿っていた。降りるたび、灯りが遠ざかる。上の方で聞こえていた祝祭の音も、もうほとんど届かない。代わりに、自分の呼吸と足音がよく聞こえる。こつ、こつ、と乾いた音が階段の内側で小さく跳ね返った。
降りるほど、空気が変わっていく。
冷たいはずなのに甘い。甘いのに、喉が閉まる。深く息を吸うと、胸がどこか痺れるようだった。
階段の途中で、もう一度だけ、父のことを思い出した。
幼い頃、一度だけ、ほんとうに近くまで行ったことがある。
たぶん五つか六つの時だ。西棟から主塔へ用事のある侍女について行き、廊下の曲がり角で偶然、父と鉢合わせた。向こうから来る足音が先に聞こえ、侍女が慌てて脇へ寄って礼を取った。リリアも見よう見まねで頭を下げたけれど、どうしても気になって、少しだけ顔を上げた。
黒い軍装の裾。革手袋。高い位置にある灰銀の目。
父はたしかに、リリアを見た。
見下ろした、という方が近い。驚きも怒りもない、ただ静かな目だった。けれど次の瞬間には、その視線はもう過ぎていた。何も言わず、足も止めず、そのまま通り過ぎていった。
あの時のことを、リリアはずっと不思議に思っている。
叱られたなら、まだよかった。そこにいたと認められた気がしただろうから。
何も言われなかった。
何もないみたいに、通り過ぎられた。
その静けさだけが、今でも胸の中に薄く残っている。
「かわいそうに」
階段の下から声がする。
「だから、見つけてあげる」
見つける。
その言葉に、なぜか足先が勝手に急いだ。
階段を下りきると、そこは石造りの短い通路になっていた。左右の壁は黒っぽく光り、まるで濡れているように見える。触れたら冷たそうなのに、近づくとわずかにぬくもりがある気がした。
通路の奥に、扉がある。
大きな扉ではない。人一人がようやく通れるほどの、重たそうな扉だった。けれど周囲の壁と違って、その表面だけがどこか異様だった。黒く、鈍く、ガラスのように灯りを返している。
黒玻璃だ、とリリアは思った。
誰かがそう呼んでいるのを聞いたことがある。地下にある、封じのための温室。子どもは近づいてはいけない場所。花ではなく、もっと別のものが育つ場所。
扉の向こうから、甘い匂いが溢れていた。
それはもう糸のような細さではない。目に見えない波のように、そこから絶えず流れ出している。吸い込んだだけで足元がふらつきそうになるほど濃く、それなのに、もっと近くで嗅いでみたいと思わせる種類の香りだった。
リリアは扉の前で立ち尽くした。
ここだ。
ここまで来てしまった。
引き返すなら今しかない。
頭の中で何度もそう繰り返す。けれど手足は、もう違うものに引かれているみたいだった。扉の向こうに、何かがある。知ってはいけない何か。けれど、自分にはそれを見る資格があるような気もする。ずっと前から呼ばれていたのだと、そんなふうに思えてしまう。
「こわい?」
声は、すぐそばで囁いた。
リリアは小さく頷いた。声には出せない。
こわい。こわいに決まっている。
それなのに、逃げたくない。
逃げたら、またいつもの夜へ戻るだけだ。眠れずに天井を見上げて、誰も来ない扉を気にして、朝になれば何事もなかった顔をする。そんな夜が、また続くだけだ。
「だいじょうぶ」
やさしい声が言う。
「ここには、あなたの知りたいものがあるわ」
リリアは扉を見つめた。
黒い表面に、燭台の火がゆらゆら映っている。そこへ近づくと、自分の顔もぼんやり映った。淡い髪。白い頬。夜のせいか、瞳の色まで少し薄く見える。知らない子みたいだった。
扉の前まで来ると、足元の石がほんの少し湿っているのに気づく。水ではない。露のような、冷たい膜。けれど上気した空気がまとわりついて、肌の感覚はちぐはぐだった。
リリアはゆっくりと手を上げた。
触れてはいけない。
その思いと、触れたいという思いが、指先の中でせめぎ合う。
父の顔が一瞬だけ脳裏をよぎった。灰銀の目。何も言わず通り過ぎていく背中。あの人がこの場所を知っているなら、きっと自分を叱るだろう。そう考えたはずなのに、不思議と手は止まらなかった。
叱られることより、知らないままでいることの方が、今は怖かった。
指先が扉に触れる。
冷たい、と思ったのは最初だけだった。次の瞬間には、じんわりとしたぬくもりが掌へ返ってきた。生きものの皮膚にでも触れたような、気味の悪いやわらかさだった。
リリアは息を詰めた。
扉の向こうで、何かが待っている。
そう思った途端、胸の奥で何かがかすかに鳴った。
声が、嬉しそうに笑う。
「いい子」
その一言に背を押されるように、リリアはもう片方の手も扉へ添えた。重いはずのそれは、思ったよりも静かだった。押せば、開いてしまいそうなほどに。
リリアはごく小さく息を飲み込み、黒玻璃の扉に手をかけた。




