2、傷の形
父を前より少し避けている。
そのことに、リリアは自分で気づいていた。
気づいていて、やめられない。
朝に短く言葉を返すのが遅れたことも、部屋へ入ってきた瞬間にほんの少し身体を引いてしまったことも、全部あとから思い出せる。前なら、怖いとか苦しいとか、ただその場の感覚に飲まれて終わっていた。今は、終わったあとで、自分がどうしたかを少しだけ見られる。
それが成長なのかどうかは、わからなかった。
ただ、見えてしまうぶんだけ、前より厄介だった。
午後、主塔へ続く回廊は静かだった。
雪は止んでいたが、窓の外の白さはまだ強い。石壁に反射した光が細く床へ落ちて、冷たいのに眩しい。エルナは西棟の侍女へ何かを伝えに行っていて、リリアは一人で小さな文箱を運んでいた。重いものではない。中には読みかけの絵本と、細い栞代わりの布と、昨夜から使っている薬包が一つ入っているだけだ。
本当なら侍女に任せるようなものだった。
けれど少しだけ、自分で持って行きたかった。
部屋の中にいると、伯母の言葉が近くに残りすぎる。父の足音まで、その言葉の向こう側にあるみたいに聞こえてしまう。だから今は、ただ廊下を歩くことに集中したかった。
文箱を抱えたまま角を曲がる。
その先で、黒が視界に入った。
父だった。
前触れのない近さに、リリアの足が止まる。
父も同じように足を止めた。灰銀の目がまず文箱を見て、それからリリアの顔へ移る。その視線はいつもより少し低い位置から来た。父も歩みを緩めていたのだろう。
ただ、それだけだった。
ただ、父が目の前にいて、行く先を半歩ぶん塞いだだけ。
それだけなのに、胸の奥で何かがひどく冷たくひっくり返った。
黒いガラス。
甘い匂い。
白い息。
剣の光。
視界の端で、今の回廊と違うものがきらつく。
文箱を抱える腕に力が入る。指が木の縁へ食いこむ。逃げたいのに、足が床へ縫いつけられたみたいに動かない。
父が何か言った。
最初の一言は聞き取れなかった。
もう一度、低い声が落ちる。
「それは何だ」
文箱のことを訊いているだけだ。
わかる。わかるのに、その声が今は刃の柄へ手をかける前の低さに聞こえた。
一度目の冬至祭の夜、父もこんな声だった気がする。
低く、短く、迷いがなくて。
その先にあるものを決めたあとみたいな声だった。
「おい」
呼ばれて、リリアの肩がびくりと跳ねる。
父の眉がわずかに寄る。
それを見た瞬間、喉がひゅっと狭くなる。
違う。
今の父は何も知らない。
この回廊は温室じゃない。
手にあるのは剣じゃなくて文箱だ。
頭ではそう思うのに、身体が聞かない。
父が一歩だけ近づく。
その一歩で、視界の奥にあった黒い温室が急に近くなる。
甘い匂いが濃い。
胸が苦しい。
見てもらえないまま終わる。
ああ、やっぱり。
そこまで一気に来て、リリアは反射的に後ずさった。
文箱が腕から滑る。
木の箱が石床へ落ち、乾いた音を立てて蓋が開く。絵本と薬包が散った。小さな音なのに、回廊ではやけに大きく響いた。
父の手が、落ちる文箱を取ろうとして半ばまで伸びる。
その動きが見えた瞬間、リリアの喉からかすれた息が漏れた。
「……いや」
声にならないくらい小さかった。
けれど父は止まった。
伸びかけた手が、そのまま空中で止まる。
回廊が急に静かになる。遠くで兵の足音が一度鳴り、すぐまた離れていく。それだけだ。誰もここには来ない。
父は何も言わない。
灰銀の目が、散った本や薬包ではなく、リリアの顔を見ている。
見ているのに、責める気配はない。
けれどその視線のまっすぐさが、今はかえって怖い。
リリアは自分が壁際まで下がっていることに気づいた。
背に石の冷たさがある。
文箱を落としたことも、廊下の真ん中へ中身を散らかしたことも、あとからじわじわ恥ずかしくなる。けれど、それより先に息ができなかった。
父が低く言う。
「……どうした」
その問いが、ひどく遠い。
どうしたのか。
そんなこと、自分でもわからない。
父が近づいただけだ。
何もされていない。
何も起きていない。
なのに、身体はもう知っているように怯えている。
父はその沈黙を追わなかった。
代わりに、伸ばしかけた手をゆっくり下ろす。
それから、足もとへ散った絵本を見たあと、今度は最初から見せるようにゆっくりしゃがんだ。
急に拾わない。
急に触れない。
ただ床へ膝を折り、絵本を一冊だけ手に取る。
その動きの一つ一つが不自然なほど遅い。
リリアは荒い息のまま、それを見ていた。
父は絵本の端についた埃を指で払うと、すぐには差し出さなかった。
文箱の近くへそれを置き、散った薬包も一つずつ集める。
全部拾い終えてから、ようやく立ち上がる。
「落ち着け」
短い声だった。
やさしくはない。
でも刃のようでもない。
それでも、リリアの身体はまだ言うことをきかなかった。
喉が痛い。
胸が浅く上下して、うまく深く吸えない。
父の目が、その呼吸を見たのかもしれない。
「エルナを呼べ」
後ろも見ずに、そう命じる。
どこか近くに控えていた兵が「はい」と短く返し、駆けていく気配がした。
その間も、父は無理に近づかなかった。
回廊の真ん中に立ったまま、距離を残している。
まるで自分の方からそれ以上詰めたら、何かが決定的になると知っているみたいに。
やがてエルナの足音が近づいた。
「お嬢様?」
姿を見た瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩む。
エルナは散った本も文箱も見たが、まずそれには触れなかった。
まっすぐリリアのそばへ来て、父に一度だけ目を向ける。
父は何も言わない。
ただ、視線だけで続けろと示す。
エルナが少し屈んで、リリアと目の高さを合わせる。
「大丈夫ですよ」
その一言で、やっと喉の奥のつかえが少し下がった。
リリアは何か言おうとして、結局首を振ることしかできなかった。
エルナはそれ以上問い詰めない。
背へ手を添え、無理に抱き寄せもせず、ただそこに触れる。
「少し、戻りましょうか」
うなずく代わりに、リリアは小さく息を吸った。
さっきよりはましに吸える。
エルナが床の文箱へ手を伸ばしかけたとき、父が先に言う。
「置け。後で持たせる」
エルナの手が止まる。
リリアも反射的に父を見る。
父は今度もリリアをまっすぐ見ていた。
でもその視線は、さっき温室を呼び起こした視線とは少し違っていた。
問い詰めるでもなく、見ないふりをするでもなく、ただ何かを見極めようとしている目だった。
「歩けるか」
短い問い。
リリアはすぐには答えられない。
それでも、今度は沈黙だけでは終わらなかった。
「……あるける」
小さくても、ちゃんと声になった。
父の目がほんのわずかに細くなる。
驚いたのではなく、確かめたように見えた。
エルナの手を借りて、一歩踏み出す。
膝はまだ少し震えている。
けれど歩けた。
父はその横へ来ない。
少し後ろを取るでもなく、前へ出るでもなく、回廊の中央に立ったまま、二人が動くのを見ていた。
数歩進んだところで、リリアは振り返ってしまう。
父はまだそこにいた。
床の上の文箱と絵本のそばで、動かずに。
その姿が、胸を刺すように痛かった。
怖い。
でも、さっきとは少し違う。
父が何かしたからではない。
何もしなかったことの方が、今は痛い。
触れようとして止まったこと。
追わなかったこと。
でも、どこにも行かなかったこと。
部屋へ戻る途中、エルナは何も訊かなかった。
ただ歩幅を合わせる。
その沈黙に、リリアは救われた。
けれど胸の奥では、黒い温室の匂いがまだ消えていない。
剣の光も、甘い匂いも、見てもらえなかった絶望も、全部が断片のまま残っている。
あれはただ父が近づいただけではなかった。
父が近づいたことで、一度目が形を持ちかけたのだ。
部屋へ戻ると、エルナが白湯を持たせてくれる。
両手で包むと、少しだけ震えが止まる。
「少し休みましょう」
やさしい声だった。
リリアは頷いた。
頷きながら、自分の指を見た。
さっき回廊で、文箱を落とすほど強く握っていた手だ。
傷の形が、少しだけわかった気がした。
父が怖いのではない。
父に近づかれると、一度目の夜が身体の中で起き直す。
そのことを、まだ誰にも言えない。
でももう、ただの「夜が怖い」では済まないのだと、自分ではっきりわかってしまった。
扉の外で、重い足音が一度だけ止まる。
父かもしれないと思ったが、確かめる勇気はなかった。
それでも、その足音がすぐには去らなかったことだけは、耳がちゃんと覚えていた。




