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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第6章 またお父様に殺されたくない

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2、傷の形

父を前より少し避けている。


そのことに、リリアは自分で気づいていた。


気づいていて、やめられない。


朝に短く言葉を返すのが遅れたことも、部屋へ入ってきた瞬間にほんの少し身体を引いてしまったことも、全部あとから思い出せる。前なら、怖いとか苦しいとか、ただその場の感覚に飲まれて終わっていた。今は、終わったあとで、自分がどうしたかを少しだけ見られる。


それが成長なのかどうかは、わからなかった。


ただ、見えてしまうぶんだけ、前より厄介だった。


午後、主塔へ続く回廊は静かだった。


雪は止んでいたが、窓の外の白さはまだ強い。石壁に反射した光が細く床へ落ちて、冷たいのに眩しい。エルナは西棟の侍女へ何かを伝えに行っていて、リリアは一人で小さな文箱を運んでいた。重いものではない。中には読みかけの絵本と、細い栞代わりの布と、昨夜から使っている薬包が一つ入っているだけだ。


本当なら侍女に任せるようなものだった。


けれど少しだけ、自分で持って行きたかった。


部屋の中にいると、伯母の言葉が近くに残りすぎる。父の足音まで、その言葉の向こう側にあるみたいに聞こえてしまう。だから今は、ただ廊下を歩くことに集中したかった。


文箱を抱えたまま角を曲がる。


その先で、黒が視界に入った。


父だった。


前触れのない近さに、リリアの足が止まる。


父も同じように足を止めた。灰銀の目がまず文箱を見て、それからリリアの顔へ移る。その視線はいつもより少し低い位置から来た。父も歩みを緩めていたのだろう。


ただ、それだけだった。


ただ、父が目の前にいて、行く先を半歩ぶん塞いだだけ。


それだけなのに、胸の奥で何かがひどく冷たくひっくり返った。


黒いガラス。

甘い匂い。

白い息。

剣の光。


視界の端で、今の回廊と違うものがきらつく。


文箱を抱える腕に力が入る。指が木の縁へ食いこむ。逃げたいのに、足が床へ縫いつけられたみたいに動かない。


父が何か言った。


最初の一言は聞き取れなかった。


もう一度、低い声が落ちる。


「それは何だ」


文箱のことを訊いているだけだ。


わかる。わかるのに、その声が今は刃の柄へ手をかける前の低さに聞こえた。


一度目の冬至祭の夜、父もこんな声だった気がする。

低く、短く、迷いがなくて。

その先にあるものを決めたあとみたいな声だった。


「おい」


呼ばれて、リリアの肩がびくりと跳ねる。


父の眉がわずかに寄る。

それを見た瞬間、喉がひゅっと狭くなる。


違う。

今の父は何も知らない。

この回廊は温室じゃない。

手にあるのは剣じゃなくて文箱だ。


頭ではそう思うのに、身体が聞かない。


父が一歩だけ近づく。


その一歩で、視界の奥にあった黒い温室が急に近くなる。


甘い匂いが濃い。

胸が苦しい。

見てもらえないまま終わる。

ああ、やっぱり。


そこまで一気に来て、リリアは反射的に後ずさった。


文箱が腕から滑る。


木の箱が石床へ落ち、乾いた音を立てて蓋が開く。絵本と薬包が散った。小さな音なのに、回廊ではやけに大きく響いた。


父の手が、落ちる文箱を取ろうとして半ばまで伸びる。


その動きが見えた瞬間、リリアの喉からかすれた息が漏れた。


「……いや」


声にならないくらい小さかった。


けれど父は止まった。


伸びかけた手が、そのまま空中で止まる。


回廊が急に静かになる。遠くで兵の足音が一度鳴り、すぐまた離れていく。それだけだ。誰もここには来ない。


父は何も言わない。


灰銀の目が、散った本や薬包ではなく、リリアの顔を見ている。

見ているのに、責める気配はない。

けれどその視線のまっすぐさが、今はかえって怖い。


リリアは自分が壁際まで下がっていることに気づいた。

背に石の冷たさがある。

文箱を落としたことも、廊下の真ん中へ中身を散らかしたことも、あとからじわじわ恥ずかしくなる。けれど、それより先に息ができなかった。


父が低く言う。


「……どうした」


その問いが、ひどく遠い。


どうしたのか。

そんなこと、自分でもわからない。

父が近づいただけだ。

何もされていない。

何も起きていない。


なのに、身体はもう知っているように怯えている。


父はその沈黙を追わなかった。

代わりに、伸ばしかけた手をゆっくり下ろす。

それから、足もとへ散った絵本を見たあと、今度は最初から見せるようにゆっくりしゃがんだ。


急に拾わない。

急に触れない。


ただ床へ膝を折り、絵本を一冊だけ手に取る。

その動きの一つ一つが不自然なほど遅い。


リリアは荒い息のまま、それを見ていた。


父は絵本の端についた埃を指で払うと、すぐには差し出さなかった。

文箱の近くへそれを置き、散った薬包も一つずつ集める。

全部拾い終えてから、ようやく立ち上がる。


「落ち着け」


短い声だった。


やさしくはない。

でも刃のようでもない。


それでも、リリアの身体はまだ言うことをきかなかった。

喉が痛い。

胸が浅く上下して、うまく深く吸えない。


父の目が、その呼吸を見たのかもしれない。


「エルナを呼べ」


後ろも見ずに、そう命じる。


どこか近くに控えていた兵が「はい」と短く返し、駆けていく気配がした。


その間も、父は無理に近づかなかった。

回廊の真ん中に立ったまま、距離を残している。

まるで自分の方からそれ以上詰めたら、何かが決定的になると知っているみたいに。


やがてエルナの足音が近づいた。


「お嬢様?」


姿を見た瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩む。


エルナは散った本も文箱も見たが、まずそれには触れなかった。

まっすぐリリアのそばへ来て、父に一度だけ目を向ける。

父は何も言わない。

ただ、視線だけで続けろと示す。


エルナが少し屈んで、リリアと目の高さを合わせる。


「大丈夫ですよ」


その一言で、やっと喉の奥のつかえが少し下がった。


リリアは何か言おうとして、結局首を振ることしかできなかった。


エルナはそれ以上問い詰めない。

背へ手を添え、無理に抱き寄せもせず、ただそこに触れる。


「少し、戻りましょうか」


うなずく代わりに、リリアは小さく息を吸った。

さっきよりはましに吸える。


エルナが床の文箱へ手を伸ばしかけたとき、父が先に言う。


「置け。後で持たせる」


エルナの手が止まる。

リリアも反射的に父を見る。


父は今度もリリアをまっすぐ見ていた。

でもその視線は、さっき温室を呼び起こした視線とは少し違っていた。

問い詰めるでもなく、見ないふりをするでもなく、ただ何かを見極めようとしている目だった。


「歩けるか」


短い問い。


リリアはすぐには答えられない。

それでも、今度は沈黙だけでは終わらなかった。


「……あるける」


小さくても、ちゃんと声になった。


父の目がほんのわずかに細くなる。

驚いたのではなく、確かめたように見えた。


エルナの手を借りて、一歩踏み出す。

膝はまだ少し震えている。

けれど歩けた。


父はその横へ来ない。

少し後ろを取るでもなく、前へ出るでもなく、回廊の中央に立ったまま、二人が動くのを見ていた。


数歩進んだところで、リリアは振り返ってしまう。


父はまだそこにいた。

床の上の文箱と絵本のそばで、動かずに。


その姿が、胸を刺すように痛かった。


怖い。

でも、さっきとは少し違う。


父が何かしたからではない。

何もしなかったことの方が、今は痛い。

触れようとして止まったこと。

追わなかったこと。

でも、どこにも行かなかったこと。


部屋へ戻る途中、エルナは何も訊かなかった。

ただ歩幅を合わせる。

その沈黙に、リリアは救われた。


けれど胸の奥では、黒い温室の匂いがまだ消えていない。

剣の光も、甘い匂いも、見てもらえなかった絶望も、全部が断片のまま残っている。


あれはただ父が近づいただけではなかった。


父が近づいたことで、一度目が形を持ちかけたのだ。


部屋へ戻ると、エルナが白湯を持たせてくれる。

両手で包むと、少しだけ震えが止まる。


「少し休みましょう」


やさしい声だった。


リリアは頷いた。

頷きながら、自分の指を見た。

さっき回廊で、文箱を落とすほど強く握っていた手だ。


傷の形が、少しだけわかった気がした。


父が怖いのではない。


父に近づかれると、一度目の夜が身体の中で起き直す。


そのことを、まだ誰にも言えない。

でももう、ただの「夜が怖い」では済まないのだと、自分ではっきりわかってしまった。


扉の外で、重い足音が一度だけ止まる。


父かもしれないと思ったが、確かめる勇気はなかった。


それでも、その足音がすぐには去らなかったことだけは、耳がちゃんと覚えていた。

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