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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第6章 またお父様に殺されたくない

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1、やさしい人の言うこと

朝の白湯は、いつもより少しだけぬるかった。


熱すぎない方が飲みやすいのはわかっている。けれど今朝の温度は、喉を通るときに何も引っかからなさすぎて、かえって落ち着かなかった。


リリアは寝台の上で杯を両手に包んだまま、扉の方を見ていた。


主塔寄りの小部屋は、今日もよく整っている。暖炉の火は強すぎず、窓辺の隙間風もない。扉は細く開いていて、廊下の向こうに人の気配がある。夜のあいだも大きく乱れずに済んだ。


それなのに、朝から胸の奥がどこか噛み合っていない。


「もう少し召し上がれますか」


エルナがそう言って、薄い粥の椀を卓へ置いた。湯気が静かにのぼる。匙を入れる音も小さい。


リリアは小さく頷いたが、すぐには手を伸ばさなかった。


昨夜は眠れた。

前なら、夜が大きく乱れなければ、朝にはもう少し息がしやすくなっていた。

けれど今は、息ができないわけではないのに、どこに力を入れて、どこをほどけばいいのかが少しわからない。


オルタンシアの言葉が、まだ胸の奥に残っているからだと、うっすら思う。


怖い人のそばで安心しなければならないのはつらい。

守ってくれることと、楽でいられることは違う。


どちらも正しいように聞こえた。

正しいように聞こえたからこそ、朝になっても消えずに残っている。


扉の外で、低い足音が止まった。


それだけで肩がこわばる。


父だった。


入ってくる前からわかる足音だ。

重く、短く、迷いがない。

その音を聞いた瞬間、体はいつも通り先に強ばった。けれど、今日はその次に、一瞬だけ目をそらしてしまった。


扉が開く。


黒い軍装のまま、父が部屋へ入ってくる。

いつものように、まず部屋を見た。暖炉、窓、卓上の粥、エルナ、寝台の上のリリア。視線はそこを順に通り、最後に短くリリアへ落ちる。


「昨夜は」


問いはエルナへ向けられている。


「大きくは乱れておりません」

「そうか」


それだけだった。

父はもう一度だけリリアを見る。


「白湯は」

「もうお飲みいただいております」

「薬は後で」

「はい」


いつも通りのやり取り。

少し前までなら、その短さが逆に落ち着いた。父は変わらない。部屋の決まりごとも変わらない。そういう確かさが、朝の輪郭を整えてくれた。


けれど今日は、その確かさの中へ自分だけがうまくおさまっていない。


父が去ろうとしたとき、リリアは反射的に「……はい」とか「うん」とか、何か返すべきだったのかもしれない。けれど言葉は少し遅れた。


遅れてから、小さく言う。


「……おはようございます」


父の足が、ほんの一拍だけ止まった。


振り返りはしない。

ただ、扉のところでわずかに気配が止まる。


「……ああ」


返ってきた声は低く短い。

それだけで父は廊下へ出ていく。


重い足音が遠ざかるのを聞きながら、リリアはようやく息を吐いた。


遅れた。


前なら、父の前で言葉が出ないことはあっても、こういう遅れ方はしなかった。出ないなら出ないなりに固まっていた。今は、自分の中で何かが一度引いて、それから追いついてくる。


エルナが粥の椀を持ち上げながら、そっと覗きこむ。


「少しお疲れですか」


やわらかな問いだった。


リリアはすぐには首を振れない。


疲れているのかどうかも、よくわからない。

ただ、父の気配が部屋から消えたあとも、胸の中のざらつきだけが残っている。


「……ちがう」


言い切るまでに少し間があった。


それを自分でもわかって、リリアは唇を引き結ぶ。


エルナはそれ以上訊かなかった。問い返しもせず、「そうですか」とだけ言って、匙を粥へ添える。


その沈黙の置き方に、少しだけ救われる。


けれど同時に、いま自分が欲しかったのは、そこへもっと言葉を乗せてもらうことだったのかもしれない、とも思ってしまう。


その変化が、自分でも少し怖かった。


昼前、オルタンシアが来た。


侍女が名を告げるより少し前に、乾いた花の匂いが部屋へ混じる。暖炉の熱にあたためられた薄い香りだ。甘すぎず、でも冷たくもない。


リリアは前より早く顔を上げた。


エルナを見ない。

扉の方を見て、そのまま待つ。


オルタンシアが入ってくる。今日の外套は淡い灰色で、雪明りみたいな色だった。けれどその下に着ている衣は、春の若葉ほどではないにせよ、冬ではない色をしている。


「ごきげんよう、リリア」


「……ごきげんよう」


返事も、前よりは滑らかに出た。


オルタンシアは微笑む。

褒めすぎないし、驚きもしない。ただ、その変化を最初から知っていたみたいに受け取る。


「今日は少し静かなお顔をしているのね」

「しずか?」

「ええ。昨夜はあまり乱れなかったのでしょう?」


どうしてわかるのだろうと、リリアはいつも思う。


エルナも父も、夜のことを訊く。

でも訊き方が違う。

伯母は先に、「こうだったのでは」と、気持ちの輪郭に触れてから話し始める。


リリアは絵本の端を指でなぞった。


「……眠れた」

「そう。でも、楽だったわけではないのね」


その一言に、胸の奥が小さく揺れた。


楽だったわけではない。


そうだ。

まさにそういう感じだった。

眠れた。乱れなかった。息もできた。けれど、それで楽だったと言われると、少し違う。


オルタンシアは椅子へ腰を下ろし、続ける。


「怖い人のそばで安心しなければならないのは、つらいわね」


やさしい声だった。


その言葉に、リリアはすぐにはうなずけなかった。


つらい。

そう言ってしまえば、父のそばにいることそのものが嫌みたいだ。

でも嫌なのかと問われると、答えはもっと曖昧になる。


父の近くなら夜は少しましだ。

それでも父は怖い。

怖いのに、必要だ。


その矛盾を、どう言えばいいのかわからない。


「守ってくれることと、楽でいられることは別だもの」

と伯母は続ける。

「無理に慣れようとしなくていいのよ」


エルナが茶器を整える手元で、ほんの少しだけ動きを止めた。


オルタンシアの言うことは、正しいように聞こえる。

少なくとも、今のリリアには、間違いと切り捨てられない。


「お父様のことを、怖いと思ってしまうのは悪いことではないわ」

伯母は穏やかに言った。

「怖いものから離れたいと思うのも自然なことよ」


その言葉が、胸へ深く入る。


離れたい。


そんなふうに思ってしまう自分を、ずっとどこかで責めていたのかもしれない。

父のそばで息がしやすいくせに、そばにいたいわけではない。

それは、きっとよくないことなのだと思っていた。


けれど伯母は、それを最初から許している。


「……でも」


気づけば声が出ていた。


自分から言葉を出したことに、リリア自身が少し驚く。


オルタンシアは静かに待つ。

急かさない。

その待ち方が、また言葉を外へ出しやすくする。


リリアは膝の上の指を見つめた。

指先はきつくは絡んでいない。

でも、まっすぐには置けない。


「……お父様のそばは」


そこまで言って、一度止まる。


伯母は促さない。

エルナも何も言わない。

暖炉の火だけが、小さく鳴る。


「こわいのに」


声が少しかすれる。


「……楽なの」


言ってしまった瞬間、胸の奥が熱くなった。


こんなふうに言葉にしてしまってよかったのか、自分でもわからない。

けれど口にしてみると、それはずっと前からそこにあった本当の形に近かった。


怖い。

でも楽。

どちらか一つではない。


オルタンシアの目がやわらかく細められる。


「そう」

それから本当に静かな声で、

「つらいわね」


その受け止め方が、あまりにまっすぐで、リリアはうつむいた。


一度目にも、父は遠かった。


近くに来てくれなくて、見てもらえなくて、それでも怖さだけは消えなかった。

だから離れたいと思うこと自体は、たぶんずっと体の底にあった。

離れたらもっと悪くなると知る前から、離れたいと思う部分だけは確かにあった。


「そう思ってしまう自分を、悪い子だなんて思わなくていいのよ」

伯母は言う。

「怖いものから離れたいと思うのは、自然なことだもの」


その言葉に、少しだけ息がしやすくなる。


それが救いなのか、ただほどけているだけなのか、まだわからない。

でも確かに、胸の奥で固くなっていたものの一部が、ゆるむ。


そのとき、扉の外で低い足音が止まった。


父だった。


部屋の空気が、また少しだけ張る。


リリアの肩がこわばる。

その次の瞬間、自分でも気づかないほどわずかに、椅子の背へ身体を寄せた。


ほんの少しだけ、引いたのだ。


父が入ってくる。


黒い軍装のまま、いつものように部屋を一度で量る。オルタンシア、エルナ、茶器、窓辺のリリア。視線はそこを順に通り、最後にリリアで止まった。


止まって、ほんの一拍だけ動かない。


気づかれたのだとわかった。


さっき、自分が少しだけ身を引いたことを。


「少しお疲れなのよ」


オルタンシアが先に言う。


父は答えない。

けれど視線はまだリリアから離れない。


「無理をさせないで」

伯母が続ける。

「今日はここまでにしてあげた方がいいわ」


父はようやく口を開いた。


「時間だ」


短い声だった。


それだけで、伯母の言葉のようなやわらかさはない。

けれど、その一言で部屋の輪郭がまた少し固まる。


オルタンシアは肩をすくめるように笑った。


「ええ、わかっているわ」

それからリリアへ向き直る。

「また来るわね」


リリアはすぐには頷けなかった。


伯母の言葉は救いに聞こえる。

でも、その救いが父から少しずつ自分を引かせていることにも、うっすら気づいてしまったからだ。


それでも最後には、小さく頷く。


オルタンシアは満足そうに微笑み、そのまま部屋を出ていく。


乾いた花の匂いだけが、あとに残る。


父はまだそこにいた。


何か言うのかと思ったが、しばらくは何も言わなかった。

ただリリアを見ている。


その視線に耐えきれず、リリアは自分の手を見た。


指先が、椅子の肘掛けを少し強く握っている。

さっき父が入ってきた瞬間に、無意識にそうしてしまったのだ。


前なら、ただ固まっていた。

今は、少しだけ距離を取りたがった。


その変化を、自分でも見てしまった。


「……つかれたなら、休め」


父の声が落ちる。


それだけだった。

伯母のように「つらかったな」とは言わない。

「無理をするな」と言っても、その響きは命令に近い。


でも、その不器用さまで含めて父なのだと、前よりはわかる。


「……うん」


返事をしてから、自分の声が少し小さいことに気づく。


父はそれ以上何も言わず、踵を返した。

重い足音が遠ざかる。


部屋が静かになったあとも、リリアはすぐには動けなかった。


さっき自分は、ほんの少しだけ父から引いた。

伯母の言葉が胸の中にあるまま父を見たせいで、以前よりはっきりと「怖い」が前へ出た。


それは成長なのかもしれない。

前より少し、自分の矛盾を言葉にできるようになったのだから。


でも、その成長が父との距離を揺らしている。


そのことが、どうしようもなく少し怖かった。


エルナがそっと白湯の杯を持たせてくる。


「少し冷めましたが、まだあたたかいですよ」


その何でもない声に、リリアはようやく息をついた。


杯のぬくもりを両手で包みながら、それでも胸の奥では、伯母の言葉と父の足音がまだうまく重ならずに残っていた。

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