1、やさしい人の言うこと
朝の白湯は、いつもより少しだけぬるかった。
熱すぎない方が飲みやすいのはわかっている。けれど今朝の温度は、喉を通るときに何も引っかからなさすぎて、かえって落ち着かなかった。
リリアは寝台の上で杯を両手に包んだまま、扉の方を見ていた。
主塔寄りの小部屋は、今日もよく整っている。暖炉の火は強すぎず、窓辺の隙間風もない。扉は細く開いていて、廊下の向こうに人の気配がある。夜のあいだも大きく乱れずに済んだ。
それなのに、朝から胸の奥がどこか噛み合っていない。
「もう少し召し上がれますか」
エルナがそう言って、薄い粥の椀を卓へ置いた。湯気が静かにのぼる。匙を入れる音も小さい。
リリアは小さく頷いたが、すぐには手を伸ばさなかった。
昨夜は眠れた。
前なら、夜が大きく乱れなければ、朝にはもう少し息がしやすくなっていた。
けれど今は、息ができないわけではないのに、どこに力を入れて、どこをほどけばいいのかが少しわからない。
オルタンシアの言葉が、まだ胸の奥に残っているからだと、うっすら思う。
怖い人のそばで安心しなければならないのはつらい。
守ってくれることと、楽でいられることは違う。
どちらも正しいように聞こえた。
正しいように聞こえたからこそ、朝になっても消えずに残っている。
扉の外で、低い足音が止まった。
それだけで肩がこわばる。
父だった。
入ってくる前からわかる足音だ。
重く、短く、迷いがない。
その音を聞いた瞬間、体はいつも通り先に強ばった。けれど、今日はその次に、一瞬だけ目をそらしてしまった。
扉が開く。
黒い軍装のまま、父が部屋へ入ってくる。
いつものように、まず部屋を見た。暖炉、窓、卓上の粥、エルナ、寝台の上のリリア。視線はそこを順に通り、最後に短くリリアへ落ちる。
「昨夜は」
問いはエルナへ向けられている。
「大きくは乱れておりません」
「そうか」
それだけだった。
父はもう一度だけリリアを見る。
「白湯は」
「もうお飲みいただいております」
「薬は後で」
「はい」
いつも通りのやり取り。
少し前までなら、その短さが逆に落ち着いた。父は変わらない。部屋の決まりごとも変わらない。そういう確かさが、朝の輪郭を整えてくれた。
けれど今日は、その確かさの中へ自分だけがうまくおさまっていない。
父が去ろうとしたとき、リリアは反射的に「……はい」とか「うん」とか、何か返すべきだったのかもしれない。けれど言葉は少し遅れた。
遅れてから、小さく言う。
「……おはようございます」
父の足が、ほんの一拍だけ止まった。
振り返りはしない。
ただ、扉のところでわずかに気配が止まる。
「……ああ」
返ってきた声は低く短い。
それだけで父は廊下へ出ていく。
重い足音が遠ざかるのを聞きながら、リリアはようやく息を吐いた。
遅れた。
前なら、父の前で言葉が出ないことはあっても、こういう遅れ方はしなかった。出ないなら出ないなりに固まっていた。今は、自分の中で何かが一度引いて、それから追いついてくる。
エルナが粥の椀を持ち上げながら、そっと覗きこむ。
「少しお疲れですか」
やわらかな問いだった。
リリアはすぐには首を振れない。
疲れているのかどうかも、よくわからない。
ただ、父の気配が部屋から消えたあとも、胸の中のざらつきだけが残っている。
「……ちがう」
言い切るまでに少し間があった。
それを自分でもわかって、リリアは唇を引き結ぶ。
エルナはそれ以上訊かなかった。問い返しもせず、「そうですか」とだけ言って、匙を粥へ添える。
その沈黙の置き方に、少しだけ救われる。
けれど同時に、いま自分が欲しかったのは、そこへもっと言葉を乗せてもらうことだったのかもしれない、とも思ってしまう。
その変化が、自分でも少し怖かった。
昼前、オルタンシアが来た。
侍女が名を告げるより少し前に、乾いた花の匂いが部屋へ混じる。暖炉の熱にあたためられた薄い香りだ。甘すぎず、でも冷たくもない。
リリアは前より早く顔を上げた。
エルナを見ない。
扉の方を見て、そのまま待つ。
オルタンシアが入ってくる。今日の外套は淡い灰色で、雪明りみたいな色だった。けれどその下に着ている衣は、春の若葉ほどではないにせよ、冬ではない色をしている。
「ごきげんよう、リリア」
「……ごきげんよう」
返事も、前よりは滑らかに出た。
オルタンシアは微笑む。
褒めすぎないし、驚きもしない。ただ、その変化を最初から知っていたみたいに受け取る。
「今日は少し静かなお顔をしているのね」
「しずか?」
「ええ。昨夜はあまり乱れなかったのでしょう?」
どうしてわかるのだろうと、リリアはいつも思う。
エルナも父も、夜のことを訊く。
でも訊き方が違う。
伯母は先に、「こうだったのでは」と、気持ちの輪郭に触れてから話し始める。
リリアは絵本の端を指でなぞった。
「……眠れた」
「そう。でも、楽だったわけではないのね」
その一言に、胸の奥が小さく揺れた。
楽だったわけではない。
そうだ。
まさにそういう感じだった。
眠れた。乱れなかった。息もできた。けれど、それで楽だったと言われると、少し違う。
オルタンシアは椅子へ腰を下ろし、続ける。
「怖い人のそばで安心しなければならないのは、つらいわね」
やさしい声だった。
その言葉に、リリアはすぐにはうなずけなかった。
つらい。
そう言ってしまえば、父のそばにいることそのものが嫌みたいだ。
でも嫌なのかと問われると、答えはもっと曖昧になる。
父の近くなら夜は少しましだ。
それでも父は怖い。
怖いのに、必要だ。
その矛盾を、どう言えばいいのかわからない。
「守ってくれることと、楽でいられることは別だもの」
と伯母は続ける。
「無理に慣れようとしなくていいのよ」
エルナが茶器を整える手元で、ほんの少しだけ動きを止めた。
オルタンシアの言うことは、正しいように聞こえる。
少なくとも、今のリリアには、間違いと切り捨てられない。
「お父様のことを、怖いと思ってしまうのは悪いことではないわ」
伯母は穏やかに言った。
「怖いものから離れたいと思うのも自然なことよ」
その言葉が、胸へ深く入る。
離れたい。
そんなふうに思ってしまう自分を、ずっとどこかで責めていたのかもしれない。
父のそばで息がしやすいくせに、そばにいたいわけではない。
それは、きっとよくないことなのだと思っていた。
けれど伯母は、それを最初から許している。
「……でも」
気づけば声が出ていた。
自分から言葉を出したことに、リリア自身が少し驚く。
オルタンシアは静かに待つ。
急かさない。
その待ち方が、また言葉を外へ出しやすくする。
リリアは膝の上の指を見つめた。
指先はきつくは絡んでいない。
でも、まっすぐには置けない。
「……お父様のそばは」
そこまで言って、一度止まる。
伯母は促さない。
エルナも何も言わない。
暖炉の火だけが、小さく鳴る。
「こわいのに」
声が少しかすれる。
「……楽なの」
言ってしまった瞬間、胸の奥が熱くなった。
こんなふうに言葉にしてしまってよかったのか、自分でもわからない。
けれど口にしてみると、それはずっと前からそこにあった本当の形に近かった。
怖い。
でも楽。
どちらか一つではない。
オルタンシアの目がやわらかく細められる。
「そう」
それから本当に静かな声で、
「つらいわね」
その受け止め方が、あまりにまっすぐで、リリアはうつむいた。
一度目にも、父は遠かった。
近くに来てくれなくて、見てもらえなくて、それでも怖さだけは消えなかった。
だから離れたいと思うこと自体は、たぶんずっと体の底にあった。
離れたらもっと悪くなると知る前から、離れたいと思う部分だけは確かにあった。
「そう思ってしまう自分を、悪い子だなんて思わなくていいのよ」
伯母は言う。
「怖いものから離れたいと思うのは、自然なことだもの」
その言葉に、少しだけ息がしやすくなる。
それが救いなのか、ただほどけているだけなのか、まだわからない。
でも確かに、胸の奥で固くなっていたものの一部が、ゆるむ。
そのとき、扉の外で低い足音が止まった。
父だった。
部屋の空気が、また少しだけ張る。
リリアの肩がこわばる。
その次の瞬間、自分でも気づかないほどわずかに、椅子の背へ身体を寄せた。
ほんの少しだけ、引いたのだ。
父が入ってくる。
黒い軍装のまま、いつものように部屋を一度で量る。オルタンシア、エルナ、茶器、窓辺のリリア。視線はそこを順に通り、最後にリリアで止まった。
止まって、ほんの一拍だけ動かない。
気づかれたのだとわかった。
さっき、自分が少しだけ身を引いたことを。
「少しお疲れなのよ」
オルタンシアが先に言う。
父は答えない。
けれど視線はまだリリアから離れない。
「無理をさせないで」
伯母が続ける。
「今日はここまでにしてあげた方がいいわ」
父はようやく口を開いた。
「時間だ」
短い声だった。
それだけで、伯母の言葉のようなやわらかさはない。
けれど、その一言で部屋の輪郭がまた少し固まる。
オルタンシアは肩をすくめるように笑った。
「ええ、わかっているわ」
それからリリアへ向き直る。
「また来るわね」
リリアはすぐには頷けなかった。
伯母の言葉は救いに聞こえる。
でも、その救いが父から少しずつ自分を引かせていることにも、うっすら気づいてしまったからだ。
それでも最後には、小さく頷く。
オルタンシアは満足そうに微笑み、そのまま部屋を出ていく。
乾いた花の匂いだけが、あとに残る。
父はまだそこにいた。
何か言うのかと思ったが、しばらくは何も言わなかった。
ただリリアを見ている。
その視線に耐えきれず、リリアは自分の手を見た。
指先が、椅子の肘掛けを少し強く握っている。
さっき父が入ってきた瞬間に、無意識にそうしてしまったのだ。
前なら、ただ固まっていた。
今は、少しだけ距離を取りたがった。
その変化を、自分でも見てしまった。
「……つかれたなら、休め」
父の声が落ちる。
それだけだった。
伯母のように「つらかったな」とは言わない。
「無理をするな」と言っても、その響きは命令に近い。
でも、その不器用さまで含めて父なのだと、前よりはわかる。
「……うん」
返事をしてから、自分の声が少し小さいことに気づく。
父はそれ以上何も言わず、踵を返した。
重い足音が遠ざかる。
部屋が静かになったあとも、リリアはすぐには動けなかった。
さっき自分は、ほんの少しだけ父から引いた。
伯母の言葉が胸の中にあるまま父を見たせいで、以前よりはっきりと「怖い」が前へ出た。
それは成長なのかもしれない。
前より少し、自分の矛盾を言葉にできるようになったのだから。
でも、その成長が父との距離を揺らしている。
そのことが、どうしようもなく少し怖かった。
エルナがそっと白湯の杯を持たせてくる。
「少し冷めましたが、まだあたたかいですよ」
その何でもない声に、リリアはようやく息をついた。
杯のぬくもりを両手で包みながら、それでも胸の奥では、伯母の言葉と父の足音がまだうまく重ならずに残っていた。




