4、やさしい人のあとに来る夜
オルタンシアが帰ったあと、部屋にはまだ花の匂いが残っていた。
乾いているのに、どこか甘い。
暖炉のぬくもりにあたためられて、細い香りが壁際や寝台の天蓋へ静かにからみついている。
リリアは窓辺の椅子から寝台へ移されても、しばらくその匂いを意識していた。
伯母が来る前からあった花だ。
前にも何度か部屋へ置かれていた。
嫌いではない。むしろ、好きだと思っていたはずなのに、今日はどうしてか胸の奥へまっすぐ落ちてくる感じがする。
エルナが寝台の端を整えながら、小さく言う。
「今夜は冷えますね」
その声はいつも通りだ。
いつも通りのはずなのに、部屋の中は何かが一枚だけ薄くずれているみたいだった。
「灯りは少し残しておきます」
「……うん」
返事はできた。
できたのに、喉のあたりは少し乾いている。
伯母の言葉が、まだ耳の近くに残っていた。
無理に強くならなくていい。
怖いなら、怖いでいい。
怖い人のそばでしか眠れないなんて、かわいそう。
そのどれもが、今この部屋で思い出すにはやわらかすぎた。
やわらかすぎて、境目がぼやける。
父の近くは、安全だ。
それはずっと変わらない。
けれど怖い。
それも変わらない。
その二つを、伯母は言葉にした。
言葉にされた途端、胸の中でどうにもおさまりのつかないものになった。
エルナが白湯を寝台脇へ置く。
燭台の火を少しだけ下げ、扉はいつものように細く開けたままにする。廊下の向こうに灯りが一本、まっすぐ残る。
全部いつも通りだ。
なのに、寝台へ入った瞬間から、リリアの呼吸は少しだけ浅かった。
毛布を胸まで引き寄せる。
目を閉じる。
暖炉が小さく鳴る。
廊下の向こうで兵の足音が一度だけ止まり、また動く。
いつもなら、それだけで少しは胸のざわめきが遠のく。
父の気配が近くにあるとわかるだけで、夜の形が定まるからだ。
けれど今夜は、違った。
甘い匂いが、やけにはっきりする。
花の匂いだ。
でも、ただの花ではない気がした。
乾いた花弁の底で、何か別のものがぬるく溶けているみたいな匂いだった。
──かわいそうに
耳もとで、声がした気がした。
リリアは毛布の端をきつく握る。
違う。
伯母の声ではない。
でも、伯母の言葉の続きみたいに聞こえる。
──こわい人のそばにいなくてはいけないなんて
──そんなの、つらいでしょう
息が止まる。
その言葉は今日、たしかに伯母が言った。
けれど今聞こえているのは、昼のあの低くやわらかな声ではない。もっと近くて、もっと甘くて、拒んでも胸の奥へ入りこんでくる声だった。
リリアは目を開ける。
部屋は暗すぎない。
扉の向こうには灯りもある。
エルナも隣の小部屋にいるはずだ。
それなのに、寝台の周りだけ夜が濃い。
──もう無理をしなくていい
──見たくないものは見なくていい
──こわいなら、離れてしまえばいいのに
その声は、慰めるみたいだった。
一度目にも、やさしい声は夜に来た。
見なくていい。
聞かなくていい。
ひとりで耐えなくていい。
そう言って、扉の向こうの怖さより、声の方へ耳を寄せたくなる夜があった。
リリアは毛布の中で身を縮めた。
だめ。
聞いてはいけない。
わかっているのに、今日の声は境目が曖昧すぎる。
伯母の言葉と、夜の囁きが、どこで切り替わったのかわからない。
「……エルナ」
声に出すと、自分の息がかすれているのがわかった。
すぐに小部屋の向こうで椅子の音がし、エルナが扉を細く開けて顔を見せる。
「お嬢様?」
その顔を見た瞬間、少しだけ息がつながる。
けれど、匂いは消えない。
むしろエルナが近づくにつれて、花の甘さが寝台のまわりへ沈んでくるような気さえした。
「どうなさいました」
エルナは寝台の脇へ来ると、すぐには触れず、少し屈んで目線を合わせる。
リリアは答えられなかった。
怖い。
でも何が怖いのか、うまく言えない。
ただ、伯母が帰ったあとの夜だけ、何かが少し違う。
その違いを自分は知っている気がする。
でも、知っているはずの記憶は、まだ霧の向こうだ。
「……はな」
やっと出たのは、それだけだった。
エルナが一瞬きょとんとして、部屋を見まわす。
卓の上の花瓶。白くひらきかけた花。細い枝。乾いた花弁。
「匂いが強いですか」
リリアは小さく頷く。
エルナはすぐに花瓶へ向かった。
けれど持ち上げようとしたところで、扉の外から低い声がした。
「置け」
父の声だった。
エルナがはっとして振り返る。
父はいつからそこにいたのか、開いた扉の向こうに立っている。黒い軍装の輪郭が廊下の灯りを切り、灰銀の目だけが部屋の中を見ていた。
寝台。
リリア。
エルナ。
卓の上の花。
視線がそこを短く巡る。
「匂いが気になるのか」
問いはリリアへ向けられていた。
ずれている。
相変わらず、少しだけずれている。
でも、そのずれた問いの方が今は答えやすかった。
「……する」
「甘いか」
「……うん」
父は花瓶へ目をやる。
それから、ほんのわずかに眉を寄せた。
「下げろ」
「はい」
今度こそエルナが花瓶を持ち上げる。
部屋から花が出ていくと、匂いはすぐには消えなかったが、濃さだけが少し緩んだ。
父は扉のところから動かない。
「灯りを増やせ」
と短く言う。
侍女が走り、廊下の燭台が一つ増える。部屋の中の影がさらに薄くなる。
それでもリリアの胸のざわつきは消えなかった。
父はそれを見ていたのだろう。
いつものように、顔を見ようとして一瞬だけ止まり、それから視線を肩口へ流す。
「エルナ」
「はい」
「今夜は隣にいろ」
「……はい」
「扉は閉めるな。交替もなしだ」
命令は短い。
短いのに、夜の形が一つずつ固まっていく。
伯母の言葉はほどいていった。
父の言葉は囲い直していく。
その違いが、今夜はやけにはっきりわかった。
エルナが小部屋へ戻らず、寝台の脇の椅子へ座る。
扉は開いたまま。
灯りも、いつもより一段明るい。
それでも、まだ胸の奥には、やわらかい囁きの残りが貼りついている。
──見なくていい
──無理に強くならなくていい
──こわいなら、離れればいいのに
それはもう伯母の声ではなかった。
でも、伯母の言葉の形を借りている。
だからこそ、耳を塞ぎたくなる。
リリアは目を閉じた。
閉じると、鏡のようなものが見える気がした。
卓の上に伏せられた小さな鏡ではない。
もっと暗くて、もっと深い、夜そのものみたいな鏡だ。
見なくていいと言われたからこそ、見てしまいそうになる鏡。
一度目にも、こんな夜があった。
やさしい声が、怖いものから目をそらさせる夜。
そのまま、気づけばどこかへ歩いていってしまいそうになる夜。
それを思い出しかけた瞬間、リリアは反射的に目を開けた。
扉の向こうに、まだ父がいる。
寝台のそばまでは来ない。
でも去りもしない。
廊下の灯りの中で、黒い影がそのまま夜の入口を塞いでいる。
それだけで、囁きの距離が少しだけ遠のく。
「……おとうさま」
自分でも驚くほど小さな声だった。
父はすぐに答えなかった。
一拍置いてから、低く言う。
「何だ」
何だ、と返されただけなのに、喉の奥のつかえが少し下がる。
「……いる?」
「いる」
今度は短かった。
それだけで十分だった。
父がそこにいる。
言葉は少ない。
近づいて抱きしめてくれるわけでもない。
でも、夜の中で「いる」と言い切る声だけは、伯母のやわらかい言葉よりずっと確かな形をしていた。
しばらくして、胸のざわめきがようやく少し下がる。
エルナが白湯を持たせてくれ、リリアは両手で杯を包む。
ぬくもりが指先へ戻ってくる。
甘い匂いはもう薄い。
まだどこかに残っているけれど、部屋の中心ではなくなっていた。
父はその様子を見てから、ようやく扉のところで踵を返した。
去る前に、後ろを見ずに言う。
「以後、花は部屋へ入れるな」
エルナが息を呑む。
「伯母君からのものもだ」
「……はい」
「鏡もだ。必要なら俺を通せ」
その声はひどく冷たかった。
でも、リリアはその冷たさに少しだけ安心した。
伯母のやさしさは、正しかったように聞こえる。
正しかったからこそ、夜に似てしまう。
父の言葉はやさしくない。
でも、やさしくないまま線を引く。
それが今夜はありがたかった。
父の足音が遠ざかる。
エルナが椅子へ座り直し、何も言わずにそばに残る。
扉は開いたまま。
灯りも消えない。
その夜、眠りに落ちる直前、リリアはようやく一つだけはっきりわかった。
伯母はやさしい。
でも、伯母が帰ったあとの夜は、少しだけ悪い。
それが偶然なのかどうか、まだわからない。
伯母が何かをしているのか、それとも自分が勝手にほどけてしまうのかもわからない。
わからないまま、ただ怖かった。
それでも、怖いと思えたのは、父が今夜も線を引き直したからかもしれなかった。
翌朝、卓の上から花瓶は消えていた。
窓辺の光は変わらず白い。
けれど部屋の匂いだけが、前の冬に少し戻っている。
エルナがいつものように額へ手を当てる。
「昨夜は、少しはお休みになれましたか」
リリアはすぐには答えなかった。
伯母のやさしさ。
夜の囁き。
父の冷たい声。
その三つが胸の中でまだ混ざっている。
それでも、最後には小さく頷いた。
エルナはそれ以上訊かない。
窓の外では、雪の上を風が静かに撫でていた。




