3、譲らない人
オルタンシアが来る日の午後は、部屋の空気が少し違った。
暖炉の火の音まで、いつもよりやわらかく聞こえる気がする。侍女たちの足音も、扉の開閉も、ほんの少しだけ軽い。乾いた花の匂いが部屋のどこかへ残っているせいかもしれないし、リリアの方が先にその気配を待ってしまうせいかもしれなかった。
その日も、リリアは窓辺の椅子に座っていた。
絵本は開いている。けれど読んではいなかった。文字を追っているつもりで、実際には扉の向こうの気配ばかりを拾っていた。昼のあいだなら、父の足音より伯母の衣擦れの方が近く感じられるようになっている。それを考えるだけで、胸の奥が少しざわつく。
エルナがその様子を見ていたのか、何も言わずに膝掛けの端だけを直した。
やがて侍女が、
「お伯母様がお見えです」
と告げる。
リリアは顔を上げた。
オルタンシアは今日も穏やかな顔で入ってくる。外套を預け、すぐには近づきすぎない。まず部屋の中を見て、暖炉の火を見て、窓辺の椅子へ座るリリアを見る。その見方が、父とも、医師とも、侍女たちとも違う。
「ごきげんよう、リリア」
「……ごきげんよう」
返事をすると、伯母は小さく目を細めた。
「今日は少しお顔がやわらかいわ」
「……そう?」
「ええ。少なくとも、昨日よりは」
そう言いながら、オルタンシアは卓上の花瓶に手を伸ばした。白くひらきかけた花が二輪、細い首を寄せ合っている。
「このお部屋にも、ようやく少し春が来たわね」
春。
北辺の城にはまだ似合わない言葉だった。窓の外は白く、風の音も固い。それでも伯母がそう言うと、そういう季節がほんとうに遠くから近づいてきているみたいに思える。
「春は、お好き?」
「……わからない」
正直にそう言うと、オルタンシアは笑わなかった。
「そうね。まだ寒いものね」
少し間を置いて、
「でも、寒い場所にいる子ほど、あたたかいものをよく覚えるのよ」
その言い方は、どうしても胸に残る。
父の言葉は、必要なことだけを落とす。石の上へ置かれた金属みたいに、触れれば冷たい音がする。
伯母の言葉は違う。手に取らなくても、いつのまにか指先へ移ってくるものだった。
オルタンシアはそのまま、リリアの手元を見た。
「今日は爪を立てていないのね」
リリアははっとする。
前は、気づけば指先が掌へ食いこんでいることが多かった。とくに夜の前や、人の出入りが多い日には。けれど今日はそこまでではない。
「よかった」
伯母はそう言う。
「痛いのを我慢しながら平気な顔をするのは、あまりいい癖ではないもの」
その声がやわらかすぎて、リリアは返事を飲みこんだ。
まただ、と思う。
伯母の言葉は、いつも少しだけ先に来る。自分でもうまく掴めていないところへ、先に名前をつけてしまう。苦しい、怖い、痛い、我慢している。そういうものを、最初からそこに見えていたみたいに言ってしまう。
それが救いになるときもある。
けれど救いであること自体が、少し怖くなってきていた。
「最近は、夜も少し落ち着いているのかしら」
伯母が何気なく尋ねる。
エルナが茶器の用意をしながら、答えに迷う気配を見せた。
リリアはその気配の意味が少しわかるようになっていた。答えてよいことか、どこまで言ってよいのか、エルナはいつも慎重だ。
「以前よりは」
と、結局エルナが言う。
「落ち着いておられる夜もございます」
「そう」
オルタンシアは頷いた。
「それでも、まだ怖いのでしょう」
その問いはリリアへ向いている。
リリアは膝の上の絵本を見た。閉じたままの頁の端を、指が無意識に擦る。
「……こわくない日も、ある」
「そう。えらいわ」
そう言われて、少しだけ喉がつまる。
えらい。
そんな言葉を、父は使わない。エルナもあまり使わない。褒められるようなことではないと、自分でも思っているからかもしれない。夜を越えることは偉業ではなく、ただの必要だ。必要だからやっているだけで、褒められたところで困る。
けれど伯母は、その困りごとまで込みで言う。
「でも、えらくなんてならなくていいのよ」
続く声は、さらに低く、やわらかかった。
「怖い夜を毎晩ちゃんと越えようとしなくてもいい。少し崩れてしまっても、泣いてしまっても、誰かに頼ってしまってもいいの」
暖炉の火が小さく鳴る。
そのたびに、言葉がもう少し近く聞こえる。
一度目にも、こういうやさしい声があった気がした。夜の底で、誰もいないはずのところから落ちてくる声。頑張らなくていい、怖がらなくていい、ひとりで耐えなくていい、と言う声。
伯母の声は、それとまるきり同じではない。
違うのに、胸の奥がほどける場所だけが似ている。
「この子は、今のままでは休めていないわ」
オルタンシアが静かに言った。
今度はリリアではなく、エルナへ向けた言葉だった。
「眠れている夜があることと、休めていることは別だもの」
エルナの手が一瞬止まる。
「……それは」
「わかっているのでしょう?」
問い詰める調子ではない。むしろ穏やかだ。だからこそ、受ける方は言い逃れしにくい。
「レオンハルトは環境を整えるのは上手いわ」
伯母は続ける。
「灯り、扉、夜番、部屋の位置。必要なことはしているのでしょうね」
「旦那様は」
とエルナが口を開く。
「できるかぎりのことを」
「ええ、そうなのでしょう。でもそれでこの子が楽になっているとは限らない」
その言葉が部屋へ落ちたとき、リリアは顔を上げた。
楽ではない。
それは本当だ。
父の近くは安全だ。夜の囁きも少し遠のく。呼吸もしやすい。けれど、それと楽であることは違う。父は今でも怖いし、そばにいるだけで肩が強ばるときもある。
伯母は、その二つを簡単に並べてしまう。
「怖い人のそばでしか眠れないなんて、かわいそうでしょう」
その一言で、胸の奥がひどく静かになった。
かわいそう。
自分でそう思ったことはなかった。思わないようにしていたのかもしれない。そう思ってしまったら、父の近くで眠れることまで惨めになる気がしたから。
けれど伯母は、それをためらわず言う。
かわいそう、と。
「……お伯母様」
思わず声が出る。
オルタンシアが目を向ける。
何を言いたかったのか、自分でもわからない。否定したかったのか、続きを聞きたかったのか。胸の中のどこかが痛くて、その痛みに引かれて声が出ただけだった。
そのとき、扉の外で低い足音が止まった。
一度聞けば忘れない、短く重い足音。
部屋の空気が変わる。
エルナが背を正し、侍女が目を伏せる。リリアの肩も、自分で止めるより先に固くなった。
父が入ってくる。
黒い軍装のまま、いつものように部屋を一度で量る。
伯母。エルナ。侍女。茶器。卓の上の花。窓辺のリリア。
視線はそこを順に通り、最後にリリアの顔へ落ちる。落ちて、いつものように一瞬だけ止まり、それでも逸れきらない。
「まだいたのか」
父の第一声は、やはり素っ気なかった。
オルタンシアは肩をすくめる。
「そんな言い方をしなくてもいいでしょう。少し話していただけよ」
「少しで十分だ」
「この子は、もう少し心をゆるめてもいい頃よ」
父の眉がわずかに寄る。
「ゆるめている」
「そうは見えないわ」
伯母の声はやわらかいままなのに、言葉だけは逃がさない。
「眠れていることと、休めていることは違うの。あなたは前者ばかり見ている」
「足りないなら足す」
「足せるものばかりではないでしょう」
父はすぐには返さなかった。
その沈黙が、かえって不利に見える。伯母の言葉は意味を持って積み重なっていくのに、父の方は短いまま止まるからだ。
リリアは二人を見比べた。
こういうとき、父はいつも負けて見える。
伯母の方が正しいことを言っているように聞こえる。
リリアの怖さを言葉にできるのも、つらさに名前をつけられるのも、伯母の方だ。
父はようやく口を開く。
「必要なことはしている」
「ええ、しているのでしょうね。部屋も、灯りも、夜番も」
オルタンシアは頷く。
「でもそれで、この子があなたのそば以外では息もつけないままなら、あまりに不憫だわ」
その言葉に、リリアの指がまたきつく絡む。
不憫。
かわいそう。
今日の伯母は、そういう言葉をためらわない。
それが胸へまっすぐ入ってくる。
父の視線が、膝の上で強く握られた指へ落ちた。
「ほどけ」
それは伯母ではなく、リリアに向けた言葉だった。
驚いて顔を上げる。
父は同じ顔のまま、もう一度言う。
「手をほどけ」
命令の形だ。やさしくはない。けれど、その声には余計な哀れみがない。かわいそうだとも、不憫だとも言わない。ただ、今ここで爪を立てていることを見て、それをやめさせようとしているだけだった。
リリアは戸惑いながら、指を少し開く。
伯母が横で微笑む。
「ほら、やればできるのよ」
父はその言い方には答えない。
代わりに、部屋を一瞥して低く告げる。
「面会は今日までだ」
エルナも侍女も、息を呑んだ。
オルタンシアだけが表情を変えない。
「今日まで?」
「以後は三日に一度、昼の一刻だけ」
「まあ」
「日が落ちる前に帰れ」
「急に厳しくなったのね」
父はなおも続ける。
「鏡は持ち込ませない」
「……あら」
「西棟側から温室へ続く回廊も閉じる」
「わたくしが行くたびに城が狭くなるわ」
その軽口にも、父は笑わなかった。
「必要な線だ」
そこで初めて、オルタンシアの笑みが少しだけ薄くなる。
伯母は心をほどく。
父は言葉では勝てない。
けれど、最後に現実を動かすのは父だ。
その事実が、部屋の空気をゆっくり塗り替えていく。
「あなたは本当に、不器用ね」
オルタンシアが静かに言う。
「この子を守りたいのなら、もう少し言い方があるでしょうに」
父は間を置いた。
「守るために、好かれる必要はない」
その一言は、伯母のやわらかな言葉よりずっと冷たく、ずっと硬かった。
なのにリリアは、なぜだかその声に少しだけ息がしやすくなるのを感じた。
伯母の言葉は、胸の内側をほどいてくれる。
でもほどけたあと、どこへ流れていくのかが少し怖い。
父の言葉は固くて、痛くて、うまく笑えない。
でも、そのぶん夜の形がはっきりする。
オルタンシアはそれ以上争わなかった。
「わかったわ」
とだけ言って立ち上がる。
「今日は帰る。でも、この子の心まで閉じないでね」
父は答えない。
伯母はリリアへ向き直る。やわらかな目だった。
「また来るわ」
リリアはすぐには頷けなかった。
来てほしい。
でも、来たあとの夜が、少しだけ違う気もする。
その違和感はまだ形にならない。ただ、胸のどこかへ薄く沈んでいる。
迷った末に、ほんの小さく頷くと、伯母は微笑んだ。
「ありがとう」
それだけ残して、部屋を出ていく。
乾いた花の匂いが少しだけ濃くなって、やがて扉の外へ引いていく。
静かになった部屋で、父はしばらく動かなかった。
エルナが茶器を片づけはじめ、侍女が窓辺の布を整える。そういう生活の音だけが小さく鳴る。
父はようやく言った。
「今日から、日暮れ前の見回りを増やせ」
「はい」
と侍女が答える。
「扉の外は二人」
「はい」
「記録を残せ。誰がいつ西棟へ入ったか、すべてだ」
命令が落ちるたび、部屋の形がまた少しずつ定まっていく。
伯母がほどいたものを、父が線で囲い直していくみたいだった。
やがて父の視線がリリアへ戻る。
「疲れたなら休め」
短い声だった。
それだけなのに、伯母の言葉のあとでは妙に遠く感じる。
でも同時に、それでいいのだとも思う。父が伯母みたいに「つらかったな」と言ったら、それはたぶん別の人になってしまう。
「……つかれてない」
小さく答えると、父はそれ以上問わなかった。
ただ一度だけ、絡みかけたリリアの指先を見る。
それから、もう行く、というように踵を返した。
黒い背が扉の向こうへ消える。
そのあとに残るのは、伯母のやさしい言葉と、父の冷たい線だった。
どちらが正しいのか、リリアにはまだわからない。
でも、伯母が帰ったあとの部屋は、さっきまでより少しだけ広く、少しだけ寒かった。




