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黒狼公の娘は、二度目の夜にだけ父を求める  作者: 師走
第0章 黒い花の夜

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1、冬至祭の夜、ひとりの子

冬至祭の夜は、城じゅうが明るい。


少なくとも、そういうものだとリリアは知っていた。


西棟の奥にある子ども部屋まで、祝宴のざわめきが届くことはほとんどない。それでも今夜は、遠くの方からかすかに音が流れてきていた。廊下を行き来する足音。食器の触れ合う澄んだ音。誰かが笑った気配。扉や壁をいくつも隔てた向こうで、城のどこかがあたたかく賑わっているのがわかる。


けれど、リリアの部屋は静かだった。


暖炉には火が入っている。窓には厚いカーテンが引かれ、外の雪明かりも風も遮られている。寒くはないはずなのに、部屋の中には夜の薄さのようなものが溜まっていた。


侍女が寝台の脇に立ち、淡々と手を動かしている。湯たんぽを足元へ入れ、灯りの芯を少しだけ絞り、寝具の端を整える。そのどれもが丁寧で、間違いはない。けれど、そこに手のぬくもりはなかった。


「おやすみなさいませ、お嬢様」


言葉も、きちんとしている。


リリアは毛布を胸のあたりまで引き上げたまま、小さく頷いた。


「……おやすみなさい」


侍女はそれ以上何も言わず、一礼して下がった。扉が閉まる音は静かで、きれいで、少しだけ遠慮がちだった。まるで、ここに長くいてはいけないと決められているみたいに。


リリアはしばらく天蓋の内側を見上げていた。刺繍の影が、灯りの揺れでゆっくり形を変えていく。


もう寝る時間だった。


ちゃんと目を閉じて、朝まで静かにしていればいい。そうすれば、誰にも困った顔をされない。呼ばなくていい。泣かなくていい。何かを欲しがらなくていい。


そういうことを、リリアはもうよく知っていた。


遠くで、また音がした。今度は人の声だ。何を言っているのかは聞き取れない。ただ、明るい声だった。


冬至祭だからだろうか、とぼんやり思う。


昔、乳母のエルナがまだいた頃、冬至祭には南から届いた干し果実の菓子が出るのだと教えてくれたことがある。厨房の者に頼めば、小さな皿に分けてもらえるかもしれませんよ、と笑っていた。結局、その年は熱を出して部屋から出られず、菓子を見ることもなかったけれど、エルナは窓辺に灯りをひとつ置いてくれた。冬の一番長い夜でも、これがあれば寂しくありません、と。


そのエルナは、もういない。


いなくなってから何年経つのか、きちんとは覚えていない。ただ、いなくなってからの夜は、前より少し長くなった気がした。


リリアは寝返りを打った。シーツがかすかに鳴る。


目を閉じる。


閉じてみるけれど、眠気は来ない。


ここ数日ずっとそうだ。夜になると、胸の奥がひやりとして、耳のあたりだけが妙に冴えてしまう。何かを待っているみたいに。何が来るのかもわからないのに、じっとしていられなくなる。


そして今夜は、その落ち着かなさに、別のものが混じっていた。


甘い匂いだった。


最初は、暖炉で温められた蝋の匂いかと思った。けれど違う。もっとやわらかくて、濃い。花に似ているのに、こんな冬の夜にするはずのない香りだった。鼻先をかすめるだけならきれいなのに、吸い込むと喉の奥にべったり残る。


リリアはそっと目を開けた。


灯りはさっきよりも暗い。寝台のまわりに落ちた影が、少し深くなっている。


甘い匂いは、消えなかった。


どこからだろう。


枕元ではない。暖炉でもない。窓でもない。


わからないのに、なぜか知っている気がした。これは部屋の中にある匂いではない。どこか別の場所から、細い糸みたいにたどってきている。


息を止める。


すると、聞こえた。


「眠れないの」


リリアの肩がびくりと揺れた。


誰もいない。扉は閉まっている。侍女が戻ってきたのなら、足音くらいするはずだ。


それなのに、声はすぐそばで囁いた。耳に触れたわけでもないのに、耳の内側へ落ちてくる。


女の人の声だった。若くも老いてもいない、不思議なやわらかさのある声。


叱る声ではなかった。問い詰める声でもない。はじめから、リリアが眠れていないことを知っていて、それをかわいそうだと思っているような声だった。


リリアは毛布を少し握りしめた。


「……だれ」


返事はない。


その代わりに、甘い匂いが少し濃くなる。


気のせいかもしれない。そう思おうとして、うまくいかなかった。気のせいなら、こんなふうに心臓が跳ねたりしない。気のせいなら、こんなに声を聞きたいと思ったりしない。


「ひとりでしょう」


今度は、もっと近かった。


リリアは喉を鳴らした。怖い。怖いはずなのに、その声に背を向けたくなかった。誰かにそう言われたのが、ずいぶん久しぶりだったからだ。


ひとりでしょう。


そう言われて、叱られたようには感じなかった。見つけてもらえた気がした。


知らない声なのに。


知らないはずなのに。


リリアはゆっくりと上体を起こした。寝台の縁から足を下ろす。床に触れた指先が冷たくて、身体が少しだけ現実へ戻る。


だめだ、と頭のどこかが言った。


夜中に部屋を出てはいけない。まして冬至祭の夜だ。侍女に見つかったら困らせてしまう。西棟から勝手に出るなど、行儀が悪い。


けれど、もうひとつ別の声が、胸の奥で小さく返す。


見つかるわけがない。みんな忙しい。今夜だって、誰も来ない。


その通りだった。


今この部屋で、リリアが寝ていようと起きていようと、たぶん誰も困らない。朝になれば、決まった時間に扉が開いて、侍女が入ってきて、夜の無事だけを確認する。それだけだ。


熱を出した夜も、そうだった。


喉が痛くて眠れなくて、水差しに手を伸ばした時、倒してしまって、床が濡れた。物音で誰かが来るかと思った。もしかしたら、と胸が少しだけ高く鳴った。けれど来たのは廊下を見回っていた下働きの女で、慌てた顔をして、侍女を呼びに行き、それで終わった。


あの夜も、扉の向こうを何度か見た。


来ないと知っている人を待つのは、あまりよくないことだと、その時に覚えた。


リリアは首を振った。今はそんなことを考えたくなかった。なのに、夜になると嫌なことばかり、やわらかく浮かんでくる。


「かわいそうに」


声が言った。


「だいじょうぶよ」


それは慰めるような言い方だった。大丈夫なわけがない、と思うべきなのに、その一言だけで、喉の奥が熱くなる。


やさしい声だった。


母の声を、リリアは知らない。


生まれた時に亡くなったのだと、ものごころがついた頃にはもう聞かされていた。肖像画は見たことがある。銀の髪と、淡い色の目。絵の中の人は、いつも静かに笑っている。けれど声はわからない。


それでも、ごくたまに思う。


もし母が生きていたなら、夜に眠れない時、こんな声で話しかけただろうか、と。


そう思った瞬間、自分で自分が嫌になった。知らない声を母に重ねるなんて、おかしい。勝手だ。母がそんなふうに優しかったかどうか、リリアは何も知らないのに。


でも、知らないからこそ、願ってしまう。


「どこに、いるの」


小さく問うと、すぐには返事がなかった。


代わりに、匂いが部屋の奥へ流れた気がした。扉の方へ。ほんのすこし、風でもないものが向きを変えたみたいに。


「おいで」


その二文字で、胸がきゅっと縮む。


だめだ。知らないものについて行ってはいけない。そんなことは、幼い頃に何度も教えられてきた。西棟から一人で出ないこと。主塔へ近づかないこと。夜は静かに眠ること。迷惑をかけないこと。


迷惑。


その言葉を思い出すたび、身体が勝手に小さくなる。


リリアは寝台の脇に置かれていた上着を引き寄せた。夜着の上から羽織る。細い指が、前紐を結ぶのにもたつく。何をしているのだろう、自分は。扉を開けて、その先に誰がいるというのか。


誰もいないかもしれない。


本当にただ、自分が変になっているだけかもしれない。


それでも、行かなければならない気がした。行けば、何かが終わるような。何かが見つかるような。ずっと胸の奥に引っかかっていた棘の先に、ようやく触れられるような。


リリアは寝台から降りると、そっと床に足をついた。冷えた石の感触が足裏から這い上がる。息を殺しながら、扉へ向かう。


途中で、一度だけ足を止めた。


振り返れば、整えられた寝台がある。暖炉の火がある。朝まで静かにしていれば叱られない場所がある。


ここへ戻った方がいい。


そう思うのに、指はもう扉の取っ手へ伸びていた。


取っ手は冷たかった。


金属の冷えが掌に刺さる。夜の城の冷たさが、そのままここに集まっているみたいだった。


リリアはそっと息を吸った。


耳を澄ます。


外に人の気配はない。


遠くの祝祭の音だけが、いくつもの壁を越えてかすかに響いている。笑っている人たちのいる場所は、きっとずっと遠い。


この扉の向こうにも、たぶん誰もいない。


それなのに、声は確かにそこで待っている気がした。


「ひとりで、よく耐えたわね」


その一言に、指先が震えた。


そんなふうに言われたことは、たぶんなかった。


よい子ですね、と言われたことはある。静かにしていられてえらいですね、と褒められたこともある。でもそれは、困らせなかったことへの言葉だった。耐えたことを知っている声ではなかった。


リリアは唇を噛んだ。


泣きたいわけではない。泣いても仕方がない。そんなことは知っている。泣けば目が腫れて、朝に侍女が少し困った顔をするだけだ。だから泣かない。もう、そう決めて久しい。


けれど今だけは、胸の奥があまりに静かで、逆に苦しかった。


誰も呼ばない夜に、はじめて呼ばれた。


それだけで、足が動いてしまう。


取っ手を回す。


古い蝶番が、ごく小さく鳴いた。


細く開いた扉の隙間から、暗い廊下が覗く。灯りは落とされていて、壁の燭台がところどころに弱く燃えているだけだった。石造りの長い廊下は、いつもよりずっと遠く見える。西棟の夜は静かだ。人の気配はなく、雪の気配だけがどこかに沈んでいる。


甘い匂いが、部屋の中よりはっきりとした。


廊下の奥から流れてくる。


リリアは扉の影に身を隠すようにしながら、そっと外へ出た。背後で扉を閉める。閉じた瞬間、自分の部屋がもうずいぶん遠い場所になってしまった気がした。


夜気はないはずなのに、腕が粟立つ。


遠くの祝祭の音は、ここまで来るとさらに曖昧だった。誰かの楽しげな声も、厚い雪に包まれて埋もれてしまうように弱い。


そのかわり、声はよく聞こえた。


「こっちよ」


廊下の先、曲がり角の向こうから。


リリアは顔を上げた。


戻るなら、まだ戻れた。


今ならまだ、何もなかったことにできる。寝台に戻って目を閉じれば、朝は来る。いつもと同じ顔をして起きればいい。


なのに足先は、もう前を向いている。


行ってはいけない、とわかっている時ほど、その声は正しいものに思えた。


リリアは音を立てないよう息を潜め、暗い廊下を歩きだした。

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