8-2(23)
僕たちの二人の関係性はその後修復の見込みもなく悪化の一途を辿った。
服装から言動、全てにわたり豹変してしまった彼女に対し僕はしかる
どころか適切に接することさえ出来ないでいた。
それはもちろん僕が不適切に彼女を連れ出したという後ろめたさが根底に
あるからだろう。
そんな犯罪者でもある中年男性を嫌悪するのは当然で、ここ最近彼女は
頻繁に外泊を繰り返すようになった。
今日も僕は帰宅後すぐさまビニール袋からカップ酒を取り出すと、辛い
日常をまるで洗い流すように半分ほど一気に飲み干した。
「ふぅ~ ゲェぷ……」
その後、ただひたすら酒を飲み続ける僕が2カップ目を飲み干した頃、
酔いが回ったのかつい引き出しから無断で彼女の勉強道具を取り出して
しまった。
僕は中から漢字ドリルやテスト用紙を慎重に取り出すと、それらを床上に
丁寧に並べ始めた。
床に直接座る僕を中心に扇状に並べられた彼女の努力の結晶と言うべき
学業の足跡はまさに圧巻で、僕は目を丸くしながら数あるテストの中から
一枚無作為に抜き取った。
用紙を埋める赤マルや花マルがまるで彼女の笑顔のように見え、更なる
用紙を僕が取り上げた所で突然ドアロックを解除する音が響いた。
〈ガチャ!〉
ドア前には2日間ぶりに帰宅した彼女が不機嫌そうな表情でこちらを
睨み付けていた。
「お、おかえり」
「…………」
「かおりちゃん、ごはんは?」
「いらない」
「あっ、こ、これね、勝手に並べちゃってごめん」
彼女は不敵な笑みを浮かべながら近づくと、僕を見上げるようにゆっくり
その場にしゃがみ込んだ。
「懐かしい?」
「うん。だってこれ全部かおりちゃんが頑張った証だからね」
「頑張った? 証って? こんなの私の黒歴史だよ」
「何言ってるの。かおりちゃんがこれだけ頑張ったから今があると思わない?」
「何それ? それって先生のおかげって私に言わせたいの?」
「いや、そういうワケじゃないけどさ。だって黒歴史だなんて言うから」
「私って19にもなってこ~んな事やってたんだ」と彼女は数枚のテスト用紙
を鷲掴みした。
「かおりちゃんがさぁ~ 初めて満点取った時のこと覚えてる?」
「そんなのいちいち覚えてねえよ」
「覚えてねえってそんな言い方、かおりちゃんに似合わないよ」
「ハイハイ。ところでさぁ、先生は楽しかった?」
「あぁ、だってかおりちゃんが頑張ってる姿見てると何だか嬉しくってね」
と僕も数枚のテスト用紙を丁寧に重ね合わせた。
「先生は私みたいなバカ相手に”教師”気取ってたワケね」
「ち、違うよ! 僕は純粋に勉強に前向きなかおりちゃんの力になりたかった
だけだよ」と僕はつい声を荒げてしまった。
「なるほどね~ だから先生は誘拐してまで私に勉強教えてくれてたんだ。
でもさ、今となれば私、前みたいにバカなままの方が良かったのかもね」
「そ、そんな事言うもんじゃないよ。実際、前に比べて色んな事が理解
出来て、かおりちゃん自身の世界観も劇的に変わったろ!」
「でも、知らなくてもいい事も知ったわ。先生が誘拐犯だってこともね」
「確かにそれについては返す言葉もないよ」
「ところで先生、いつまでこんなの眺めてイジイジしてるつもりなの?」と
彼女は突然立ち上がり呆れ果てた表情で僕を見つめた。
「イジイジしてるように見えるかい?」
「見えるから言ってるんじゃない!」「今からでも遅くないわ。まだ施設は
警察に届け出してないんだし、先生が磯田先生と話し合えばいいじゃない」
「それってかおりちゃんが施設に戻るって事?」
「バカ、私は戻んないわよ」
「先生はこの現状を話せばいいじゃない。もう私は一人でも大丈夫だって。
それでまだ揉めるようだったら先生達を性加害の件で脅せばいいだけでしょ」
「かおりちゃんはどうするつもりなの?」
「さっきも言ったでしょ。私は一人でも大丈夫だって」
「これで先生は小説家として復帰出来るじゃない。ねっ、そうしなよ。
そんな顔しなくっても大丈夫よ。私、先生に誘拐されたこと暴露しないから
安心して。……だって私、もうすぐ死ぬんでしょ」
「えっ!」
「先生はとっくに知ってたんでしょ。もう長くないって」
「そ、それは……」
「だから先生も私のことなんか忘れて小説家に戻りなよ。こんなトコさっさと
引き払ってさ」と彼女は床に並べられたテスト用紙や漢字ドリルを再び鷲掴み
するとそれらを力任せにゴミ箱にねじ込んだ。
「ダメだよ! そんな事しちゃ!」
「どいてよ! 先生!」
「かおりちゃん!」
『こんなの! こんなの! なんの意味もなかったんだから!』と目に
薄っすら涙を浮かべながら何度もゴミ箱にねじ込む彼女の腕を僕はとっさに
掴み、そしてその場に跪いた。
「冷静になろうよ。ねっ、かおりちゃん」
「もう分かったから、その手放してよ! 痛いじゃない」
「あっ、ごめん。でさぁ、かおりちゃん、どこか行くアテでもあるの?」
「そんなの先生には関係ないでしょ!」
「もし、かおりちゃんさえ良かったら今までどうり一緒に暮らさない?」
「イヤよ。私はあと少ししか生きられないのよ。だから私がやりたいように
やるの、文句ある?」
「かおりちゃんのやりたい事ってそんな男を挑発するような恰好してパパ活
する事なの? それってホントに楽しい? 後悔しない?」と扉に向かおう
とする彼女に対し僕は必死に呼び掛けた。
「誘拐犯から説得されても響かないよ、先生」
「そ、そうだよね」「あっ、いい事思いついた!」
「まだ、何かあるの?」
「少し先になるかもしれないけどさぁ、飛行機に乗ってどこか行こうよ!
どうかな、かおりちゃん?」
「日雇いじゃ到底無理でしょ、先生」
「あっ、じゃ~ 久しぶりに外食なんてどう?」
「もうやめて、先生」
「お願いだから。かおりちゃん、考え直してくれないかな」
「哀れな先生、さよなら。元気でね」
〈バタン!……〉
僕の必死の引き留めも空しく彼女は僕の元から去ってしまった。
僕はゴミ箱から一枚一枚丸められた用紙を丁寧に取り出し、再び床に並べた。
そして僕は破れないように細心の注意を払いながらシワを伸ばし始めた。
とめどなく溢れる涙が用紙をひたひたと濡らしてゆく。
彼女の心を込めた文字が歪んで見える。
次第に目の前が滲み何も見えなくなった。
それでも僕は懸命に伸ばし続けた。
まるで懺悔するかのように。




