124話 手負いの獣は狂気に猛る
追い詰められた広瀬が逃げ込んだのは、人気のない体育館裏だった。
かつて広瀬が俺にすべての罪をかぶるように提案した場所。だがあの時とは立場が逆転している。
「……」
到着した俺たちを出迎えたのは、広瀬の憎しみに染まった視線だった。
先に追い付いた高野と庭は、広瀬の放つ怒りや憎しみといった感情の波に気圧され、近づけずにいた。
俺はそんな二人を置き去りに、広瀬の目前に立つ。
「陽介ぇ……、よくもやってくれたなぁ。お前のおかげで俺がこの2年間で築いてきたもの、全部が水の泡だ」
「良かったじゃないか。これでもう自分を偽らなくて済むだろ。あんな気持ち悪い笑みを貼り付けてるより、そうやって睨みつけてる方が似合ってるぞ」
「……黙れ」
「積み上げてきた人気も、信頼も。たった一つの真実ですべてが崩れ去る。嘘で塗り固められたお前には似合いの最後だよ」
「黙れッ!」
悔しさに歯を食いしばる広瀬は、なお一層憎しみを宿した瞳で俺を見る。
俺はその視線を無感情に受け止めた。
「嘘で塗り固めることの何が悪い! どうせ誰も本当の俺のことなんて興味ないんだろ!? 成績優秀で、スポーツも万能で、何でも笑顔で受け入れてくれる、そんな広瀬優利をみんな求めてるんだよ! 常にトップでなきゃ、完璧でなきゃいけないんだ。中途半端は許されないんだよ!」
その叫びは必死だった。なにか巨大なものに追われているような、そんな恐怖を滲ませる叫びだった。
何を恐れている? 人気を失うことで自分の地位が危ぶまれることか?
「俺は、俺はっ! お前とは違うんだよ! お前みたいに誰からも期待されない、堕落しても誰も咎めない、自分の好きなことだけやって、なんの苦労もせずに生きてきた奴には分かるはずもないッ! お前には分かるか? あまりにも優秀な兄姉を持つ弟の気持ちが。どれだけ努力しても親にすら認められないこの気持がッ!」
「それは――」
「分かるはずがない!! 幼い頃から兄や姉のようになれと言われ続け、どんなにいい成績を収めようと、周りから慕われようとも、俺は認められることはなかった! 赤点をとって補習になってもヘラヘラ笑っているお前には分かるはずもないんだ!」
……そうか。こいつは自分らしくいることを否定されたんだ。
きっと幼い頃からそうだったのだろう。優秀な兄姉たちの後を追うことを期待され、進む道を定められる。
当然そうあるべきだと。そう思われているから、どれだけ努力しても褒めてもらうことすらなかったのかもしれない。
――だとしても。それは今、関係のない話だ。
どれだけの理由があったとしても、雪芽を苦しめていい理由にはならない。
「ああ、分からないし、分かろうとも思わない。俺が知りたいのはそんなことじゃないんだよ、広瀬」
俺は湧き上がる感情を抑えるために固く拳を握り込む。
この質問に対する答え如何ではこの拳を振り上げてしまいそうだが、それは最後、俺の理性が怒りで蒸発してからだ。今はまだ堪えられる。
「お前はどうしてそこまでして雪芽をそばに置いておきたかったんだ? ただ恋人がほしいだけなら別に雪芽でなくても良かったはずだ。それも完璧な広瀬優利とやらのために必要だったことなのか?」
だから問う。何故雪芽だったのか。そうまでした理由とやらを。
俺の質問に、広瀬は一瞬呆けたような表情を浮かべた後にクツクツと笑い始めた。
「ははっ、恋人? 俺が恋人がほしいばかりに雪芽を奪ったとでも思っているのかい? まぁ、半分あたりで半分はずれってところだな。恋人が必要だったのは間違いじゃない。そして完璧な広瀬優利のために雪芽がその恋人でなくてはいけなかったことも」
広瀬は先程までの余裕のない表情に、少しだけ笑みを浮かべて語り始める。
「先に言っておくが別に俺は恋人が欲しかったわけじゃない。正直面倒だし、いないほうが俺としては都合がいいんだけどね。でもこの時期、俺には恋人が必要だった。互いに愛し合っていなくてもいい、形だけの恋人がね」
「なんのために……?」
「簡単さ。大学受験だよ」
「……は? 大学受験?」
俺は思わず間の抜けた声を出してしまう。それほどに広瀬の発言は理解できないものだったのだ。
大学受験といえば、俺たちも来年から受験に向けて動き出すし、今から受験について考え始めるのはおかしくもない。むしろ正しいことだと言えるだろう。
だけど、どうして大学受験のために恋人が、それも互いに好きでもない形だけの恋人が必要なんだ?
「……やっぱり。そうだったんだね、優利」
何も理解できていない俺の後ろで、庭が腑に落ちたように言葉をこぼす。
思わず、俺は答えを求めて後ろを振り返った。
「どういうことだ、庭」
「優利はね、受験勉強に集中したかったんだよ。そのためには偽物の恋人が必要だった。そうでしょ?」
「その通りだよ、ヒナ。俺には煩わしくつきまとってくるファンの女子たちを撒くために、恋人が必要だった。彼女がいるなら自分にはもうチャンスがない。そう思わせるためにね」
それが当然のことのように語る広瀬を、俺は呆然と見つめていた。
自分が勉強に集中するために、人よけとして雪芽を彼女にしていた? そんなバカな理由で雪芽を……?
「……は? そんなことのために……? なら、なにも雪芽である必要はなかったはずだ! それこそ誰でも良かっただろ!?」
「何を熱くなってるんだよ、陽介? それに誰でもいいわけじゃなかった。まず俺を好きでないこと。これが前提条件だ。俺のことが好きだと恋人ごっこで勉強の邪魔をするだろ? だから形だけの恋人である必要があった。
そしてもう一つ、雪芽である必要だが、仮初といえど俺の彼女になるんだ。それなりに教養があって、中身外見ともにも高水準である必要がある。そうでないと両親や周囲から認めてもらえないだろうからね」
「…………」
「俺は高校受験を一度失敗している。だから後がないんだ。大学は親の言うとおりのところに行かないといけないんだよ」
俺は広瀬に返す言葉を見つけられなかった。
それは哀れみや呆れからではない。ただ、腹の底から湧き上がってくる怒りで頭を支配され、思いが言葉になる前に蒸発してしまっていたんだ。
親の言う通りのいい大学に行くために、近づいてくる女子を遠ざけるために、たったそれだけのために雪芽に近づいたのか? 周囲に対する体裁のために、雪芽をあそこまで苦しめたのか?
そんな、そんな理由で、雪芽を死の淵まで追いやったっていうのか?
「だけどそれも全部終わりだよ。陽介、お前のせいでな……!」
憎しみを込めた瞳で睨みつける広瀬を、俺は射殺さんばかりに睨み返す。
……こいつは狂っている。歪んでいる。それはきっとこいつだけのせいじゃないだろうけど、それでも広瀬のしたことは広瀬自身の罪だ。
贖わせてやる。必ず、どんな方法をとってでも。お前のやったことがどれだけ重い罪なのか、思い知らせてやる。
「な、なんだよその目は!」
「……広瀬、俺は今怒ってるんだよ」
「怒ってるだって? ハッ! それはこっちだ。俺の高校生活のすべてを破壊して、完璧でなくちゃいけない俺の人生に汚点を残した! 今に見てろよ。たとえ俺一人になったとしても必ずお前に贖いをさせてやるからなぁッ!」
「……贖い? 俺が? お前に?」
「そうだ! 俺はまだ負けてない! お前になんて負けやしなんだからさぁッ! ははッ、アハハハハハッ!!」
気が狂ったように笑い出す広瀬。俺の後ろで息を呑む雪芽や夏希の気配を感じる。
食いしばった歯が、ギリリと音を立てた。
……こいつは、人をなんだと思ってるんだ。
自分の目的のためなら道具のように人を使い、それを当然だと思っている。
挙句の果てに俺は負けてない? こいつにとってこれは勝負なのか? あれだけのことをして勝った負けた、だと? ふざけるのも大概にしろよ。
「優利、もうやめてっ!」
俺が怒りのままに口を開きかけた時、庭が飛び出した。
庭は広瀬に駆け寄ると、すがるように肩に手を添え、寄り添う。
「やめろヒナ。邪魔するな」
「ヒナ、もうこんな優利を見ていたくないよっ! いつもの優しい優利に戻ってッ!」
「こいつはッ、俺から全てを奪ったんだぞ!? 何もかも失った! もう俺には何一つ残ってやしないんだよッ!」
「ヒナたちがいるじゃんッ!」
その一言は、広瀬に届いたのだろう。
復讐に燃え、何もかもを投げ出して怒りに支配されていた広瀬に、ほんの少しの冷静さを取り戻させた。
怒りで燃えていた広瀬の瞳は、涙で濡れた庭の瞳と交錯し、徐々に穏やかな光を取り戻していく。
「ヒナと明がいるじゃん。ヒナたちはずーっと優利のそばにいて、優利がどれだけ苦しんできたかを知ってる。だからもうこんなことはやめようよ。ヒナたちはずっと優利の友達だから、優利の味方だから……」
「ヒナ……」
全身の力が抜けたように、広瀬は地面に座り込む。
……これで、庭や高野に頼まれていたことは完遂した、のかな。
俺としては振り上げた拳のおろしどころを失ったようで釈然としないが、庭や高野には世話になったし、ここは引くべきか……。
「……ああ、やっと分かったよ。合点がいった。ははっ……、こんなに近くにいたなんて、ずっと気が付かなかったよ」
「優利……」
「ヒナ、明。君たちだったんだね」
広瀬は立ち上がって庭と高野を見やると、柔らかな笑みを浮かべ、言った。
「俺の真の敵は」
それは、ゾッとするほど冷たい笑みだった。
本当の意味ですべてを失った男の、冷え切った心の現れだった。
「漏れるはずのない情報が漏れ、陽介には到底できないはずの俺を知り尽くした動き。陽介に協力者がいることは気づいていたけど、まさかこんなに近くにいたなんて」
「ゆ、優利……?」
「そうだよ。今思えばお前たちは俺をかばおうとしなかったよな? 心配する素振りは見せていたけど、俺に手を差し伸べようとはしなかった。口では友達だと言っておきながら、こうして俺が堕ちていくのを望んでいたんだな?」
「ち、違うっ! ヒナたちはただ、優利にもっと自由にいてもらいたくてッ……!」
「そうだって! リンリンはいっつも無理してっから、俺たち心配だったんだよ! それに、めっちゃんやすけっちにやったことは悪いことだ。それを止めるのもダチの役目っしょ?」
「お前たちだけは俺の味方だと思っていたのに。なのに今もこうして俺を止めようとするんだな。本当に、残念だよ」
心底残念そうにそう言った広瀬は、少し悲しそうに見えた。
しかし、次の瞬間には顔に笑みを張り付け、意外な一言を発した。
「でももういいんだ。それは過ぎたことだし、俺が考えるべきはこれからのことだからね」
広瀬は庭と高野に頷きかけると、笑みを浮かべる。
一見して柔らかい笑みだ。でも、どうしても俺にはその笑みに暖かさを感じることができなかった。なぜならそれは、笑みというにはあまりに虚ろだったんだ。
「リンリン……。じゃあ――」
「だからヒナ。友達として一つ頼みを聞いてくれないかな?」
「なに……?」
「陽介の女になってこい」
「…………え?」
その場にいた全員が、動きを止めた。
皆理解できなかったんだ。広瀬の発した言葉の意味を。
「さっきヒナは言ったよな? 俺は何もかも失ったわけじゃない、自分たちがいるって。その時気づいたんだ! 俺にはまだヒナがいるじゃないか! 使える駒が俺の手元にはまだ残ってるんだってねぇ!!
さあヒナ、どんな方法でもいい。一発ヤって既成事実を作ってこい。それをネタに陽介の評判を地の底に落としてやる。そうすれば俺の罪も相対的に許される。完璧な作戦だと思わないか? なぁ!? アハハハッ!!」
……ああ、もう駄目だ。我慢の限界だ。何もかもかなぐり捨てて、一発殴ってやらなくちゃ気がすまない。
対話をして、和解でも試みようとしていたのか、俺は。そんな実現不可能なことを少しでも望んでいた事自体が腹立たしい。ただこの怒りを、暴力という形で広瀬に叩きつけてやらなければ、どうにかなってしまいそうだった。
「優利、なんで……?」
「なんでって、だってヒナは俺の友達なんだろ? 友達の俺がこんなに困ってるんだ。それを助けるために少しくらい体を張ってくれたっていいだろう? なぁ、あき――」
広瀬を殴り倒してやる。俺がそう思って一歩前に出た瞬間、俺の横を風が通り抜けた。
視界に映るその背中は、怒り猛る獣のようだった。
そいつは目にも留まらぬ速さで広瀬との距離を縮めると、大きく拳を振り上げる。
次の瞬間、鈍い音があたりに響き渡り、広瀬はたまらず地に膝をついた。
口の中を切ったのだろうか。広瀬の口元を伝う赤い血が、その威力を物語っていた。
「ったいな……。なにするん――」
「……ざけんじゃねぇぞ、優利」




