108話 見舞いの品は人によりけり 弐
乗り込んだ電車の中は、帰りのサラリーマンたちでそれなりに混み合っていた。
まぁ、この人たちも俺の降りる駅につく頃には、その殆どが降りてしまうのだけど。
俺は寒さで悴む手に、生暖かい息を吹きかける。
ふと、自分の掌が目に入った。様々な皺が縦横無尽に走っている。よく見慣れた俺な手だ。
この皺から未来や過去が見えるもんなんだな。俺にはさっぱり分からない。
自分の掌をじっと見つめながら、俺はさっき飯島さんに言われたことを思い出していた。
「与えられた選択肢を、与えられた答えを選ぶんじゃない、か……」
人生の大事な選択は自分で責任を持ってしなくてはいけないと、飯島さんは言った。この選択は俺の人生を大きく左右すると。
人生なんて、そんな途方もなく先の未来のことは俺には分からないし、いまいちピンとこない。
でも一つだけ分かるのは、今の俺はとても大きな分岐点にいるということ。この先に続く未来が全く違う形になってしまうような、そんな分かれ道に。
思えば飯島さんと出会う前にもそんな分岐点はあった。雪芽を救うため、いろいろな選択をした。試行錯誤を重ねて、たった一つの正解を求めて。
俺はきっと慣れてしまったのだ。飯島さんに頼り切ることに。
飯島さんが言う一人で抱え込むなというのは、自分の抱えているものを他人に全てぶちまけることじゃない。抱えるものが重くて一歩も前に進めなくなってしまったとき、そのうちの少しを一緒に背負ってもらう。そうしてまた前に進んでいける。そういうことなんじゃないか。
頼りきりじゃだめだ。最初から飯島さんが何とかしてくれるって思い込んでいた。
他でもない、俺がやるんだ。俺が雪芽を救うんだ。
掌を握りしめ、俺は車窓の向こうの景色を見る。
一面を銀で埋め尽くそうとしている雪は、まだ止む気配はなかった。
――――
家に帰ると晴奈が駆け寄ってきて、俺の顔を見るなり安堵したようにため息をついた。
それでも次の瞬間にはまた心配そうな表情に戻っていて、何かを言いかけたがすぐに口を噤んでしまった。
「お兄ちゃん、明日もお見舞い行こ」
そして代わりにそんなことを提案する。
今日も鉄信さんたち忙しそうだったし、明日もまだまだ忙しいんじゃないだろうか。
「連日は迷惑じゃないか?」
「少し顔を出すくらいならきっと大丈夫だよ」
「そうかなぁ?」
「そうだよ」
俺は脱いだ靴を下駄箱にしまって、廊下を歩き出す。
後ろからついてくる晴奈の真っ直ぐな視線を痛いほど感じる。
「お兄ちゃん、見つからなかったんでしょ? 自分に今できること」
思わず足を止めた。まるですべてを見透かしたかのようなその言葉に、足を縫い留められてしまったかのようだった。
振り返ると、晴奈は少し怒ったような表情で俺を見ていた。
何を怒るようなことがあるのだろうか。思い当たる節がない。
「当然だよ。お兄ちゃんが思っているようなことは、今のお兄ちゃんにはできないもん」
「どういうことだよ?」
「お兄ちゃんは雪芽さんのことを助けてあげようって考えてたんでしょ。倒れちゃった雪芽さんを助ける方法を探しに行ったんでしょ? でもそんなことできるわけないよ」
「どうしてそのことを……」
「何年一緒にいると思ってんの? バカ兄貴の考えそうなことくらい分かるっての」
怒ったような態度はそのままに、腰に手を当てて呆れたようにため息をつく晴奈。
「でも、俺には助けられたはずなんだ。雪芽を救ってやることが、できたはずなんだ」
だけど、晴奈の言うとおりかもしれない。自分で考えることを放棄していた俺には、雪芽を救うなんてこと……。
徐々に俯いていく視線が、ついには晴奈の足元を映し出した。
「救うって、お兄ちゃん自分がヒーローにでもなったつもりなの?」
「……え?」
顔を上げると、晴奈は当然だと言わんばかりの声音でこう言った。
「お兄ちゃんはヒーローでもなければお医者さんでもない。ただの高校生なんだよ? 雪芽さんの病気を治せるような力は何も持ってないじゃん。雪芽さんを助ける方法なんて見つからないのが普通なんだよ」
「それが、普通……?」
「そう。あたしも含めてだけどさ。だからあたしたち普通の人にできるのは、早く良くなりますようにってお祈りするくらいしかないじゃん? 一番近くで一生懸命お祈りすれば、もしかしたら神様が雪芽さんのこと助けてくれるかもしれないし」
それは子供が考えるような幼稚で、当たり前の方法だったけど、とても現実的で、希望にあふれていた。
……そうか、俺はそんな当たり前のことすらも見落としていたのか。
いつからか自分には特別な力があるって思い込んで、すべてを華麗に救ってみせるヒーローのようにならなくちゃって思ってた。
でも変わったのは世界の方だ。俺の力は何も、あの夏休みの前から何も変わっていない。ただの高校生のままだ。
「そっか……。そうだな。俺たち、普通の人間だもんな……」
「そ。だから明日もお見舞いに行こ。あたしたちにできることはそれくらいだよ」
特別な方法なんてない。俺にできるのは俺にできることだけなんだ。
俺は夏休みのときからしてきたように、雪芽のそばにいてやればいい。決めたじゃないか、あいつを照らす太陽になるんだと。
不安も緊張もすべて溶かして笑顔に変える。そんな特別な存在になりたいと、そう決めたじゃないか。
今は雲に隠されてしまっているかもしれないけど、止まない雨はなくて、明けない夜はなくて。じゃあ晴れない空もないはずだ。
降り続ける雪を、明けない夜を、立ち込める暗雲を、払っていこう。きっとそのすべてを払ったとき、俺は雪芽にとっての太陽になれる気がするのだ。それは小さくて、今にも沈んでしまいそうに頼りないかもしれないけど、いつもあいつの隣で、あいつの笑顔のために昇る太陽だ。
そんな未来が訪れるのはいつになるかも知れない。でもそれは、今このときから始まるのだ。
「ああ、行こう。明日も、明後日も、明々後日も。それで早く良くなりますようにってお祈りしよう」
「そうだよ。……まったく、バカ兄貴はやっぱりバカだね」
晴奈はもう怒ったような表情じゃなかった。晴れ渡った空のように清々しく、そして温かい笑みだった。
俺はそんな晴奈の頭を軽くゴツく。
「お兄ちゃんのことをあまりバカバカって言うんじゃありません」
「ありゃ、バレてたか」
そして俺たちは笑った。何がおかしかったんだろうか、お互いの笑う姿を見て余計に笑えてきて、終いには腹を抱えて笑い転げた。
……あぁ、こんなに腹の底から笑ったのはいつ以来だろう。もうずっと昔のことのように思う。
もうずっとずっと、気が遠くなるほどずっと昔のことのように、思う。
――――
次の日、俺達は雪芽のお見舞いに行くために一度集まることにした。
というのも、夏希に連絡をとってみると、二つ返事で行くと言い出したのだ。
体育祭のときとは大違いだが、あのときは喧嘩していたし、仕方なかったのかも知れない。
「それで、ユッキーは大丈夫なの?」
顔を合わせて早々、夏希は真剣な表情をしてそう言った。
学校が休みになってから初めて会ったが、夏希は何も変わっていなくて少し安心した。
「俺にもよく分からないんだ。容態は安定してるようだけどな」
「そう……。それにしても綺麗な花ね。なんて花?」
夏希は暗くなった話題を変えるように、俺の手に持った花について尋ねた。
お見舞いに行くというと、母さんが持って行けと庭の花壇から採ってくれたものだ。
シンビジウムという蘭の一種らしい。冬なのに園芸をしている母さんに驚かされたが、助かった。
赤、白、ピンクと随分と賑やかだが、真っ白な病室にはちょうどいいだろう。
「シンビジウムだってさ。母さんが持たせてくれたんだ」
「へぇ、綺麗だしきっとユッキーも喜ぶわよ」
「……ああ、そうだな」
そうして俺たちは歩き出す。今日も深々《しんしん》と降る雪が止む気配はない。
手に持ったシンビジウムはこの寒さにも負けずに色鮮やかに揺れている。
事前に連絡をしたときに聞いた話では、雪芽はまだ目を覚ましていないらしい。それでもお見舞いに来てくれると嬉しいと言ってくれたので、花を花瓶に挿してお見舞いの言葉を告げたら帰るつもりだ。
「そういえば夏希はなにか持ってきたのか?」
「私はこれ」
夏希は自信あり気な笑みを浮かべて手に持った紙袋から折り鶴を取り出した。
1000羽とは行かないまでも結構な数だ。
その光景に、俺は胸を刺すような鋭い痛みに襲われた。
――知っている。
俺は、知っている。この光景を。この後に放たれる夏希の言葉を。
「あまり時間なかったから100羽くらいなんだけどね。折れるだけ折ったから正確な数は覚えてないんだけど」
「でもすごいですね! あたしもなにかそういうの作ればよかったかも」
「でも私とユッキーの友情パワーで10倍だから問題なし!」
「なんですかそれっ」
夏希と晴奈の二人が楽しげに笑い声を上げる。
……いやだ。やめろ、やめてくれ。
「晴奈ちゃんは何か持ってきたの?」
「あたしのは、別に大したものじゃないですよ」
「なによー? 大事なのは気持ちなんだから、すごいかどうかなんて関係ないって! ねぇ、陽介?」
「あ、あぁ……」
晴奈は夏希に後押しされる形でバッグからそれを取り出した。
見覚えのあるフェルト生地で作られた手作りのお守り。刺繍で「病気平癒」と綴られている。
「お母さんと一緒に作ったんです。雪芽さんが早く良くなりますようにって」
「なんだすごいじゃない! 私のなんかよりよっぽど効果ありそう! ね、陽介? ……陽介?」
――知っている。
俺は知っている。前にも見たことのあるこの光景を。
雲が空を覆う蒸し暑い夏の日が、あの日の喧しい蝉の声が、蘇ってくる。
あの地獄のような夏の日が、まるで悪夢は繰り返すのだと告げるかのように、俺の肩に手を置いた。
やめろ、やめろ、やめろ。お前は過去なんだ。今はもう夏じゃない、あの夏じゃないんだ。
繰り返す世界は終わって、もう俺は未来に進んだんだ。あの時とは違うんだ!
「やめろッ!」
「きゃっ!」
俺が肩に置かれた手を振り払うように腕を上げると、すぐ隣で小さな悲鳴が上がった。
見れば夏希と晴奈が驚いた表情で俺を見ていた。
「何すんのよ!? 様子がおかしいから心配してあげたっていうのに!」
夏希は痛みを誤魔化すように手を擦り、むくれている。どうやら俺の肩に手を置いていたのは幻覚ではなく夏希だったようだ。
俺は何をしているんだ……? 俺は、過去と今を重ねて恐怖に囚われていた……?
「す、すまん……。ちょっと気分悪くて……」
「ちょっと、ほんとに大丈夫? 顔色悪いわよ?」
「お兄ちゃん……」
「大丈夫だ。心配してくれてありがとう。ほら、行こう」
一歩踏み出せば、夏の喧騒は消えていた。足の裏から返ってくるのは積もったばかりの雪の沈む感触だけ。ぎゅっという細かな振動だけだ。
……大丈夫、大丈夫だ。今はあの夏とは違う。違うんだ。だからきっと大丈夫だ。
「……大丈夫なんだよ」
雪がすべてを飲み込んでいく。歩いていく道も、脇に広がっていた田んぼも、家々の屋根も、目に映るすべてを白一色に染めるべく、飲み込んでいく。
そしてこの世界の音も、俺の発する声すらも飲み込んで、なお降り続く、積もっていく。
そのことに、俺は一抹の不安を感じた。景色も音も、全てを飲み込む雪に、俺も飲み込まれてしまうのではないかと。
雪は降り止まない。
飲み込まれてしまわぬよう、俺は震える体を寒さのせいにして、必死に歩いた。
手に持ったシンビジウムだけが、この白銀の世界の中で色鮮やかに揺れていた。




