6‐8
薄暗い廊下の中、辿り着いた扉の前……ノックしようとした手が、躊躇で止まる。
何かあれば遠慮なく来ていいとは言われているが、今は既に夜半に近い刻限だ。まして今、私が訪ねようとしているのはアスティではない。流石に夜遅く、異性の部屋を訪問しても良いものかと、少々迷いが生じたのだ。
もっとも彼が相手なら、そう変な噂にもならなそうだが。それに彼はかなりの夜行性で、どれ程疲れていても夜の方が頭が冴えると言っては、今の様に気になる事がある際は特に、明け方近くまで起きている事も珍しくないとレディアさんから聞いている。ならば、相談事は寧ろこの時間の方が向いていそうだ。明日にはまた、旅立つ予定でもある事だし……彼を訪ねようと決めた時の思考を再び繰り返した後、思い切って戸を叩く。
「はいはーい。―― おや、エルフィンちゃん。どうしたの? 猫と遊びたくでもなったかい?」
幸い、狙い通りに未だ起きてはいたものの……そんな、ただのご挨拶か際どい冗談か判らぬ言葉と共に迎えてくれたアスティの「お兄様」に、訪問の意図を伝えて中へ入れてもらう事にした。
「うーん。『夢の遣い手』が視た、過去と……それに、もしかすると現在の“魔王の心理”かぁ。そりゃまた随分、興味深いネタをくれるものだねぇ」
ターコイズの瞳が、まるで猫のそれの如くきらりと光る。如何にも楽しげな、獲物を見つけた時の猫の様ではあるが……その実、思考は既に半分以上がどこかに飛んでいる様で、その瞳にじっと見つめられても特に居心地が悪いとか、そういう感じは受けなかった。
彼が次に言葉を発する時を待ちつつ、勧められたカップを手にする。中身は濃いめのココアだった。ミルクではないんだな、と妙な所で思わずリンさんの「猫度」を測ってしまう。
―― テレットから無事ユグドへと着いた時、アスティ達のご両親は、それはもう大喜びで出迎えた。何せテレット探検のあの日以来、ずっとリンさん探しの旅に出たままだったのだから、無理はないだろう。特にお父さんの方は、アスティを抱き上げてそこら中走り回らん勢いで、今夜はご馳走だと言いつつ頭を撫でまくっていたが……後でこっそり彼女が言うには、
「お父さん、お兄ちゃんの事は全然心配してなかった。ちょっと可哀そう」
と不満の残る対応だったらしい。まあ、そこは彼女の母親曰くの“家出経験”の差だろうとは思うが。「アスティ、お前もついに、家出デビューかい?」と笑って言っていたあのお母さんは、結構強い人だと思ったりしていたのは、アスティには内緒である。
「―― 僕はさぁ。世の中には『譲れる戦い』と『譲れない戦い』があると思うんだよねー」
宿に落ち着くまでの経緯を思い出していた時、ふいにリンさんが語り出した。けれど、その言葉に少々、戸惑う。私は彼に、「乗り移られた人間でも、成りかけでもない“魔王本人”の人柄」を彼の“勘”で探ってもらおうと、そう思って訪ねてきたのだが……何しろリンさんの“勘”は見聞する限り、あまりに秀でた能力で、それはあのコーストの占い師さん並の的中率と言ってもいい程だ。或いは彼の『精霊の加護篤き者』として最大の特性は、その“勘”なのではないかと思わせる位に ―― 無論、彼の歴史家としての知性・分析力や、アスティと大差ない神官レベルの魔法能力、更には槍や短剣を使いこなす戦闘力なども、一般人からすればかなり優れてはいるけれど。
「『譲れる戦い』なんてのは、そこらにありふれてるもんさ。例えば人間同士の争いなんて、お互い相手の立場に思いを馳せてみたり自分の我を抑えれば、すぐに止む。マナプール王みたいに、我が強すぎる人間には難しい話かもしれないけど、でもとにかく、止める事は可能さ」
しかし彼は、私の困惑には気づかぬ素振りで話を続けた。
「でもね……魔王との戦い、これは“お互いが譲れない”ものだって思うんだよねー。人間からすれば、自分達の命を脅かす魔王は、例え本人が悪者じゃなかったとしても倒さなければ自分が生きていけない……魔王からすれば、自身の意思と関わらず魔物が生み出されていく以上、世界を守りたいのだとしたら何としても人間に自身を倒してもらわなくちゃならない。互いが互いを思い、憐れんだとしたって、この組み合わせはどうしても“戦うべき間柄”な訳だ。―― 僕は、あんまり『宿命』だの何だのって言葉は好きじゃないけどさ、この場合は使わざるを得ないって言うか~……だねぇ」
そこで一旦言葉を切ると、リンさんは自分のカップを傾けた。微かに立ち上る湯気の行方を愉しむ様に目で追いかけ ―― その瞳がこちらに向き直る。
「エルフィンちゃんは……魔王は、倒すべきだと思う?」
それは未だ、私には判らない。だからこそ……そこでふいに、気づく。
こちらをじっと見据える、その双眸が宿す“真意”が、遅まきながら見えてくる。そして、それ故に今までは何も感じなかったその視線から、身を隠したい衝動に駆られ始めた。
私は……無意識に、リンさんに「魔王を倒すか否か」の判断を下してもらおうとしていたのだ。
魔王本人の人物像を彼に探ってもらった所で、それは結局、推測の域を出ないもので。その答え……魔王が「善か、悪か」を聞いた上で今後の自分の動きを決めたとしたら、それはつまり、リンさんが私の行動を決めたと言う事になる。
それでは駄目なのだと、肝心要の決断は自身で下すものなのだと気づかせる為に、敢えて彼は当初の相談内容には一切触れず、今の質問を投げかけてきたのだろう。日頃は愛嬌さえ感じるターコイズの双眸が、まるで厳然たる裁判官のそれの如く思え、知らず平伏したい様な気分に陥ってしまった。
「あはは、そう難しく考えなくっていいさ。―― どんな答えだって構いやしないよ」
自分の意思が伝わったと見て取ったか、或いは本当に額面通りなのか……そう言ってカップを傾けきったリンさんの表情は、相変わらず掴みどころのない“猫のような”ものだった。
「スバノンみたく、ただ真っ直ぐに魔王退治に向かうも良し、僕みたいに事なかれへ逃げるも良し。精霊がどう言おうと、エルフィンちゃんが『勇者』になるかどうかは、エルフィンちゃん自身が決める事さ。何なら他に誰か、それらしい人間を見つけて、エルフィンちゃん自身は、レディアみたく“手助けに終始する”って選択もあるわけだ」
そう言うと彼はおもむろに立ち上がり、近寄って来て……その手がぽふっと私の頭に乗り、かなり大雑把に髪をかき混ぜた。
「君は君の思う通りにやれば、それでいい。その決断に文句言う資格のある奴なんて、いないんだから ―― もし、そんなおバカさんがいたとしたら、そいつには僕がきっちり“お仕置き”してあげるからさ♪」
―― 実際、変な話ではあるが。つい今し方は相手を厳しく弾劾する検事の様に感じられた彼が、今度は深い愛情で子を包む父親の様に思えて仕方がなかった。ほんの一瞬でこうまで変貌できる彼は一体、幾つなのだろうかと考えてしまう。いや、知ってはいるのだが……あのアスティと僅か数歳違いの青年だとは到底思えぬ精神の在りようだと、つい疑ってしまうのだ。
「明日出立して、ひとまずアリシアへ行くとして。その先、何か手がかりがあれば良いんだけどね。僕たちだけでは、現在の魔王の居場所を見つけ出すのは難しいとは思うけど……少なくてもユグドを出れば、その先で何かが見つかる。僕の勘はそう言ってるなぁ。―― 頑張ってね」
その言葉の、最後が少々気になって彼を見る。まるで、リンさん自身は旅に出ない様な言いぶりだったからだ……すると案の定。
「あー、僕はちょっとここに残ろうかなって。テレットにいる時は、アリシアに帰ろうかとも思ってたけど……調べ物はここでもできるし、それ以外にも少し気になる事があるんだよねー。あぁ、大丈夫。アスティは絶対エルフィンちゃんについていくから」
彼はそこで、いつもの茫洋とした笑顔を浮かべ、しかし言葉はきっぱりと断言してみせた。
「アスティは……例え君の行き先がどんなものだろうと、エルフィンちゃんについていくさ。だから、エルフィンちゃん ―― アスティの事、頼んだよ」
生憎、その発言の真意は今は解らなかった。勿論、頼まれて断る理由はないので頷いてはおく。
そして、話はほぼ終わったと感じたのと、かなり夜も更けてきた為に、時間を取らせてしまった事へのお詫びと相談に乗ってくれた事への感謝を述べると、そのまま彼の部屋を後にした。




