天才の敗北、その先へ
――生まれて初めてだった。
レオンハルト・フォン・グランヴェルは、王立魔導騎士学院の闘技場に立ち尽くしていた。
試合は、とうに終わっている。
観客も、教官たちも、すでに姿を消していた。
それでも、彼は動けなかった。
(……三秒)
わずか三秒だった。
十九年間の人生で、これほど短く、これほど完膚なきまでに敗北したことはなかった。
王国騎士団第一騎士隊所属。
《白銀の剣》の異名。
そして、固有スキル《絶対剣域》。
幼いころから天才と呼ばれ、数え切れないほどの剣士を打ち破ってきた。
だが今日、そのすべてが、一人の少年の前で意味を失った。
ミソノ・フォン・アルヴェイン。
十四歳。
《スキルなし》。
「……馬鹿な」
レオンハルトは、自分の右手を見つめた。
剣を握る手が、かすかに震えている。
恐怖ではない。
悔しさでもない。
もっと別の感情だった。
(……あの少年には、何が見えていた?)
脳裏に、試合直後の言葉が蘇る。
『それ、使い方が違うんじゃない?』
『剣を振らなくてもいいんじゃない?』
『領域そのものを刃にすればいい』
「……領域そのものを、刃に……」
レオンハルトは呟いた。
《絶対剣域》。
その能力は、剣の届く範囲を拡張するもの。
少なくとも、彼はそう教わってきた。
歴代の使い手たちも、同じように扱っていた。
剣を振る。
領域へ斬撃を伝える。
離れた敵を斬る。
それが《絶対剣域》のすべてだった。
……本当に?
レオンハルトは、ゆっくりと顔を上げた。
(……私は、一度でも疑ったことがあったか?)
答えは、なかった。
◆
その夜。
王立魔導騎士学院の第二訓練場。
月明かりに照らされた石畳の中央に、レオンハルトは立っていた。
周囲に人影はない。
彼は静かに剣を抜いた。
「……《絶対剣域》」
銀色の光が、足元から広がった。
直径十二メートル。
いつもどおりの領域。
レオンハルトが剣を振るう。
離れた場所に置かれた木製の標的が、真っ二つになった。
成功。
これまでなら、それで終わりだった。
だが――。
「……違う」
レオンハルトは首を振った。
「これでは、何も変わっていない」
彼は剣を鞘へ収めた。
そして、再び領域を展開する。
(……剣を振らずに斬る)
意識を集中させる。
標的を見つめる。
斬撃を生み出そうとする。
しかし、何も起こらなかった。
「……くっ」
もう一度。
さらにもう一度。
何度繰り返しても、標的は傷一つつかない。
汗が額を伝う。
呼吸が荒くなる。
(……やはり、不可能なのか)
そのとき、ミソノの声が蘇った。
『どうして円形なんだ?』
レオンハルトは、はっとした。
(……円形)
自分は、なぜ領域を円形にしている?
教本にそう書かれていたからか。
師がそう教えたからか。
それとも――。
(……そうでなければならないと、思い込んでいただけなのか?)
レオンハルトは目を閉じた。
足元に広がる銀色の領域。
その形を、少しずつ変えていく。
円が歪む。
輪郭が揺らぐ。
魔力が乱れる。
「……っ!」
領域が崩壊した。
レオンハルトは膝をついた。
荒い息を吐く。
それでも、口元には笑みが浮かんでいた。
「……動いた」
ほんのわずかだった。
だが、確かに領域の形が変わった。
これまで一度も起こらなかった変化。
それだけで十分だった。
「……もう一度だ」
レオンハルトは立ち上がった。
◆
どれほどの時間が過ぎただろう。
月はすでに高く昇っていた。
レオンハルトは、剣を鞘へ収めたまま立っていた。
足元には、細長く伸びた銀色の光。
円形ではない。
一本の線のように、石畳の上を走っている。
(……できる)
レオンハルトは確信した。
領域の形は、変えられる。
ならば。
その輪郭を、限界まで細くすればどうなる?
彼は訓練場の端に立つ石柱を見つめた。
銀色の光が、静かに伸びる。
石柱へ到達する。
そして――。
――スッ。
小さな音がした。
レオンハルトは息を止めた。
石柱の中央に、一本の線が走っていた。
次の瞬間。
上半分が、ゆっくりと滑り落ちた。
轟音とともに、石畳へ崩れ落ちる。
「…………」
レオンハルトは、自分の右手を見つめた。
剣は、鞘に収まったままだった。
「……斬れた」
声が震えた。
「……剣を抜かずに……斬れた……!」
レオンハルトは、その場に立ち尽くした。
十年以上。
十年以上、磨き続けてきた能力。
誰よりも理解していると思っていた固有スキル。
その使い方を、彼は今日初めて知った。
「……ミソノ」
レオンハルトは、夜空を見上げた。
「……お前は、一体……」
答えは出なかった。
ただ、胸の奥から湧き上がる感情だけは、はっきりしていた。
もう一度、あの少年に会いたい。
そして、聞きたい。
自分には見えなかった何が、彼には見えていたのか。
◆
翌朝。
俺は王立魔導騎士学院の食堂で、朝食を食べていた。
焼きたてのパン。
温かいスープ。
そして、香ばしく焼かれた肉料理。
(……学院の食事って、結構うまいんだな)
昨日の試験後、学院側から正式な結果が出るまで滞在してほしいと言われた。
そのため、昨夜は学院内の客室で過ごした。
せっかくだから、施設を見て回ろうと思っていたところだ。
「……あの」
ふいに声をかけられた。
顔を上げると、制服姿の少女が立っていた。
茶色の髪を肩まで伸ばした、俺と同じくらいの年齢の女の子だった。
「あなた……ミソノ・フォン・アルヴェイン様、ですよね?」
「そうだけど」
「やっぱり!」
少女の表情がぱっと明るくなった。
「昨日の試験、見てました!」
「そうなんだ」
「すごかったです! あのレオンハルト様に勝つなんて!」
「ありがとう」
俺が笑うと、少女は少し頬を赤らめた。
「……あの、もしよかったら……」
「ん?」
「今度、魔法のことを教えていただけませんか?」
「俺でよければ、いいよ」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ」
少女は嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます!」
そのときだった。
「ミソノ・フォン・アルヴェイン!!」
食堂に、大きな声が響いた。
振り返る。
入口に立っていたのは、銀髪の青年。
レオンハルトだった。
昨日とは違い、髪は少し乱れ、目の下には薄い隈ができている。
(……寝てないのか?)
レオンハルトは一直線にこちらへ歩いてきた。
周囲の生徒たちがざわめく。
「……レオンハルト様?」
「どうして学院に?」
「昨日の試験で負けたって噂、本当なのか?」
レオンハルトは周囲の視線など気にも留めず、俺の前で立ち止まった。
「……ミソノ」
「おはよう」
「昨日の話だ」
「……昨日?」
「《絶対剣域》だ!」
「ああ」
俺はパンを置いた。
「どうした?」
レオンハルトは、興奮を抑えきれない様子で言った。
「……できた」
「ん?」
「剣を振らずに、斬ることができた!」
「へえ」
俺は素直に感心した。
「よかったな」
「…………」
レオンハルトが固まった。
「……それだけか?」
「え?」
「私は、十年以上できなかったことを、昨夜初めて成し遂げたのだぞ!」
「うん。すごいじゃないか」
「……お前は……」
レオンハルトは額に手を当てた。
「……本当に、何者なんだ」
「ミソノだけど」
「そういう意味ではない!」
周囲の生徒たちが、驚いたようにこちらを見つめていた。
◆
「……それで」
俺はスープを飲みながら尋ねた。
「領域の形は変えられたんだろ?」
「ああ。円形から細長い形へ変化させた」
「なるほど」
「その状態で魔力を集中させたところ、石柱を斬ることができた」
「へえ。じゃあ、次は複数かな」
「…………は?」
レオンハルトが目を見開いた。
「複数?」
「うん」
俺は指を二本立てた。
「一つ作れたなら、二つ作ってもいいんじゃない?」
「……待て」
「ん?」
「領域を……二つ?」
「ああ。できるなら、十個くらいあっても面白そうだな」
「……十個!?」
レオンハルトの声が裏返った。
俺は首を傾げた。
「無理なのか?」
「……いや……」
レオンハルトは言葉を止めた。
そして、ゆっくりと首を振った。
「……分からない」
「じゃあ、試してみればいい」
「…………」
レオンハルトは黙り込んだ。
俺は少し考え、続けた。
「ただ、全部同じ動きだともったいないかもな」
「……何?」
「一つは守り。一つは攻撃。別々に動かせたら便利だろ?」
「…………」
「例えば、正面の敵を斬りながら、背後の攻撃を防ぐとか」
レオンハルトは、まるで雷に打たれたような顔をしていた。
「……独立して……動かす……?」
「ああ」
「……領域を……それぞれ別の用途で……?」
「うん」
俺はパンをちぎった。
「その方が《絶対剣域》って名前に合ってる気がするけどな」
レオンハルトは、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……ミソノ」
「ん?」
「私は……昨日まで、自分が天才だと思っていた」
「実際、強いだろ?」
「……違う」
レオンハルトは首を振った。
「私は、自分が知っていることだけを磨いていた」
「…………」
「知らない可能性があることさえ、考えなかった」
その声には、悔しさよりも深い感情が込められていた。
「お前は、私が十年以上かけても見つけられなかった答えを、たった一度の戦いで見抜いた」
「……いや、そんな大げさな」
「大げさではない!」
レオンハルトは、真剣な眼差しで俺を見つめた。
そして――。
深々と頭を下げた。
「……感謝する」
「…………」
「お前は、私に新しい剣の世界を見せてくれた」
食堂が静まり返った。
王国騎士団第一騎士隊の天才。
《白銀の剣》レオンハルト。
その男が、十四歳の少年に頭を下げている。
「……ミソノ」
「……はい」
「私は、今日からお前を師と仰ぎたい」
「……は?」
思わず変な声が出た。
「いや、待ってくれ!」
「年齢も、身分も関係ない」
「そうじゃなくて!」
「私に新しい道を示したのは、お前だ」
「いや、普通にミソノでいいって!」
「……承知した、ミソノ殿」
「殿もいらない!」
レオンハルトは、初めて少しだけ笑った。
「……では、ミソノ」
「ああ。それでいい」
「今後とも、よろしく頼む」
差し出された手を、俺は握り返した。
「こちらこそ」
その瞬間。
周囲から、どよめきが起こった。
「……嘘だろ」
「あのレオンハルト様が……」
「十四歳の少年に……頭を下げた……?」
「しかも、師匠って……!」
俺は周囲を見回した。
(……なんか、大ごとになってないか?)
ただ、少し話をしただけなのに。
◆
昼過ぎ。
学院の客室へ戻ると、一通の封書が届いていた。
差出人は、学院長。
俺は封を切った。
中には、正式な合格通知が入っていた。
《王立魔導騎士学院》
《特例入学選抜試験結果》
《ミソノ・フォン・アルヴェイン》
《判定:合格》
「……よし」
俺は小さく頷いた。
これで、ひとまず目的は達成したらしい。
だが、その下に続く文章を読んで、俺は眉をひそめた。
《なお、貴殿の入学に際し、以下の特別措置を適用する》
《特例入学生ミソノ・フォン・アルヴェインは、学院長直属の監督対象とする》
「……監督対象?」
俺は首を傾げた。
(……何だ、それ)
さらに、その下には一文が続いていた。
《詳細については、後日、学院長より直接説明する》
「……面倒なことになりそうだな」
俺は書類を机に置いた。
窓の外では、学院の生徒たちが楽しそうに歩いている。
その中には、エルナの姿もあった。
金色の髪が、陽光に輝いている。
(……まあ、何とかなるか)
そう思いながら、俺は窓を閉めようとした。
そのときだった。
書類の裏側。
封筒に残っていた、もう一枚の小さな紙片が目に入った。
「……ん?」
俺はそれを取り出した。
そこには、たった一行。
手書きの文字が記されていた。
《今夜、学院長室へ来なさい。誰にも知らせず、一人で》
「…………」
俺は、しばらくその文字を見つめた。
そして、紙片を裏返した。
裏面には、見覚えのある紋様が描かれていた。
交差する二本の線。
その中央を囲む、奇妙な円環。
(……これ……)
胸の奥が、わずかにざわついた。
十二年前。
父さんの書斎で見つけた、あの古い本。
その表紙に刻まれていた紋様と――。
まったく同じだった。
「……どういうことだ?」
俺は紙片を握りしめた。
窓の外では、何も知らない生徒たちの笑い声が響いている。
だが、俺の視線は、もうそこには向いていなかった。
十二年間、途切れたままだった父さんの足跡。
その先へ続く道が、今――。
目の前に現れようとしていた。




