十二年後、スキルなしの少年
十二年後――。
「……遅い」
深い森の奥。俺は目の前に迫る巨大な牙を眺めながら、小さく呟いた。
灰色の巨狼が三体。いずれも背中に紫色の棘を生やし、口元からは黒い唾液を垂らしている。王都周辺では滅多に見かけない、危険度の高い魔獣だ。
そのうちの一体が、俺の喉元を狙って飛びかかってきた。
俺は半歩だけ身体をずらす。
牙が空を切った。
着地するより早く、巨狼の背後に回り込む。右手に持った木剣を軽く振るうと、巨体が横倒しになった。
「ギャウッ!」
続けて二体目。
背中の棘が紫色に輝き、無数の針がこちらへ向かって射出された。
(……全部で十三本。うち四本は時間差か)
俺は木剣を下ろした。
避ける必要はない。
指先をわずかに動かす。
すると、飛来していた棘が空中でぴたりと停止した。
「…………」
巨狼が唸る。
俺は停止した棘を眺め、少し考えた。
(……なるほど。棘そのものじゃなくて、表面の魔力が推進力になっているのか)
試しに、その流れを逆向きにしてみる。
十三本の棘が一斉に反転した。
「ギャウッ!?」
棘は巨狼の足元へ突き刺さり、地面が大きく抉れた。
驚いた巨狼が後ずさる。
その隙に、俺は木剣を横へ払った。
二体目が倒れる。
残る一体は、明らかに様子が違っていた。
ほかの二体よりひと回り大きく、額には黒い角が生えている。
どうやら群れの主らしい。
「グルルルル……!」
巨狼の身体から、紫色の霧が噴き出した。
霧は周囲の草木を瞬く間に枯らし、地面を黒く染めていく。
(……毒か)
俺はその場を動かなかった。
霧が身体を包む。
視界が紫色に染まる。
それでも、呼吸に乱れはなかった。
痺れも、眩暈も、痛みもない。
「……それで終わりか?」
巨狼が一瞬、動きを止めた。
俺は木剣を肩に担いだ。
「じゃあ、こっちの番だな」
次の瞬間。
巨狼の巨体が、真上へ跳ね上がった。
「ギャアアアッ!」
空中で身体をひねる巨狼。
しかし、足元には何もない。
何に持ち上げられたのかさえ、理解できていないようだった。
俺は左手を軽く下ろした。
巨狼が地面へ叩きつけられる。
轟音。
土煙。
そして、静寂。
「……ふう」
俺は木剣を鞘へ戻した。
三体とも、まだ息はある。
しばらくは動けないだろうが、命に別状はないはずだ。
(……魔力の流れを変えるだけで、ずいぶん違うものだな)
俺は倒れた巨狼を一瞥し、森の出口へ向かった。
十四歳。
ミソノ・フォン・アルヴェイン。
アルヴェイン伯爵家の嫡男。
そして、公式の鑑定結果は――《スキルなし》。
それが、今の俺だった。
屋敷へ戻ると、玄関にはユナが待ち構えていた。
「ミソノ様!!」
(……あ、まずい)
「また森へ行かれたんですか!?」
「ちょっと散歩に」
「散歩で木剣が泥だらけになりますか!?」
「……転んだんだ」
「嘘をつかないでください!」
ユナは俺の顔をじっと見つめた。
幼いころから俺の世話をしてくれている彼女には、どうやら隠し事が通用しないらしい。
「護衛の方から聞きましたよ! 危険な魔獣が出たそうじゃないですか!」
「うん。三体いた」
「三体!?」
「でも、もう大丈夫だよ」
「そういう問題ではありません!」
ユナは頭を抱えた。
「ミソノ様は、昔から本当に……!」
「ごめんって」
「毎回そうおっしゃいます!」
そのとき、廊下の奥から穏やかな声が聞こえた。
「ミソノ」
母さんだった。
ミレイア・フォン・アルヴェイン。
十二年前と変わらない優しい瞳が、俺を見つめている。
「またユナを困らせたの?」
「……少しだけ」
「少しだけ、ね」
母さんは苦笑した。
そして、俺の肩に手を置く。
「強くなるのはいいことよ。でも、あなたには帰ってくる場所があることを忘れないで」
「分かってる」
俺は頷いた。
「ちゃんと帰ってくるよ」
母さんは、少しだけ寂しそうに笑った。
「……約束よ」
「ああ」
俺は母さんの手を握った。
あの夜から十二年。
父さんは、まだ帰ってきていない。
それでも、この屋敷には変わらない温もりがあった。
俺はそれを、何より大切にしたかった。
翌日。
屋敷の訓練場で木剣を振っていると、背後から声がした。
「ミソノ!」
振り返る。
金色の髪を風になびかせ、一人の女性がこちらへ歩いてきた。
エルナ・フォン・セレスティア。
現在十七歳。
幼いころから何かと俺の世話を焼きたがる、三歳年上の侯爵令嬢だ。
「今日も練習?」
「見れば分かるだろ」
「ふふ。そうね」
エルナは笑いながら、訓練場の隅にある長椅子へ腰を下ろした。
「ねえ、少し休まない?」
「珍しいな。何かあった?」
「別に。ただ、話したかっただけよ」
俺は木剣を置き、その隣に座った。
しばらく、穏やかな風が吹いていた。
「……ねえ、ミソノ」
「ん?」
「王立魔導騎士学院の選抜試験、もうすぐ始まるのよ」
「ああ、そうらしいな」
「今年も、各地から優秀な人たちが集まるんですって」
「へえ」
「……興味なさそうね」
「まあな」
俺は肩をすくめた。
「俺には関係ない話だし」
エルナは少しだけ表情を曇らせた。
「……まだ、そう思ってるの?」
「だって、入学資格がないだろ」
王立魔導騎士学院。
王国でも屈指の教育機関であり、騎士や魔導師を志す若者たちの憧れの場所だ。
ただし、入学には原則として固有スキルが必要とされる。
俺には、それがない。
「……でも」
エルナは真剣な表情で俺を見つめた。
「私は、ミソノなら誰よりも活躍できると思ってる」
「買いかぶりすぎだよ」
「そんなことないわ」
エルナはきっぱりと言った。
「だって、あなたと一緒にいると、今まで当たり前だと思っていたことが、全部違って見えるんだもの」
「……そうか?」
「そうよ」
彼女は少し笑った。
「この前だって、私の治癒魔法を見て『傷を塞ぐことばかり考えなくてもいいんじゃない?』って言ったでしょう?」
「ああ」
「最初は意味が分からなかった。でも、魔力の流れを変えてみたら……今まで治せなかった傷まで、治せるようになったの」
「へえ。それはよかったな」
「……あなた、本当に分かってないのね」
エルナは呆れたように笑った。
「学院の先生たちでさえ、そんな発想はしなかったのよ?」
「そうなのか?」
「そうなの!」
俺は首を傾げた。
傷を塞ぐだけが治癒ではない。
血の流れを整えることも、損傷した組織を元の状態へ戻すことも、同じように考えられるはずだ。
ただ、それだけの話だと思っていた。
「……ミソノって、本当に変わってる」
「よく言われるよ」
「でしょうね」
エルナは楽しそうに笑った。
夕方。
訓練場に、一人の青年が現れた。
短い黒髪。
鋭い眼差し。
腰には、王国騎士団の紋章が刻まれた剣。
「ミソノ」
「よう、カイ」
カイ・フォン・ヴァルハルト。
王国騎士団長ガルディスの息子であり、幼いころから何度も剣を交えてきた相手だ。
「今日は時間があるか?」
「あるけど」
「なら、一本頼む」
「いいよ」
俺たちは木剣を手に取った。
エルナが呆れたように笑う。
「もう。二人とも会うたびに剣を振ってるんだから」
カイは構えを取った。
その姿に、以前のような隙はない。
「……行くぞ」
「ああ」
次の瞬間、カイが踏み込んだ。
速い。
木剣が鋭い軌道を描く。
俺は半歩だけ身体をずらした。
剣先が胸元をかすめる。
続けて、二撃。
三撃。
カイの剣は、以前よりも明らかに洗練されていた。
(……なるほど)
俺は軽く笑った。
「ずいぶん変わったな」
「……何がだ」
「剣の運び方。前より無駄がない」
「当然だ」
カイは口元を上げた。
「お前に何度負けたと思っている」
「数えてないな」
「……俺は数えている」
「そうなのか?」
「忘れたくても忘れられん」
俺は思わず笑った。
カイが再び踏み込む。
今度は、剣先がわずかに揺れた。
右か。
左か。
いや――。
(……面白い)
俺は一歩前へ出た。
カイの剣が空を切る。
次の瞬間、俺の木剣が彼の首元で止まった。
「……参った」
カイが静かに呟いた。
「また負けたな」
「いい剣だったよ」
「……慰めは要らん」
「本心だって」
カイはしばらく黙っていた。
そして、ふっと笑った。
「……次こそは勝つ」
「ああ。楽しみにしてる」
エルナが拍手を送る。
「二人とも、お疲れさま!」
俺たちは木剣を下ろした。
この時間は、嫌いじゃない。
何も考えず、ただ剣を交える。
そんな相手がいることを、俺は少し嬉しく思っていた。
その夜。
書斎で本を読んでいると、ユナが一通の封書を持ってきた。
「ミソノ様。お手紙が届いております」
「俺に?」
「はい。王都からです」
封筒には、王国の紋章が刻まれていた。
(……何だ?)
俺は封を切った。
中には、一枚の書類が入っている。
差出人は――。
王立魔導騎士学院。
「……学院?」
昼間、エルナと話したばかりだ。
偶然にしては、出来すぎている。
書類へ目を落とす。
《特例入学選抜対象者》
《ミソノ・フォン・アルヴェイン》
《鑑定結果:スキルなし》
「…………」
俺は眉をひそめた。
(……何だ、これ)
さらに読み進める。
《貴殿には、通常の入学試験とは異なる試験を課す》
なるほど。
特例というわけか。
だが、なぜ俺が選ばれた?
伯爵家の嫡男だからか。
それとも、何か別の理由があるのか。
俺は最後の一文へ目を向けた。
《なお、本試験における生命の保証はいたしかねる》
「……は?」
思わず声が漏れた。
学院の入学試験だろう?
どうして、そんな物騒なことが書かれている?
俺は書類を裏返した。
すると、そこにも文字があった。
《試験内容:対人実戦》
そして、その下には対戦相手の名前が記されていた。
《王国騎士団・第一騎士隊所属》
《レオンハルト・フォン・グランヴェル》
《固有スキル:絶対剣域》
「…………」
俺は思わず眉をひそめた。
(……レオンハルト?)
聞き覚えのある名前だった。
王国騎士団の若き天才。
十九歳にして第一騎士隊に所属し、《白銀の剣》の異名を持つ男。
剣術において、同年代では敵なしとまで言われている。
そんな人物が、なぜ俺の試験相手に選ばれた?
(……いくら何でも、やりすぎじゃないか?)
俺はもう一度、書類へ目を落とした。
《鑑定結果:スキルなし》
その文字が、妙に目についた。
スキルを持たない俺に、王国屈指の若き剣士をぶつける。
これは本当に、入学試験なのだろうか。
それとも――。
(……最初から、合格させる気がないのか?)
俺は書類を机に置いた。
窓の外では、静かな夜風が木々を揺らしている。
そして、その書類の最下部。
学院長の署名のすぐ下に、小さな文字が刻まれていた。
《本試験は、王国騎士団総長の命により実施する》
「…………」
俺は、その一文を見つめた。
学院の入学試験に、騎士団総長が関与している。
しかも、わざわざ《スキルなし》の俺を指名して。
(……何を確かめたいんだ?)
その答えを知る者は、まだ俺の前には現れていなかった。




