父親の背中を追う者たち
父さんは、どんな人だったのだろう。
俺が生まれたころには、すでにアルヴェイン伯爵家の当主として多忙な日々を送っていたらしい。領地の管理、王都での会議、騎士団との協議。屋敷にいる時間は決して長くなかったという。
それでも、母さんの話では、どれほど疲れて帰ってきても必ず俺の顔を見に来ていたそうだ。
「あなたのお父様はね、あなたが眠っていても、必ず一度は抱っこしていたのよ」
朝食のあと、母さんがそんな話をしてくれた。
「……ぼくを?」
「ええ。起こさないように、そっとね」
母さんは懐かしそうに微笑んだ。
「大きな手で抱き上げて、いつも同じことを言っていたわ」
「……なんて?」
「『この子が大きくなるころには、もっと平和な国になっているといいな』って」
俺は黙って母さんを見上げた。
平和な国。
それは、父さんが願っていた未来だったのだろうか。
母さんは俺の髪を優しく撫でた。
「お父様は、とても強い人だったのよ」
「……つよい?」
「ええ。剣も魔法も、王国で指折りと言われるほどに」
母さんの声には、誇らしさが滲んでいた。
「若いころには、騎士団の精鋭たちと一緒に、国境で起きた大きな争いを収めたこともあるの」
それほどの人物だったのか。
俺は驚いた。
だが同時に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
(……そんなに強い父さんが、どうして……)
二年前の夜。
隣室から伝わってきた、激しい魔力の衝突。
そして、突然消えた父さんの気配。
あれほど強い人が、何の痕跡も残さず消えるものなのか。
いや、痕跡は残っていた。
血。
壊された家具。
そして、壁に刻まれた謎の術式。
(……何かが、おかしい)
俺は小さな拳を握った。
「……おとうさま」
「ん?」
「……かえってくる?」
母さんの表情が、わずかに揺れた。
だが、すぐに微笑んだ。
「……ええ」
少しだけ間があった。
「きっと、帰ってくるわ」
俺はその言葉を信じたかった。
だから、頷いた。
「……ぼくも、さがす」
母さんが目を見開いた。
「……ミソノ?」
「おとうさま、さがす」
まだ、たどたどしい言葉しか話せない。
でも、これだけは伝えたかった。
「……かならず」
母さんは何も言わなかった。
ただ、俺を強く抱き締めた。
「……ありがとう」
その声は、少し震えていた。
◆
その日の昼前。
アルヴェイン伯爵家に、一台の馬車が到着した。
白を基調とした美しい車体。扉には、銀色の花を象った紋章が刻まれている。
セレスティア侯爵家。
母さんが長年親しくしている家だ。
「ミソノ、今日はお客様がいらっしゃるのよ」
「……うん」
「お行儀よくできる?」
「できる」
「ふふ。本当かしら」
母さんは笑いながら、俺の襟元を整えた。
俺だって、最初の人生では大人だったのだ。
礼儀くらい心得ている。
……もっとも、この世界の貴族の作法については、まだ勉強中だが。
やがて、玄関の扉が開いた。
「ミレイア!」
明るい声とともに、一人の女性が入ってくる。
淡い銀色の髪を肩に流した、美しい女性だった。
母さんは顔を輝かせた。
「リシェル!」
二人は嬉しそうに抱き合った。
「久しぶりね。元気にしていた?」
「ええ。あなたこそ」
「……いろいろ、大変だったでしょう」
リシェルと呼ばれた女性が、母さんの手を握る。
母さんは少しだけ目を伏せたが、すぐに笑った。
「……ありがとう。でも、今は大丈夫よ」
そして、俺を紹介した。
「この子が、ミソノ」
リシェルの視線が俺へ向けられる。
「まあ……!」
彼女は膝を折り、目線を合わせた。
「あなたがミソノ君なのね」
「……こんにちは」
「ふふ。こんにちは」
リシェルは優しく微笑んだ。
「お母様から、たくさんお話を聞いているわ」
(……何を話しているんだろう)
少し気になる。
だが、尋ねる前に――。
「おかあさまー!」
馬車の方から、元気な声が響いた。
次の瞬間、小さな少女が玄関へ駆け込んできた。
柔らかな金色の髪。
大きな青い瞳。
上品なドレスを着ているのに、走り方はずいぶん豪快だ。
「エルナ! 走ってはいけません!」
「だってー!」
少女は母親の注意など気にも留めず、こちらへ駆け寄ってきた。
そして、俺を見つけると足を止めた。
「……あ!」
じっと見つめられる。
(……なんだ?)
俺も見つめ返した。
すると少女は、ぱっと笑顔になった。
「あなたが、ミソノ?」
「……うん」
「わたし、エルナ!」
少女は胸を張った。
「エルナ・フォン・セレスティア! 五さい!」
「……ミソノ」
「知ってる!」
即答された。
「おかあさまが、いっぱいお話してたもん!」
(……またそれか)
どうやら、俺の知らないところで、ずいぶん話題になっているらしい。
エルナは俺の周りをくるりと回った。
そして、突然しゃがみ込む。
「……ちっちゃい!」
「…………」
「かわいい!」
「…………」
「ねえ、ミソノ!」
「……なに?」
「わたしが、まもってあげる!」
胸を張って宣言するエルナ。
俺は思わず、言葉を失った。
(……守ってあげる、か)
最初の人生を含めれば、俺は彼女よりはるかに長く生きている。
それなのに、五歳の少女から守ってあげると言われるとは。
人生、何があるか分からないものだ。
「……ありがとう」
そう答えると、エルナは満足そうに笑った。
「うん!」
◆
午後。
俺たちは庭で過ごしていた。
母さんとリシェルは、少し離れた場所でお茶を飲んでいる。
エルナはというと――。
「ミソノ! こっち!」
元気いっぱいだった。
「……まって」
「はやくー!」
(……五歳児の体力って、こんなにあったか?)
俺は必死に足を動かした。
まだ二歳の身体では、五歳のエルナについていくだけでも大変だ。
それでも、彼女は何度も振り返り、俺が追いつくのを待ってくれた。
「ミソノ、つかれた?」
「……ちょっと」
「じゃあ、やすもう!」
エルナは近くの木陰へ座り込んだ。
俺も隣に腰を下ろす。
しばらく、二人で庭を眺めていた。
「ねえ、ミソノ」
「……なに?」
「ミソノのおとうさまって、すごくつよいんでしょ?」
俺は顔を上げた。
「……しってるの?」
「うん!」
エルナは嬉しそうに頷いた。
「わたしのおとうさまが言ってた!」
「……なんて?」
「アルヴェインはくしゃくは、すごい人なんだって!」
エルナは両手を大きく広げた。
「いっぱいの敵を、ひとりでやっつけたんだって!」
(……一人で?)
少し大げさな話にも聞こえる。
だが、母さんも父さんが強かったと言っていた。
ならば、まったくの作り話ではないのだろう。
「……そっか」
俺は空を見上げた。
父さん。
俺は、あなたのことをほとんど知らない。
顔も、声も、記憶の中では曖昧だ。
それでも――。
(……必ず、見つける)
どこにいるのか分からない。
生きているのかどうかさえ、確かめられていない。
だが、俺は諦めない。
六度も人生を生きてきた。
何度も死に、何度も生まれ変わった。
その俺が、たった一度の失踪で諦めてたまるか。
(……父さん)
(いつか、必ず迎えに行く)
俺は小さな拳を握った。
◆
夕方。
セレスティア侯爵家の馬車が帰るころ、俺は庭の端で妙な気配を感じた。
(……ん?)
誰かが、こちらを見ている。
最初に気づいたのは、数日前だった。
屋敷の外。
石壁の向こうにある、小さな林。
そこから、時折視線を感じることがあった。
最初は気のせいだと思った。
だが、今日もまた――。
(……いる)
俺は何気なく視線を向けた。
林の奥。
木の陰に、小さな人影が見えた。
少年だった。
俺より少し年上だろうか。
短い黒髪。
簡素な服装。
だが、立ち姿には妙な落ち着きがあった。
少年は、こちらをじっと見つめている。
(……誰だ?)
俺は目を細めた。
カメレオンだったころの感覚で、視線を固定する。
さらに、シャコだったころの視覚を思い出し、周囲の光の違いを拾う。
すると、少年の腰に何かが見えた。
小さな木剣。
(……剣?)
その瞬間、少年と目が合った。
「…………」
少年が、わずかに目を見開いた。
そして――。
ふっと、姿を消した。
(……逃げた?)
俺はしばらく林を見つめていた。
だが、少年は戻ってこなかった。
「ミソノー!」
母さんの声がした。
「そろそろ中へ入りましょう!」
「……はーい!」
俺は返事をして、屋敷へ戻った。
だが、頭の片隅には、あの少年の姿が残っていた。
(……何者なんだろうな)
◆
その夜。
王都の騎士団詰所。
一人の少年が、訓練場で木剣を振っていた。
「……はっ!」
鋭い踏み込み。
小さな身体から放たれる一撃は、年齢に似合わぬ力強さを持っていた。
「……そこまでだ」
低い声が響く。
少年が振り返る。
そこには、騎士団の制服を纏った男が立っていた。
鍛え上げられた身体。
鋭い眼差し。
そして、胸元に刻まれた王国騎士団の紋章。
ガルディス・フォン・ヴァルハルト。
王国騎士団長。
少年の父親だった。
「……父上」
少年が頭を下げる。
「また、アルヴェイン伯爵家の近くへ行っていたそうだな」
「…………」
少年は答えなかった。
ガルディスは小さく息を吐いた。
「……カイ」
少年の名を呼ぶ。
「なぜ、あの屋敷へ行く?」
カイ・フォン・ヴァルハルト。
騎士団長の息子。
少年はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……確かめたいことがあります」
「何をだ?」
「……あの子が、本当に……」
そこで言葉を止める。
ガルディスの表情が、わずかに変わった。
「……カイ」
「父上」
少年は顔を上げた。
「アルヴェイン伯爵は……本当に、いなくなったのですか?」
ガルディスは答えなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、騎士団長は静かに口を開いた。
「……レイヴンは、簡単に倒される男ではない」
「……では」
「だが、あの夜に何が起きたのか、私にも分からん」
ガルディスは拳を握った。
「……ただ一つ、言えることがある」
カイが父を見つめる。
「レイヴンは、王国でも屈指の魔法剣士だった」
そして、低い声で続けた。
「……そんな男が、何の理由もなく姿を消すはずがない」
カイは黙って頷いた。
その瞳には、幼いながらも強い意志が宿っていた。
ガルディスは息子を見下ろし、最後に告げた。
「……あの子には、まだ近づくな」
「……なぜですか?」
「今は、まだその時ではない」
カイは唇を噛み締めた。
だが、それ以上は尋ねなかった。
ただ、心の中で思う。
(……ミソノ・フォン・アルヴェイン)
(……いつか、必ず会う)
その夜。
王都の空には、静かな月が浮かんでいた。
まだ幼い二人の少年。
一人は、父を探すため。
もう一人は、父の言葉の意味を知るため。
それぞれの胸に、小さな決意を抱いていた。




