6度目の俺とは
そういえば、まだ自己紹介をしていなかった。
俺の名前は、豊日 樂。とよひ、らく。
……いや、正確には、最初の人生での名前だ。
日本という国で生まれ、学校へ通い、働き、結婚して、子供を育てた。やがて孫にも恵まれ、最後は年老いて死んだ。振り返れば、特別な英雄でも何でもない、ごく普通の人生だったと思う。
その後、俺は四度にわたって動物に生まれ変わった。
カメレオン。シャコ。タコ。そしてクマムシ。
当然ながら、その四つの人生に名前らしい名前はなかった。誰かに呼ばれることも、自己紹介をする機会もなかったのだから、当たり前といえば当たり前だ。
そして六度目。
俺は再び、人間として生まれた。
しかも、今度は魔法とスキルが存在する異世界だ。
この世界で授かった名前は――。
ミソノ・フォン・アルヴェイン。
アルヴェイン伯爵家の嫡男。
それが、今の俺だ。
……しかし、ミソノとは。
異世界に生まれ変わってまで、日本で聞き覚えのある響きの名前を授かるとは思わなかった。最初に母さんが俺の名前を呼んだときは、正直、少し驚いたものだ。
もちろん、この世界に日本という国が存在するのかどうかは知らない。
そもそも俺は、まだ屋敷の外にさえ満足に出たことがないのだから。
だが、ひとつだけ言えることがある。
名前が何であろうと、俺は俺だ。
豊日 樂として生きた記憶も、四つの動物として過ごした経験も、すべてこの身体の中に残っている。
そして、そんな俺は現在――。
「ミソノ坊ちゃまー! どちらにいらっしゃるんですかー!」
……絶賛、捜索されていた。
◆
あの夜から、二年が過ぎた。
俺は二歳と三か月になった。
歩ける。走れる。言葉もそれなりに話せる。
もっとも、身体はまだまだ幼児だ。少し走れば息が切れるし、階段を上るだけでも足が疲れる。前世の記憶がどれだけあろうと、肉体の成長までは早められないらしい。
そんな俺が今いるのは、屋敷の裏庭。
大きな樹木に囲まれた、使用人たちがあまり立ち入らない場所だ。
「……よし」
俺は小さく呟き、右手を前へ突き出した。
指先に意識を集中させる。
すると、身体の奥を流れる魔力が、ゆっくりと右腕へ集まっていくのが分かった。
最初のころは、これだけでも大変だった。
魔力を感じることはできても、思うように動かせない。
無理に押し出そうとすれば、身体のあちこちへ散ってしまう。
だが、二年も練習を続ければ、少しは進歩する。
(……集めて、狙って、放つ)
思い出すのは、カメレオンだったころの感覚。
獲物を見据え、舌を射出する瞬間。
力を一点に集め、狙った場所へ届ける。
その感覚を、魔力に置き換える。
「……ふっ」
指先から、小さな光が飛び出した。
ぱしっ。
少し離れた木の幹に当たり、淡い光となって消える。
「……うん」
悪くない。
威力は大したことがないが、狙った場所へ飛ばせるようにはなった。
問題は、その先だ。
(……次は、二つ)
俺は左手を持ち上げた。
右手に魔力を集めたまま、左手にも別の魔力を流そうとする。
これが、難しい。
右へ流すことだけを考えれば、右へ流れる。
左へ流すことだけを考えれば、左へ流れる。
だが、二つを同時に動かそうとすると――。
「……あっ」
右手の魔力が乱れた。
左手に集めかけていた魔力も、身体の中へ散ってしまう。
(……また失敗か)
俺は小さく息を吐いた。
四度目の人生。
タコだったころのことを思い出す。
八本の腕。
それぞれが複雑に動き、ときには別々のものを掴み、別々の方向へ伸びていた。
もちろん、頭が八つあったわけじゃない。
意識は一つ。
だが、一つの意識で、八本の腕をそれぞれ動かすことができた。
あの感覚を魔力に応用できれば、きっと面白いことができる。
例えば、右手で攻撃魔法を使いながら、左手で防御魔法を展開する。
さらに別の魔力を動かし、同時に複数の術式を組み立てる。
いつかは、八つ。
……なんて考えてはいるものの。
(……二つすら、まともに動かせないんだよな)
現実は厳しい。
それに、そもそも俺は魔法を正式に習ったことがない。
今やっているのは、魔力を集めて飛ばすだけの単純な操作だ。
魔法陣を描く方法も、詠唱の意味も、まだよく分かっていない。
だからこそ、焦る必要はない。
一つずつ。
できることを増やしていけばいい。
「ミソノ坊ちゃまー!」
……おっと。
どうやら、捜索隊が近づいてきたらしい。
「ここだよー!」
俺が声を上げると、植え込みの向こうから一人の少女が顔を出した。
ユナ。
アルヴェイン伯爵家に仕える、若い侍女だ。
少し癖のある栗色の髪を後ろでまとめ、白いエプロンを身につけている。
普段は穏やかなのだが、俺が姿を消すと途端に慌て始める。
「坊ちゃま! またこんなところに!」
「おさんぽ」
「お散歩でしたら、ひと言お声をかけてください!」
「ごめんなさい」
「もう……!」
ユナは困ったように眉を下げた。
そして、俺の服についた土を払い始める。
「奥様が心配なさいますよ」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
「……うん」
ユナも、それ以上は何も言わなかった。
あの夜のことを、彼女も知っている。
俺が三日間、死んだと判断されていたことも。
そして母さんが、どれほど泣いていたのかも。
だから、俺が少しでも姿を消すと、屋敷中が大騒ぎになる。
(……まあ、仕方ないか)
俺はユナの手を握った。
「かえろ」
「はい。帰りましょう、坊ちゃま」
ユナはほっとしたように笑った。
◆
アルヴェイン伯爵家。
それが、俺の生まれた家だ。
広い屋敷に、大勢の使用人。庭には噴水があり、食事のたびに何種類もの料理が並ぶ。
最初の人生で、こんな暮らしをしたことはなかった。
正直、いまだに落ち着かない。
ただ、裕福だからといって、何もかも順調というわけではない。
今、この屋敷には当主がいない。
俺の父さん。
レイヴン・フォン・アルヴェイン。
アルヴェイン伯爵家の当主だった人だ。
……いや、正確には、今も当主である。
死亡が確認されたわけではない。
だから、誰も父さんを亡くなった人として扱ってはいない。
だが、二年前のあの夜を最後に、父さんは姿を消した。
屋敷の中で何者かと戦った形跡だけを残して。
今も捜索は続いているらしい。
しかし、手掛かりはほとんどない。
(……父さん)
俺には、あの夜の記憶が残っている。
隣の部屋で激しくぶつかり合った魔力。
そして、突然消えた父さんの気配。
あれが何だったのか、今も分からない。
ただ、俺は信じている。
父さんは、どこかで生きている。
根拠なんてない。
それでも、そう思いたかった。
「ミソノ」
声をかけられ、顔を上げた。
食堂の入口に、一人の女性が立っている。
柔らかな金色の髪。
優しげな瞳。
少し疲れたような表情をしているが、それでも俺を見つけると、必ず微笑んでくれる。
母さん。
ミレイア・フォン・アルヴェイン。
アルヴェイン伯爵夫人だ。
「またユナを困らせたの?」
「……ちょっとだけ」
「ふふ。ちょっとだけ、ね」
母さんは膝を折り、俺と目線を合わせた。
「おいで」
俺は素直に近づいた。
母さんの腕が、俺を抱き締める。
温かい。
柔らかい。
そして、少しだけ強い。
母さんは、俺を抱き締めるとき、いつもほんの少しだけ力を込める。
まるで、二度と離さないと言っているみたいに。
(……母さん)
俺は小さな手で、その背中に触れた。
あの夜。
母さんは俺を守ろうとして、炎に背を向けた。
自分が傷つくことなど、少しも考えずに。
最初の人生で、俺にも子供がいた。
だから、分かる。
我が子を守りたいという気持ちが、どれほど強いものなのか。
でも、分かるからこそ――。
(……もう、あんな思いはさせたくない)
母さんが笑っている。
それだけで、今は十分だった。
◆
昼食を終えたあと、俺は母さんと一緒に書斎へ向かった。
ここは父さんが使っていた部屋だ。
大きな机。
壁一面の本棚。
窓際には、使い込まれた革張りの椅子が置かれている。
母さんは時折、この部屋を訪れる。
そして、父さんが残した書類を眺めたり、机の上を整えたりしている。
俺も最近は、ここへ連れてきてもらうことが増えた。
理由は簡単だ。
本があるから。
(……文字が読めれば、もっと楽なんだけどな)
この世界の文字は、日本語とはまったく違う。
見慣れない記号が並び、文章の区切り方も独特だ。
それでも、少しずつ覚えてきた。
母さんが絵本を読んでくれるとき、文字と発音を照らし合わせているのだ。
今では、簡単な単語くらいなら理解できる。
「ミソノは、本が好きなのね」
「うん!」
「ふふ。お父様に似たのかしら」
母さんが微笑んだ。
「おとうさまも、ほんがすき?」
「ええ。とても」
母さんは父さんの椅子へ目を向けた。
「難しい本を何冊も読んでいたわ。私には何が書いてあるのか、さっぱり分からないものもあったけれど」
「……そうなんだ」
「いつか、あなたにも読めるようになるといいわね」
俺は頷いた。
そのとき、机の端に置かれた一冊の本が目に入った。
古びた革表紙。
ほかの本よりも、ずっと薄い。
表紙には、見慣れない模様が刻まれていた。
(……なんだ、あれ)
妙に気になった。
ただの模様ではない。
曲線が幾重にも重なり、中央には小さな円が描かれている。
俺は、じっと見つめた。
(……魔法陣?)
いや、違う。
これまで見てきた魔法の術式とは、どこか構造が異なる。
母さんが気づき、本を手に取った。
「これが気になるの?」
「……うん」
「お父様が大切にしていた本よ」
「たいせつ?」
「ええ。何度も読み返していたわ」
母さんは表紙を撫でた。
そして、少し寂しそうに笑った。
「でも、不思議なの。この本だけは、何が書かれているのか教えてくれなかったのよ」
(……父さんが?)
俺は本を見つめた。
何となく、胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
ただ――。
その本に刻まれた模様を見ていると、どこか懐かしいような感覚があった。
「……ミソノ?」
母さんが首を傾げる。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
俺は首を横に振った。
今は、まだ分からない。
だが、いつか。
この本に書かれたことを、自分の目で確かめてみたいと思った。
◆
その夜。
俺は寝台の上で、小さな手を見つめていた。
右手。
左手。
それぞれに魔力を流してみる。
(……やっぱり、難しいな)
一つなら動かせる。
だが、二つに分けると途端に乱れる。
それは、魔力が足りないからではない。
問題は、操作する感覚だ。
タコだったころ、八本の腕を動かすとき、俺はいちいち一本ずつ意識していたわけではなかった。
身体が、動かし方を覚えていた。
ならば――。
(……魔力も、身体の一部だと思えばいいのか?)
俺は目を閉じた。
右手に魔力を集める。
左手にも、別の流れを作る。
今度は、無理に二つを動かそうとしない。
ただ、そこにあるものとして感じる。
右。
左。
右。
左。
ゆっくりと。
少しずつ。
すると――。
(……あれ?)
右手の魔力が消えていない。
左手にも、わずかな魔力が残っている。
ほんの一瞬。
本当に、瞬きするほどの時間だった。
だが――。
(……できた?)
俺は思わず目を開けた。
その瞬間、両手の魔力は散ってしまった。
「…………」
しばらく、自分の手を見つめる。
そして。
(……はは)
笑いが込み上げてきた。
できた。
ほんの少しだけ。
でも、確かに。
二つの魔力を、同時に動かせた。
(……一歩前進、だな)
俺は小さく拳を握った。
まだまだ先は長い。
魔法を学ぶ必要もある。
身体も鍛えなければならない。
父さんの行方も探したい。
そして何より――。
母さんを守れるようになりたい。
俺は天井を見上げた。
六度目の人生。
ようやく、自分の足で歩き始めたばかりだ。
焦る必要はない。
一歩ずつ。
確実に。
そう思いながら、俺は目を閉じた。
……そのときだった。
廊下の向こうから、微かな話し声が聞こえてきた。
「……明日、ですか?」
ユナの声だ。
「ええ。セレスティア侯爵家から、正式にお返事があったわ」
母さんの声が続く。
「お嬢様も、ご一緒にいらっしゃるそうよ」
「それは……賑やかになりそうですね」
「ふふ。そうね」
母さんが、少し楽しそうに笑った。
「ミソノにも、同じくらいの年頃のお友達ができるといいのだけれど」
(……友達?)
俺は薄く目を開けた。
セレスティア侯爵家。
聞いたことのない名前ではない。
母さんが時折、手紙を受け取っている家だ。
だが、直接会ったことはなかった。
(……どんな人たちなんだろうな)
そんなことを考えながら、俺は再び目を閉じた。
明日。
この屋敷に、客人がやってくる。
その出会いが、六度目の人生にどんな意味を持つのか。
このときの俺は、まだ何も知らなかった。




