死んだはずの
炎が、迫っていた。
黒衣の男が放った《火弾》は、夜の寝室を赤く染めながら一直線に飛んでいく。その先にいるのは、まだ生後三か月の赤ん坊と、我が子を胸に抱き締めた一人の母親だった。
「この子だけは……!」
母親は背中を向けた。逃げることも、魔法で迎え撃つこともできない。腕の中の小さな命を守るため、自分の身体を盾にすることしかできなかった。
そして――。
ドォォォンッ!!
凄まじい衝撃が寝室を揺らした。窓硝子が砕け散り、壁に掛けられていた絵が吹き飛ぶ。母親の身体が宙に浮き、寝台の脇へ叩きつけられた。
「かはっ……!」
肺から空気が押し出される。背中に焼けるような痛みが走り、視界が白く弾けた。
だが、炎は母親の身体を焼き尽くしてはいなかった。
黒衣の男が目を細める。
「……妙だな」
男が放った火弾は、確かに母親の背中を捉えていた。ところが衝突の直前、床に落ちていた短剣が赤く発光し、刃に刻まれた術式が破裂したのだ。
短剣に残されていた魔力と火弾が干渉し、爆発の中心がわずかに逸れた。
偶然だった。
ほんの少し位置が違っていれば、母子ともに炎に呑まれていただろう。
「……運のいい女だ」
男が呟く。
だが、その視線は母親には向いていなかった。
母親の腕の中。
そこにいる赤ん坊を、じっと見つめていた。
「…………」
動かない。
泣き声もない。
呼吸すら聞こえない。
男はゆっくりと近づき、赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「……終わったか」
そのとき、廊下の奥から足音が響いた。
「奥様!!」
使用人たちの声だった。
男は舌打ちすると、窓へ向かう。
「……確認は取れた」
誰にともなく呟き、夜の闇へ姿を消した。
◆
「……ぅ……」
母親が目を開けた。
背中が痛む。呼吸をするたびに胸の奥が軋み、身体を動かそうとすると全身に鋭い痛みが走った。
それでも、最初に確かめたのは自分の傷ではなかった。
「……赤ちゃん……?」
腕の中を覗き込む。
小さな顔。
閉じられた瞼。
力なく垂れた手。
「……ねえ」
母親は頬に触れた。
冷たい。
「……起きて」
返事はない。
「……ねえ、お願い……」
いつもなら、抱き上げると小さな声を漏らす。お腹が空けば泣き、眠くなればぐずり、機嫌のいいときには不思議そうにこちらを見つめてくる。
その目が、開かない。
母親は震える手で、小さな胸に耳を当てた。
「…………」
何も聞こえなかった。
「……嘘」
もう一度。
耳を当てる。
何度も、何度も。
「……お願い……」
心臓の音がしない。
「お願いだから……目を開けて……!」
その声は、悲鳴に変わった。
「誰か……! 誰か来て!!」
扉が開き、使用人たちが駆け込んでくる。
「奥様! ご無事ですか!?」
「この子が……! この子が息をしていないの!!」
使用人の一人が赤ん坊へ手を伸ばした。
だが、母親は反射的に身体を引いた。
「触らないで……!」
「奥様、どうか落ち着いて――」
「お願い……誰か、この子を助けて……!」
母親の腕の中で、赤ん坊は眠るように動かなかった。
◆
夜明け前。
屋敷へ、一人の神官が呼ばれた。
白い法衣を纏ったその老人は、三か月前、赤ん坊が生まれた日に鑑定を行った人物だった。
あの日、彼は確かに告げた。
――この子には、何のスキルもありません。
だが今、神官の前にいる赤ん坊は、スキルの有無を調べる以前の状態だった。
「……診せていただきます」
神官が静かに手を伸ばす。
母親は我が子を抱き締めたまま、震える声で尋ねた。
「……助かりますよね?」
「まずは、状態を確認させてください」
神官の手が赤ん坊の胸に触れた。
心音はない。
呼吸もない。
身体は冷たく、外部から魔力を流しても、何の反応も返ってこなかった。
神官は眉を寄せた。
(……奇妙だ)
魔力を持つ者が命を落とした場合、身体に残った魔力が少しずつ周囲へ散っていく。だが、この赤ん坊からは、その残留魔力すら感じられなかった。
まるで、最初から魔力など存在しなかったかのように。
神官はもう一度、慎重に調べた。
結果は変わらない。
「……神官様?」
母親の声が震えている。
「この子は……どうなんですか?」
神官は目を伏せた。
「……残念ですが」
「……嫌です」
「奥様……」
「嫌です……そんなこと、言わないで……」
神官は唇を噛み締めた。
そして、静かに告げた。
「……この子は、亡くなっています」
母親の表情から、すべての色が消えた。
「…………」
言葉が出なかった。
ただ、腕の中の小さな顔を見つめる。
あの日。
初めて泣き声を聞いた。
小さな指で、自分の指を握ってくれた。
初めて笑ったように見えた日には、夫と二人で何度も顔を覗き込んだ。
たった三か月。
それでも、母親にとっては何にも代えられない時間だった。
「……私が」
小さな声が漏れる。
「私が……守ってあげられなかった……」
神官は何も言えなかった。
母親は我が子を胸に抱き締めたまま、声を殺して泣いた。
◆
夜が明けるころ、屋敷の被害状況が明らかになった。
侵入者は少なくとも三人。
見張りの使用人が二人負傷し、廊下には戦闘の痕跡が残されていた。
そして――。
「……旦那様が、見つかりません」
報告を受けた使用人長が、言葉を失った。
「……何?」
「隣室に争った形跡があります。しかし、お姿が……」
父親の部屋は荒らされていた。
机は倒れ、床には血痕が残されている。壁には刃物で切りつけられたような傷があり、その一部は不自然に黒く変色していた。
だが、遺体はなかった。
使用人長は床に膝をつき、血痕を確かめる。
「……これは」
そのとき、後ろから声がした。
「少し、よろしいですか」
神官だった。
神官は壁に残された黒い痕跡へ近づき、指先をかざした。
淡い光が浮かび上がる。
そして――。
「……っ!」
神官の表情が変わった。
「どうされました?」
「……術式の痕跡があります」
「魔法ですか?」
「ええ。ですが……」
神官は言葉を切った。
壁の黒い痕跡は、ただの火傷ではなかった。
複雑な線が幾重にも重なり、その中心には見慣れない記号が刻まれている。
「……封印術式?」
神官が呟く。
「封印……?」
使用人長が眉をひそめた。
「旦那様は、封印されたということですか?」
「分かりません。ですが、少なくとも……」
神官は壁から手を離した。
「ここで、普通の戦闘が行われたわけではないようです」
使用人長は拳を握り締めた。
旦那様はどこへ消えたのか。
そして、なぜ侵入者たちは赤ん坊を狙ったのか。
その答えを知る者は、屋敷の中には誰もいなかった。
◆
一日が過ぎた。
赤ん坊は目を覚まさなかった。
二日が過ぎた。
それでも、母親は我が子を手放そうとしなかった。
神官は何度も説明した。使用人たちも、休むようにと繰り返し頼んだ。
だが母親は首を横に振るばかりだった。
「……この子、寒がりなの」
毛布をかけ直す。
「いつもね、こうして抱っこしていると……安心したみたいに眠るの」
小さな頬を撫でる。
「だから……」
母親は微笑もうとした。
けれど、その唇は震えていた。
「……もう少しだけ、こうしていさせて」
誰も、それ以上は何も言えなかった。
そして――三日目の夜。
屋敷は静まり返っていた。
壊れた寝室はすでに片づけられ、母親は別の部屋で我が子を抱いていた。背中の傷は治療魔法によって塞がっていたが、まだ身体を動かすたびに痛みが走る。
それでも、母親は眠らなかった。
「……ねえ」
赤ん坊へ語りかける。
「あなたのお父さんね……まだ見つからないの」
返事はない。
「でも、きっと帰ってくるわ」
母親は小さな手を握った。
「だから……」
声が詰まる。
「お願い……」
涙が頬を伝った。
「私まで……一人にしないで……」
ぽたり。
一滴の涙が、赤ん坊の頬に落ちた。
その瞬間だった。
ぴくり。
「…………え?」
小さな指が、動いた。
母親は息を止めた。
「……今……?」
見間違いかもしれない。
三日間、何度も同じような錯覚をした。
呼吸をしているように見えた。
目を開けたように思えた。
小さな声が聞こえた気がした。
そのたびに、現実を突きつけられた。
だから、今度もきっと――。
ドクン。
「…………!」
母親の腕の中で、小さな胸が動いた。
ドクン。
もう一度。
そして――。
「……ぁ」
かすかな声が漏れた。
閉じていた瞼が、ゆっくりと開く。
「…………」
母親は動けなかった。
赤ん坊が、こちらを見ている。
その小さな瞳が、確かに自分を捉えている。
「……嘘……」
赤ん坊が手を伸ばした。
「……あぅ」
母親の頬に、小さな指が触れた。
その瞬間。
「……っ!」
母親は我が子を抱き締めた。
「……生きてる……!」
涙が溢れた。
「生きてる……! 生きてるのね……!!」
何度も頬を寄せる。
何度も名前を呼ぶ。
失ったと思っていた温もりが、確かに腕の中に戻ってきていた。
◆
(…………ん?)
最初に感じたのは、温かさだった。
柔らかい。
それから、何かが頬に触れている。
(……なんだ?)
ゆっくりと目を開ける。
目の前に、母さんの顔があった。
泣いている。
(……母さん?)
状況が分からない。
最後に覚えているのは――。
(……炎!)
思い出した瞬間、意識がはっきりした。
黒衣の男。
短剣。
魔法。
母さんの背中へ迫る炎。
そして――自分の心臓が止まる感覚。
(……俺、生きてるのか?)
母さんの身体を確かめる。
顔には疲労が浮かび、腕には包帯が巻かれていた。背中にも治療の痕跡がある。
だが、生きている。
(……よかった)
胸の奥から、安堵が込み上げた。
そして次に、妙なことに気づいた。
(……身体が重い)
手足が思うように動かない。
魔力も、ほとんど感じられない。
まるで、長い眠りから無理やり起こされたような感覚だった。
(……そうか)
俺は思い出した。
五度目の人生。
クマムシだったころ。
外の環境が過酷になり、生き延びることが難しくなると、俺は身体の活動を極限まで落としていた。
動かない。
呼吸もしない。
ただ、生きられる環境が戻るのを待つ。
(……あれが、人間の身体でも起きたのか?)
だとしたら、俺は死んでいなかったことになる。
いや。
正確には――。
(死なないために、死んだような状態になった……?)
我ながら、めちゃくちゃな話だ。
だが、実際にこうして生きている。
問題は、どれくらい眠っていたのかということだった。
「……三日も……」
母さんが泣きながら呟いた。
「三日も、目を覚まさなかったのよ……」
(……三日!?)
思わず声が出そうになった。
三日間。
心臓が止まったまま。
呼吸もせず。
魔力すら外へ漏らさず。
(……冗談だろ)
それでも、母さんは俺を抱き締め続けてくれていた。
俺は小さな手を伸ばした。
母さんの頬に触れる。
(……ありがとう)
言葉にはできない。
だが、今はそれでよかった。
母さんが、また泣いた。
今度は、笑いながら。
◆
翌朝。
屋敷へ再び神官が呼ばれた。
三日前、赤ん坊の死亡を確認した老人である。
神官は母親の腕の中で動いている赤ん坊を見て、言葉を失った。
「……そんな……」
「先生……!」
母親が駆け寄る。
「この子が……目を覚ましたんです!」
神官はゆっくりと近づいた。
赤ん坊の胸に手を当てる。
心臓が動いている。
呼吸も正常。
体温も戻っている。
「……あり得ない」
神官は呟いた。
「三日前、確かに……」
神官は震える手をかざし、鑑定を行った。
淡い光が赤ん坊を包む。
そして、結果が現れた。
――《スキルなし》。
「…………」
神官は目を見開いた。
結果は、三か月前と同じだった。
何のスキルもない。
特別な加護も確認できない。
それなのに。
「……どうして……」
神官は赤ん坊を見つめた。
「どうして、この子は……生きているのですか……?」
母親は我が子を強く抱き締めた。
「……分かりません」
そして、小さく微笑んだ。
「でも……生きているんです」
神官は何も答えられなかった。
その腕の中で、赤ん坊は静かに老人を見つめていた。
(……悪いな、神官さん)
俺は心の中で呟く。
(俺にも、よく分からないんだ)
ただ、一つだけ確かなことがある。
俺の身体には、五つの人生で覚えたものが残っている。
それは、この世界の鑑定では測れない。
そして――。
(……次は、守れるようにならないとな)
俺は母さんの顔を見上げた。
あの夜。
俺は、何もできなかった。
母さんを守ろうとして、結局は母さんに守られた。
次は違う。
絶対に。
◆
そのころ。
王都から遠く離れた、とある地下室。
薄暗い部屋の中央に、一人の男が膝をついていた。
黒い衣服。
顔を覆う布。
三日前、赤ん坊の寝室へ侵入した男だった。
「……報告を」
部屋の奥から、低い声が響いた。
男は頭を下げる。
「対象の死亡を確認しました」
「確かか?」
「はい。心音、呼吸ともに停止。後に神官による死亡判定も確認しております」
「……そうか」
椅子に座る人物は、しばらく黙っていた。
やがて、机の上から一枚の紙を取り上げる。
「ならば……これは何だ?」
紙が男の足元へ投げられた。
男は怪訝そうにそれを拾う。
そして、書かれた文字を読んだ。
――《対象、生存》。
「…………っ!?」
男の顔から血の気が引いた。
「……あり得ません」
「私もそう思う」
「ですが、確かに……!」
「神官が死亡を確認した赤子が、三日後に息を吹き返したそうだ」
男は言葉を失った。
椅子の人物が、静かに立ち上がる。
「スキルを持たぬ赤子」
一歩。
「魔法を放ち」
また一歩。
「心臓が止まっても、三日後に蘇る」
男の前で足を止める。
「……お前は、これをどう考える?」
「……分かりません」
「そうだろうな」
その人物は、暗闇の中で小さく笑った。
「だが、一つだけ確かなことがある」
男が顔を上げる。
「……何でしょうか」
沈黙。
そして――。
「――あの赤子を、生かしておくわけにはいかない」
地下室に、冷たい声が響いた。
黒衣の男が深く頭を下げる。
「……承知いたしました」
椅子の人物は窓のない壁を見つめたまま、静かに続けた。
「次は、間違えるな」




