赤ん坊に、魔法は使えない
この世界に生まれてから、三か月が経った。
俺は相変わらず歩けない。喋れない。自分で食事をすることすらできない。六度目の人生だというのに、身体の自由という意味では過去最低だ。もっとも、クマムシだったころは自由に動くどころか、長い時間、動くことそのものをやめていたのだが。
それでも、退屈はしていなかった。
(……今日も見えるな)
母さんの腕に抱かれながら、俺は部屋の中を眺めていた。右眼は母さんの横顔を、左眼は少し離れた椅子で本を読んでいる父さんを捉えている。左右でまったく異なる景色を見ているのに、不思議と混乱はしない。カメレオンだったころには当たり前だった視界だ。
そして、その視界には普通の人間には見えないものまで映っている。
魔力。
人間の身体を巡り、植物の内部を流れ、空気の中にまで薄く漂っている光のようなもの。最初はただ綺麗だと思っていたが、三か月も眺め続ければ、さすがに違いが分かってくる。
母さんの魔力は穏やかで、柔らかい。父さんの魔力はそれよりも濃く、流れが速い。二人とも身体の中心から四肢へ向かって魔力が循環しているが、その経路には微妙な違いがあった。
そして何より面白いのが、魔法を使う瞬間だ。
「少し冷ましてあげましょうね」
母さんが俺のそばに置かれた湯へ手をかざした。
(来た)
肩から腕へ、腕から指先へ。魔力が流れ、手のひらの前で細い線となって浮かび上がる。その線が一度曲がり、二つに分かれ、再び重なった。
「――《微風》」
ふわり、と小さな風が生まれる。湯の表面が揺れ、立ち上っていた湯気が横へ流れた。
(……やっぱり)
魔法が発動する直前、魔力は必ず決まった形を作る。
母さんは何度も同じ魔法を使っているが、そのたびに魔力の流れはほとんど変わらない。曲がる場所も、分かれる順番も、最後に重なる位置も同じだ。
(魔法って、魔力を特定の形に組み上げることで発動するのか?)
確証はない。俺は魔法について誰かに教わったわけではないし、そもそも生後三か月の赤ん坊に魔法を教えようとする人間もいない。
だが、見ることならできる。
シャコだったころ、俺は人間とはまるで違う光の世界を見ていた。あの特殊な視覚が残っているおかげなのか、今の俺には魔力の濃淡だけでなく、細かな流れまで見分けられる。
ただし、見えることと理解できることは別だ。
最初の人間だったころ、俺は長い人生の中でさまざまなことを学んだ。仕事を覚え、失敗し、考え直し、また挑戦した。今思えば、あの人生で身につけた最も大きなものは、特別な知識ではなく、分からないことを少しずつ理解していく習慣だったのかもしれない。
(昨日の《微風》と比べると……うん。同じだ)
何度も観察し、記憶と照らし合わせる。魔力の流れる順番を覚え、頭の中で形を再現する。時間はかかるが、それでいい。
急ぐ理由なんて、今のところはない。
ただ、一つだけ問題があった。
(……自分の魔力を動かせないんだよな)
俺は小さな右手を見つめた。
身体の中には、確かに魔力がある。第2話で気づいたとおり、その流れ方は父さんや母さんとは少し違っていた。普通の人間の魔力が一つの大きな流れとして循環しているのに対し、俺の魔力は途中で細かく枝分かれしている。
まるで、いくつもの行き先を探しているようだった。
だが、その魔力に命令しても何も起こらない。
(右手に集まれ)
……無反応。
(指先まで流れろ)
……やっぱり無反応。
(まあ、そう簡単にはいかないか)
そもそも魔力なんてものは、これまでの五つの人生で一度も扱ったことがない。存在すら知らなかったものを、いきなり自在に操れるはずがなかった。
それでも、俺には時間がある。
食べて、眠って、泣いて、また眠る。赤ん坊の一日は驚くほど単純だ。その合間に魔力を観察し、試し、失敗する。そんな日々を繰り返していたある日のことだった。
(……待てよ)
ふと、妙な考えが浮かんだ。
俺は今まで、魔力を《人間の身体》として動かそうとしていた。
腕を上げるように。指を曲げるように。
だが、俺が覚えている身体の使い方は、人間のものだけじゃない。
たとえば――カメレオン。
木の枝の上で獲物を見つけたとき、俺は舌をゆっくり伸ばしたりしなかった。
距離を測る。
狙いを定める。
力を蓄える。
そして、一瞬で解放する。
あの動きは、舌を前へ動かそうと考えていたわけではない。身体の奥に蓄えた力を、決まった方向へ撃ち出す感覚だった。
(……魔力でも、同じことができないか?)
俺は右手を持ち上げた。
魔力を無理に引っ張ろうとするのをやめる。ただ、身体の中にある光を意識しながら、あのころの感覚を思い出した。
枝の先に止まった虫。
獲物との距離。
わずかな風。
狙い。
そして――射出。
ぞわっ。
(――っ!?)
胸の奥で、何かが動いた。
光が肩へ流れ、肘を通り、手首へ向かう。
(来た……!)
俺は反射的に人差し指を天井へ向けた。
溜める。
狙う。
放つ。
――シュッ!
指先から細い光が飛び出した。
天井に当たって、小さな音を立てて消える。
それだけだった。
穴が開いたわけでもない。何かが壊れたわけでもない。そばにいた母さんも気づかなかった。
だが、俺はしばらく自分の指先から目を離せなかった。
(……出た)
自分の意思で、魔力を外へ放出できた。
(本当に……できた)
心臓が速くなる。
もう一度、同じ感覚を再現する。
シュッ!
今度はさっきより少しだけ速かった。
(すげえ……)
思わず笑いそうになった。
いや、実際には「あぅ」と間の抜けた声が出ただけだったが。
俺は魔法を覚えたわけじゃない。
母さんの《微風》とは違い、魔力を特定の形に組み上げてもいない。ただ、身体の中にある魔力を撃ち出しただけだ。
それでも、大きな一歩だった。
(これなら……)
頭の中に、いくつもの可能性が浮かぶ。
カメレオンの射出感覚を魔力に応用できたのなら、シャコの一撃はどうなる?
あの爆発的な打撃の感覚を、人間の拳に乗せられたら?
そして――タコ。
八本の腕が、それぞれ別のものを掴み、別の方向へ動いていた感覚。
もしあれを魔力に応用できるなら、一度に複数の流れを操ることだって……。
(いや、待て待て)
俺は自分の手を見た。
小さくて、柔らかくて、まだまともに物を握ることすらできない手。
(まだ生後三か月だぞ、俺)
今は魔力を一方向へ撃ち出せただけ。
それだけでも十分すぎる進歩だ。
焦る必要はない。
これから少しずつ覚えていけばいい。
そう思っていた。
――その日の夜までは。
◆
目が覚めた。
(…………?)
部屋は暗かった。
窓から差し込む月明かりが、床に細長い影を落としている。隣では母さんが静かな寝息を立てていた。
腹が減ったわけじゃない。
寒いわけでもない。
物音がしたわけでもない。
なのに、なぜか目が覚めた。
(……なんだ?)
胸の奥がざわついている。
右眼を扉へ向け、左眼で窓を確かめる。
何もない。
だが、妙な違和感は消えなかった。
俺は視界の意識を切り替えた。
普通の光ではなく、魔力の流れを見る。
(…………)
その瞬間、違和感の正体が分かった。
廊下の向こう。
普段なら静かに流れているはずの魔力が、不自然に乱れていた。
壁の向こうを直接見通せるわけじゃない。それでも、扉の隙間や廊下へ続く空気の中に、見慣れない魔力の痕跡が浮かんでいる。
(一人……いや、二人?)
さらに奥でも、同じような乱れが生じた。
(三人……)
知らない魔力だった。
この三か月で覚えた家族や使用人たちのものとは、明らかに違う。
しかも奇妙なことに、その魔力は極端に薄い。
まるで、誰かに見つからないよう、無理やり押さえ込んでいるみたいだった。
(……何してる?)
次の瞬間。
隣室の方角で、強い魔力が膨れ上がった。
(父さん?)
見慣れた魔力だ。
父さんが何かをしようとしている。
だが、その流れは途中で激しく乱れた。
一瞬、廊下の魔力とぶつかり合う。
そして――。
ふっ。
(…………え?)
父さんの魔力が消えた。
まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。
(……おい)
背筋が冷たくなる。
(待てよ。なんだ、今の)
魔力を使い切った?
いや、違う。
これまで父さんが魔法を使ったとき、魔力が減ることはあっても、完全に見えなくなったことはなかった。
それなのに。
(父さん……?)
身体を起こそうとした。
だが、できない。
足に力を込めても、布団の上で小さく動くだけだった。
「……ぁ」
声を出す。
「ぁあっ!」
母さんが身じろぎした。
「……ん……?」
(起きてくれ!)
「ぁあ! あぁっ!」
「どうしたの……?」
眠そうな声。
母さんが身体を起こし、俺を抱き上げた。
「お腹すいたの?」
(違う! 廊下だ!)
必死に扉を見る。
しかし母さんは気づかない。
そのとき。
廊下にあった三つの魔力のうち、一つがこちらへ近づいてきた。
ゆっくりと。
確実に。
(……来る)
扉の前で止まった。
次の瞬間。
カチャ。
小さな音がした。
「……あなた?」
母さんが扉へ顔を向けた。
返事はない。
扉が、ゆっくりと開く。
月明かりの中に現れたのは、黒い服を着た男だった。
顔は布で覆われている。
そして、その右手には――短剣。
「……っ!」
母さんが息を呑んだ。
俺には、男の身体を流れる魔力が見えていた。
速い。
父さんとも母さんとも違う、鋭く研ぎ澄まされた流れ。
そして短剣の刃にも、薄い魔力がまとわりついている。
(……殺す気だ)
考えるより先に、男が動いた。
短剣が振り上げられる。
シャコだったころの視覚が、その動きを鮮明に捉えた。
肩のわずかな沈み込み。
肘の角度。
刃の軌道。
男が狙っているのは――。
(……俺?)
短剣の先は、母さんの胸ではなく、抱かれている俺へ向いていた。
母さんが反射的に身体を捻る。
「――っ!」
俺を庇おうとする。
だが、間に合わない。
(くそっ!)
俺は右手を持ち上げた。
昼間に覚えたばかりの感覚。
距離を測る。
狙いを定める。
魔力を蓄える。
そして――。
(撃て!)
――バンッ!!
「ぐあっ!?」
男の右手が弾かれた。
短剣が宙を舞い、床へ落ちる。
カランッ!
静まり返った部屋に、乾いた音が響いた。
「…………」
母さんが固まる。
男も動きを止めた。
そして俺自身も、自分の小さな指を見つめていた。
(……出た)
昼間とは比べものにならないほど強い魔力が飛び出した。
だが、それ以上に驚いたことがあった。
(……狙ったところに当たった)
男の手首。
短剣を握っていた、ほんのわずかな場所。
俺はそこを狙った。
そして、当てた。
カメレオンだったころの射出感覚と、シャコだったころの視覚。
その二つが、初めて一つの動きとして繋がった。
「……誰だ」
男が低い声を漏らした。
「今の魔法は……誰が使った?」
当然、返事はない。
この部屋にいるのは母さんと俺だけだ。
男の視線が母さんへ向く。
そして、ゆっくりと下がった。
俺を見る。
「…………」
目が合った。
男の瞳が、大きく見開かれる。
「……まさか」
その声には、驚きだけではない何かが混じっていた。
恐怖。
いや――。
「……報告と違う」
(……報告?)
男が呟く。
「スキルを持たない赤子だと……聞いていたのに」
ぞくり、とした。
(こいつ……俺のことを知ってる?)
だが、考える時間は与えられなかった。
男が左手を突き出した。
魔力が集まる。
指先から伸びた光が、空中で複雑に絡み合う。
(まずい……!)
俺には見えていた。
魔力が形を作っていく。
母さんの《微風》とは比べものにならないほど速い。
赤い光が収束する。
熱が生まれる。
(火……!)
「――《火弾》!」
炎が放たれた。
母さんが俺を強く抱き締める。
「この子だけは……!」
俺を胸に押しつけ、背中を向けた。
自分が盾になるつもりだ。
(やめろ!)
炎が迫る。
俺には軌道が見えている。
どこを通るのかも、どれほどの速さなのかも分かる。
だが、分かるだけだ。
撃ち落とすには、さっきの魔力弾では弱すぎる。
避けるには、母さんの身体が間に合わない。
防ぐ方法なんて、まだ知らない。
(どうする……!)
俺は魔力を動かそうとした。
胸の奥から、右手へ。
だが、さっきの一撃で魔力を使いすぎたのか、流れがひどく鈍い。
(動け……!)
炎が近づく。
母さんの背中が、俺の視界を塞いだ。
(頼む……!)
このままでは母さんが死ぬ。
俺を守ろうとして。
まだ三か月しか一緒にいない。
それでも、俺には分かる。
この人は俺を愛してくれている。
最初の人生で、俺も親だった。
子供を抱いたことがある。
熱を出した夜、眠らずに看病したことがある。
転んで泣いた子供を、何度も抱き上げた。
だから分かる。
今、母さんが何を考えているのか。
自分が死んでも、俺だけは守りたい。
きっと、それだけだ。
(……ふざけるな)
六度も生きてきた。
人間だった。
カメレオンだった。
シャコだった。
タコだった。
クマムシだった。
そして今、また人間になった。
それなのに。
(目の前の母さん一人、守れないのかよ……!)
魔力を振り絞る。
しかし、動かない。
身体が小さすぎる。
力が足りない。
経験も足りない。
何より、俺はまだ――赤ん坊だった。
その瞬間。
――ドクンッ。
(…………?)
心臓が大きく脈打った。
次の鼓動までが、妙に長い。
(……なんだ?)
呼吸が浅くなる。
手足の感覚が遠ざかっていく。
身体の奥にあった魔力が、急速に小さくなっていった。
(おい……)
寒い。
さっきまで感じていた母さんの温もりが、遠くなる。
視界が暗くなっていく。
(……なんで?)
死ぬ。
その言葉が頭をよぎった。
だが――違う。
俺は、この感覚を知っている。
かつて、人間ではなかったころ。
身体が乾いていく。
水がなくなる。
動けなくなる。
外の世界が、命を維持するにはあまりにも過酷になったとき。
俺は何度も、同じことをしていた。
動くことをやめる。
生きるための活動を、限界まで小さくする。
時間が過ぎるのを待つ。
再び生きられる環境が訪れる、その瞬間まで。
(……まさか)
五度目の人生。
肉眼ではほとんど見えないほど小さかった身体。
乾燥にも、極寒にも耐え、ただ生き延びることだけに特化した生命。
(……クマムシ)
その名を思い出した瞬間、身体の奥で何かが切り替わった。
俺の意思ではない。
魔法でもない。
スキルでもない。
五度目の生涯で、何度も繰り返してきた――生存本能。
身体の魔力が、一点へ収束していく。
呼吸が止まる。
指先の感覚が消える。
視界が、完全な闇に沈む。
(……待て)
意識が遠のく。
(俺だけ助かっても……)
母さんは。
(母さんは、どうなる……?)
答えは返ってこなかった。
最後に聞こえたのは、俺を抱き締める母さんの声だった。
「――お願い……この子だけは……!」
そして。
俺の心臓が――止まった。




