これはスキルじゃない
「この子には……何のスキルもありません」
神官のその言葉を境に、部屋の空気が変わった。
ついさっきまで俺が生まれたことを喜んでいた母親の表情が固まり、父親も神官を見つめたまま動かない。
「何も……ですか?」
「はい。少なくとも、私の鑑定では確認できません」
「そんな……」
母親が俺を抱く腕に、わずかに力が入った。
俺にはまだ、この世界の常識が分からない。
魔力。スキル。神官。そして先ほど俺の額に触れたときに発生した、あの不思議な光。
どれも最初の人生には存在しなかったものだ。
だが両親の反応を見る限り、《スキルなし》という結果が喜ばしいものではないことくらいは分かる。
「もう一度、お願いできませんか」
父親が言った。
「もちろんです」
神官が再び俺の額へ手を伸ばす。
その瞬間だった。
(……やっぱり見える)
老人の指先に、淡い光が集まっていく。
だが俺が見ているのは、その光だけではない。
青。紫。白。それよりさらに細かな、言葉では表現できない何か。
光の中に、いくつもの異なる層が重なっている。
神官の腕から指先へ何かが流れ、それが俺の額へ入り込んでくる。
(なんだ、これ……)
気味が悪い。
だが同時に、懐かしかった。
この感覚を、俺は知っている。
三度目の生。
海の底を這い回っていた、シャコだったころ。
あの身体の眼には、人間だったころには想像もできなかった世界が映っていた。
同じ海。同じ太陽。同じ生き物。
なのに、見えているものが違った。
(まさか……)
「……やはり、ありません」
神官が手を離した。
「魔力そのものは感じます。しかし、固有のスキル反応がまったくない」
母親が俯いた。
「ですが、どうか悲観なさらないでください。スキルだけが人の価値を決めるわけではありません」
慰めている。
ということは、やっぱり相当な外れらしい。
(生まれて早々これかよ……)
人間だった最初の人生なら、笑っていたかもしれない。
だが今は、それどころではなかった。
俺にはもっと気になることがある。
神官を見る。
その隣にいる母親も見る。
二人は少し離れた位置にいる。
(……できるか?)
意識する。
右眼を神官へ。
左眼を母親へ。
ぐるり、と視界が動いた。
(…………)
二つの景色が同時に頭へ入ってくる。
右には神官。
左には母親。
それぞれ違う場所を見ているのに、不思議なほど自然に認識できた。
(できる)
偶然じゃない。
この眼の使い方を、俺は知っている。
木の枝にしがみつき、周囲を警戒しながら獲物を探していた二度目の生。
(カメレオン……)
ぞくりとした。
俺はずっと、前世から引き継いでいるものは《記憶》だけだと思っていた。
人間だった記憶。
カメレオンだった記憶。
シャコだった記憶。
タコだった記憶。
クマムシだった記憶。
それだけだと思っていた。
だが違う。
身体が覚えている。
いや――魂が覚えている、とでも言えばいいのか。
なら。
(他は……?)
試したくなった。
とはいえ、生まれたばかりの赤ん坊だ。
シャコだったころのように何かを殴るわけにはいかない。カメレオンのように舌を撃ち出そうにも、人間の舌が何メートルも伸びるとは思えない。
なら、今すぐ試せるもの。
(タコ)
四度目の生。
八本の腕を持つ身体。
あのころの俺は、一つのことをしながら別のことをするのが当たり前だった。
獲物を見る。
腕を動かす。
周囲を警戒する。
身体の色を変える。
逃げ道を探す。
それらを同時にやっていた。
(……やってみるか)
まず母親を見る。
同時に、神官の言葉を聞く。
さらに自分の右手を動かす。
もう一つ。
天井の模様を覚える。
(四つ)
まだいける。
父親の呼吸。
窓から聞こえる風の音。
身体の中にある奇妙な感覚。
そして――最初の人生の記憶。
(八つ)
そこで止めた。
いや。
止まった。
(…………マジか)
八つの異なる対象へ同時に意識を向けている。
しかも、どれも曖昧になっていない。
頭が痛いわけでもない。
むしろ自然だった。
八本の腕を別々に動かしていた、あのころのように。
(これも残ってる)
笑いそうになった。
実際には赤ん坊なので「あぅ」と妙な声が出ただけだったが。
「あら……」
母親が俺を見る。
「笑った……?」
「生まれたばかりだぞ?」
父親まで覗き込んできた。
(違う。今のはそういうんじゃない)
説明できるはずもない。
だが、これでほぼ確信した。
俺が六度目の生へ持ってきたものは、記憶だけじゃない。
カメレオンだったころの眼。
シャコだったころの視覚。
タコだったころの思考。
なら当然、残る疑問は一つだった。
(クマムシは……?)
…………。
(どうやって確かめればいいんだ?)
さすがに分からない。
高熱に放り込んでもらうわけにもいかないし、凍らせてもらうわけにもいかない。
そもそも赤ん坊の状態で試していい能力ではない。
(まあ……そのうち分かるか)
五度も生きれば、諦めも早くなる。
それより今は、この世界のことを知る方が先だった。
神官と父親はまだ話している。
「スキルが発現する可能性は、本当にないのですか?」
「成長の過程で後天的に技術を身につけることはできます。しかし、生来の固有スキルとなると……」
なるほど。
俺は黙って会話を聞く。
いや、聞きながら同時に別のことをしていた。
神官を見る。
その身体を流れる光を見る。
母親を見る。
父親を見る。
すると気づいた。
(……この二人にもある)
母親の身体にも、神官ほど強くはないが淡い光が流れている。
父親にもある。
血管とは違う。
身体の内側を、煙のような、川のような何かが巡っている。
(これが……魔力?)
確証はない。
だが、おそらくそうだ。
神官が魔法らしきものを使った瞬間、最も強く光った。
ならば、この光こそが魔力なのだろう。
面白くなってきた。
俺は右眼で神官を見る。
左眼で父親を見る。
片方ずつ違う魔力の流れを追う。
できる。
さらに頭の中では、それぞれの違いを同時に比較する。
(神官の方が流れが太い……いや、太いというより密度が違うのか?)
赤ん坊が考えることではない。
だが暇なのだ。
身体はほとんど動かせない。
喋れない。
歩けない。
なら、見るしかない。
そして俺には、その《見る》という行為だけで十分すぎるほどの情報が入ってきた。
その日から俺は、暇さえあれば魔力を見るようになった。
母親。
父親。
部屋へ入ってくる人間。
窓の外。
植物。
空気。
数日もすると、一つのことが分かった。
魔力は人間だけにあるわけではない。
量の差こそあれ、この世界のあらゆる場所に存在している。
そして当然――俺の中にもあった。
(…………ん?)
最初に違和感を覚えたのは、自分の手を見ていたときだった。
他人の魔力を見慣れてきたからこそ分かった。
(なんだ、これ)
母親とも違う。
父親とも違う。
神官とも違う。
俺の身体にも確かに魔力は流れている。
だが――流れ方がおかしい。
理由は分からない。
何度見ても同じだった。
(俺の中だけ……何か違う)
その答えを知るには、まだ俺はこの世界について何も知らなすぎる。
だから今は覚えておくことにした。
そして、もう一つ。
俺は数日間、自分の身体を観察し続けてようやく理解したことがある。
神官の鑑定は間違っていない。
俺にはスキルがない。
本当に、一つもない。
カメレオンだったころの眼も。
シャコだったころの視覚も。
タコだったころの思考も。
この世界が《スキル》と呼んでいるものとは、どうやら違う。
だったら――これは何なんだ?
しばらく考えて。
妙に単純な答えに辿り着いた。
(……そうか)
スキルじゃない。
能力を与えられたわけでもない。
俺にとって左右の眼を別々に動かすことは、一度覚えた身体の動かし方だ。
人間には見えないものを見ることも。
複数のことを同時に考えることも。
全部、一度は俺自身が生きて、使ってきたものだ。
五度の生涯を経ても消えずに残った、俺自身の経験。
だから鑑定できない。
だからスキル欄にも現れない。
俺は小さな手を握った。
(これは《能力》じゃない)
窓から差し込む光の中を、無数の魔力が流れている。
今の俺には、それが見える。
(――俺が、できることなんだ)
どうやら六度目の人生は。
今までで一番、面白くなりそうだった。




