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「……あれ、雨?」
本宮まで続く、785段。
その最後の一息を上がりくる直前、予告もなく雨が降りはじめた。
ぽつりと顔に水が触れた、と思った次の瞬間には音をたてて雨が地面にたたきつけられる。
「わ、わ、わ。結構降ってくるかも!」
登る人も降りる人も慌てたように木の陰に入る中、瀬戸の「一気に登って上で休んだ方がいい」という言葉を信じて、三人は一気に階段を駆け上がった。
「頑張って、あとすこしです」
そんな瀬戸の励ましと同時に、階段を上りきる。目の前に大きな本宮の建物。こんもりと盛り上がる木々の影。
そしてその向こうに……。
「……わ……あ」
「眺めが良い!」
聡子と碧は同時に声をあげた。
本宮の建物の手前はちょっとした展望台になっているようだ。
開けたその向こう、眼下には高松市街地が広がっていた。街の向こうには青い海、島も見える。
雨で曇っているものの、ここまで登ってきたご褒美としては最高に美しい風景だ。
展望を見に行きたい気持ちをぐっと堪え、大急ぎでおまいりを済ませるうちに雨はますます本降りになっていた。
「金比羅さんは海の神様でもあるんです。だから、雨が似合うのかもしれないですね……よし、セーフ」
運良く屋根のあるベンチを瀬戸が見つけ、二人を引っ張り込んでくれる。その瞬間、目の前で大きな雨粒が跳ねあがった。
一瞬のうちに、目の前が真っ白になるほどの雨が降り始める。
「なんか、お腹いたい……」
落ち着いたと思った途端、碧が聡子に体重を預けてきた。
その体がひやりと冷たいことに気づき、聡子の指が震える。
「それに、気持ち悪い……」
「だから言ったのに!」
「大丈夫ですか?」
「お姉ちゃん、食べつわりなんです」
鞄を漁る。が、その中にあるのは財布とスマホとハンカチだけ。
それを見て聡子は自分のうかつさに舌打ちしそうになった。
「食べつわり?」
「食べてないと気持ち悪くて。でも重いもの食べると吐いちゃうし……ああどうしよう。グミ持ってきてたはずなのに、全部食べ切っちゃって……」
「あの……良ければ、これ」
と、瀬戸が背負ったリュックをあさり始める……と、そこから出てきたのは小さな水筒とビニール袋。
「梅ジュース、持ってきました。あ、あとこれ、もしこれ食べられそうなら」
「お菓子……?」
「湿気ってないといいんですが」
袋の中に入っていたのは、奇妙なお菓子だった。ラムネみたいに丸くてパステルカラー。でも手に持つと軽い。
少し力を入れるとくしゃりと崩れてしまう……。
「これは?」
「おいりっていいます、これならサクッと軽いしお腹にたまらないから、もしかするといけるかも」
試しに一つ、口にする。と、恐ろしいほど簡単に口の中で崩れてとけた。
まるで甘くて軽い、薄めのおせんべいのようなもの。かすかにニッキの甘い味もする。
碧に差し出すと、彼女は無言で1つ、2つと食べた。美味しかったのか、何粒もつまみ、そして差し出された梅ジュースを子どものように抱えて飲んだ。
その姿を見て、瀬戸が微笑む。
「ちょっと休憩して、雨が落ち着いたら降りましょうね」
「やだ……奥までいく」
碧の目は、雨に煙る山の奥を見つめている。その先は、奥社だ。しかも、ここからまだ600段以上上がった先にある……。
「お姉ちゃん、無理だって」
「でも」
たん、とどこかで水が跳ねた。その音は、ONIが踊るときに手を打ち鳴らす、合図の音によく似ている。
その偶然に、碧は口を閉ざした。
「こんな雨なら、ONIも無理に行こうとはしませんよ」
碧を見つめ、瀬戸が励ますようにおいりを差し出す。
軽くてコロコロとした、可愛いお菓子。それはいくつも、碧の手の中に転がっていく。
雨で曇った空気の中、手の中だけが鮮やかだ。
「奥社はまたにしませんか。ここは逃げないから……ONIなら、きっとそう言いますよ」
ようやく碧は、泣きそうな顔で頷いた。
「ありがとうございます……お姉ちゃん、寝ちゃいました」
おいりを10個も食べたあと、また碧はうつらと眠りに入ってしまった。
行きの電車の中でも眠っていたので、やはり妊娠は体調を変えてしまうのかもしれない。
碧の体にストールをかけて、聡子はほうっとため息をつく。
気がつけば本宮前にはほとんど人が居ない、雨がやむのをどこかで待っているのだろう。
ここにいるのは瀬戸と自分と眠る碧だけ。
そのせいで、聡子の口がふと、軽くなった。
「……お姉ちゃん、子どもを産むのを悩んでる……みたいで。それをONIさんに相談に来たのかも」
思わずそう呟いてしまったのは、なぜだろうか。
瀬戸の柔らかい雰囲気のせいだろうか。
それとも、雨に包まれて世界が静かだからだろうか。
「あ。お腹の子のお父さんのせいじゃないです。長い間、姉と付き合ってる恋人で……もちろん独身なので」
これまで人にこんな話など、したことはない。それなのに、おいりの甘さが口を解かせたようにつるつると言葉が溢れる。
「相手は結婚する気で、新居なんかも真剣に考えてるみたいなんです。けど……お姉ちゃんが産みたくないって」
瀬戸は何も言わない、ただじっと耳だけを傾けてくれる。その距離感が心地よく、聡子は続けた。
「私たち、両親を早くに亡くしてるんです。母は私の下の妹を産むとき、妹と一緒に亡くなってて」
「……すみません」
「あ、いや、違うです。私が話を聞いてほしくて話してるので……そう。父も私たち二人を育てたあと亡くなって。結局、姉妹、二人きりになってしまって」
母の死を聡子はあまり覚えていない。まだ小学生だったせいだ。
ただ母の死から葬式の間まで、高校生だった碧がずっと抱きしめてくれていたことを覚えている。
あのとき碧は少しだけ悪い道に進みかけていた。
家にはほとんど、帰ってもこなかった。それなのに、母の死を知った姉は真っ先に聡子の部屋に駆け込んできたのだ。
母の病院でも、父の元でもなく、聡子の部屋へ。
そして真っ先に聡子を抱きしめてくれた。
だから聡子は碧にどんな我が儘を言われたって、ちっとも腹も立たないのである。
「結婚すると私が一人になるって心配してくれてるのかもですけど、でも私としては姪っ子か甥っ子やお兄さんができるのは嬉しいし。私のことを思ってのことなら、そんな気にしなくていいのに……」
ん。と小さな声が聞こえて、聡子の肩の上で碧の髪が揺れる。
それを見て聡子は碧の手を優しく握った。
「あ。お姉ちゃん起きた?」
うん。と小さな顎が動くのを見て、聡子は空を見上げる。
話している間に雨は上がってきていた。眼下に広がる高松の市街地も海も、雨の滴をまとって輝いていた。
近くまで行って市街地を眺めたい気もする。しかしそれはまた今度でいい。そんな気がした。
「ね。もう降りようか、ゆっくりとね。それからどうする?」
「あたし、もう一度女木島いきたいな……」
碧は寝ぼけ眼で、瀬戸を見上げる。
「ONIの踊ってた砂浜、見てみたい」
瀬戸はやはり、優しく微笑むだけだった。
電車に揺られてまた2時間。
聡子たちが女木島に戻ってきたとき、太陽はもう西の空に傾こうとしていた。
「夕暮れ……すごいですね」
夕陽がじりじりと沈むと、穏やかな瀬戸内の波はとろりとした茜色に染まる。
波が鱗のように輝くのは、動きが穏やかなせいだろう。
夕陽の色を含んだ波は、もったりと寄せては返す。
琴平で聡子たちを濡らした雨雲は、もう遠くどこかに消えてしまった。
今、空には初夏らしい淡い雲が夕日の色に染まって浮かぶばかりだ。
そして広い海の上には、影絵のように島が浮かぶ。その様子を、聡子は呆然と見つめた。
碧もまた真っ白な砂浜にぺたりと座り込んだまま、ぽかんと口を開けている。
そんな姉の腕を、聡子はついっと引っ張った。
「お姉ちゃん、ここってONIの砂浜じゃない?」




