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「うわ。動いてる……蝶子さんだ!」
「え、分かるんですか?」
「あ、ほら、ここ! 一瞬だけ見えたスカート! これ、お気に入りのやつです」
瀬戸はカウンターから転がり落ちそうなほどに体を傾けて、聡子のスマホに釘漬けだ。
彼は顔を赤くして興奮気味に画面を指さす。
「それにこの場所、店のすぐ裏の海岸なんです。ほら、この真っ白な砂浜と、向こうに見える街……これ高松市です」
窓の外を指さし、画面を指さし、瀬戸はまるで飼い主を見つけた子犬のように目を輝かせた。
「毎朝ラジオ体操に砂浜に出てたけど……まさかこんな……蝶子さん、色んなことしてたんだなあ」
「いろんな?」
「ええ、僕も最近知ったんです。どうもブログとかもやってたみたいで。あ、蝶子さんっていうのは、壁に貼ってある写真のこの人なんですけど……」
「え……めっちゃかっけえ……」
と、瀬戸が壁を指さした途端、聡子の背中に温かいモノが触れる。
振りかえると、そこには泣きすぎてアイシャドウもマスカラもとれてしまった碧が立っていた
碧は壁にキスでもしそうな勢いで迫り、瀬戸を見上げる。
「待って、待って。ONI、こんなかっこいいババアだったんだ」
「お姉ちゃん! 言葉悪い……え、え、ほんとにこの人……?」
碧を壁から引き離し、たしなめる……その瞬間、写真が目にも飛び込んできて、思わず動きが止まった。
壁に貼られている写真は夕暮れの海岸だろうか。瀬戸と並んで女性が映っている……それはどこからどうみても、お婆さんなのだ。
髪の毛は真っ白。顔だって、70歳は超えているだろう。でも最高の笑顔を浮かべ、まるでフラダンスみたいなポーズを決めている。
隣に立つ瀬戸はもう少し幼い顔で、緊張気味に直立不動。その対比がおかしい。
「これが……あのONI、さん……?」
呆然と聡子は呟く。姉の心を奪ったONIの影ダンスを昨日、一通り見たのである。
どれもこれも動きが素晴らしかった。腕の振り上げ、足の上げかた、一つ一つにキレがあった。
あの影と目の前の写真はどうしても結びつかない。
「享年は79歳……この写真のときは75歳かな」
「えっ。ということは、去年撮ったこの動画……78歳! この婆さん、すげえ! 真っ赤なワンピースすっげえ似合ってるじゃん。黄色のサンダル合わせるのとか、首にオレンジのスカーフとか、原色似合うババアって、ちょうかっけえ!」
「お姉ちゃん、だから、言葉!」
姉はすっかり泣き止んで、カウンターの椅子にどっかりと腰を落としている。
そんな動きをして子どもは大丈夫なのだろうか。心配になり、聡子は慌てて彼女の背を支えた。
と、瀬戸がさりげなく小さなクッションを碧の背に差し込んだ。
「碧さん、でしたっけ。もしかして、ONIのダンスを見に来られたんですか?」
「てかダンス対決? あたしもONIのダンス見て、影使ってやるダンスに目覚めたからさ。対決っていうか、認めて貰いたかったのかな。弟子にしてほしーっていうか」
姉は二人の気遣いに気づいているのか、いないのか。
足を組み、聡子が大事にとっておいたコーヒーを飲もうとするので慌てて取り上げる。
「お姉ちゃんはコーヒー駄目!」
「……けち。あーもう! いい」
碧はぷう。と口を尖らせると、椅子から飛び降りた。そして壁の写真をそっと撫でる。
「ONIいないんじゃ、ダンス対決できないじゃん。観光して帰る」
「金比羅さんに行ってみたいんだったっけ」
事前に聞かされていた、碧のやってみたいことリストはそれほど多くはない。
ONIに会うこと、海を見ること……それに金比羅さんに行くこと。
前半の二つはまだ、いい。気に掛かっているのはラストの一つだ。
「お姉ちゃん、確か金比羅さんって階段がすごいんじゃなかったっけ?」
「毎日店に何時間立ってると思ってんの。足腰鍛えてんだから、へーきよ」
そうじゃなく、お腹に……と、聡子は言いかけて、止めた。
どうも碧は妊娠に触れてほしくないようだ。そのことを意識的に口にしない風にも見える。
だから聡子も、それ以上は突っ込めない。
「あ、そうだ。お兄さんも一緒にこない? うちら今から高松出て、金比羅さんにいくんだけど」
「え?」
「ば……ばか! お姉ちゃん、お店の人に!」
姉の興味の対象が飛び火したことに気づき、聡子は文字通り飛び上がる。
妊娠のことを突っ込めないのは良いとしても、人様への迷惑は放っておけない。
「いいじゃん。お客さんいないし、ひまそーだし」
「お姉ちゃん!……すみません。無視してください。あ、お会計してください!」
「僕も一緒させてもらって、いいんですか?」
しかし。瀬戸から漏れたのはそんな意外な一言だ。
彼はうきうきとエプロンを外すと、鞄を手にする。
「最近全然島から出てなくて。むしろ行ってみたいです。金比羅さん、僕もまだいったことないんです」
「でも、その書類……」
聡子はちらりと、カウンターの上に乗ったままになっている書類を見た。
先ほど、ロボットみたいな弁護士が言ったはずだ……今日中に投函して、と。
「実は僕、書類仕事苦手で……」
しかし瀬戸はまるで塾をサボる高校生みたいな顔で舌を出す。
「それから逃げたいってのもあります」
じゃあ、決まり。という碧の明るい声だけが店の中に響き渡った。
女木島から船と電車を乗り継いで2時間近く。
大きな山に吸い込まれそうなその場所に、目的地である琴平駅はあった。
「結構かかったねー」
電車の中では熟睡しきっていた碧だが、まるで大仕事を一つ終えたような顔で聡子を見て笑う。
「結構観光地じゃん」
濡れたような石畳の左右には、カフェやお土産屋などが所狭しと並んでいる。古いお店もあれば、最近オープンしたような小綺麗な店も多い。
ちょうどゴールデンウイークの直後なので人は少ないが、それでも思ったよりも多くの観光客が歩いている。
彼らが目的としているのは、この先にある金比羅山……金刀比羅宮だろう。
(海の神様で……できたのは1000年以上前で……全国の金刀比羅宮の総本山で……)
聡子はスマホに映し出された情報を眺めながら、眉を寄せた。
噂には聞いていたが、金比羅さんはただの神社ではなさそうだ。
ネットの口コミに目を通せば石段、見晴らし、休憩。の文字が並んでいて、どうにも不穏である。
「参道が階段になってるんだって……すっごく歩くけど、お姉ちゃん本当に大丈夫なの?」
「もう、心配性だなあ。平気だって。ここまで来たんだし」
……しかし、悪い予感は的中するものだ。
平坦だと思っていたのは最初だけ。案内図の通りに進めば、やがて目の前に石の階段が見えてくる。
見上げるほど長い階段を前に碧の足が、ぴたりと止まった。
階段を行く人たちは皆、杖を手にしているのだ。降りてくる人たちの息が荒れている。ジャケットを脱いで、溢れる汗を拭う人もいる。
それを見て、何かを感じ取ったようにこわごわと階段を見上げた。
「これかあ……階段……結構ある?」
「785段。奥社までいくと1368段、です」
しずしずと姉妹の後ろをついてきていた瀬戸がつぶやき、聡子と碧は同時に「げ」と声をあげた。
(えっと、確か駅の階段が15段くらいで……毎朝それを2回登るから30段で……20倍以上!?)
通勤の階段を駆け上るだけでぜえぜえと息を乱している自分を思い出し、聡子は軽いめまいを覚えた。
「お姉ちゃん。ほどほどのところで折り返そうか」
「やだ。最後まで行く。具合悪くなったらおにーさん、背負ってもらう」
「僕でよろしければ……」
「お姉ちゃん!」
遠慮無く瀬戸の腕を掴んだ碧をみて、聡子は声を上げる。
元々破天荒で我が儘な姉だが、今日は特にひどい。
つわりで性格まで変わることはあるのだろうか。と、聡子は首をかしげる。
「と、とりあえず入り口で立ってると邪魔だし、いけるところまで、いこ。ゆっくり。私の腕、持って良いから」
歩き始めれば、ゆっくりが功を奏したかそこまでの負担はない。
坂が緩やかなせいもあるし、周囲にお土産屋が乱立しているのもまたいい。
跳ねながら歩く姉をなだめ、ゆっくり、ゆっくり。やがて新緑と土の香りが、鼻いっぱいに広がっていることに気がついた。
「土の匂い……ああ、そういえば、ここって山なんですもんね」
「この金比羅宮がある山を象頭山、といいます。象の頭のような形だからそんな名前だそうです」
この匂いは山の匂いなのだ。と聡子は気がつく。
そういえば幼い頃、母の実家のある山里へよく遊びに行っていた。そんなことをふと、思い出す。
あの場所は、どこだったかもう覚えていない。祖父母も、聡子が小さな頃に亡くなってしまったから。
しかし、幼い頃に見たあの風景は、故郷という言葉そのものだった。山があり、土が香り、空の青がある。
足を止め、振り返ると初夏の空の下にいくつもの山が見えた。ああ、ここは、あの頃見た風景によく似ている。
「香川って、山が多いですよね」
瀬戸大橋を渡って香川に入った。その時からこの場所は山が多く目についた。
その時、変わった山が多いな、と思ったものだ。
「香川の山ってちょっと特徴的ですよね。おにぎりみたいな山とか」
「もう何千万年も昔の火山活動で、こんな形になったと言われてるそうです。しかも山の上と下で土の硬さが違うみたいで、ちょっと珍しい石も採れるらしいですよ」
少し息を弾ませて、瀬戸がいう。喋りながらもその目は碧の動向を気に掛けてくれていて、聡子は頭が下がった。
聡子はもう、足下がもつれないようにするだけで必死だ。
「詳しい……ですね」
「僕は元々、関東出身なんですけど……その……色々と、あって」
石段の高さが少し変わり、瀬戸の息もさすがに乱れる。
が、彼は元々スポーツでもしていたのか、息の逃しかたがうまい。すぐさま呼吸を整え、聡子と碧の背を支えてくれた。
「数年前に、香川に来ました。そのとき、香川の名所とか、全部蝶子さんが教えてくれたんです」
最初こそ緩やかだと思っていた階段も、進むごとに負担があがっていく。お土産屋をちらちらと見る余裕ももう無い。
常連らしいお年寄りに、どんどん抜かれていくのもまた情けない。
「この階段、話に聞いたときはもっと余裕だと思ったんですが……でも聞くのと来るのじゃ、大違いですね。すごく良い経験になります」
見上げると、瀬戸の顔にもうっすらと汗が滲んでいた。
「すみません。お仕事休んでこんなこと……」
「いえいえ。本当に暇なんですよ、もともと蝶子さんの頃から趣味でやってたお店で……真夏とかの繁忙期以外は閑古鳥なので、気にしないでください……あ、ほら。少し広場があります。あそこで少し休憩しましょう」
階段地獄を抜けた先にある平坦な広場は、まさに砂漠のオアシスである。たまらず腰を曲げて息を整える。見ると碧も軽口を忘れて息を整えていた。
「ねー……もう、これでおしまい……?」
しかし、顔を上げて見ると門を抜けた先にまだ、階段が見える。
しかもここからは少し急だ。左右には灯籠が並び、一気に神社らしくなってきた。
「え~まだ階段!」
「もう、やめとこうか、お姉ちゃん」
「やだ。いく」
額に汗を浮かばせているくせに、碧は意固地のように首をふる。
ダンスが趣味だった碧にとっては、この程度の運動など負荷でもなんでもないはずだ。
それでも相当疲れて見えるのは、やはり妊娠のせいだろう。
「駄目だって、無理したら……」
「金比羅さん、ONIがお勧めしてくれたんだ」
と、碧がぽつり、呟いた。
「だから、行くの」
それはこれまでより真剣な声だ。数歩前を行く瀬戸が振り返り、じっと碧を見つめる。
「絶対、行かなきゃいけないの」
行きましょう。と、瀬戸も静かにそう言った。




