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『今日は見事な五月晴れ。こどもの日が近いからさ、女木島でも鯉のぼりが泳いでるよ。でも五月晴れって本当は梅雨の晴れ間のこと、って知ってた?』
スマートフォンから、懐かしい声が響いた。
暗闇の中で光るスマートフォンを見つめたまま、瀬戸は少しも動けない。
『今日はね、珍しく相談が無いんだ。ゴールデンウイークも近いし、みんな遊ぶ予定いっぱいで、悩みも吹き飛んじゃったかな。だから私の話をしようかなと思ってる』
時計は午前11時をさしている。が、喫茶ダニエルの店内は薄暗い……電気を落とし、窓にはカーテンを引いているせいだ。
そんな暗闇に包まれたカウンターで、瀬戸は固まったまま。
『子どもの日ってことで、私の近くにいる男の子の話ね。実は私のそばに、ヒーロー希望の少年がいるんだよ。4年前に、ここに来てくれた、男の子。ヒーローってさ、いい言葉だよね』
4年前。瀬戸がここに来て初めて座ったのも、この席だった。
「瀬戸さん、暗いです」
ぱちり。と軽い音とともに電気が灯される。
その音と声を聞いて、瀬戸はスマートフォンのアプリを落とした。
先ほどまで響いていた懐かしい声……蝶子の声が消え、胸の奥に大きな穴が開いたような気がする。
「……僕は元々暗い性格なんです。それに今日は定休日ですよ」
「もう1ヵ月も定休日じゃないですか」
振り返るまでもないが、礼儀上振り返る。と、そこには想像通り、関口が立っていた。
しっかり鍵も締め、表には定休日の看板も出していたというのに、この弁護士には遠慮がない。
店番をしてもらうこともあるので、彼には鍵を渡していたのだ。
こんなことなら鍵なんて渡すんじゃなかった。と今更後悔する。
彼は遠慮なく店内に入り込み、瀬戸の前に立った。
「いつも来てるキジ模様のどら猫が、瀬戸さんを心配して島中徘徊してましたよ」
「あの猫はいつも徘徊してるでしょう」
「さて。そろそろ腹をくくってください。瀬戸さん」
顔を反らしたというのに、関口はわざわざ回り込んで瀬戸の前に立ちなおす。
思えば彼と初めて顔を合わせたのは、蝶子の葬儀の日……だから、ちょうど一年だ。
それ以降は何度も顔を合わせたが、彼の趣味も過去も経歴も何一つ知らない。
ただ、冷たい男であるということ以外は。
「……ここに、サインを」
「嫌です」
差し出された書類を横目に見て、瀬戸はまた逆側に顔を反らす。
しかし彼はめげずに、机の前に置いた。
「さ、読んでください」
「嫌です」
そこには小さな文字で細かなことがたくさん書かれている。が、読む必要などない。もともと瀬戸には関係のない書類だ。
このダニエルの、土地の権利書なんて。
「小柳さん……蝶子さんの願いでも、ですか?」
「僕は冷たい男なので、蝶子さんの願いであっても、無理です」
関口が瀬戸にこの書類を持ってきたのは一年前。葬儀の直後。
蝶子の財産の管理および遺産の管理をしているというこの男は、蝶子の遺言に従いダニエルの権利を瀬戸に移す。というとんでもないことを言い出したのだ。
葬儀の直後で頭が混乱していた瀬戸は、大慌てで彼を追い出した。
(あの時、自分もここを去るべきだったのに)
と、瀬戸は額を押さえてため息をつく。
しかし亡くなる直前、蝶子はこの店の後片付けを瀬戸に押し付けていたのだ。
だから仕方なく、瀬戸はこの場所に残り続けた。
そんな瀬戸に関口は、執拗なまでにつきまとう。なんとか断り、逃げ、ここまでやってきたのである。
「瀬戸さん、手強いですね。じゃあ一旦サインのことは忘れるとして……そうですね。小粋な世間話で肩をあっためましょうか。ええと、そうだ。瀬戸さん、お父様と連絡はとられました?」
関口がまたとんでもないことを言い出したので、瀬戸は激しく首を振る。
「は? 関口さん、僕の過去全部知ってるんですよね? 喋ってないですけど、知ってますよね?」
「知ってますけど」
「……余計に意味がわからない……」
平然とした関口の顔を見て、瀬戸は頭を抱える。
瀬戸の父親は犯罪者だ。
20年数年前に強盗事件の片棒を担いで前科がつき、あげく4年前には大掛かりな銀行強盗に手を貸そうとしていた。
幸いそれは未遂に終わったものの、結局懲役を食らっている。
母は4年前に亡くなり、瀬戸は天涯孤独。
こんな男に依頼人である蝶子の大事な土地を、あっさり明け渡そうとするなんて。
常識のある大人であれば、蝶子をたしなめるべきである。
「嫌です……絶対に……連絡なんて……」
「まったくもう。イヤイヤ期ですか。懐かしいですね。私の20歳の息子も18年前にそうなってましたけど」
「は!? 20歳!?」
「私のこと気になりますか。話を聞きたければ、まずサインをしてください。ここと、ここです」
「……無理です」
「瀬戸さん」
書類を投げるように遠ざける瀬戸を見て、関口がため息をつく。
「私は勉強しかできない人間なので、こういうときどうすればいいか分からない……なので勉強のようにいきましょう。コツは一つ一つ、こんがらがったところを確認するというやり方です。おっと光もいれましょう。勉強も話し合いも、暗がりでしちゃ目が悪くなる」
関口は勝手なことを言って、カーテンを開く。
窓からは一ヶ月ぶりに光が差し込んだ。春近い瀬戸内の空は、淡いブルーで染まっている。
……蝶子が死んだ日も、こんな天気だった。と、瀬戸の胸が苦しくなった。
「まず小柳さんのご依頼。なぜ嫌なのでしょう」
「当たり前じゃないですか……僕は蝶子さんの息子でも血縁でもないのに、この店を貰う権利なんてない。だからです」
「小柳さんには当時、婚姻関係含めてご家族はいません。お子さんも、ご兄弟も。だから別にあなたが気にすることはない……やっぱりあなたと養子縁組をしておくべきでしたね」
関口の言葉に、瀬戸は首を振る。
「蝶子さんがそんなこと言い出したら、絶対断りましたよ……それにここの後片付けをしてほしい……蝶子さんに頼まれたのはそれだけです。まもなく一年が過ぎる。だから去る。それだけです」
瀬戸は蝶子の言葉を思い出す。あれは、一年前。2月の晴天の日。蝶子がいきなり倒れた日のことだ。
まるで冗談のようにパタンと倒れたものだから、最初は何が起きたのか分からなかった。
しかし覗き込んだ顔が真っ白で、慌てて近くの診療所に駆け込んだのだ。ここではどうにもできないと言われ、市内の病院に運ばれた。
真っ白なベッドの上で点滴を打たれる蝶子は、見たこともないくらい小さく見えた。
ベッドの脇でわんわんと泣く瀬戸の手を握り、蝶子は言ったのだ。
これからきっとダニエルには多くの人が訪れる。それをさばくのが瀬戸の仕事だと。
無理だとごねる瀬戸に、彼女は微笑んだ。
「……蝶子さんは、一年、だけって」
「忙しない一年でしたよね」
関口が呟いた通り、それからの一年は、瀬戸の想像しない一年となった。
訪れる人によって、瀬戸は新しい蝶子の顔を知ることになる。
「全く。一体全体、あの人のどこにそんな時間があったのでしょう」
関口は壁に貼られた写真を見つめ、ため息をついた。
そこに貼られた写真……蝶子の「友達」の数は多い。
彼らの語る蝶子は、瀬戸の知らないことばかりしていたようだ。
少なくとも4年前、瀬戸がここに住み始めてからは蝶子と一日中顔を突き合わせていた。
それだというのに、蝶子はラジオのコーナーを持っていたという。
それだけではない。ブログを作ってコメントバトルをしたり、ダンス動画を撮ったり、レシピサイトへの掲載、イラスト、文通……どれだけ引き出しがあったのか、と瀬戸はため息をつく。
忙しそうな人だとは思ったが、裏でそんなに活動をしていたなど彼女が亡くなってから初めて知った。
そのせいで、今年の春から彼女の死を悼む間もなく客対応に追われている。
「関口さんは……昔から、蝶子さんのお知り合いですか?」
「知り合いと言えば知り合いです。彼女の……ご家族の経営されていた会社の選任でした。そのあと小柳さんに引き抜かれましたけどね。だからあなたがここに来たときのことも、知ってますよ」
関口が指したのは、壁の中央に飾られた写真を指さす。
それは瀬戸と蝶子が砂浜で並ぶ写真だ。撮影したのはもう4年前。瀬戸がこの島に少し慣れた頃に撮った写真である。
右も左も分からないまま砂浜に立たされて、晶が撮影してくれた。
4年分若い自分の顔を見ると、いつもくすぐったい。そして隣の蝶子を見ると、切なくなる。
「瀬戸さんは、4年前に蝶子さんにはじめてお会いになったんですよね」
関口は勝手にキッチンに入り込み、コーヒーを淹れ始める。
最初こそぎこちなかった動きも、すっかり慣れてきた。喫茶店のマスターみたいな顔をして、彼は熱いコーヒーを3杯淹れる。
一つは自分のところに。一つは瀬戸の前に。もう一つは蝶子の指定席……瀬戸の席の隣に。
「……雨の日でした。多分、今くらいの時期です。母が亡くなったあと……母にペンフレンドがいると知って……」
揺れる湯気が柔らかく、瀬戸はつい口を開いていた。
考えてみれば、関口に自分のことを話すのは初めてだ。
「母の病気のあと、父は犯罪に手を染め……直後に母は亡くなりました。葬式は僕だけの、寂しい式でした。そのあと、遺品整理で見つけたんです。母が蝶子さんと交わしていた、大量の手紙」
二人の手紙には、他愛のない日常が書かれていた。月に1度、多いときには2度。
その手紙のやり取りは10年以上続いているようで、とても全てを見ることはできない。
ただ最近の手紙には四国八十八ヶ所を巡る約束で盛り上がっていた。
日時まで決めて、どこをどう巡るのか、といった細かい話まで書き込まれている。
その約束の日は、偶然にも手紙を発見したその日である。
喫茶ダニエルで電話番号はすぐに分かった。かけたが、無機質な話中音しか流れない。
「……確かに。小柳さんは掃除のたびにコード引っこ抜いてましたもんね。私も連絡が取れずに困ったことがよくあります。それで、香川に来ようと?」
「……ええ」
瀬戸は力なく頷く。
喋るたびに4年前の記憶が鮮明に蘇る。それは想像よりもきついことだった。
「取り急ぎ、母のことを伝えて謝らなくては……そう思って。でももうその時は夜だったので、翌日新幹線に飛び乗りました。念のため、四国八十八ヶ所の巡礼者の一式というのを買い揃えて」
そして降り立ったのは初めて足を踏み入れる、香川県高松市だ。
母の代わりになれるとは思わない。
しかし、母はきっと約束を守れなかったことを悔やんでいるだろう。母のために、瀬戸は香川へやってきたのだ。
しかし、蝶子に対して期待などしていなかった。
「いるわけがない、と思ったんですが……」
約束の日は一日も前だ。道具を買い揃えたせいでさらに時間がかかり、時刻は夕暮れに近かった。
実に一日半の遅刻である。どうせ、いるはずもない。
……そんな気持ちで改札を出た時。驚くべきことに、蝶子は改札前で瀬戸を待っていた。
彼女は大きなサングラスをかけて、雨曇りにも負けない真っ赤なワンピース姿。
そしてピカピカの白衣をまとう瀬戸を見上げて手を上げたのだ。
やあ。待っていたよ、ヒーロー志望の少年……と。
「僕には……蝶子さんのお店を貰えない事情があります」
関口の入れたコーヒーは完璧な味だ。しかし、蝶子のコーヒーはもう少し、甘かった。
そうだ。あの日もここに連れてこられ、理由も分からないままにコーヒーを貰ったのだ。
甘くて優しくて、最高にあったかい味だった。
君はまだ少年だから、練乳で甘くしておいたよ。そんなことを言ってくれた。
少年、と彼女は言ったが当時の瀬戸はもう25歳だ。
少年じゃない。と、つい笑いが漏れた。
そのおかげで口が軽くなり、瀬戸は蝶子に母が亡くなったこと、そして過去のことを全て語ったのだ。
「僕は……父を裏切ったんです」
震える手を握りしめ、瀬戸は呟く。
「4年前の事件、関口さんもご存知ですね」
「事件の前に一斉逮捕、ですか?」
「……僕が通報したんです。匿名で」
低い声が、掠れて漏れる。
ああ、これが自分の声だっただろうか。ぬるくなったコーヒーで舌を湿らせても、声は低いまま。
「僕が告発したんだ」
4年前、警察に電話をかけたときも同じくらい低い声だった。
父が事件を起こすことは、数日前に知った。父は隠し事をするには、率直過ぎた。
母の病気のために犯罪に手を染めようとしている。それも分かった。
分かっていたくせに、瀬戸の指は110を押していたのだ。
「現場に向かう父のこと、無理やり止めることもできたはずなんです。僕のほうが背が高く、力も強いです。縛り付けてでも向かわせない……それもできたはずなのに」
それなのに、瀬戸は無情にも通報という手段をとった。
父をまた、犯罪者にしてしまった。
きっと腹の底では、最初の事件を許せていなかったのである。
「母は父の逮捕の1ヶ月後に亡くなりました。このせいで心労が増えて、結局命を縮めたのではないか、そう思います」
だから余計に父には会えないのだ。そう呟く瀬戸の隣に、関口が座った。
彼は感情の読みにくい目で、瀬戸を見上げる。
そして机の上にあるスマートフォンを勝手に触った。
「ラジオの音源、私にも聞かせてください」
駄目だという間もない。彼の指が再生ボタンを押すと、再びスマートフォンから蝶子の声が流れ始める。
『……4年前に、ここに来てくれた、男の子。その子はね、何でも一生懸命なの。一生懸命過ぎてまっすぐで、折れないか心配だから、私はちょっとした作戦を立てようと思ったわけ』
蝶子の声は明るい。蝶子がいないのに、彼女の声が聞こえるのは不思議だ。
目を閉じるだけで、彼女と過ごした4年間を思い出す。
行くところがないという瀬戸に、蝶子はここにいればいい。と気軽に言った。そして本当に翌日から喫茶店に置いてくれた。
喫茶店など初めてのことで、何も分からない瀬戸に蝶子は一つ一つ丁寧に教えてくれた。
コーヒーも、料理も掃除も、何もかも。
最初に作ったナポリタンは焦がしたし、オムライスはスクランブルエッグになった。
できたのは、店に来るキジ猫用の茹でササミ作り。それと猫のブラッシングだけはうまくなった。
冬の終わりに出会い、春が来て繁忙期の夏が来る。秋がきて寂しい冬を越える。そんな季節を4回繰り返し。
そして彼女は死んだ。
『何の作戦かって? それはね……おーっと、もう時間だ。5分が短いって? そうだね、もしもっと私の話を聞きたければ女木島のダニエルおいで。ダニエルの名前の由来を聞きたいって人もいたよね。ダニエルはね……あ、もう駄目だ。ほんとに時間がない。続きはいつかね!』
蝶子の声に重なり「蝶子さん」と、小さな呼び声が聞こえる。それは下から瀬戸が蝶子を呼ぶ声だ。のんびりと、柔らかい、自分の声だ。
きっと、蝶子が何をしているのか知らないまま、下から彼女を呼んだのだろう。客でもきたのか、それともオムライスを失敗したのか……あの幸せだった頃を思い出し、瀬戸は掌を握りしめた。
その途端、小さな音とともに音声が切れる。そのあとは、静寂である。
続きなんて、無かったのだ。そう思うと胸の奥が冷たくなった。
「……いっつも蝶子さんはこうだ」
瀬戸は震える手でスマートフォンを握りしめる。
「いつもはぐらかして、勝手にどこかにいって、勝手に友達をここに呼びつけて、それで……」
壁を見れば、そこには数多くの写真。
これも蝶子の依頼だ。
写真を撮って、目立つ所に貼ってほしい。
それを瀬戸は忠実に守り続けた。
しかし、一枚貼るたびに心は削れていたのである。
(写真を見るのも嫌だった)
それは蝶子の死が本当だった、と知るからだ。
もうここに蝶子はいないと、突きつけられるからだ。
「だからもう僕は店を出ます。約束は果たしたし、ここにいるのも辛いんです」
涙が溢れそうになるのを堪え、瀬戸は立ち上がる。
2階の部屋に、自分の荷物はまとめてある。4年過ごす間に荷物は増えたが、それでもキャリーケース2つに収まる量だ。
「荷物の整理はもう終わってます。もしここに龍崎さんがきたら、もうどこかにいったと言ってください。僕は父に会う権利もないし、きっと恨まれてます。だから」
「瀬戸さん。あなたに一年が経ったときにお渡しするようにと、小柳さんに頼まれた物があります」
と、関口が瀬戸の袖を掴む。それは思ったより強い力で、瀬戸は再び椅子に座り込むことになった。
「関口さん?」
「それを見てから、決められるといい。それで出ていくなら、もう止めません」
彼がカバンから出してきたのは、小さな木の箱である。
随分古い箱で、小さな鍵がついていた。
「ああ、でも開ける鍵はないんですよ」
無理に壊せば開けられます。と関口が言う。が、瀬戸は思わず苦笑した。
レジの横に手を伸ばせば、ちょっとした鍵開けのツールがある。
それは蝶子も知っていることだ。瀬戸が鍵開けを得意としていることくらい。
「……開けられます」
力をかけないようにそっといじれば、あっけないほどあっさりと鍵が開く。
「なんですか。また権利書とかそんなやつですか? 何度言われたって僕は……」
軽口を叩きかけ、瀬戸は固まった。
「……え?」
中に入っていたのはボロボロに汚れたヒーロー人形。それとSDカード、黄ばんだ一枚の手紙である。




