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船着き場のすぐ側で、龍崎と瀬戸が何かを話し合っている。
それを遠巻きに眺めて、達也がうんと背伸びをした。
「さすが望子だ。美しきトリックスター。今でも演技が上手いな。劇団を辞めてもちっとも衰えてない」
「ありがとう。あなたもお上手でした」
背の高い夫を見上げ、望子は目を細める。こんなにも生き生きと明るい夫を見るのは久しぶりのことだった。
「ようやく、あの二人を合わせることができたな。望子の計画通りに」
彼は眩しそうに瀬戸と龍崎を見つめる。
最初こそ緊張の面持ちだった瀬戸の顔だが、時間が経つごとに柔らかくなっていくのが遠目にも見て分かった。
……ずっと面倒を見ていた達也の部下、龍崎が困っている。という話を聞いたのは昨年暮れ頃の話である。
とある事件をきっかけに、離れ離れになってしまった父と息子。その二人を引き合わせたいと、龍崎は願っていた。
それを最初聞いたとき、望子は反対したのである。
息子には息子の気持ちがあるはずで、それを無視して合わせるのはいかがなものか。
しかし先日、大きく事態が動いた。その息子が、香川の女木島にいるという情報を手に入れたというのだ。
「女木島は龍崎君だけじゃなく、私が行きたい場所でもありましたからね」
望子はカバンの奥底から一枚の便箋を取り出す。
もう何度も何度も読んだその手紙は、すっかり折れてしわくちゃだ。
目を通さなくても、中身はすっかり暗記してしまった。
『モチコさん。なにか悩みがあれば、ぜひ女木島へお越しください。そこにはヒーローを夢見る少年がいます』
少年って年齢じゃ、なかったわよ。と、望子は心のなかで反論した。
そのせいで、瀬戸がその「少年」なのか確定できずにズルズルと時間をかけてしまった。
しかし、蝶子にとって瀬戸はいつまでも可愛い少年のままなのだろう。
『その子に、私の声を届けてあげてくれないかな。きっと、モチコさんなら、何を渡せばいいか分かるはず』
この手紙が届いたのは、もう一年近く前だ。モチコが以前彼女のコーナーに悩み相談を送った際、住所を控えてあったのだろう。
ちょうど彼女がラジオから消える頃……恐らく亡くなった頃……に手紙が届いた。
いつか、いつか行こう。そんなことを考えて1年経った。
このまま行くこともなく、人生を終えるのかと絶望を抱いていたとき……お姫様の住む女木島に、龍崎の探している人物がいると聞いた。
それを聞いたとき、ピンときたのだ。
きっと、それがお姫様の言う「少年」かもしれない、と。
龍崎の願いを叶えるかどうかは、その子に会ってから考えればいい。
まずはその少年、そして何よりお姫様に会いたい。そう思った望子は行動を起こしたのだ。
船が苦手な龍崎ではその息子を探しに行くのも難しいだろうから、お手伝い代わりにちょっとお芝居をしませんか。望子が夫にそう相談したのは10日前。
二人は金婚式の旅行に四国に入る。そこで望子は行方不明になってしまえばいい。
夫が連絡をすれば、龍崎もきっと四国に来るだろう。望子はその隙に女木島からその青年を引っ張り出す。そんな作戦。
お姫様の願いも叶えられるし、一石二鳥だと思ったのだ。ただ、そのお姫様が亡くなっているとは夢にも思わなかったが。
「しかしなあ……行方不明になるってのは、話の上だけだと聞いていたぞ」
夫が渋い顔をして望子を睨む。その手には、置いていった離婚届と書き置きが握られていた。
鬼のお姫様に会いに行く。とだけ、殴り書いた書き置きだ。
「だって、あなた演技なんてできないでしょ。いなくなった。なんて龍崎君に連絡できる? それこそ棒読みで怪しまれますよ。だからリアル感を出すために、ちょっと行方不明になったんです」
汗でよれた夫の頭を眺めて望子は微笑んでみせた。
「それに、俺と離婚とかそんなネタで引っ張ってくることはないだろう」
「あの青年は思い切り動揺しないと、引っ張れないなって思ったの。それに私に隠れてコソコソしてたのは本当のことでしょう?」
「そ……それは」
彼からぷんと香るのは、出汁の香りだ。
実際香川に入って、彼は望子の目を盗んではこそこそとしていた。そのせいで浮気を疑ったのも事実である。
まさか隠れてうどんを作っているなど夢にも思わない。
「家じゃご飯も炊けなかった人がねえ」
「米くらいは炊いたじゃないか」
「そうだったかしら」
呆れながらため息をつき、蝶子の手紙をきゅっと握りしめる。
この手紙には追伸があった。
その部分も、望子は当然覚えている。
(……それと、トリックスターさんの悩みにはもう相談に乗ってあげることはできなくなりそう)
まるで突き放すような書き方で、彼女が亡くなっていると知らなかった望子はショックを受けたものだ。
(……でもね、その悩みはきっと目の前にいる大事な人にするべきだと思うよ)
ぼんやりと、望子は夫の横顔を見る。
夫の浮気を疑ったこと。それは瀬戸を引っ張り出すための芝居である。
しかし、嘘には真実を混ぜるほうがよりリアルだ。劇団員をしていたころ、そんなことを学んだ。
病気のことも、そのせいで離婚を考えていることも。
……それは全部真実でである。
行方不明になったことも。リアル感を出すためだと夫には言ったが、それだって嘘だ。
真実は瀬戸に語った通り。気がつけば、3日も記憶が曖昧なまま女木島に立っていた。
最近は、そんなことが増えている。
それが怖くて怖くて、だから望子は心のどこかで離婚を望んでいた。情けなくなっていく自分を見られたくない。
美しきトリックスター。と、達也は言ってくれる。その姿のままで、いたかった。
「……あなた」
しかし、『鬼の島から来たお姫様』と瀬戸の言葉を思い出しながら、望子は一歩前に進んだ。
この風景も、この夫の横顔も、瀬戸の顔も龍崎の顔も、やがて全部忘れてしまうことになるだろう。
これまではそれが恐ろしく、孤独だった。
しかし、孤独ではないはずだ……望子には、夫がいる。
瀬戸もお姫様も、同じことを望子に教えてくれたではないか。
「大事なお話があるのよ」
静かに語る望子の言葉に、達也はじっと耳を傾けてくれた。
「今日から気を取り直して八十八ヶ所だな。とりあえず今回はいくつか巡って、また次回続き。それを繰り返して、いつか完遂しよう」
電車の切符を手に、達也がしゃきしゃきと前を歩いている。
今日も心地よい、冬の晴れ間だ。
香川は雨が少なく気候がいいと聞いていたが、確かに温度も暖かく旅行にはちょうどいい。
あと一週間、あちこちの寺を巡って念願だった八十八ヶ所を楽しむことになった。
「来週は病院だ。忙しくなるぞ」
やってきた電車に望子を押し込み、達也は弾む声でいう。
平日のおかげか電車にはほとんど人がいない。
窓際の席に座ると、電車はまもなく出発した。
「楽しそうね」
「俺はね、昔から難しい事件のほうが力が入るんだ。絶対に無理なことなどないと、知っているからね」
昨日、望子は全てを夫に語ったのである。絶望されると思ったのに、夫に浮かんだのは不屈の笑みだ。
彼はすぐさま、知り合いの医者という医者に電話をかけ、大病院の予約を取り付けた。
それから本屋に駆け込んで、関連書籍を購入した。
本を読むうちに、望子の中から不安が少しずつ剥がれ落ちていく。まだ希望が持てるかもしれない。そんな気持ちが心の中にふっと芽生えた。
同じことを夫も思ったのだろう。彼は力強く望子の手を握りしめてくれた。
これは一人の戦いではない……二人の戦いなのだ。
(……もう終わりかと思ったけど、まだ先が続くのねえ。ああ、そういえばお姫様も……)
不意に『鬼の島から来たお姫様』がコーナーで語った言葉を、望子は思い出す。誰の悩みに答えた言葉だったのか、すっかり忘れてしまったけれど。
終わり良ければ全て良し。と、彼女は語っていたのである。
まだ終わりは見えないけれど、きっと望子たちの問題は綺麗に終わるだろう。そんな気がする。
(でも……あっちは本当にちゃんと終わるかしら?)
龍崎と向かい合う瀬戸の顔を思い出しながら、望子は窓の外を見た。
(無事に終わるわよねえ、だって、お姫様の薫陶を受けたあの子は強いもの)
美しい空に向けて電車は走っていく。
きっと女木島にも、この空が続いているのだろう。この空の色のように、あの子の未来も美しいものでありますように。
望子はそっと目を閉じ、そんなことを祈った。




