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瀬戸が望子を連れ出したのは商店街の一角にある、小さなカフェだ。
スパイス・ウオフクと書かれた可愛い看板を、望子はぼんやりと見上げる。
一見すると古い定食屋のような佇まいなのに、ガラスの色や扉の色をカラフルにしてあるので古臭さを感じない。
唐辛子柄のカーテンや、ニンニクの模様の入った足マットなどを見る感じ、若い子のお店かしら……と望子は首を傾げる。
中を恐る恐る覗くと、ふんわりとカレーの香りがする。それ以外にも様々な香り……ああ、これは遠い異国の香りだ。
頭の中にあるもやもやが爽やかな風ではらわれる、そんな香りだ。
「スパイス……なのかしら、いい香りね」
「でしょう?」
店内に入ると、20代ほどの可愛らしい女性が忙しそうに駆け回っているのが見えた。
「いらっしゃ……ああ、瀬戸さん」
「こんにちは、香西さん。食事に来ました。よかった時間ずれてるので今日は座れそうですね」
店内を見渡し、瀬戸は奥のテーブルに望子を案内する。
店内にいるお客さんの数は4組ほど。
いずれも食事を終えて帰り支度をしているところだ。皆幸せそうに美味しかったね。と、言い合っているのも雰囲気がいい。
それを見て瀬戸まで嬉しそうに微笑んだ。
「ここ、人気の和定食屋さんだったんですが、お孫さんが跡を継がれてカフェになったんです。カフェになってからもすごい人気で、いっつも混んでて。ランチタイムなんて行列なんですよ。今日はもうランチも終わる時間だから空いててラッキーでした」
「まあ。瀬戸さんったら。自分のお店だって喫茶店でしょう? そこで食事を提供すればいいのに。商売っ気がないのねえ」
「でしょう? ほんっとに瀬戸さんっていつもそうなんです。私はお客さん増えるから助かるんですけど」
気がつけば、先程の店員が唇を尖らせて水を置いたところだ。
その可愛らしい態度に思わず微笑むと、彼女は少し照れるように頭を下げる。
「いらっしゃいませ。何にしましょう?」
「あの、香西さん。普通のお雑煮出してもらえますか?」
瀬戸の言葉に望子は首を傾げる。
「スパイス料理のお店なのに、お雑煮……へえ、私、外でお雑煮を食べるのって初めてだわ」
店内を見渡せば、多くの人がそのメニューを食べていたらしい。どの机にも大きな赤いお椀が置かれている。
当然だ。今はちょうど正月明け。食べるにはちょうどいい。
「ラジオネーム、モチコさん。お名前でお餅を思い出したのと……あともう一つ」
あまり時間を置かず、店の奥から先ほどの店員が駆け戻ってきた。
「はい、お雑煮。お待たせしました。これはスパイスなしの、伝統的なやつです」
手にしているのは特に代わり映えのない赤い椀である。そっと覗くと、真っ白な出汁の中に大きなお餅とにんじん、里芋……まあ綺麗な形にカットしていること。と、望子は感心してしまう。
「へえ、白いのは白味噌? 京都じゃないのに、このあたりも白味噌なのね。私関西風のお雑煮ってはじめてだわ」
生まれも育ちも関東だったので、雑煮といえば澄ましに焼いた角餅だ。
澄ましの雑煮はきりりとした清涼感があり、新しい年を礼儀正しくお迎えするような、そんな雰囲気がある。
しかし、関西の白味噌丸餅というのは、新しい年をふんわりと包み込んで迎え入れる。そんな空気感があるようだ。
「食べたら感想聞かせてくださいね」
意味ありげに店員は去っていった。
その視線の理由がわからず、望子は緊張するように箸を取る。恐る恐る椀の中を覗き込み、鼻を近づければ肩からふうっと力が抜けた。
「いい匂い……出汁の匂いね。お餅は大きいわ……私お餅って大好きなの……あら?」
真ん中に鎮座する餅を持ち上げて、望子は目を丸くする。
それを割って、まああ。と思わず大きな声が出た。
餅の中からでてきたのは想像もしていなかった、黒いアンコだったからだ。
「まあ! お餅がアンコなのね。珍しいわ。あら、あらら……」
一口食べてまた驚く。
甘い餡餅としょっぱいおみそ汁の組み合わせなんて、これまで考えたこともない。
しかし食べてみると、これがまた抜群に合うのだ。甘くてしょっぱい。どちらも一気に口の中に押し寄せる。
望子は思わず、頬を押さえた。ほっぺが落ちそう。とは、このことか。
「まあ……」
とろりとした甘さをまとった柔らかいお餅。おみそ汁の中で少し煮込まれているおかげで、全体がとろとろだ。
そして、中から熱々のあんこが飛び出して甘いお出汁に溶けるのである。
「美味しい!」
「良かった。香川の伝統的な雑煮で、餡餅雑煮なんです」
と、瀬戸も餅を一口噛みしめた。
「僕も最初は驚いたんですが、食べてみれば旨いんですよね。餡も味噌も甘いおかげかもしれないです」
柔らかい餅を飲み込んで、瀬戸は呟く。
「意外だけど、美味しいでしょう?」
意外という言葉を強調し、瀬戸は望子の顔を覗き込んだ。
「……旦那さんも同じように意外な理由で一人になりたがっていたのかもしれないですよ」
「意外……なんて。あの堅物の主人が、そんなこと」
どうかしら。望子がそう呟いたその時。
「お前!」
まるで地響きのような声と共に、カフェの扉が思い切りよく開かれた。
まるで幽霊のような顔で店に飛び込んできたのは、髪の毛もボサボサになった白髪頭の男性だ。
スーツもよれよれになって、ネクタイは半分ずれている。
突然飛び込んできたその人は、店内の人々の視線など気づきもしない顔でまっすぐ望子のもとへ駆けてくる。
その顔を見て、望子は思わず立ち上がっていた。
「あなた……!」
「お前……もう3日も行方不明で……お前……」
その男は望子の前にたどり着くなり、床にへたりこむ。
望子の膝を掴んだ手が汗ばんで、震えていた。
「良かった……良かった……!」
……それは、望子の旦那だ。もう半世紀も連れ添った、川上達也。
「あなた……なんで……」
「ああ、川上さん! 良かったですねえ」
「見つかった、見つかったぞー。おーい、誰か教室の連中に知らせといて! あと刑事さんにも知らせといてー」
「駐在さんも探してくれてたでしょ、あっちにも知らせときますね」
気がつけば達也の後ろには数人の男性が立っている。
年齢は老いも若いも様々だが、みな達也の知り合いなのだろう。
へたり込む達也の背を叩き、ぞろぞろと店を出ていく。
その背中に大きく『うどん』と書かれているのを見て望子は目を丸くした。
「あの方たちは……?」
「……同じクラスの……」
「クラス?」
「うどん教室……の」
「うどん!?」
思わず大声が出た。その声を聞いて、達也が気まずそうに顔をそらす。
「……お前がうどんが好きだというから、覚えて帰ろうと思って、それで短期教室に……通ってたんだ」
「あら……あら、あら」
「そんなことより! お前どこに行ってたんだ。この人が連絡をくれなかったら、どうなっていたことか」
見れば瀬戸がスマートフォンを片手に、手を合わせて頭を下げていた。
「瀬戸さんったら。私のこと知ってたのねえ」
望子は思わずふてくされような声を上げてしまう。
と、向かい側に座る瀬戸が焦るように首を振った。
「いえ、すみません。違うんです。あの、えっと……僕の……知り合いの刑事さんが、旦那さんの元部下で。それで捜索依頼、というか……」
「龍崎君ね」
その名前を呼んで、望子はため息をつく。
気がつけば店には瀬戸と望子、達也に店員の女性の4人だけだ。
もう2日も寝ていないという達也は目の下が真っ黒で、店員に勧められるまま店の座敷で眠ってしまった。
そちらをちらちらと眺めながら、瀬戸が囁く。
「元上司の奥様が行方不明だと……店に来るかもしれないから、もし来たらお知らせする、と。でもそのままお返ししてもきっと元の木阿弥だと思ったので、ちょっと連れ回したんですけど」
「いっぱい食わされちゃった。ってわけね……うん、実際に美味しいものも食べさせて貰ったわ。あなたの判断は正しかったみたい」
「あの……一つ、お願いしたいことが」
と、瀬戸が恐る恐るという風に顔を覗き込んでくるものだから、望子は思わず笑ってしまう。
どうにもこの瀬戸は、人をシリアスにさせてはくれない空気を持っている。
「このタイミングでお願いするのも変かもしれませんが、写真を一枚撮ってもいいでしょうか」
「写真?」
「蝶子さんの遺言で」
「瀬戸さん、ちょっと私買い出しに行かなきゃだから」
「あ、すみません。夜営業の準備ですよね」
……と、店の奥から店員の女性がバタバタと出てくる。
「あら。もうそんな時間?」
腕時計を見て驚いた。なんと、もうすっかり夕方だ。
しかし女性は明るい笑顔でコートを手に取ると、望子にまでウインクしてくれる。
「いいのいいの。その間店番してて。旦那さんも寝ちゃってるしね。1時間くらいで戻るから、よろしくね」
明るく去っていく女性の顔は明るい。それを見ていると、望子もつられて微笑んでしまう。
「明るいお嬢さんねえ」
「あの人も蝶子さんのお友だちの一人ですよ。壁に写真、貼ってたでしょう。あんな風に、来てくれた方の写真を残してるんです」
そう言いながら彼が取り出したのは、少し古いカメラだった。
いつか蝶子がラジオで語っていたカメラかしら……と、望子は目を見開く。
(そうだ、そうだ。彼女が宝物だと言っていたカメラかもしれない。彼女が自分で初めて買ったカメラ……)
毎週水曜、8時45分から始まるお姫様コーナー。それを思い出して、望子は思わず微笑んでしまう。
その瞬間を狙うように、瀬戸がシャッターを切った。
「あそこに飾ります。良い写真が撮れました」
「蝶子さんはお友達が多いのね。瀬戸さん。あなたも、蝶子さんのお友達?」
「……僕は蝶子さんに救われたんです……あの」
問いかけると、瀬戸は戸惑うように口を閉ざす。
彼は周囲をそっと見渡した。見渡したって、見えるのは望子と奥で眠る達也だけだ。客も店員も誰もいない。
望子と瀬戸の間にあるものは、空っぽになったお雑煮のお椀が二つだけ。
彼はカメラをゆっくりと片付け、指先で机を撫でる。
そして意を決するように、呟いた。
「実は……あの……父が犯罪者で」
ちょうどその瞬間、外を歩く人達が大声を上げて笑い声を上げたが瀬戸の声ははっきりと耳に届く。
「一回目は、僕がまだ10歳くらいのときです。母は父を許そうと、そう言いました。腹が立ちましたけど、その後は本当にまともに、なって……」
ぽつり、ぽつり。まるで言葉が漏れるように瀬戸の口から溢れた。
望子は何も言わず、ただじっと耳を傾ける。
昔から人の話を聞くのは得意だった。
「父は鍵屋で……鍵を開けるのが得意でした。でもそれを犯罪に利用されて。だからしばらく父は鍵を見るのも嫌だったみたいです。だけどそのうち、鍵の開け方なんかを僕に教えてくれるようになって……」
気まずかった父とだんだん仲直りしたこと。
父から少しずつ、いろいろなことを学んだこと。
「でも、4年前……」
もう一度事件が起きた。と瀬戸は呟く。
その顔を見て、望子は切なくなる。
「……ご事情がおありだったのね?」
「理由はきっと母の病気です。海外で治療すれば治るってどこかで噂を聞いたんでしょう。手を貸せば……そのお金をなんとかできるって……まあ騙されたんです」
「きっと、奥様を愛していらっしゃったのね」
「そう……なんでしょうか」
「ちょっとやり方が、違っただけ。今日の私と同じように」
机の上に置かれた瀬戸の手が震えているように見えて、望子は思わずそっと自分の掌を重ねる。
大きくて若々しくて、でもどこか迷いのある掌だった。
「……でも僕は結局、全部、投げ捨てて。家族も捨てて……逃げて来ました」
「なぜ香川に?」
「母のペンフレンドに会いに来たんです」
「それが……蝶子さんね」
望子の言葉に瀬戸が頷く。
「ようこそ、ヒーロー希望の少年。っていってくれて」
大切な言葉を思い出すように、瀬戸は呟いた。そして頬を赤らめ、彼は望子を見る。
「……お恥ずかしながら、僕はヒーローになりたかったんです」
「……え?」
「ヒーロー……に」
「ヒーロー!?」
その言葉を聞いて、望子は思わず腰を浮かしていた。
椅子が後ろに倒れ、奥の座敷で達也が飛び起きる。
それに構わず、望子は瀬戸の手を掴んでいた。
「……やっぱり。あなただったのね。ヒーロー希望の男の子」
「え?」
「お姫様のコーナー。もうほとんど終わりに近い時に、そんな話が出たのよ」
久々に頭の中がぐるぐると動いている、そんな気がする。カバンを漁り、望子はスマートフォンを取り出した。
息子にお願いして入れてもらったアプリを立ち上げ、ラジオの録音の一覧を引っ張り出す。
「待ってね、探すから。あの人の声がすごく好きだったから、全部録音して取ってるの」
ずらりと並んだファイル名に、望子は思わず目眩を覚えた。
家の中はいつも綺麗に整えているが、目に見えないファイルというものはすぐにごちゃついて厄介だ。
文字も小さいし、年寄りの目にはどうにも優しくない。
「……ああもう! 整理整頓しておこうって思ったのに、適当に放り込むからどのデータだったか……ああ、これこれ!」
と、指先が一つのデータに行き着く。
そうだ。この日はちょうど子どもの日が近かった。
女木島にも鯉のぼりが泳いでいる。そんな話から、彼女は始めたのだ。
「珍しくお悩み相談のない回で……彼女自身の話をしていたの」
ボリュームを最大にして、望子は再生ボタンを押す。
そこから溢れた声に、瀬戸の目が大きく見開かれていく。
それはきっと瀬戸にとって、ひどく懐かしく、ずっと探していた声だったに違いない。




