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「去年の夏頃からかしら。急に記憶がふうっと無くなったり、気づいたら知らないところに立っていたり、ね」
突然の望子の告白にも瀬戸は動揺しない。
そしてもう一杯、アールグレイティーを淹れます。と言ってくれた。
その優しさに甘え、望子は少しだけウイスキーを入れてほしいと頼む。
と、瀬戸は笑顔で戸棚に手を伸ばした。
「じゃあ、蝶子さんの秘蔵。広島のウイスキーを入れますね」
「まあ、そんな素敵なものがあるのね。最高だわ。瀬戸内のものを瀬戸内でいただくなんて!」
「金柑も愛媛ですし、瀬戸内尽くしですね」
可愛らしい小さな瓶が目の前で開けられる。
それをアールグレイティーにそっと注ぐと、甘い香りが店内に広がった。
これが広島の香りなのかしら。と、望子は思う。
「……食べ物って素敵ね。匂うだけで、味わうだけで、旅に出てるみたい」
蝶子さん、いただきますね。と、望子は壁の写真に向かって話しかける。
もちろん返事はないが、ウイスキーの香りのおかげで随分と心が軽くなった。
「香川に来たのは一週間前。覚えてるのは……そうそう、栗林公園に行ったの。とても綺麗な庭園だった。お城も見たわ。お堀に海の水が流れ込んでいるんですって。それにもちろん、うどんも食べて……有名な骨付鳥のお店にも行ったのよ。すごく大きくてびっくりしちゃった。それから……は、覚えてないの、気づいたら女木島の港に立っていた。それが今日のこと。カレンダーを見て驚いちゃったわ。最後に記憶のあるときから3日も経ってるんだもの」
お酒を飲むのは久しぶりだ。最後に飲んだのは、病院で診断が出たとき……2ヵ月前のことである。
あの時、夫に内緒で飲んだビールは苦かった。しかし今、ここで飲むウイスキー入りのアールグレイティーは、ほんわかと温かい。
その温かさが胸の奥に伝わって、言葉もついつい軽くなる。
「驚いたでしょう? でもね私が一番驚いてるの。若い頃は劇団で、台本をまるまる一冊暗記できたのにね。今じゃさっき読んだ本の出だしも忘れちゃう」
ウイスキー入り紅茶を一口噛みしめるように飲んで、望子は長いためいきをつく。
「まさかねえ、こんなことになるなんて」
「……失礼ですが、あの……病院には」
瀬戸が言葉を選ぶように、望子に話しかけてくれる。
背が高いのに圧迫感がないのは、腰を曲げて目を合わせてくれるおかげだろう。
そんな優しさもくすぐったい。
「行きました。でもね、治らないそうよ。薬で抑えることはできるけれど」
でもね。と、望子ははカバンを持ち上げ、金柑の瓶詰めを取り出した。
傷がないか真剣に見つめたあと、自分から遠い場所にそれを置く。
「物忘れくらいなら、いいのよ。でも、それだけじゃない……」
オレンジに染まる瓶を見つめるうちに、涙が零れそうになった。
「気づくと物を持っていこうとしちゃうの。それも症状の一つなんですって。仕方ないですよって言われたけど、ちっとも仕方なくないでしょ?」
最初に気づいたのは2週間前だ。
馴染みのスーパーだったので、ごまかしがきいた。
10日前は、病院内のコンビニだ。こういったことは慣れているようで、特に大事にはならなかった。
ただ、それは運がいいだけだ。
「このままじゃ普段の買い物だってできないわ。いつ泥棒になるか分かったものじゃないわけだし。だから怖くって、最近はずっとネットのスーパーでお買い物をしてるの。でも、主人にも怪しまれるし……」
「旦那さんに、このことは?」
「まさか!」
瀬戸の言葉に、望子は目を見開く。
「言えないわ。あの人は長く警察に勤めた人なの。迷惑はかけられないでしょう。その前に、ね……別れてしまったほうが、いいと思うのよ」
思わずぽろりと涙が零れそうになるのを堪え、望子は呟く。
なぜだろう。この店にいると、言葉がほろりほろりとこぼれて落ちる。
それはこの店に『鬼の島から来たお姫様』……蝶子の気配が残っているせいかもしれない。
目をつぶると、いつだって彼女が元気いっぱいな声を思い出せる。
週に一回、たった5分だけのMCだったけれど、どんな悩みにも彼女は的確に答えていた。時に叱りつけ、慰め、一緒に泣くこともあった。
あの心地よい声で、叱咤してほしい……それはもう無理な話だけれど。
「……あの、一緒に市内に、出ませんか?」
と、瀬戸の声が聞こえて望子はぱちりと目を見開く。
気がつけば彼はいそいそとエプロンを取り、外を見つめていた。
船の時間がまもなくだという。それは高松市に戻るための船だ。
「なぜ?」
「お買い物、本当に難しいのかチャレンジしてみましょう。僕が隣にいるから、何かあっても大丈夫ですよ」
瀬戸はこの店と同じく柔らかい雰囲気で、微笑む。
差し出された手は大きく、力強い。
彼の声がまるで『鬼の島から来たお姫様』と同じ声に聞こえて、望子は思わずその手を取っていた。
「あら、あらら」
高松市には、中心地に立派な商店街が存在する。
整えられた商店街の真ん中で、望子は呆然とビニール袋を眺めて「あらあら」と声を漏らしていた。
「……買い物、できてるわねえ」
「ね、僕がちょっと離れていても大丈夫でしたよ」
目の前に積まれているのは、紅茶に調味料。本に焼き菓子、それにおにぎり。
いずれも商店街のあちこちで買い揃えたものだ。
最初は怖くて一歩も足を踏み出せなかった望子である。
しかし一軒の買い物が終わると、買い物の楽しさを思い出した。ついつい一軒、また一軒とあちこちの店を巡った。
地元では見ないような珍しいものも多く、眺めているだけでも楽しい。
そうだ。望子は若い頃から買い物が大好きだ。
その楽しさを思い出すように、商品を見つめ、眺め、手に取り、そしてレジに運ぶ。
大きな棚に囲まれた店でも、小さな店でも、望子はその手で商品を掴み、しっかりとレジを通すことができたのである。
自分の手で買い揃えることのできた商品をじっと見つめ、望子は泣きそうになる。
「……できたのねえ、ちゃんと」
二人が座るのは商店街の真ん中に用意されたフリースペースだ。
周囲には初買いにきた恋人同士や家族が、楽しそうにコーヒーなどを飲んでいる。
「これなら離婚とかしなくても大丈夫でしょう」
周囲に気遣い、瀬戸は囁くように言う。
その顔が真剣なものだから、望子は思わず笑ってしまった。
「ありがとう。ごめんなさいね、こんな所まで付き合わせて……でもね、きっとするわ、離婚」
「そんなこと……」
「今回は主人とね、四国八十八ヶ所でここにきたの。金婚式も近いものですから」
「それは……おめでとうございます」
近くの窓に映る自分の顔を見つめながら、望子は言う。
気がつけば随分なお婆ちゃんになっていた。
ちょっと前までは、顔に皺が一個、シミが一粒増えるだけでもしゅんと切なくなったものだ。
今や顔にはシミも皺もたっぷり乗って、それくらいじゃ心も揺れない。
ただ、何十年経っても心が揺れるものがある。
「でもね、あの人ったら。旅行に来たというのに、どこかにちょくちょく出かけていくのよ、一人きりで。私を置いて」
……それは、夫のことを思う時だ。
「こっちに、いい人がいるのかもしれないわねえ」
言葉にすると、胸の奥がズキズキと痛くなる。もう半世紀も一緒にいるのに、夫を思うときだけは20歳のあの頃を思い出す。
あの人をいつか忘れることがあるのだろうか。
それは、とてもさみしく悲しいことだろう。
「まさか勘違いじゃないですか? そんな旅行に奥さんを連れて……浮気……なんて」
「アリバイ工作かもしれないわよ。でもね、いっそのこと、そっちのほうが私はいいの。別れたあとも、あの人のことを心配しなくて済むわ」
望子は買ったものを一つ二つ、宝物のように机に並べた。そして愛おしく撫でる。
「それに後腐れなく離婚できるでしょう? さあ。これで用事はおしまいね。ごめんなさいね、お婆ちゃんに付き合ってもらっちゃって。ホテルの場所は分かるから帰って主人に切り出してみるわ、お別れのこと」
望子はビニール袋を手に掴むと、立ち上がる。と、瀬戸がまるで起き上がり小法師のようにぴょんと跳び上がった。
あまりの勢いに周囲が振り返るほどである。そして彼は泣きそうな顔で、望子の腕を掴むのだ。
「瀬戸さん?」
「あの……理由も言わずに切り出すのは止めましょう。それにその悩みは、僕や蝶子さんやラジオに相談することじゃないです」
「瀬戸さん……」
「何よりもまず、旦那さんにしなきゃ、だめです」
蝶子の言葉は、いつもすらすらと滑らかで弾けるようだった。
それに反して、瀬戸の言葉は噛み噛みで、しかし優しい。
似ていないのに、言葉の選び方はそっくりだ。
彼は望子の腕を優しく掴んだまま、まっすぐに見つめてくる。
「僕に出来るのは一つだけです」
「なあに?」
「お腹の空いている人に、お腹いっぱいになってもらうこと」
彼がそういった瞬間。まるで狙っていたように望子の腹がぐうと鳴った。




