1
「あのう……ラジオネーム、鬼の島から来たお姫様。は、今日いらっしゃらないのかしら?」
喫茶店の扉を開き、望子は首をかしげた。
扉を開ければすぐに目的の人物と会える、そんな想像をしていたのだ。
お行儀はよくないが、店の中を無遠慮に見渡して望子はもう一度逆側に首を傾げた。
「モチコが来たと言ってくだされば伝わると思うのですけど……ラジオネーム、鬼の島から来たお姫様、今日はお店に出ていないのかしら」
と、カウンターの向こうに立つ青年が困ったように眉を下げた。
「えっと……?」
それは随分と大きな体の青年だ。大きいが優しい顔をしているので、恐ろしさは無い。
「あの……えっと……」
何より、カウンターから身を乗り出してまで望子の話を聞いてくれようとする態度が嬉しい。
年を取ると、若い子が丁寧な態度を取ってくれるだけでしみじみ嬉しくなってしまうのだ。
「すみません。もう一度その名前を……」
「あら。ごめんなさい。早口過ぎたかしら。えっと、なんだっけ……ああ、そうそう。ラジオネーム、よ」
「あ、あ……そのあとの、名前……」
「鬼の島から来たお姫様」
望子が胸をはってそう答えると、青年は「蝶子さん、またですか」と、深くため息をついた。
「まああ……この方が鬼の島から来たお姫様なのですね。お顔ははじめて拝見したわ。でも同じくらいのお年じゃないかなって思っていたんですよ。渋い音楽ばかりリクエストされてましたし」
壁に貼ってある写真を見つめ、望子はしみじみとため息をつく。
ここは香川県に浮かぶ小さな島、女木島。
港から歩いてすぐの喫茶店、ダニエル。
こんな場所に自分がいることも信じられないが、そこで長年交友のあった『鬼の島から来たお姫様』の顔を見ていることも信じられない……といっても、写真だけれど。
望子がその名前を出したところ、青年が壁の前に案内してくれたのだ。もう、その方は亡くなりました。という一言を添えて。
「……でもお亡くなりになったのねえ。この年になると、死ぬことはあんまり怖くはないの。でもね。知った人が亡くなるのは、やっぱりいくつになっても辛いわ」
壁には数多くの写真が貼られている。カレーを食べている女の子、笑顔を浮かべる姉妹らしい二人組。まだ学生さんのような、幼い少女の緊張した顔。
その中央に貼られているのは、この青年と老婦人が並ぶ写真だ。
夕陽の差し込む砂浜の上、フラダンスをするように踊る婦人。満面の笑顔が素敵だ。
色合いの華やかな装いもよく似合っている。見ていると望子の口元も知らず、ほころんでいた。
「やっぱりお元気な方だったのねえ、鬼の島から来たお姫様ったら」
「お茶を淹れましたので、よかったらこちらでどうぞ」
声をかけられてカウンター席に戻れば、そこには湯気をあげたアールグレイティーがちょこんと置かれている。
有り難く一口飲んで、望子は思わず目を丸めた。
「ま! 美味しいわ。柑橘……これは金柑ね。シロップかしら?」
「正解です。お正月のおせち用に作った、金柑のシロップ漬けを加えました。頂きものの愛媛の金柑で、初めて作ったんですけど。まるで蜜柑みたいに大きな金柑で、味がしっかり出たんです」
「まあ。よく出来てること。私も昔はよく作ってたんですけどね、主人が金柑をあんまり好まないのよ。でも紅茶にいれるのは良い案ねえ。そうそう、紅茶といえばね……」
思わず話が脱線しかけるのは望子の悪い癖だ。つい身を乗り出した途端、青年が困ったように太い眉を下げる。
「……あ、あの、鬼の島から来たお姫様……とは、どういったご関係で……」
それはまるで、捨てられた子犬のような困り顔だ。望子は慌てて姿勢を正した。
「まあ。ごめんなさいね、事情もお話しせず……いきなり押しかけて驚かせちゃったわよね。私たち、あるラジオ番組のハガキ職人仲間だったんです」
ハガキ職人。とことさら力強く口にする。が、彼はやっぱり困り顔だ。
「お若い方にハガキ職人といっても分からないかしら。ラジオにね、曲のリクエストとか投稿するんです。今はメールでしょうけど、私たちは昔ながらのやり方。ハガキに手書きでね」
私のラジオネームは『トリックスターのモチコ』だったの。と、望子は笑ってみせる。
「トリックスター……?」
「昔……女優だったの。といっても小さな劇団ですけど」
「なるほど、だからお綺麗なんですね」
お世辞と分かっていても、若者からの褒め言葉は心地よい。笑みが零れそうになるのを押し留め、望子は咳払いを一回。
「ラジオに投稿を始めたきっかけは覚えてないの。子どもが巣立って、やることもなくなって……要は暇だったんでしょうね。いつも家事の合間に聞いていたラジオになんとなくハガキを書いてみて……」
気づけばそれが趣味となり、毎週毎週送るようになる。
お気に入りのMCに読んでもらえると、一日を素敵な気分で過ごせた。自分のリクエストした曲が日本中に流されるのも、新鮮な驚きだった。
最初は右も左も分からない状態だ。しかし、そのうち常連のハガキ職人の存在に気づくときがやってくる。
そうなればお互いがライバルであり、仲間だ。番組を盛り上げるため手を取り合うようになる。
望子にとってそんな相手の一人が『鬼の島から来たお姫様』だった。
「常連のラジオネームってね、目立つからすぐ分かるんですよ。今日はあの人のほうが先に読まれたな、とか。このお題であの曲をリクエストするなんて、やるな。とか……ライバル……じゃないわね。心の張り合いっていうのかしら」
そう語ると青年は眩しそうな顔で望子を見つめ、やがて微笑む。
「鬼の島から来たお姫様……ええと長いから本名の蝶子さんと呼ばせてもらいますね。モチコさんは蝶子さんとお会いするお約束を? あ、僕はこのお店を一年限定で預かってます、瀬戸と申します」
「いいえ、特にお約束はしてないの。ただね鬼の島から来たお姫様……ええ、確かに長いわ。では失礼して蝶子さんと呼ばせていただくわね。蝶子さん、いつもね、ハガキでリスナーの相談に乗っていたんです。それがあまりに有名になって、お姫様の相談コーナーなんていう時間が出来たんですよ」
蝶子という本名で呼ぶのはどこかくすぐったい。
しかしその本名は、彼女の声にぴったりだ……と、望子はあの力強くも美しい声を思い出す。
「実際に週に一回、5分だけの特別コーナーを作って貰って、MCなんかもやったりなんかしてね」
「え! まさか、声で出演を?」
青年……瀬戸もそれは初耳だったのだろう。カウンターから身体を乗り出すようにして目を丸くしている。
それを見て、望子の身体にも力が入った。
「そうなんです! ハガキ職人からMCなんて、そりゃあもうすごいことなんですよ」
望子は振り上げた拳で、写真の蝶子をちょん、とつついた。蝶子さん、会いに来たわよ。
もう返事もくれないその人に、心の中だけで声をかける。
亡くなってしまうと分かっていたら、もっと早くに会いに来るべきだった。そうすれば本物の声を目の前で聞くことができたのに。
後悔は文字の通り後で悔やむ、だ。
「そりゃあ嫉妬もしましたよ。同じハガキ職人なのに一人だけ特別扱いって。でもお話がとってもお上手でね、嫉妬なんてすぐ飛んで行っちゃいました。ラジオ局から本格的なMCの勧誘もあったそうなんですけど、喫茶店のお仕事が忙しいからって断られたって」
「そう……だったんですか」
「でもねえ、ある時から回数が減って……気づいたら自然消滅でしょう? 心配になっちゃって。ラジオでも詳しくは教えてくれないし。確か女木島で喫茶店をしている……と仰ってたなあと思い出して」
望子はぼんやりと店内を見渡した。
ここはなんとも心地のいい喫茶店だ。カウンター席と、奥にソファー席が一つだけ。
床も壁もぴかぴかに磨かれていて感じが良い。窓が大きいせいか、日差しが差し込むのも素敵だ。
冷え込む1月だというのに、店内はほっこりと温かい。
それはこの瀬戸の醸し出す優しい雰囲気のせいもあるかもしれないが。
きっとここに蝶子が並んでいれば、もっともっと柔らかい雰囲気だったのだろう。
たった一人は少しさみしい、と望子は思う。
「……それでね、どうしても彼女に相談したいことがあって、思い切って来てみたの。ちょうど主人と香川旅行中でしたしね。ちょっとだけ抜けて……でも、亡くなっていたなんてねえ」
「僕では……相談に乗ることは難しいでしょうか」
カウンターの向こうから見つめてくる瞳は真剣だ。しかし望子は少し困ったように、首を傾げる。
「そうね……ありがたいわ。でも、難しいかも……」
「いえ、僕はこう見えても結構色んな人のお話を聞いてきました。喫茶店ってみなさん案外悩みを相談されるものなんです。蝶子さんの代わりにはならないかもしれないですけど」
「主人と離婚したい……ってことでも?」
自信ありげに胸をはっていた瀬戸だが、望子の言葉に一瞬でしおしおになる。まるで青菜に塩を振ったようだな。と、望子は思う。
そして同時に、夫である達也は何年経っても青菜のおひたしを食べてくれない。ということも思い出す。
「そ、それは……あの……えっと、よく、考えてください……としか」
瀬戸をじいっと見つめれば、彼はあっという間に噛み噛みとなった。
いい年をしてこんな若い人を困らせてしまった。と望子は苦笑してしまう。
「ね、困るでしょう?」
「あ、そうだ! 僕、弁護士に知り合いがいますのでまずそちらと相談とか、どうでしょうか。今日は用事で出ちゃってるんですけど。名刺くらいなら、いくらでも」
瀬戸は必死の形相でレジ周りをひっくり返す。
そこからはポロポロ名刺が出てくるが、目的のものは見つからないようで首をひねっている。
必死に解決策を見つけてくれようとする、そんな瀬戸の態度が嬉しい。
望子はため息をふう。と押し殺し、手持ち無沙汰に机の上を撫でた。
その指先に、何かがコツン。と当たる。
そうだ。そうだ。これも持って帰らなくては。と、望子は無意識にそれを掴んでいた。
「……ありがとう。でもね、弁護士っていうほど大事にはしたくないのよ」
やはり自分で解決をするしかない。望子は気持ちを奮わせ立ち上がる。
なんだか手の中が重いようだ。ああ、そうだ。手にしている荷物をカバンの中に片付けなくては。
「大丈夫。自力でなんとかするから」
望子は手にしたものをカバンに詰め込む。しかし、入らない。おかしい。自分が持ってきたものなのだから、カバンに入るはずだ。
ぐいぐいと押し込んで、首を傾げ望子は仕方なくそのままドアに向かう。
「じゃあ、またね。瀬戸さん」
「あ、あ、あの……」
……が、その動きを止めたのは瀬戸だった。
彼はカウンターから飛び出して望子の前に立つ。そして困惑顔のまま、望子のカバンを指さすのだ。
「あの……」
「あら」
見れば、望子のカバンは大きく膨らんでいた。
なぜなら、その中に大きな瓶が差し込まれているからだ。
それは先ほど瀬戸がテーブルに置いた、金柑のシロップ漬け。
カバンのサイズより随分大きく、そして何よりもこれは望子のものではない。
それを見つめて、望子は泣きそうになる。
「……離婚を考えている原因、というのはこれなの」
そして望子は、涙を堪えた情けない顔で瀬戸を見上げた。




