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 どこからどう歩いたものか。気がつけば再びダニエルに戻された龍崎は、ため息を押し殺して椅子に座る。

 船の時間まであと1時間。船に乗るのも苦痛だが、このまま関口とともに店で過ごすのもどうにも苦痛だ。

 しかし、そんな龍崎など気にもせず、鉄面皮の関口は平然とまたエプロンを巻き付ける。

 そしてさっさと二杯目のコーヒーを注ぎはじめるものだから、退却のタイミングを失って龍崎は渋々椅子に腰掛け直した。

「……息子との関係なんて、お前さんに話してねえけどなあ」

「あれだけ息子さんの話ばかりしていれば、馬鹿でも分かります。しかも全部昔の話だ。最近はお会いになってないでしょう。でも会いたいんでしょうね、だからわざわざ理由をつけて香川に来た」

「弁護士より探偵に向いてるんじゃないのか」

 苦々しく呟き、二杯目のコーヒーをすする。今度のコーヒーはひどく苦い。

 その苦さが、自然に龍崎の口を開かせた。

「……別に大した問題じゃない。ただ10年前に妻を亡くしたんだよ。それで息子と大喧嘩をしてね」

 思い出すのは妻の葬儀だ。生真面目な息子は涙を堪え、龍崎をなじった。

 仕事仕事で家のことを放置したせいで、お母さんが亡くなったのだ。そんなふうに怒鳴られた。

 龍崎の仕事と妻の病気の因果関係はわからない。

 ただ、自分のせいだと言われればそんな気もする。

 妻は昔ながらの固い女で、自分のことを後回しにする癖があった。

 妻の顔をじっくりと見つめたのは、情けないが葬儀の夜が久しぶりのこと。

 それくらい、龍崎は仕事を優先して家庭をないがしろにしてきたのだ。

「その喧嘩以来、ほぼ音信不通だ。だけど去年だったか一昨年だったか、手紙が来た……小豆島で仕事を見つけた、とな。お前さんがさっき言ってた、なんとか芸術祭。それで地元の子と知り合って、勝手に結婚して、それで……子どもが出来たってな」

 ポケットの中に押し込んだ、紙の感触が今は淋しい。

 数年前に息子から届いたその手紙を読んで、最初に浮かんだのは怒りだ。勝手に結婚しやがって。と、なんとも短絡的な怒りが湧いた。

 自分が船酔いの体質であることを知っているくせに、島に家を構えたのか。などと理不尽な怒りさえ抱いた。

 続いて胸に溢れたのは申し訳なさと、置いて行かれるような恐怖感だ。しかしその気持ちを認めることが怖かった。

 そのせいで、怒ったふりを続けてきた。

「だけど瀬戸さんのお父様と触れ合ううちに、その姿が自分と被った……と」

 関口の言葉がずきりと刺さる。先ほどからこの男の言葉には遠慮というものがない。

「お前、自分の性格悪いと自覚してるか?」

「職業柄、掘り下げる癖がありまして……さて」

 関口は開いたカップを下げ、続いてカウンターから何か白いものを取り出して見せる。

「そろそろお腹も空かれているでしょう。美味しい麺でもいかがですか」

「いや、帰るよ……港の待合所で目でも閉じてりゃすぐだろう」

「そんなこといわず。瀬戸さんから美味しい麺を貰ったので、ぜひ」

 そして関口はこちらの言葉など聞こえてもないように、勝手に調理を始めた。

 ちらりと見れば、それはそうめんなのだろう。大きな鍋に湯を沸かし、その中に真っ白い乾麺を入れ……。

「おっと……あれ?」

 ただそれだけの調理だというのに、関口は首をかしげる。

 鍋が一気に湧き上がり、真っ白な泡が溢れ出したのだ。

 それはまるで雲のように持ち上がり、壊れたダムのように鍋肌を伝ってコンロへと落ちていく。

 そのせいで、火が一気に吹き上がった。

「すごく、泡が溢れてくるんですけど……」

「ああもう。そうめんなんてのは、少し茹でればいい。ああ……! なんで混ぜないんだよ。見てられねえな。ちょっと貸せ」

 慌ててカウンターに駆け込み、火を消す。鍋を混ぜれば幸い、ダマにはなっていないようだ。ザルに上げ、水でしっかりと締め上げる。

 つるりと白く、いいそうめんだった。

 その指に麺が絡む感触を、龍崎はよく覚えている。

「慣れてますね」

「俺が作れるのはそうめんくらいだよ。非番のときには息子にも……」

 そうだ。非番の昼飯は、いつも龍崎がこしらえてやったのだ。

 とはいえ作れるものといえばそうめんか、インスタントラーメン程度である。

 ラーメンばかりでは身体に悪いだろうと、定期的にそうめんを作った。

 妻はそれほどそうめんを好まなかったので、夏休みの非番の昼飯は、いつも息子と二人でそうめんだ。

 鳴きわめく煩い蝉の声よりも、喜ぶ息子の声のほうが大きかったことを覚えている。

 美味しいと言って笑う息子の顔を思い出し、途端に手から力が失われた。

 ……もう、息子にそうめんを作ってやることもできないのではないか。そんなことが、今更身にしみる。

「小豆島はそうめんが有名で、特にここの麺が美味しいと瀬戸さんが買ってきてくれたのです、あなたもぜひ買っていくといい」

 と、関口が龍崎の袖を引いた。

 彼が持っているそうめんの袋には、そうめん工場の社長の写真が載っているようだ。

「どこのそうめんでも、一緒だよ……どうせ、息子には」

 もう作ってやれないのだ。

 そう目をそらす龍崎だが、関口はくじけない。無理やり目の前に差し出され、渋々とその写真を見つめる。

 そして。

「……え?」

 書かれた文字を、二度目で追った。

 パッケージに載る写真も、三度見た。

 龍崎そうめん。そう書かれたパッケージの隣には思い出にあるより10数年、歳を重ねた息子の顔が写っている。

 恐る恐る手に取り、何度眺めてもそれは息子の名前で、顔だ。

「東京から島に移ってそうめんを作り始めた。とフリーペーパーにかかれていたそうです。あなたの名前は珍しいですからね。それを見て、瀬戸さんがきっとあなたの息子さんだろう、と」

 関口の声が遠くに聞こえた。龍崎が思い出していたのは、まだ幼い頃の息子の声だ。龍崎を呼ぶ声だ。

 息子はまだ、あのときと同じ声で、同じ顔で、龍崎を待ってくれているのだろうか。

「そうか、あいつ、こんな立派なもんを」

「一回食べましたけどなかなかでしたよ。さあ時間もないから早く食べてください」

 水で締めたそうめんは、つるりとしたコシが心地いい。

 少し魚くさいつゆに付けて、つるりとすすれば喉の奥に生姜が香った。

 息子と食べたあの味はもう覚えてもいないが、あの時よりもずっとずっと美味しいと、なぜかそう思える。

「……そうか」

 もうひとすすり。

 噛み締めたその時、懐かしい蝉の声が聞こえた気がした。


「実はな。香川に来たのには、もう一個理由がある」

 そうめんを食べ終わり、龍崎が立ち上がったのは船の出向まであと15分という時間である。

「上司のカミさんを探しに来たんだ」

 龍崎はテーブルに写真を置いた。それは、白髪を綺麗に整えた品のある老婦人の写真だ。

 もう40年近い付き合いになる上司の妻。

 龍崎自身も何度か食事を作って貰った。上司に隠れて励まして貰ったこともある。その女性がここ数日行方不明であると連絡を受けた。

「夫婦二人で四国八十八ヶ所を巡る旅をしていたそうだが、数日前から行方不明になったそうだ。金婚式が近いとかで、前々から約束をしていた長期旅行中だったそうだが」

「警察には?」

「もちろん連絡済みだ。ただ……やはり自力で見つけたいという気持ちも強いようでな」

 かつて、部下を頼りになどしなかった人だ。だというのにその連絡が直接龍崎に来た。

「というのも、事件事故の可能性は限りなく低いんだ。どうも書き置きがあったようで……別れたいっていう、な。ご丁寧に離婚届つきで」

 龍崎は頭をかき乱し、ため息をつく。

 龍崎は早くに妻を亡くしたので夫婦揃って50年近くを過ごすという重みを知らない。それでもその衝撃の重さは理解できる。

 しかも上司は愛妻家で名が通っている。龍崎のように妻をないがしろにはしていない。結婚祝いも誕生日も、一日も欠かさなかった男である。

「四国八十八ヶ所……それで香川へ?」

「ああ、それだけじゃなく……」

 顔を上げると壁に貼られた写真が目に入った。

 写真だけではない。ここに訪れた人がメモも残しており、それも壁のコルクボードに貼り付けているのだろう。

 女文字で「ONIへ」というメモ、その隣には「オニッコ先生へ」。いずれもオニを彷彿とさせる名前が見える。

「この、オニってのは?」

「ああ、ここの元マスター、小柳さんのあだ名ですよ。彼女を慕って未だに全国各地から人が来るんです」

 その言葉を聞いて、龍崎は確信する。

 スマートフォンを開き上司から届いたメールを見れば、書き置きの写真が添付されていた。

 その書き置きには確かに「鬼」の文字が見える。

「……書き置きには鬼がどうのって書いてあったらしい」

「オニというのなら、きっとこのダニエル案件だとは思います。まだ来られていないのですが、小柳さんのお友達候補の一人でしょうね」

 しかし関口といえばひどく呑気な顔で、勝手にコーヒーを淹れて飲んでいる。その呑気な口調に龍崎の調子も狂ってしまう。

「お友達だと?」

「小柳さんはひどくお節介なんです。人の人生にやけに関わりたがる癖がありましてね。それであちこちに介入してお友達を作っている、と」

「一体、何もんだ。小柳蝶子ってやつは」

「おや、ご存じない?」

 関口はさらにコーヒーを注ぎながら、龍崎を見る。

 どこかで低い汽笛の音が聞こえる。船だ。もう船が近くまで来ている。しかし、龍崎は動けない。

 関口は何かを知っている……それは点と線を繋げる、何かだ。

「……知ってるのか?」

「瀬戸優人が最初に起こした事件、あの資産家のお家。あの家で大暴れした資産家の奥さんですよ」

 その言葉に龍崎は固まった。

 衝撃で何も聞こえなくなる、という表現はよく聞くが、まさにそのとおりだ。その瞬間、海の音も風が窓を叩きつける音も何もかもが消えた。

「私は元々、その旦那さんの会社に雇われてましてね。まあ、そのあとは色々あって小柳さんに引き抜かれましたけど」

「あの時の……」

 思い出していたのは、20年前の事件だ。

 あの時、龍崎は被害者である婦人と直接会ってはいない。

 ただ、ひどくエキセントリックな奥さんだった。という話は聞いた。旦那のゴルフクラブを振り回し強盗一味を撃退したのである。

 それが原因でその資産家とは離婚になった、と聞いた記憶がある。

「離婚で旧姓に戻ってますからね、気づかなくても納得です」

「坊主はそのことを?」

「知りません。言うつもりもありません。まあそれも、契約の一部のようなものですので」

 関口は一言断ると机に置かれた写真を、スマートフォンで撮影する。

「家出女性については、分かることがあればお知らせしますよ。瀬戸さんにも共有します」

「助かる」

 一気にいろいろな情報が現れて頭の中がパンクしそうだ。龍崎は額を押さえ、ため息をつく。

「この女性はこちらでなんとかしますから、あなたは少し気を抜かれたらいかがです?」

 と、関口が龍崎の前に何かを置いた。それは熱いコーヒーにたっぷりの氷をつめた……アイスコーヒー。

 差し出されるまま、口にする。先ほどの熱いコーヒーと違って、冷たいコーヒーはするすると喉に滑り落ちていく。

 喉の奥が詰まったような感覚が、すっと解けていくようだ。同時に肩の力も抜けてきた。

「気を抜く……か」

 思えばずっと気を張って生きてきた。それこそ正しい人生だと思っていたからだ。

 案外、気を抜いて生きるのも悪くないのかもしれない。

 コップを返すと、関口がにやりと笑う。

「さて。どこに行かれます?」

「そうだなあ……いっぺん高松に帰って……」

 窓の外を見れば、船は港についたようだ。赤と白のストライプ模様の船が、海に浮かんでいるのが見えた。 

 また20分、船に揺られると考えるとぞっとする。

 しかも今度は、その後60分ももう一度船に乗らなくてはならない。

「……それから小豆島に渡ってみるよ」

 龍崎はポケットからくちゃくちゃになった紙を引っ張り出す。もう100回は読み直したその手紙には、息子の几帳面な文字が並んでいる。 

「孫は随分大きくなっただろう。今更お爺ちゃんと名乗って、認めてくれるかどうか」

「高圧的にならなければ大丈夫ですよ。できれば笑顔も浮かべていただいて」

「それは弁護士としての意見か?」

「一般論です」

 やはり、どうにもいけ好かない野郎だ。と、龍崎は苦笑する。

 軽く手を上げ龍崎は店を出た。外に出れば正月明けの青い空に、潮臭い海の香り。

 これまで避け続けてきた海が、今日は不思議と美しく見えた。

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