2
「ここは東浦集落と呼ばれてます」
関口が先導して歩く道は、どこか懐かしい雰囲気の住宅街である。
細い道はくねくねと折れ曲がり、一軒家が点在している。
ただ、その家の前には塀ではなく、低い石垣が積まれているのが珍しい。
きちんとした壁ではなく、石を積み重ねて作ったような素朴な石垣である。
その石垣の間を大きなキジ猫がゆったり通り過ぎていくのが見えた。なんとも呑気な空気だ。これまでの自分からは遠い存在である。
「沖縄みたいだな」
と、呟くと関口が顔だけこちらに向けた。
「おや。海がお嫌いなのに沖縄には行かれたことがある、と」
「沖縄は飛行機でいけるだろう。息子が高校生のときに、柔道の試合があってな」
思い出したのは息子のことだ。昔から体格がよく、中学に上がればあらゆる運動部から声がかかった。
好きに選べばいいと余裕を見せたが、心の中では柔道を選んでほしかった。
龍崎自身、柔道で段を持っている。
父の思いを汲んだのか、どうか。息子が選んだのは柔道で、見事に大会を勝ち抜くほどの実力者となった。
「一日中試合で、夜になってようやく観光をしたが、どこも閉まっていてね。仕方なく町を散策したんだが、こんな石垣で仕切られた家が多かったな」
「これは石塀……オーテといいます。ここいらは冬になったら海風がすごいのです。潮風と砂で建物が傷まないように家を守るために作られたそうです。海が近い集落というのは、どこも似たものが生まれるのかもしれません」
「詳しいな。ここが故郷か?」
「いいえ。ここに直接来たのは確か……4年前ですね。小柳さんの諸々の管理を任された時にはじめてですよ」
小柳。と、龍崎は口の中で呟く。小柳蝶子。それはこちらに来て、よく耳にする名前だ。
例の喫茶店もその女の持ち物だ、と聞いている。あの写真に写っていた老女だろう。
どのような経緯で瀬戸とその女が出会ったのかは分からない。
そもそも瀬戸は香川とは無関係で、この土地に来た理由さえ掴めていないのだから。
「……なぜ、坊主はこの場所に?」
「何か?」
数歩先を行く関口が振り返り、首を傾げる。
龍崎のつぶやきが聞こえた上でのとぼけ面なのか、それとも本当に聞こえなかったのか。能面のような顔からは探りようもない。
「……いや、このあたりは絵が多いな」
龍崎は足を止め、周囲を見る。そこにはいくつか、小さな絵のようなものが飾られている。
人の気配は少ないが、先程から絵や飾りのような置物がいくつも目につく島である。
「そういえば港のところには置物があったな……かもめみたいな置物と、あと船みたいな……」
「3年に一度、芸術祭が開催されるんですよ。瀬戸内国際芸術祭っていうのですが、それの作品ですよ」
「ああ……聞いたことがある。息子が手伝いに行ってたやつだ」
「息子さん、柔道じゃないんですか?」
「足を悪くして、高校2年の冬で引退だ。そのあとは趣味だっていう絵のほうに傾倒してたよ」
飾られている絵は、子どもの描いたような幼い絵である。思い返してみると、息子も幼稚園の時は絵が描くのが好きだった。
そんな息子を無理やり外に連れ出して、あらゆるスポーツを叩き込んだ。おかげで柔道の大会では何度も優勝を飾ったが、その柔道で怪我を負い引退を余儀なくされた。
もし昔の夢を応援していれば、息子はあんな悔し涙を流さなかったのではないか。それを未だに龍崎は考えることがある。
……それが息子への遠慮となった。すでに自分は60歳を超え、息子も40歳近いというのに。
龍崎はポケットに手を突っ込む。と、そこにくしゃくしゃになった紙が一枚入っている。それを力いっぱい握りしめ、龍崎はため息をついた。
「しかしこの島は道が細いな、迷路みたいだ」
「隣の男木島は山の斜面に家があるので、もっときついです。これに坂道が追加される感じと思っていただければ」
「坊主なんかはすいすい登りそうだな。あれは父親に似て体格が良いから。そうだ、今度親父を香川に呼んで一緒に……」
「刑事さん」
と、急に関口が足を止めたので、龍先はその身体にぶつかった。小さい身体のくせに、関口は身体を揺らすことなく振り返る。
「瀬戸さんは、お父様には会わないと思いますよ」
迷いや惑いなど一切ない顔だ。そのロボットみたいな顔を見ていると、むかっ腹が立ってくる。
「なぜそう思う」
「少なくとも私から見て瀬戸さんは潔癖で、正義感が強い。それに自分の家族については一言も口にはしません。すでに父親を見放しているのでは?」
関口の言葉は一つ一つが冷たい。彼は眩しそうな顔で海の方を眺めて、姿勢よく伸びをする。
「それにあの人は、見た目以上に意固地ですよ」
「じゃあせめて、親父へ手紙だけでも書くように言ってくれねえか」
龍崎は関口の前で頭を下げた。刑事だった頃、上司以外には下げたことのない頭である。
多くの犯罪者を見てきたが、なぜここまで優人に肩入れするのか、自分でもよく分からない。
初めて自分で手錠をかけた犯罪者だったからだろう。と、上司にはそう言われた。しかし、それだけではない気がしている。
「別に許せというわけじゃない。親父が犯罪者ってのは、相当苦労もしただろう。あいつの夢は確か、ヒーローになること。だ」
幼い瀬戸は、必死にヒーローのビニール人形を抱きしめていた。そのことを龍崎はよく覚えている。
龍崎の隣に立つ巡査の制服を、憧れるように見つめていたその目の純粋さも。
身内に犯罪者がいると警察官にはなれない……それは公式の見解ではない。職業選択の自由は誰にでも与えられた基本的な人権の一つだ。
しかし、その一点が汚れとなって邪魔をすることは当然、あるのだ。
「許せない気持ちも分かる。会いたくない気持ちもな。でも手紙くらい」
「くらい、ですか」
関口が隣にそびえるオーテをそっと撫でた。
「オーテは冬の海風を防ぐのに大事なものですが、高すぎると太陽光も遮るため高さを決めるのがなかなかに難しいようです」
「何を……」
首を傾げる龍崎に、彼は真面目な顔を向ける。
「……残念ながら、瀬戸さんの心のオーテは随分高い。普段はにこやかな好青年に見えますが、家族の話になると顔が暗くなる」
オーテにするりと夏の白い光が差し込む。
石についた苔が、光を反射して輝いてなんとも言えず美しい。
この風景を瀬戸は見ただろう。その隣に優人がいればいい……そう思ったのは、龍崎の我が儘だろうか。
あの夕陽しか差し込まない部屋の中で、死を迎えるばかりの優人を見て龍崎は堪らなくなったのだ。
その理由は……。
「それにね、瀬戸さんの親子関係が解決したからといって、あなたとあなたの息子さんとの関係がうまくいく、なんてことはないんですよ」
関口の言葉がざくりと龍崎の深いところに突き刺さった。




