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海というのはこんなにも青いのか。と、龍崎は考える。
船酔い体質のせいかずいぶん長い間、海を避けていた。
寄せては返す波を間近に見るのは、本当に久しぶりのことである。
「いらっしゃいませ。コーヒーの用意はできてます」
小さな店の扉を開けた途端、そんな声が聞こえて龍崎は思わず足を止めた。
鼻に届くのは爽やかなコーヒーの香りだ。
顔を上げるとカウンターの向こうに、メガネをかけた生真面目そうな男が立っている。
彼は背筋に定規でも差し込んでいるような姿勢のまま、テーブルにコーヒーカップを置いた。
龍崎は一歩も動かず、目だけで店内を見渡す。
店内は狭い。事前に調査していたとおりだ。
中央にカウンターテーブルが置かれていて、その向こうは雑多に物が積み上がるキッチンスペース。
奥にはソファー席もあるが、使っていないのか机の上には書類が散らかったまま。
アーチ型の窓からは風が抜け、潮の香りがした。
当然だ、この店は海から5分の場所に建っている。
「……なぜ、今日、俺が来ると?」
「あなたが先日、ここのお客さんに瀬戸さんのことを聞いたのは12月の暮れでしたね。暮れと正月明けの忙しい時期には来るはずがない。来るならきっと、三が日以降……しかも船の便は時間が決まってます。船に弱いあなたは混み合う朝一の便は避け、昼の人が少ない便でくる。しかもフェリー乗り場で息を整えてから来る。でも人の目を気にして、休憩をしてもせいぜい5分か10分くらい。それを計算すれば、コーヒーを淹れる時間も自ずと分かります……と、瀬戸さんの意見です。とはいえ、具体的に来る日なんてわかりませんから。毎日同じ時間にコーヒーを淹れてました。おかげで腕が上がりましたよ」
男の言葉に、龍崎は苦笑した。
船という言葉を聞いた途端、身体が揺れを思い出した。
瀬戸内海は波が穏やかだと聞いていたのに。結局、海は海である。
しっかりと船酔いし、薄暗いフェリー乗り場で10分ばかり休憩する羽目になった。
つまり瀬戸の読み通りに動いてしまった、ということになる。
「勘がいい坊主だ」
龍崎は進められるままに小さな椅子に腰掛け、うっすら痛む額を押さえる。
酔い止めの薬を飲んできたが、効いている気配もない。昔から船だけはどうにも苦手だ。
大きなフェリーでもボートでも何に乗っても軒並み酔うので、海というものが身体にあっていないのだろう。
「船酔い、まだ治ってないみたいですね。コーヒーが効きますからどうぞ。せっかく淹れたので、早めに飲んでください」
男に急かされ、小林は渋々カップを手に取った。
季節は年明けの1月。しかし気温はちっとも下がらない。さらに船酔いで汗だくの龍崎にとって、ホットコーヒーは少々きつい。
しかし淹れたてのコーヒーはやや酸味が強く、一口飲むと鼻に香りが抜けていく。
酸味の強いコーヒーが好みだと、いつか瀬戸に語ったことがあった。まさかそれを覚えているのだろうか。
あり得る話だ。瀬戸は記憶力のいい少年だった。
「……で、坊主はどこにいる」
「あなたが来るのに、瀬戸さんがいるわけがないじゃないですか」
呆れたような口調に、思わず目がすわった。が、目の前の男は動じることもない。
そして彼は龍崎に向かって名刺を差し出した。
「申し遅れました。私、弁護士の関口と申します……刑事の龍崎さんですよね」
面白みもない生真面目な名刺に書かれたものは、関口法律事務所。公平平等を示す天秤のイラストが描かれた名刺を見つめ、龍崎はため息をついた。
「元、刑事だ」
「失礼、一ヶ月前に辞められてましたね」
関口は平然とした顔で龍崎を見る。恐らく、龍崎が退職をしていることなど、とうに知っているのだろう。
弁護士は無表情で人を引っ掛けるような真似をする。それがどうにも苦手だ、と龍崎は心の中だけで愚痴をいう。
もしかすると、そんな声さえ彼には聞こえているのかもしれないが。
「……で、坊主は?」
「市内まで買い出しへ。明日まで戻らないようです。全く困ったものです。その間、私を店番に置いていったんですよ」
関口は不機嫌そうに鼻のあたりに皺を寄せる。
『だにえる』と書かれたエプロンを身にまとい、手には口の細いケトルを手にしている。
顔が丸いせいで幼くも見えるが、実際には30歳後半か40代だろう。
恰好だけなら喫茶店のマスターでも通りそうだが、いかんせん表情が薄く、姿勢が良すぎるので染み出す士業感が隠しきれていない。
……それは自分もそうか。と龍崎は考える。
磨かれたケトルに映る自分の顔は真四角で、表情はいかつい。
もう退職したというのに、出かける時にはスーツにネクタイ、革靴を選んでしまう。
それにいまだ、人を観察する癖が抜けきれていない。
「実際ね、私は腹が立つんですよ。あなたが来るせいで仕事が進まない」
不機嫌そうに関口は眉を寄せる。
「瀬戸さんには書類の確認をお願いしているのに、すぐにサボるのです。今回もあなたが来たせいで書類を放棄されました」
奥のソファー席に置かれたままになっている書類を睨んだあと、関口は龍崎を見つめる。
「龍崎さん。一応、ご用向きをお伺いしましょうか?」
「瀬戸の親父が出所した」
薄めのコーヒーを飲み込んで、龍崎は呟く。
関口は驚く顔一つ見せない。瀬戸の家族関係を知っているのか、それとも職業ゆえの冷静さか。
やはり弁護士というやつは、少し苦手だ。と、龍崎はカップに口を付けたまま、口を歪める。
「……が、病気になってな。それを坊主に伝えに来たんだ」
コーヒーを飲み終わった龍崎は、船酔いがましになっていることに気づいた。
たった一杯であの気持ち悪さが解消されるのは幸いだ。
しかし、瀬戸の父親である瀬戸優人の病は、もうコーヒーでも薬でもどうにもならない。
「残念ながらあまり良くない病気だ。ここ一ヶ月、二ヵ月でどうこう、って話じゃないが……まあ来年の今の季節まではもたねえだろうな」
「刑事さんというのは、そこまで元受刑者のアフターケアをするものなのですか?」
「今はもう刑事じゃない。それにちょっと、あいつとは訳ありでね」
最後に瀬戸の父を見たのは、古いアパートの玄関先だ。
刑事を辞めた龍崎が、元受刑者に会いに行く理由などない。
それでも密かに尋ねてしまったのは、奇妙な縁のせいだろう。
「……あいつの最初の事件。あれは俺が逮捕した」
最初の事件は20年前だ。職にあぶれていた瀬戸優人は、手練れの強盗に声をかけられたという。
その時の供述を、龍崎は未だに覚えている。
取調室に座る優人はブルブルと子犬のようにふるえ、まるで素人だったからだ。
「あいつは元々は腕のいい鍵師だったそうだ。ただ、どうにも性格がいい加減なやつでね。仕事をサボる癖が続いてクビになった。路頭に迷ってる時に、悪い奴らに目をつけられた。お前は鍵を開けるだけ危ないことは一つもない……よくある誘い文句さ。それで資産家の屋敷に忍び込んだ」
龍崎は巨大な屋敷を思い出す。どこかの銀行の頭取だったか、地主だったか。セキュリティもしっかりとした屋敷だったはずだ。
しかし優人はセキュリティの一つも鳴らさず、あっさりと開けた。
家には婦人が一人で留守番をしていることは分かっていたようだ。しかし女一人、縛ればどうにでもなる。と強盗団は舐めていた。
誤算だったのは、そのか弱いはずの婦人がゴルフクラブを手に待機していた……ということだろう。
「奥さんが暴れたおかげで事件は未遂だ。慣れてねえ優人だけが逃げ損ねて、そこを俺が捕らえたってわけだ。で、あいつの証言で残りの連中も芋づる式さ」
優人の妻は情けない夫にため息を漏らしたものの、離婚はなんとか踏みとどまった。
まだ幼い瀬戸を連れて警察へとやってきて、あの人をよろしくお願いしますと。龍崎に頭を下げたのだ。あんないい加減な男には似合わないくらい生真面目な女性だった。
その隣で唇を噛み締め涙を堪えている瀬戸の姿が、なぜだか自分の息子と被って見えた。
お父さんが出てくるまでの間、お母さんを支えてあげないと駄目だぞ。と、人情ドラマに出てくるようなセリフで瀬戸を励ました。
幼い瀬戸は、涙の浮かぶ大きな瞳を龍崎に向けて、しっかりと頷いた……。
「まあ完遂したわけでもなし、そんなに重い刑期じゃないでしょう。その後きちんと、更生さえすれば」
「したよ。しかもその後は20年もかけて真っ当な道にな」
この世の中には出所するたび、悪さを重ねる連中も少なくない。
しかし優人には妻がいて、子があった。
気まずい所もあっただろうが、傍目には上手く行っているように見えていた。
「あいつは根っこが悪人じゃねえんだろうな。その後は鍵に関わる仕事こそ手放したが真面目に働いてたよ。最初に起こした事件で、家を傷つけた。その慰謝料だって、送金しようとしたりな」
「……でも、また?」
龍崎は頷く。その事件を聞いたのは、4年前の非番の朝。
後輩からの電話を受けて目の前が真っ暗になった。そんなことを覚えている。
「銀行を狙った大掛かりな強盗計画だ。ちょっとニュースになっただろ? ただ匿名の通報があったおかげで、大事件にならずに済んだ」
捕まった強盗の中には、還暦近くなった瀬戸優人も混じっていた。その目で見るまで信じないと、現場に駆けつけて龍崎は愕然としたものだ。
「で、あいつの刑期が終わったのはつい最近だ。妻子はもういない。奥さんは4年前に病気でなくなってるし、瀬戸の坊主は行方不明だ。あいつ一人、残された」
瀬戸優人に充てがわれたのは、真っ赤な夕日が差し込むボロアパートである。
ボロボロなのはアパートだけでなく、彼の身体もそうだった。
人生の終焉にしては淋しく、虚しい。しかしこんな人生なのだから仕方がないと、諦めた笑顔を覚えている。
「お父さんが出所した……そんなことくらい、電話でも瀬戸さんに伝えることができたでしょうに。なぜわざわざここまで?」
「どうも俺はあの坊主に嫌われてるみたいだ。4年前の事件のとき、坊主に会いにいったが取り付く島もねえ。今回も一回だけ出所のことを知らせたが、ガチャン。だ」
龍崎は受話器を机に叩きつけるポーズをしてみせる。そういえば、こういうポーズはもう古いですよ。と若手から突っ込まれたことを思い出した。
幸い、関口はそういった野暮なツッコミをするタイプではないらしい。
相変わらず読めない表情で見つめてくるだけである。
「電話をかけても折り返しなんて一回もなかった……ああ、正確にはこの間の一回だけだな」
龍崎はつい先日、瀬戸からかかってきた電話を思い出した。
ひどく固い声で、緊急で探してほしい人がいる……と、言ったのだ。家出少女の保護者探しの依頼である。
結局あちこちに根回しし、なんとか無事に収まったらしい。と聞いて肩の荷がおりた。同時に、瀬戸が香川県高松市にいる、という情報も手に入ったのである。
実際に足を運び、彼がこの女木島にいる……小柳蝶子という女が営んでいた喫茶店を、一時的に預かっている。という情報も手にいれた。
「優人はさ、俺が捕まえたという縁もある。息子に伝言するくらい、いいだろう。そう思っていたのによ……まさかここまで嫌われてるとはね」
龍崎は手持ち無沙汰に壁を見つめた。そこには写真や守り袋など、雑多なものが貼り付けられている。
写真の中で、一枚だけが少し古い。砂浜で老女と瀬戸が並ぶ写真だ。
それ以外は様々な人物……その中には先日屋島で出会った少女たちの姿もある。
恐らく、訪れる客の写真をこうして貼り出しているのだろう。
中には瀬戸とツーショットで撮られた写真もあった。龍崎の前では見せない、はにかんだ笑顔を浮かべる瀬戸が印象的だ。
思い返せば、瀬戸の顔といえば泣きそうに堪える幼い頃の顔か、こちらを拒否するように睨む顔。どちらかの顔しか知らない。
自分の息子の顔も、最近ではそのどちらかの顔しか見ていない……そんなことを思い出し龍崎は苦いものを飲み込むように喉を押さえた。
「……それに俺の息子が香川の小豆島で働いている。そのついでにここにきた、というのも理由の一つだ」
「じゃあ先にそちらへ行けばいいのに」
「船酔いの体質だ。まずは一番近場の女木島から慣らして行こうと思ったんだ。そうそう、最初は何も分かっちゃいなかったから、屋島というのが島と勘違いして、そっちに行ったよ。まあ笑い話だな」
たった20分という船旅だったというのに、しっかり酔った。これでは60分かかるという小豆島までの船旅は、耐えられそうもない。
「が、もうそれも諦めるさ。こんな具合じゃ、小豆島にわたるのも難しいしな。帰りの船も憂鬱だが、仕方ない」
「次の船までお暇でしょう。島を案内しますよ」
……と、関口が以外なことにそんな事を言う。彼はエプロンを外し、カウンターからでてきた。
歩いていても、やはり姿勢はいい。ロボットのように歩くのが癖なのだろうか。
何度も火の確認をしたあと、彼は喫茶店を出る。
「それほど時間もかかりません。歩き疲れて眠るほうが、帰りの船も安心でしょう」
「親切だな」
「瀬戸さんから頼まれているのです」
そうじゃなければ、案内などするものか。そんなふうに言いたげな顔で、彼は龍崎を手招いた。




