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「すみません……僕は」
関口に断りをいれ、瀬戸は深呼吸をする。
「ちょっと、上に」
そして震える手で机の上のものを握りしめ、立ち上がった。薄暗い階段を上がれば、心音が激しく鳴り響く。
それでも瀬戸は二階へと向かった……これは一人きりで開かなくてはいけない、そう思ったからだ。
SDカードをパソコンに繋げると、それは音声データである。
お姫様の最後の相談コーナー。と書かれたファイルを震える指でクリックすると、また懐かしい声が響き渡った。
『さあて。この間の相談コーナーの続きね。ヒーロー少年のお話だ』
直接録音しているようで、声はラジオ音源よりも明瞭に聞こえる。
『これはね特別に一人だけに向けて録音してるよ。お姫様の特別回だ』
部屋の隅で膝を抱え、パソコンを前に瀬戸は背を丸めた。
『私は随分と色々なことをしてきた。ね、もう知ってると思うけど。ブログもやったし、ダンス……まあこれは結構きつかったけど。あとラジオのハガキ職人に、そうそう。レシピサイトもね。これは楽しかったかな。まだまだ一杯やってるよ。なぜって? そこに困った人がいるからだ。困った人は助けてあげなきゃね』
懐かしい声だ。このまま何日も何日もこの録音だけを聞いていたい。そんな気がする。
シークバーがゆっくりと縮んでいくのを、瀬戸は悔しく見つめる。
『これってなんだと思う? これはね、ヒーロー業務ってやつ』
……と、そんな蝶子の声が聞こえて瀬戸は息を止めた。
「え……?」
『でもこれはね、代行でやってたんだ。ヒーローを夢見る男の子の代わりにね。今はその子はヒーロー業務ができないみたいだから、できるようになるまでの間だけ』
慌てて音声を止め、30秒ほど前まで戻す……が、蝶子の声はやはり同じことを言う。
『……これまで随分長くお借りしていた君の夢を返すね。そろそろ、選手交代だ。でしょう?』
「蝶子さん……?」
『ね、ヒーロー希望の少年。もう君は、ヒーローだ。さてもう時間がない……続きは手紙でね』
録音は唐突に終わった。慌てて瀬戸はヒーロー人形の下にうずもれていた手紙を取り出した。
震える指でめくる、めくる。
そこには、全てが書かれていた。
「蝶子さん……」
小柳蝶子は、20数年前に父が起こした資産家への強盗事件……その家の妻だったこと。
瀬戸の母が、その家に謝りにいったこと……そこに幼い瀬戸もいたこと。
「夫の態度が……あまりに……悪く」
瀬戸は蝶子の癖のある文字を目で追う。
資産家の夫、という男はどうやら瀬戸の母と瀬戸を責めたらしい。そんなこと、もう記憶にも残っていない。
しかし、そのことに蝶子は怒った。
強盗は蝶子の大暴れのおかげで、追い払えた。被害だって、追い払うときに振り回したゴルフクラブが折れたくらいだ。
しかし夫はねちねちと、瀬戸の母と蝶子を責めたという。
それを聞いた蝶子は資産家の妻という身分を捨てて離婚を選び、そのあとは故郷である香川に舞い戻った……。
「母とは……文通をして……」
父の事件のあと、瀬戸はヒーローの夢を諦めた。
ゴミ箱に押し込んだ、お気に入りのヒーロー人形。それを母は蝶子へ送ったという。
それが20数年の時を経て、今ここに戻っている。
震える手で、瀬戸は箱に詰めこまれたヒーロー人形を手に取った。
ビニール製のそれはひんやりと柔らかく、すっかり黄ばんでいる。
そして、人形の腹のあたりには握りしめた跡が残っていた。それは自分でも驚くくらい、小さな指の跡だ。
きっと蝶子はこれを見て、ヒーローを志したのだろう。困っている人を助ける、そんなヒーローに。
……そしていつか瀬戸に、その役目を返すために。
『それと最後に一つ』
手紙はまだ続いている。
震える手で最後の一枚をめくると、大きな文字でこんなことが書かれていた。
『店名のダニエルは、島にいるキジ猫です。もういい加減いい年だから、かわいがってあげてください』
「……ダニエル?」
気がつくと、瀬戸の足元に温かい塊が触れている。
驚いて顔を上げると、そこに大きく太った猫がいた。
瀬戸にしかブラッシングを許さない、気高く賢い、島の猫。
「……嫌だ」
瀬戸の目から、涙が溢れた。一度溢れると、ダムの崩壊のように、止まらない。
ずっとずっと堪えていた涙が一気に溢れて、喉が鳴る。噛み締めた唇の奥から悲鳴のような声が上がる。
「嫌だ、蝶子さん、死んだら、嫌だ……」
汚れたヒーロー人形と手紙を抱きしめたまま、瀬戸は床に顔を押し付けた。
初めて瀬戸は、蝶子はもう戻らないことを思い知らされたのである。
泣きつかれ、瀬戸は数時間眠っていたらしい。
気がつけば閉じたカーテンの向こうに、緩やかな夕陽の色が広がっている。
目を真っ赤に腫らしたまま一回におりると、まだそこに関口の顔がある。
気まずく顔をそらす瀬戸に構わず、彼は机の上に一通のハガキを置く。
「ポストにこんなものが」
「ああ……無事に……産まれたんですね」
ハガキの裏には健康そうな赤ん坊と、金髪の女性の写真が載っていた。
それは碧だ。妊娠を迷い、琴平に一緒に上がった。あのあとも臨月近くまで何度も香川に足を運んでくれた女性である。
「名前は……蝶子」
ハガキの文面を見て、瀬戸は少し涙ぐむ。
そして「鬼という名をつけようとして旦那と妹に怒られた」と丸っこい文字で書かれた追伸を見て、思わず苦笑した。
「可愛いですね、赤ちゃん」
「瀬戸さん。お腹がすきました。食事を作ってくれませんか」
と、関口がいつもの調子で言うものだから、瀬戸の肩から力が抜ける。
「……ここでそれを言うのはサイコパス過ぎませんか」
「お腹が空いたんです。お腹が空いてるときは何よりも食事を優先させろって、オーニも」
聞き慣れない名前に、瀬戸は固まる。
が、関口は固まる瀬戸に構わず会話を続けた。
「彼女も食事は絶対に欠かしませんでしたよ。食事がないときはイベント中でも料理を作るんです。特にこの季節、冬のイベントの時に出してくれる料理は絶品で、話題になって……」
「あの……オーニ? イベント?」
「ああ、彼女のDJネームです」
「DJ……?」
「私と彼女はDJ仲間でして」
背筋を曲げないまま、生真面目な顔で関口は言う。
その顔には一切の嘘偽りなどない。という自信が満ち溢れていた。
関口の顔を見つめたまま、瀬戸は椅子に崩れ落ちる。
「どれだけ引き出しあるんですか」
「まだまだあると思います」
「あなたもですよ」
「私なんて、まだまだ……小柳さんに比べたら、ね」
関口は瀬戸の背を叩いた。
冷たそうな顔に見えて、熱い手だ。思い返してみれば、彼だけは、この一年ずっと瀬戸の側にいてくれた。
「私もね、こんな顔だからわかりにくいと思いますけど、悲しんでいるんですよ。あの人の死を」
関口の声が珍しく震えている。表情は変わらないけれど、瀬戸はその声を聞いてようやく立ち上がった。
久々にエプロンを握り、それを腰に巻く。
そして一ヶ月ぶりにキッチンに立った。
「……蝶子さん、イベントのとき何作ってたんですか」
「まんばの……」
その声に瀬戸の目が丸く見開かれる。
「けんちゃん!」
そして二人同時にその名を叫んだ。
まんばのけんちゃん。とは、高松の御当地メニュー。まんばと呼ばれる冬野菜、高菜を油揚げや木綿豆腐と炒め煮するものだ。
アクの強い高菜だが、冬の厳しい時期だけは甘さを増す。
なぜけんちゃんと呼ぶのかは分からない。ただ瀬戸の名前が「健」なので、蝶子はよく「せとのけんちゃん」とふざけてよくその料理を作ってくれた。
「アク抜きが必要だとネットで書いてましたので、すでにアク抜きは、こちらに」
関口は生真面目な顔でそういって、キッチンを指す。そこには濃い緑色のまんばが、すでに茹でられ水につけられていた。
「準備がいいですね」
「このまま瀬戸さんが降りてこなければ私が作るつもりでした。そうなれば焦げて大変なことになるところでしたね」
「……間に合って良かったです」
アクが抜かれたまんばを絞り、瀬戸は笑う。
なぜかもう笑えるようになっていた。
キッチンに立てば、背筋が伸びる。目が開く。
なぜなら、ここから見える風景はかつて蝶子の見ていた景色だからだ。
「ところで、関口さんのDJネームをお伺いしても」
「秘密です……僕のリミックスをここで流していいのなら、いつかお話してもいいですけど」
まんばと豆腐、油揚げを炒め始めると、店中にいい音が響く。
蝶子が残したレシピサイトを見れば、味付けの分量が丁寧に残されていた。それを忠実に守り、味をつける。
香りが記憶を刺激した。これは、彼女のけんちゃんだ。
「……写真のことですが、これはきっと瀬戸さんのためですよ」
出来上がったまんばのけんちゃんをカウンターに並べると、関口がふと壁の写真ウィ見る。
「さみしくないように。あなた一人じゃないと、気づかせるために」
瀬戸もぼんやりと壁を見た。一年の間に、よくもこれだけ多くの人が来たものだ。
写真に残したおかげで、顔を見るだけでいろいろなことを思い出す。
「この人たちは蝶子さんの友達ですが、今はもう瀬戸さんのお友達じゃないですか」
「そうでしょうか……」
初めて作ったまんばのけんちゃんは、甘くてしょっぱくて、柔らかい。
豆腐のとろりとしたところ、まんばの歯ごたえ、その奥にある甘さと少しの苦み。
いろいろな味がするこの料理は、まるで蝶子の人生そのものではないか。
「オーニの友人は、これからもどんどん来ます。もしかすると各国の要人がくるかもしれないし石油王がプロポーズの答えを聞きに来るかもしれない」
「ありそうで怖いです」
「だからこの店は続けなければならない……と、私はそう思います」
関口の声は、優しく柔らかく、瀬戸の心のどこかに静かに刺さった。
「……さて」
関口は急ぎの仕事があるといって、市内へと戻っていった。
弁護士の仕事ではなく、DJの仕事じゃないのか。そう突っ込めば彼はシニカルに笑うだけだ。
いつかDJ現場を押さえてやろう。と心に誓い、瀬戸はいつものように店を片付け、床までしっかり磨き上げる。
一ヶ月使っていなかった店は案外汚れているので、掃除には少し時間がかかる。
ついでに瀬戸は猫のダニエルにブラッシングをしてやり、自分も風呂に入れば、時刻は深夜を回っていた。
「さみしくないように……か」
瀬戸は壁の写真の隣に、今日届いた碧のハガキを貼り付ける。
その中央にあるのは、蝶子と自分の写真。その写真のとなりには、晶から貰った蝶子の「ユイゴン」であるお守り袋もつるしてある。
確かにこの1年はとんでもない忙しさだ。さみしさや悲しさを感じる暇もない。
きっとこれは蝶子の残した優しさだ。
「父さんは……」
さみしいのではないか。瀬戸はふと、そんなことを考える。
最後に顔を見たのは4年前、あの時も父親は切なそうな顔をしていた。
父は今もさみしいのではないか。
瀬戸は店内に引き込んでおいた看板を磨く。
外に貼っておいた定休日の紙を剥がし、代わりに看板を置いた。一ヶ月ぶりに置かれた看板は、生き生きして見える。
「……よし」
それから瀬戸はいつものカウンター席に戻った。
机の上に出したのは、蝶子が愛用していた封筒、便箋、万年筆。
それをしばらく眺めたあと、瀬戸はそっと万年筆を握りしめる。
封筒の宛先には、父の住所。
封筒の送り先には、ダニエルの住所。
そして開いた便箋を前に、瀬戸は万年筆の先を置いた。
もう、書き出しは決めてある。
「……拝啓、喫茶ダニエルは鬼ヶ島にあります」
青く光る一文が、白い便箋に吸い込まれていった。




