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「よかったあ」
その声に驚いて身体を起こす。
と、すぐ真横に瀬戸の顔があり、颯太朗は思わず叫んでしまう。
「うわあっ」
颯太朗は思いっきり叫んだあと、恐る恐る周囲を探った……ここは地獄の底じゃない。
ぴかぴかに磨かれた木の床の上で、颯太朗は寝かされていたのだ。
見上げた空には古びたシーリングファンが、ぎっこんぎっこんと今にも壊れそうな音を立てて回っている。
それは夢の中で見た、鬼の金棒の音である。
「ごめんなさい。頭打ってたらあんまり動かすのよくないかなと思って……とりあえず店内まで運んだんですけど。どこも痛くないですか?」
颯太朗はあのあと、地面に倒れてしまったらしい。そんな颯太朗を瀬戸はご丁寧にも店に運び入れてくれたようだ。
颯太朗の頭の下に鬼のぬいぐるみを差し込んで、身体の上には『鬼ヶ島へようこそ』と書かれたタオルケットを掛けてくれていた。
窓から差し込んだ日差しが、スーツに吸い込まれてぽかぽかとあたたかい。
「倒れたと思ったら急にうなされてびっくりしましたよ。もう少し横になっていきますか? よかったら、奥のソファー使ってください。お客さんいないから気にせずに」
「……や、もう起きます……あの……すみません」
「あっ! ゆっくりですよ! 頭打ってるかもなので!」
耳元で叫ばれて、颯太朗は思わず耳を手で覆う。と、瀬戸は慌てて顔を明後日の方向へと向けた。
「ごめんなさい。僕、声が大きくて……」
それでも颯太朗の体を支える手は止めない。
その手があまりにも熱く感じて、颯太朗はそっと身を逸らす……初めて出会った人物に対して、あまりに警戒心のなさすぎるこの男がどこか不気味だった。
それに平日とはいえ、この喫茶店には客が一人もいない。
机の上には食器類も載っていなかった。先ほど見かけた男は客ではなかったのだろうか。
倒れる前から目覚めた今も、入り込むのは春の日差しとそよ風ばかりだ。
(……経営、できてんのか? この店……)
しかし瀬戸は颯太朗が無事に目覚めたことを素直に喜んでいるらしい。彼は机の上を指差す。
「そうそう。みかん、潰れそうだったから机の上においときました」
そこにはマリンライナーで押し付けられた、みかんが転がっていた。
「あれ、いいみかんですよ。日本で一番紅い小原紅早生……坂出のみかんで、めちゃくちゃ甘いんですよ!」
それは知らなかったな……と、颯太朗は回らない頭で考える。
事前調査も調べ物も得意だ。しかし全方面を調査するわけではない。
颯太朗が頭に叩き込んでおくのは、議論する相手が出してきそうな話題だけ。
……相手に馬鹿にされたくない、その一心で。
しかしみかんの種類を知らなくても、きっと瀬戸は小馬鹿にはしてこないだろう。そんな気がする。
「もらい物なので、よければ瀬戸さんにあげます」
「駄目ですよ。お客さんのだし……あ、そうだ」
瀬戸は何を思いついたように立ち上がると、どたばたとキッチンに駆け込んでいった。
身体が大きいせいか、ひとつひとつ動作音の大きな男である。
やがてキッチンの向こうで、工事現場のような音が鳴り響きはじめた。ぽかんとしている間に、また彼は大きな足音とともに駆け戻ってくる。
「はいっ。こうすれば美味しくいただけますよ。ほら、席に座ってゆっくり飲んでください」
「ジュース……」
机の上に置かれたのは、ジョッキのような巨大なグラス。中には赤色に近いオレンジのジュースが揺れていた。
氷ごとみかんを砕いたのだろうか。触れるとひやりと冷たい。
上から覗き込むと鮮やかなオレンジ色の泡が湧き立って、柑橘の香りが鼻をついた。
警戒する颯太朗に気づいたか、瀬戸がカウンターの向こうから恐る恐る声をかけてくる。
「あ、サービスです。気にせずどうぞ。僕もご相伴に預かるので……」
「はあ……すみません……」
そういえば今朝からほとんど水分をとっていなかった。そのことに気づき、そっと口を近づける。
喉に滑り込んだその味は、驚くほど甘かった
「あ……っま……」
「えっと……SOUさん」
不意に瀬戸の口から自分のハンドルネームが響き、颯太朗は思わずむせる。
それに気づいた瀬戸が慌てて颯太朗の背中を叩いた。
掌が大きいせいで、恐ろしいほど強い一発だ。
「あっすみません! 痛かったですか? あ、あの。脅かすつもりは……あの、僕、動体視力と記憶だけはよくて……ブログ、見つけちゃいまして」
瀬戸が持っているのはタブレットだ。恐らくブログ名で検索したのだろう。
見慣れたオニヒメのブログ。彼はその画面をスクロールし、コメント欄を開く。
どのコメント欄も大賑わいだ。
少し前まではオニヒメとの論争を楽しむために。最近では動かなくなったブログを案ずるコメントも多い。
そんなコメントの一つ、ノートパソコンで顔を隠したスーツ男のアイコン……それを瀬戸は指差した。
「それでコメント欄、拝見したんです。このSOUさんってあなたですよね」
正論のSOU……と書かれた、口にするには恥ずかしいハンドルネーム。前半を略してくれたのは瀬戸なりの親切かもしれない。
颯太朗は黙ってオレンジジュースを飲み込む。それは肯定と同じことだ。
瀬戸は目を細めてブログを眺め、そして颯太朗を見つめる。
「あの。ちょっとお伺いしたいんですが……蝶子さん……オニヒメに会いに来たのは、どんな理由で?」
「見てもらったら分かるけど。俺、オニヒメとブログで言い合いになったんです。バカみたいだけど」
まるで子犬みたいな目で見つめられ、颯太朗は渋々と呟いた。甘いオレンジジュースが口をすべらせたのかもしれない。
「俺、ネットの煽りは誰にも負けたことなかったのに、オニヒメに全然勝てなくて」
颯太朗がオニヒメブログに出会ったのは、1年ほど前のことだ。
裏の掲示板でよく聞く名前である。噂には聞いていたが、どうせつまらない個人ブログだろうと無視していた。
しかし仕事で失敗した夜に、つい目にしてしまう。
オニヒメのコメントはどれもキツイ書き方なのに、なぜかコメント欄が楽しそうだ。
そして文字で見て分かるほどに、皆が盛り上がっている。
中心にいるのはオニヒメだ。それを見た瞬間、腹の底からドロリとした溶岩が漏れ出した。それは嫉妬という溶岩だ。
気がつけば、重箱の隅をつつくような嫌味をコメント欄に書き残していた。
どうせ無視されるだろう。消されるかもしれない。運が良ければ、オニヒメが取り乱す様を見られるかもしれない。
そう期待せず5分後に掲示板を覗けば、すでにオニヒメから反論が来ていた。
颯太朗を馬鹿にするわけでもなく、煽るわけでもない。中立で見事な回答だ。
しかしそれがまた、癪にさわる。
それが二人の出会いである。
その後は、ただただ、バトルの繰り返し。
話題はなんでもよかった。映画の話から100円ショップの商品の話、話題の新製品に鉄道の話まで。
オニヒメはどんな話題にも食いついてきて、颯太朗のコメントの穴をついてくる。
最初こそ罵詈雑言を書き残した颯太朗だが、やがて頭を使うようになった。
知識を詰め込み、戦う方が賢いと気づいたのだ。
言い合いは、1日2回になり、3回になった。
颯太朗はやや劣勢。しかし颯太朗の肩を持つ人間も増えてきた。
やがて二人の言い合いは、ブログの名物となる。
実際に会って対バンして動画に撮ってほしい。そんなコメントも増えてくる。
それを受けて、オニヒメが書いたのだ。
……いつでも会いにくればいい。と。
「だから……俺、言い負かしてやろうって……」
「僕じゃそのお役に立てませんか」
と、瀬戸が颯太朗の前に立つ。まるで自分の心を見透かされたようで、颯太朗は唇を噛み締めた。
「無理ですよ……だって……オニヒメじゃないんだし」
「確かに、僕は蝶子さんじゃないですもんね」
瀬戸はその空気を感じ取ったように、一歩引く。
そして壁に書かれたバスの運行時刻を指さした。
「もう、高松にお戻りですよね。でも次の船の時間まで2時間くらいあるので、その間にこの島の名物でも見に行くのはどうですか? 鬼ヶ島大洞窟っていう、島の名所。バス停、ほら。そこ。窓の外に見える道の前にあります」
黄色くなった運行時刻表には「洞窟行」の文字が見える。次のバスはあと10分後だ。
「ここが鬼ヶ島って呼ばれる理由のひとつです。あと……多分、それで蝶子さんもオニヒメって名乗っていたのかも」
少し切なそうに、瀬戸はタブレットを見つめていた。
二人がどういう関係なのかはわからない。叔母と甥っ子なのか、まさかの恋人か……もしくは親子か?
いずれにせよ瀬戸のような男を颯太朗は見たことがない。まるで掴みどころのないタコみたいな男だ。
どう言い返せばいいか散々迷っている間に、窓の外にはゆらゆら車体を揺らしてバスが向かってくるのが見える。
「荷物は置いていって貰ってもいいですよ、どうせお客さんも来ないだろうし」
あまりの掴みどころのなさに颯太朗は、渋々頷いていた。




