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 大きな黒ぶちフレームのメガネの奥に見えるのは、穏やかそうな目だ。

 平均身長の颯太朗が見上げるほどなので、男の身長は190センチ近いだろう。

 高身長だが圧迫感はない。それは、彼のぼんやりとした顔立ちのせいかもしれない。

 よれたシャツにジーンズ、その上に『だにえる』と書かれたエプロンをつけたその姿は人畜無害という四文字がよく似合う。

 その隣には生真面目そうな眼鏡の男がもう一人立っていたが、ちょうど帰りがけだったらしい。軽く会釈をするなり、あっという間に去っていく。

 古びた喫茶店……ダニエルに残されたのは颯太朗とその人畜無害だけである。

 彼は顎に手を当てたまま、のんびりと宙を仰いで首を傾げた。

「オニヒメ……うーん。ごめんなさい。この店の店員は僕だけで……女性っていうなら蝶子さんのことかなあ」

「あ……そうだ! この……このブログ、見てください、このブログの運営者!」

 颯太朗は慌ててカバンからパソコンを引っこ抜き、立ち上げる。

 幸い、あの人のブログはいつだって一発で開くように設定しているので、すぐさま画面いっぱいにブログが開いた。

「鬼ヶ島にようこそっていう、このブログの運営者。ハンドルネーム、オニヒメ!」

 ハンドルネーム、オニヒメ。彼女のブログに書かれているのは、女木島や瀬戸内海の紹介。島や香川の情報発信……だけでない。 

 時にレトロゲーム、乗馬に野球、時にはワインの話まで、識者顔負けの持論を書き綴っている。

 それは鋭すぎることもある。そのため、多くのネット論客が彼女を倒そうと掲示板に現れる。

 しかしそんな論客、オニヒメの前ではちり紙と同等だ。どんなに理路整然とした論客も、オニヒメと議論をかわせばヘナチョコになる。

 オニヒメはそんな論客をちぎっては投げ、ちぎっては投げ。容赦なく文字だけで叩きのめす。

 颯太朗も得意としていた鉄道界隈で、コテンパンに叩き潰された一人だ。

 オニヒメに潰された人々はだいたいアンチに落ちるか、オニヒメに恋に落ちるかのどちからである。

 しかし颯太朗はどちらにも落ちなかった。

 彼女を最高の好敵手、と見たのである。

 好敵手であればネット上だけでやり合うのは、失礼だ。幸い、彼女は自分の働く場所を開示している。

 颯太朗は彼女を口頭で打ち負かそうと考え、ここまでやって来た。

 彼女に「対バンならいつでも受け付けている」と煽られたせいもある。

「あ! やっぱり! これ、蝶子さんの字だあ……うん、きっとその人、蝶子さんですよ!」

 しかし今、目の前にいるのは人畜無害一人きりだ。彼は背中をぐっと丸めて颯太朗のパソコンを覗き込んで目尻を下げている。

「この題字、蝶子さんがここで書いてたんですよ。書き初めに鬼ヶ島って書くの、僕おかしくって……ああ、ブログのためだったのかあ。そうそうこのね、島って字がちょっとズレてるでしょ、これね僕が肘当てちゃって、すっごく怒られてその夜、家出しちゃって大変で……ああ、家出したのは僕ですけど」

「じゃあ、その蝶子さんでいいや。多分その人だから、出してください」

 これを島時間というのだろうか。恐ろしいほどのんびりとした男の態度に苛立ち、颯太朗はノートパソコンを閉じる。

 実際、たらたら話している時間はないのである。

 しかし男は困ったようにあごひげをカリリと掻いた。

「あー、それは……」

 それを見て颯太朗は「ははあ」と唸る。どうせこの男もオニヒメ……蝶子のファンというやつだろう。

 オニヒメは顔を出していない。横顔や身体の一部を晒すような、迂闊な真似もしない。

 ただその文章の熱量と風景写真の巧さから、裏掲示板では『30代の元バリキャリ女性』『メガネの似合うスレンダー美女』の噂が流れていた。

 いずれにせよ颯太朗にとってはくだらない話だ。

 颯太朗がここまで来たのは、オニヒメのご尊顔を仰ぐためじゃない。リアルでも戦えるかどうか……それを確認しに来たのである。

「別に下心とか、全然ないし、ちょっと用事があるだけだし。ここ、オニヒメのカフェなんでしょ」

「無理なんですよ」

「無理かどうかはオニヒメが決めることで」

「うーん、会わせてあげられたら良かったんだけど」

「だから……」

 また男はのらりくらり、だ。思わず苛立ちかけた、そのとき。

「だって先月、亡くなったから」

 男の口から衝撃的な言葉が語られる。そして彼が差し出したのは一枚の写真だ。壁に貼ってあったものを、わざわざ剥がして颯太朗の前に差し出したのである。

 西日を浴びて少し黄色くなったその写真には、この男と……一人の老女が写っている。

「え……待って、これ、オニヒメ?」

「あ、こっち、僕です。僕は瀬戸っていいます。瀬戸健」

 言わなくても分かるのに、男……瀬戸はわざわざ自分の方を指差し、名乗った。

 砂浜で写したのだろう。二人の背景には穏やかそうな波打ち際。

 瀬戸は恥ずかしそうに直立不動だ。その隣には映るのは、どう見ても70歳を超えた女性。フラダンスのようなポーズを決めて写っていた。

 真っ赤なワンピースに黄色いサンダル、オレンジのスカーフ……一体どんなセンスなのか。まるで周囲を威嚇する野生動物だ。

「まさか、この……おばあさん……が?」

「僕、蝶子さんの知り合いで、一年限定でお店を継いだんです。まあ後片付けを兼ねてですけど」

「……何だよもう」

 颯太朗は思わずふらつき、扉に手をつく。

 この扉もブログに載っていたやつだ。猫に引っかかれて、補修したと書いていた……あれは半年前だったか。

 どこに傷があって、どう直したのかも全部記憶している。

 なんと言っても颯太朗は、敵陣に乗り込むときには徹底的に全ての情報を頭に叩き入れるのだから。

 事前の準備は完璧。大学ではいつも褒められた。ネットの人々も、颯太朗の言葉を持ち上げてくれた。

 それなのに。

(……くそ、失敗した……ここでも失敗するのか……俺は)

 もう一ヶ月近く、颯太朗はまともに眠れていない。そのせいで、足元が震え額に汗か浮かぶ。

 これまでオニヒメと交わした熱い議論のテキスト、負けた悔しさに飲み込んだエナジードリンクの苦さが一気にフラッシュバックのように湧き上がった。

 同時に先程見た砂浜の老女の姿が、瞼の裏を駆け抜けていく。

「……あいつ……対バンするっていうから、来て、やったのに」

 そうして意識は簡単にブラックアウトした。

 

 馬鹿野郎。という低い罵声が耳に届く。

 お前、正論ばっかで面白くねえんだよ。という嘲る言葉も。


 どうせ人前で意見することもできないくせに。メールじゃ威勢がいいが、そんなやつの言葉なんて、人事も社長も聞きやしない。お前の書き込みなんて、誰も信じやしない。お前の言葉なんて誰にも届きはしない……。

 

 嘲笑うような声から、颯太朗は逃げる、逃げる、逃げる。

 逃げても声は追いかけてくる。まるで隣で囁くように、前から煽るように。

 やめろと叫んでも、声は止まない。ますます大きくなる。

 壁にぶつかり目を開けば、そこは地獄の底だ。

 薄暗い岩窟の中に、半裸の鬼たちが金棒を持ってうろついている。

 岩にすれた金棒が、ゴリンゴリンと不思議な音を響かせていた

 行き来する鬼の口からは蒸気とともに、嫌味な声が漏れ聞こえてくる。


 ネット弁慶。

 お前の言葉なんて誰も聞かない。

 誰も、誰も……。


(……いやだ……いやだ)

 聞きたくない。叫んで逃げようとするが、まるで泥沼に足を囚われているようだ。逃げたいのに、身体が動かない。

 助けて。と言いかけて颯太朗は言葉を飲み込む。

 助けなんて、求められない。自分で乗り切るしか無い。

 でも、どうやって?

「……うう」

 呻きながら、颯太朗は腕を伸ばす。

「だいじょぉ……」

 ……と、どこからか、牛の鳴き声みたいな声が聞こえた。

「……です、か」

 それはブオブオと、不思議な声だ。

 しかし恐怖はない。颯太朗はまるで光を見つけたように、がむしゃらにそちらに向かう。

「だい……ぶ……ですか」

 柔らかい、それは春風のように柔らかい……。

「うなされてます。大丈夫ですか」

 颯太朗を揺り起こしたのは、まるで牛の声みたいな、瀬戸の声であった。

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