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「ほら、これが瀬戸大橋」
左横からにゅっと腕が伸びてきて、颯太朗はぎょっと身をそらす。
その腕は颯太朗の右隣にある窓ガラスを……正確にはさらに向こう……を指さしていた。
「この瀬戸大橋、道路と電車が走る橋としては、世界最長やけんね」
独り言だ……そう思い込もうとしたが、どうやら違う。自分に向かって話しかけているようだ。
それに気づいた颯太朗は、恐る恐る左側に視線を向ける。
と、そこには丸い顔をした爺さんがニコニコ笑顔でこちらを見つめていた。
(誰だ)
颯太朗は混乱を押し隠し、へらへらと笑顔を浮かべてみせる。
海外の人には日本人の浮かべる笑顔が不気味に映るらしい。
確かに困っているのに笑顔を浮かべるなんて珍妙だ。頭では分かっていても遺伝子レベルの癖が、颯太朗の顔に引きつった笑顔を浮かべさせた。
「なあ、すごいよなあ。兄ちゃん」
(だから、誰だよ)
隣にいるのは知らない老人である。ただ偶然、普通席で隣り合っただけ。袖擦り合うこともない人物。
しかし彼は颯太朗が振り返ったことに気づくと、ぱあっと目を輝かせ、窓の外を再び指差す。
「ほらっ。電車から鉄脚が見えるけん。よう見て、お兄ちゃん。この電車、橋の上、車の走る高速道路の下を走っとるんよ。真下は海、ほら、春の海はやっぱり綺麗やねえ」
爺さんの言うとおり、窓の外には斜交いになった橋脚が続いていた。電車のスピードが上がると橋脚は前から後ろへと流れていく。
(まぶし……)
そして窓の外は、恐ろしいほどに眩しい。
まともに日差しを浴びた颯太朗は、思わず眉をぎゅっと寄せてしまう。
それもそのはず。外には早朝の光が遠慮無く降り注いでいるのだから。
颯太朗が乗る電車……マリンライナーの真下に広がるのは、瀬戸内海だ。
波の一つ一つに春の光が乱反射するその様子は、会社の窓に付けられたサンキャッチャーを思い出させた。
毎日毎日夕暮れの頃、真っ赤な西日をオフィス中に撒き散らしていたっけ……。
(くっそ、嫌なこと、思い出しただろうが)
颯太朗は奥歯を噛み締めて、カバンをきつく抱きしめ目を閉じた。
(俺は寝てる。寝てるからな、爺さん、寝てんだよ。黙っててくれ、頼む)
「ね、おにーちゃん」
だから話しかけるな……と無言で訴えたつもりだが、爺さんは颯太朗の些細な抵抗など気づかない。もしくは気づかないふりをしているのか。
領域を侵犯する勢いで身体を寄せて、窓の外を見るように促すのである。
「そんでね、ほら。海に浮かんどる島も見えるでしょ。本島、牛島、手島……あれが塩飽諸島言うんやけど。あ、あれも全部香川県の島やけんね」
知ってる。という言葉を飲み込んで、颯太朗はずり落ちかけたビジネスバッグを胸のあたりで抱え直した。
颯太朗の性格は石橋を叩いて叩いて、何ならもう一回叩いて渡る慎重な性格だ。
東京から香川に来るための旅程など、20回以上見直した。見直しすぎて、乗る電車の時間を暗記したほどである。
まずは東京駅から、始発のののぞみに乗る。
乗り換えは岡山駅だ。
そしてそこから、ホームを上がって真っ直ぐ奥。マリンライナーへ乗り換える。
そんなマリンライナーが走る場所は、1988年に全線開通した瀬戸大橋だ。
岡山県と香川県を結ぶ巨大な橋は、車も鉄道も運ぶ。
颯太朗が乗っているこの電車は、四国と本州をつなげる便利な足の一つである。
そんな橋が掛けられた瀬戸内海には多くの島が浮かび、特に橋の付近にある島は塩飽諸島と呼ばれていた。
かつては塩を焼いていたからとも、潮の流れが早いからともいわれているらしい。
元々瀬戸内海は小さな島の多い地域だ。
その各島々の名物、郷土史、祀られている神社の名前から由来まで、颯太朗は徹底的に頭に叩き込んできた。
実際、この爺さんよりもうまくガイドできるはずだ。
とはいえ、別に真面目なわけではないし、勉強が好きなわけでもない。
戦うときには敵地の知識を詰め込んでおく。それが颯太朗にとっての戦略であるだけだ。
「この島も戦国時代には水軍の本拠地で、そりゃあもう強い海の連中がねえ、悪いやつらバッタバッタと切り倒しとったってわけ」
「悪いやつら……」
「そう。小さな島には昔、悪い鬼みたいな奴らがネグラにしとったけんなぁ」
その言葉とともにふっと暗くなり、颯太朗は焦る……めまいじゃない。ただのトンネルだ。
そこを抜ければまた一気に視界が広がった。春らしい淡く煙った空気に、青白い海の色。
「で? お兄ちゃんは、どっから来たん」
「……東京、です」
爺さんはスーツ姿にビジネスバッグという颯太朗を見つめ、恵比須様みたいな笑顔を浮かべた。
「えらいなあ。お仕事? こっから、どこいくん」
「高松の……ところに」
「市内? 島?」
渋々答える颯太朗の態度にも、爺さんはめげない。まるで誘導されるように、颯太朗は口を開いていた。
「め……女木島っていうところに……」
「あらあ。ええところやね。高松から船で20分くらいやけん、夏の海水浴に皆行くわあ。僕も子どもが小さい頃はよう連れていってね」
爺さんは一方的に喋り倒したあと満足そうに頷く。
「お仕事気張りな。仕事背負ってこの日本引っ張るんは、お兄ちゃんみたいに若い男やけんなぁ」
その言葉に颯太朗は苦笑を返した。
いや、苦笑もできなかったかもしれない。
唇が震えるばかりで、一ミリも上がっていなかったかもしれない。
「ああ、海が終わってしもうた」
しかし、そんな心配をする必要もないようだ。爺さんは白い眉を下げて窓からも颯太朗からも目を逸らしていた。
気がつけば窓の外には海が消え、代わりにビルや田畑、家などが車窓に広がりはじめる。
爺さんは海と島以外に興味などないのだろう。そこから先は、先ほどのことも忘れたようにぐうぐうと寝息をあげはじめる。
どっと疲れた颯太朗も目を閉じる……と、次の駅、坂出駅到着を告げるアナウンスが響いた。
「あ! 僕、ここ!」
そのアナウンスと同時に爺さんが突然立ち上がったものだから、颯太朗はまたびくりと肩をふるわせる羽目になる。
(だから急に動くの、やめろって……)
昔から予測不能な動きが苦手な颯太朗である。思えば子どもの頃、急に動く蝉に何回泣かされたことか。
爺さんは固まった颯太朗の顔を見て、少しばかり申し訳なさそうな顔をする。そして、彼は荷物から何かを取り出した。
「ほれ、これ。これ。あげるけん。持っていきまい」
渋々受け取ると、じわりと温い。手の中を覗くとそれはみかんだ。それも、驚くほど濃いオレンジ色の皮をまとった、みかん。
「そうそう、女木島と言えば……」
そのみかんを何個も颯太朗に押し付けたあと、爺さんはにやりと笑う。
「鬼ヶ島っていうてな、鬼が出るらしいけん。気をつけて」
知ってる。とまた颯太朗は思う。もちろん口には出さない。
颯太朗は女木島の鬼伝説も、鬼の洞窟があるということも、些細な伝承も民話も全部知っている。
何と言っても、颯太朗はまさにその鬼ヶ島に住む、オニヒメに会いにいくのだから。
……なんてことを言えば、この爺さんはどんな顔をするだろう。
颯太朗はぼんやりとそんなことを考えた。
「えっと……オニヒメ……って誰のこと、でしょう?」
しかし、颯太朗の目的はポキリと折れることになる。
「……いや、あの……俺、オニヒメの本名、知らないんですけど、ここって、女木島で間違いないですよね」
颯太朗は温い春風に吹かれながら、手にしたスマホを覗き込んだ。
船の乗り換えも頭に叩きこんでおいた。
そのおかげで船の時間もぴったり。窓口に差し出すお金もお釣りなしだ。
目的の船に乗り、20分。波は穏やか、風も爽やか。
目的地である女木島……瀬戸内海に浮かぶ4キロ×1キロメートルの細長い島……にたどり着いたのも誤差2分以内という優等生っぷりである。
最終目的地は港から徒歩5分の場所にある『喫茶ダニエル』。
颯太朗は間違いなくその場所に立っている……はずだ。
「で、ここは喫茶ダニエル……です、よね」
颯太朗はネットの地図を見つめる。
ここは港を少し見下ろす坂道の上。
ネットに載せられた写真には赤と青のストライプサンシェード。木彫りの渋い看板には、喫茶ダニエルと刻まれ、ガラス窓にはレトロな花のシール。
一歩引いて、颯太朗はもう一度ネットの写真とリアルの店を見比べる。
「ここ……だよなあ」
違いはただ一つ、店の前で男がホースで水打ちをしているかどうかだけ。
「この店に働いてる、はずで……」
男の持つホースからは、水が溢れている。その水を眺めながら颯太朗は呟く。
「オニヒメ……っていう子……」
香川は少雨にくわえて、川が短く水を溜め込むことができない。そのため県内には1万5千近くのため池が存在するそうだ。
(水不足に苦しんでいるはずなのに、こんなに無駄水を放って大丈夫なのか?)
不意に浮かんだそんな小ネタに、颯太朗は頭を抱える。
なぜため池の数まで頭に入っているのか。それは全て、オニヒメを打ち負かすためである。
「オニヒメ……が、ここにいる……はずで」
この店に突撃すれば、オニヒメが颯太朗を驚き顔で迎えてくれるはずだったのだ。
本当に来たの? などと怒りながら驚きながら……いや、これにはちょっと颯太朗の妄想が入っているかもしれないが。
「オニヒメ……?」
しかし、颯太朗を出迎えたのは、あごひげがうっすらと生えたメガネの壮年男なのである。




