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(鬼……の洞窟、か)
バスの乗客は颯太朗一人きりだ。
今日は平日、春休みでもなんでもない日なので、こんなものなのかもしれない。
バスはスーツ姿の颯太朗だけを載せて、山道をくねくねと曲がり続ける。
10分も山を登っただろうか。突然開けた駐車場が現れて、バスが止まる。
山の中腹なのか、柵の向こうには瀬戸内海と島影が浮かんで見えた。
バスの運転手は丁寧にも洞窟への行き方を案内してくれたが、颯太朗は話半分でバスを降りる。
空気は春らしく薄曇り。眩しい春の日差しが目に突き刺さった。
(鬼の洞窟は……標高186メートル、鷲ヶ峰の山頂近くにできた自然の洞窟……大正時代に発見されて、誰が作ったのかは未だに分かっていない……だったかな)
頭にたたき込んでおいた情報を思い返しながら、颯太朗は目を細める。
駐車場を抜ければ、その先が目的地の鬼の大洞窟だ。
呑気に地面をついばむ雀を見て、颯太朗はぎゅっと掌を握りしめた。
(中には100畳もある広い空間があって……かつては山賊が根城にしてたとも言われる洞窟。桃太郎の鬼伝説とからめて、ここが鬼ヶ島だったという伝説あり……)
そのあたりも、頭に入っているのだ。オニヒメのフィールドで戦うために、彼女の住むこの場所については徹底的に調べてきたのだから。
(どうせネットの記事とか、動画も画像も散々見てきたんだし。実際行くこともなかったんだけどさ)
ネットで何度も見た風景を歩き、洞窟の前にたどり着く……と、顔を上げて颯太朗は思わずひるんだ。
昼なお暗い洞窟の入り口にはしめ縄が垂れ下がり、壁には巨大な青鬼の人形が置かれている。
角が生え、牙をむき出しにした……コミカルな顔だが、人っ子一人いない洞窟の前でみるとどこか不気味だ。
それを見て、颯太朗の足が怯んだ。
ネットで見た時は、不気味な雰囲気なんて一つもなかった。よくあるちょっとした観光スポット。それくらいに見えた。
それなのに、いざ目の前にすると不思議と足が動かない。
(……なんで、歩けねえんだ。こんなの、ただの飾りだろ。どうせ次のバスまで時間があるし、見ていったほうがいい……)
自分の足を叱咤する。が動かない。
それは鬼という文字のせいだ。と、颯太朗は気がつく。
(鬼……崎)
颯太朗が怯んだことを察知したように、スマホが震える。
どきりと心臓が跳ね上がり、手でスマホを押さえた。
しかし。ぶ、ぶ、ぶ。という低い音は鳴り続ける……これはメールじゃない。電話だ。
その後一回震えたのは、留守番電話だろう。続いて颯太朗を責め立てるように短いバイブが数回。これはメール、それにSNSの通知音。
恐る恐る片目を閉じて、颯太朗はスマホを見る。と、通知欄がびっしりと埋まっていて思わずスマホを取り落とした。
いっそ割れてくれ……と期待したが、最近のスマホは頑丈なのか、地面の上で一回跳ねただけ。通知欄をギラギラと輝かせるだけだ。
スタッフらしき人が不思議そうにこちらを見てくるので、颯太朗は慌ててスマホを掴むと駐車場に駆け戻った。
もうバスはいない。
残っている車はスタッフのものだろう。誰もいない駐車場の隅っこに腰を下ろすと、そこに先客がいた。
(……猫だ)
それはでっぷりと太ったキジ猫だ。
鼻に傷を持つ固太りのその猫は、颯太朗に車止めを譲り、その隣にまたゆうゆうと座り直す。
そして洞窟のある方角をじっと見つめ続けた。
仕方なく颯太朗は彼……か彼女か、その猫の隣に座る。手にしたスマホはもう震えないが通知欄はそのままだ。
そこに書かれた名前は、鬼崎。
名前を見るだけで颯太朗の息が止まる。
留守番電話に吹き込まれた内容まではわからないが、SNSやメールの内容は一部が見える。
臆病者。バカ。お前の言うことなんて、誰も信じやしない……そんな罵倒の文字列が見える。
それを見て、颯太朗はきゅっと目を閉じた。
ネットでの口論のほうがずっといい。知っている人間の罵倒は、目で追うだけで声まで蘇るからだ。
まるで目の前で罵られている、そんな気がする。
(……オニヒメなら、どうしたかな)
颯太朗は通知を押さないように気をつけて、オニヒメのブログを開く。
彼女の理路整然としたコメントが目に入った。彼女との最後の言い合いは、騒音問題について、だ。
大声なんて出す必要はない。喉にだってよくないし、第一うるさい。大声を出すやつは馬鹿だ。
そういう颯太朗に対して、オニヒメは「人生には大声を出すべき時がある」と反論した。
そして、一度女木島に来てみるといい。と締めくくったのだ。お前にぴったりな場所があるぞ。と。
(……俺、聞きたかったのかも、しれない……本物の……オニヒメの言葉を)
にゃあ。と、足元から声が聞こえて颯太朗はぎょっと身体を逸らす。
気がつけば、先程の猫が颯太朗の足元で寝転がっていた。
しかし視線の先は洞窟のまま。その目は少し怯えているようにみえる。
「お前も洞窟、入れねえの?」
野良のくせによく太った猫だ。柔らかい腹毛を撫でてやると、猫はゴロゴロと心地よさそうに唸る。
「俺等、ダセえよな」
また震えるスマホを握りしめたまま、颯太朗は思わずそんな風に呟いていた。
「どうでした?」
喫茶ダニエルに戻った途端、瀬戸が待ち構えたように迎えに出てくる。
ここを通るバスの数が少ないので、行動が丸見えなのだろう。
「まあ……普通ですね」
洞窟が怖くて入れませんでした……なんて言えるはずもなく、颯太朗は誤魔化す。
幸い、ネット上では散々見てきたので、どんな質問が来ても応えられる……と構えたのに、瀬戸はそれ以上何も突っ込まなかった。
代わりに嬉しそうに颯太朗をカウンター席に案内する。
「まだ船まで時間があるので、ご飯、どうですか。美味しくできたんです」
その言葉に、颯太朗の胃が恥ずかしげもなく大きな音をたてた。瀬戸はますます笑顔になり、颯太朗の返答も聞かずに水を置く。
「あ……昼定食800円、なんですけど……実はお店、継いだばっかりで値段設定とかまだよく分かんなくて、えっと……高いならもう少し下げても」
まるで8万円の定食を案内するようなテンションで言われて、颯太朗は思わず吹き出していた。
客商売に、向いてなさすぎる。
「それでいいです。お願いします」
「よかった。じゃ、並べていきますね」
ほっと安堵したように、瀬戸が颯太朗の前に皿を並べはじめた。
それを見て、颯太朗の目が丸く見開かれる。
鼻の先に、出汁と醤油の香りが広がったのである。
「え……品数、多……」
並んだのは、小さな小皿が2つ。大きな丼、汁の揺れる木椀……どれもたっぷり料理が載っている。
瀬戸へ抱いていた警戒心がシュンと音をたてて引っ込んだ。代わりに顔を出したのは食欲だ。
そういえばここ数日、まともに食事も取れていない。久々の温かい食事を前に、喉が鳴って腹が音を立てる。
「たこめしと、煮魚。それとお吸い物。小鉢のは近所のおばちゃんから貰ったアラメの煮物と……これ、なんだったかな……あ、そうそう。醤油豆っていう空豆の佃煮みたいなやつ。たこめしって知ってます?」
「郷土料理で……たこをご飯に混ぜ込んだ、炊き込みご飯、ですよね」
「そう! よくご存知ですね。ちょうど今、タコの旬なんです」
知ってる。と言いかけて、颯太朗はまた口をつぐむ。
こうやって何でも言い返してしまいそうになるのは、颯太朗の癖だ。
きっと自分を守るためについた、駄目な癖。
「ブログ拝見したんですが、SOUさんはなかなかの……なんというか」
しかし瀬戸は颯太朗の態度も気にせず、またタブレットを引き出す。
ブログのコメント欄にずらりと自分のアイコンが並んでいるのを見て、颯太朗の食欲が少し減退する。
「書き方が毒吐きっていうんでしょ。知ってますよ。口が悪くて、ネット弁慶っていっつも叩かれてて……」
「そう。だから何かを吐く、でタコを連想して。たこめしにしたんです」
趣味わりいな。と言いかけて、颯太朗は慌てて口を押さえた。
「……毒吐きで、弱腰ってことっすね」
「まさか!」
瀬戸はこれまでにない表情で、拳を握る。
「タコってね、あんなヘニョヘニョしてるふうに見えて、強いんですよ。力も強いし、隠れるのもうまい。エサを取るときの擬態のすごさといったら……僕はね、タコを尊敬してるんです」
「で……でも墨吐いて逃げるだけじゃないですか」
突然の熱量に、颯太朗は思わず引く。が、彼は気にしないように言葉を続けた。
「あの墨には毒があります。海のギャングのウツボを追い払うくらいの、毒が。それで思い出したんです。蝶子さんが、すごく口の立つ友人がいるって言ってたんです」
友人。その言葉に、颯太朗の体が固まった。
「ゆう……」
「海の世界ならきっと、あの子はタコだと」
召しあがれ、の言葉が聞こえ、颯太朗は無意識のうちに箸を手に取る。
デコボコとした箸だ。これも蝶子……オニヒメが作ったものだという。
皿も半分以上、彼女が作った。
なんならこの喫茶店の設計から土台造りまで彼女の手によるものだ。と瀬戸が語り、颯太朗はひっくり返りそうになる。
そもそも、颯太朗はオニヒメのことを何も知らなかったのだ。それに気づいた瞬間、颯太朗の肩の力が抜けた。
「……俺、東京で設計会社の営業、してるんです」
一言、そう呟くだけで背中にどっと汗があふれる。
考え返してみれば、誰かに過去を語ることなど初めてのことだ。
ネットでどれだけ煽られても、身バレをするようなことは一言だって口にしなかった。
動悸を誤魔化すように、颯太朗はたこめしを一口、口に放りこむ。
……その途端、口の中にふんわりと磯の匂いが広がった。噛み締めるとタコの切り身が口の中でぐっと反発する。
ぴりっと刺激的な味はショウガだろうか。刻んだ大葉も混ぜ込まれていて、鼻に抜ける香りが心地いい。
ああ、まるでオニヒメのコメントのようだ。と、颯太朗は小さく息を吐き出した。
「んで……会社にめちゃくちゃパワハラしてくる……鬼……崎っていう上司がいて。社長のお気に入りで。セクハラも、パワハラも全部……すごくて」
瀬戸はなにも口を挟まない。ただカウンターの向こうに腰を下ろして、じっと耳を傾けている。
それが不思議と心地よく、颯太朗はぽつりと言葉を続けた。
「で。俺、社内メールで反論したこと、あって」
それは1年前のことだ。あまりにも後輩に対するセクハラ・パワハラがひどすぎて、社内全員が見るメールに、鬼崎の所業を書き連ねたのである。
その日偶然にも、鬼崎は出先の会議中。
反論はメールで返ってきた。
恐らく鬼崎は頭に血がのぼっていたのだろう。社内全員をCCにいれたまま、罵倒メールを送り返してきたのだ。
しかも会議中に書き込んだと思われるメールは、支離滅裂で穴だらけ。くわえて人格否定に、SNSなら一発でアカウント停止レベルのワードまで。
それはまさに、颯太朗にとって「エサにかかった魚」である。
いつもの鬼崎ならすぐさま電話での罵倒に切り替えただろうが、運悪くその日彼は一日中出先の会議。
会議の合間を縫うように、彼は罵詈雑言のメールを颯太朗に送り続けた。
メールでのバトルはゆうに数十回に及び、とうとう鬼崎を黙らせることに成功する。
おかげで、颯太朗は一躍会社のヒーローに躍り出たのである。
「まあ、それで……なんていうか……目をつけられたっていうか」
真の地獄は翌日からはじまった。
当然だ。相手はネットの誰かではない。会社の上司だ。当然、顔を突き合わせる。
それからは、颯太朗は彼の餌食になってしまった。
意地で耐えたのは三ヶ月。
そのうち諦めるだろうと期待したのも三ヶ月。
蛇みたいに執拗な攻撃は未だ止まらない。
仕事をわざと回さない。通りすがりに悪口を言う。私物を隠される、大事な会議の予定を隠される。
当然だが同僚や後輩も見て見ぬふりだ。しかし文句もいえない。おそらく、自分がその立場でもそうする。
「で……もう会社、やめようと思って、書類まとめてたら……俺、あいつのやってる横領の証拠、見つけちゃったんです」




