5
碧が亜由美を引っ張りこんだのは、屋島の駅から電車に乗って数駅。聞いたこともない駅だった。
降りればそこは薄暗い住宅街で、観光地からは程遠い。
不安を覚えた亜由美だが、そんな不安は長くは続かなかった。
碧が案内した小さな家には、瀬戸の顔が見えたからだ。
「やっほー、ただいまー!」
「おかえりなさい!」
そこは普通の一軒家に見える……が、中に入って驚いた。
リビングと思われる場所には足の踏み場もないほど、段ボールが積み上がっていたからだ。
床だけではない。壁にある棚の中にも、廊下にも……この調子だと、台所や風呂も荷物が詰まっているのではないか。
瀬戸は何か作業をしていたのか、額にタオルを巻き、暑そうに手で顔を仰いでいる。
そんな瀬戸を見つめ、碧が嬉しそうに胸を張った。
「ここね。オニッコさんの倉庫なんだよ~」
「倉庫?」
「そうなんです、女木島のほうはカフェなのですが……蝶子さんの荷物、置ききれないのはこっちに置いてまして」
蝶子とは確かオニッコ先生の本名だ。手紙を出す時に本名を何度も書いたので覚えている。
ということは遺品整理なのだろうか。少し切なくなる気持ちを抑え、亜由美はそっと室内を見渡す……そして、一角で目が奪われた。
「……あれ、もしかして、あれ……」
それは壁の一番いい場所に張られた、一枚の額縁。
亜由美は呆然とそれを見つめ、震える指先で瀬戸のシャツを掴む。
「あ、あ、あの。その壁の絵、見ても、いいですか」
それはオニッコ先生の絵だ。
タヌキ物語の二人が夕陽を眺めているイラスト。
場所は先ほど見てきた展望台だ。2人の手には瓦が握られている。
瓦の枚数は2枚。残り3枚は投げ終わったのだろうか。きっと輪っかを通ったのだろう。それは幸せそうな二人の顔からして分かる。
「す、すごい……すごい……一枚だけなのに物語が、ある……すごい……」
思わず壁に駆け寄った亜由美を見ても、二人は何もいわない。
だからそれに甘えて、亜由美はただじっと絵を見つめた。
「そういや瀬戸ちゃん、私服が瀬戸ちゃんのこと聞いてきたよ……悪いことしてたりして」
「えっ? 私服って……あの、どんな」
「まじで動揺してんの、うけるんですけど……あれ、もしかしてワルイコトしてた?」
後ろでは碧が瀬戸をいじる様子が聞こえてくる。
「いえ、そんなことは……あの、すこしだけ、ちょっと警察に事情聞かれることがあったり、したので」
「え、まじ?」
「あ、あの、数ヶ月前に、泥棒……泥棒捕まえたことがあって……」
瀬戸の声は必死だ。やがて彼はわざとらしい咳払いをして、亜由美の横に立った。
「それはともかく。ね。亜由美さん」
そして大人のような顔で亜由美を見つめるのだ。
「時間も時間なので、そろそろ帰る支度をしたほうがいいですよ。高松駅まで見送りにいきますし、何なら岡山くらいまでなら……」
「瀬戸さん」
横に立っても、やはり瀬戸には圧迫感がない。きっとそれは視線が優しいからだ。
今から告げることは、その優しさにつけこむようなことかもしれない。
亜由美の中に、ちくちくと罪悪感が芽生える。
唇がカサカサになって喉もガラガラだ。
それでも今から口にする言葉以外、亜由美は用意してきていない。
「……喫茶店で雇って貰えないですか」
一息で、亜由美は言った。それだけで心臓がバクバクと鳴り響く。
それでも言ってしまった言葉は取り消せない。
勇気を出して、亜由美は顔を上げる。
「本当はオニッコ先生にお願いするつもりで、きました。雇ってください……給料はいらないです。住まわせてくれたら、それで……もう少しおとなになってちゃんと働けるようになったら、でていきます。だから」
「あなた、中学生ですよね」
「……追い出された狐は、どこにもいけないんです」
立ち尽くす亜由美の横に、瀬戸が小さな椅子を置いてくれた。恐る恐る座ると、続いて彼は亜由美の掌に小さな砂糖菓子を載せる。
「和三盆っていう讃岐のお砂糖菓子です。そっと噛んで食べてみてください。心のモヤモヤが溶けていくから」
キャンディみたいに紙にくるまれた小さなお菓子だ。取り出せばラムネのようなざらりとした見た目をしている。
そっと歯で挟み、噛む……と、口の中でほろりと崩れて亜由美は驚いた。
「砂糖だけの……お菓子?」
ただ、ただ甘い。しかしそれは嫌な甘さではない。柔らかい甘さが口のなかいっぱいに広がる。とろりと、柔らかい甘さだ。
その甘さは亜由美の口を軽くした。
「中学1年の夏から……いじめられて……その時、オニッコ先生の同人誌に出会ったんです」
亜由美は思い出す。本の衝撃。感動。
最初は作品に対する感想を言い合うだけの文通だった。
しかし、やがて小さな悩みを手紙に書き綴るようになる。
口では言えないけれど手紙なら不思議とスラスラと書けた。
いじめられていること。叔母さんと折り合いが悪いこと。病気の母には相談できないこと……。
「そしたら、これ」
亜由美はポケットから小さなカードを出す。
それはキャラクターの書かれた500円の図書カードだ。
「私が文通でイラストを送ったんですけど、それの代金だって」
最初にカードが同封されていた時、亜由美は動揺した。
偉大な先生に気を使わせてしまった。という動揺だ。送り返したが、また次は倍になって返ってきた。
「いらないって言ったんですけど、毎回送ってくれて。絵の代金なんだから、恥じることじゃないって。それでいつか本当に辛いことがあったとき、これを換金すれば女木島までの交通費の足しになるからって」
薄っぺらいこのカードは、やがて亜由美の生きる力になった。
いじめられても、叔母さんに嫌味をいわれても。
引き出しの奥深く、二重扉のそこにはオニッコ先生へ繋がるものがある。
それだけで、耐えられた。
「……でも、昨日」
しかし、そんな亜由美の心は昨日、ぽきりと折れることになる。
「追い出されたんです」
学校が終わりいつも通り帰宅したが、家には入れなかった。
鍵がかかっていたのだ。
チャイムを押してもドアを叩いても、誰も出てくれない。
その日の朝、洗い物をし忘れていた。きっとその意趣返しだ。
何度もドアの取っ手を引っ張り、叩きチャイムを鳴らす。ごめんなさい、ごめんなさい、謝る声だけが暗くなる空気に響いた。
そして思い出したのだ。亜由美は、この家の鍵さえ渡されていないことを。
どんどんと暮れる空気の中で感じたのは、恐怖よりも情けなさだ。
何が原因なのか、どんなに考えてもわからない。理由があるとすれば、この性格のせいか。
仕方なく亜由美は自室の窓をこじ開けて、息を潜めて忍び込んだ。
リビングからはテレビの音が聞こえる。叔母は在宅しているようだ。
叔父もいるのかもしれない。窓を開ける音で亜由美の帰宅は分かっているはずだ。
リビングに行き、叔母さんに文句を言えばいい。年齢らしい我が儘で、泣いて喚いて怒ればいい。
しかし、そんな勇気は無かった。
だから亜由美は机の中に溜め込んでいた図書カードを掴んだのだ。
「……悪い狐だから、きっと追い出されたんです」
四国から追い出された狐は、どこに消えたのだろう。助けてくれる人もいない狐は、どうすればいいのだろう。
「だから片道分しか、お金がないんです」
「ね。瀬戸っち。釜揚げうどんをさっきメールでお願いしたけど、いける? 屋島の名物らしくて食べたかったけど時間なくてさ」
突然、碧が声をあげる。
「足りないものあれば買ってくるし。作ってよ」
「あ、そうだ。もう準備できてたんです。お待ちください」
亜由美の言葉に耳を傾けていた瀬戸も驚いたように顔を上げた。そして彼は急いで台所へ駆けていく。
そのシャツを捕まえようと手を伸ばせば、碧が亜由美の動きを止めた。
「先、ご飯だよ」
「……先に私への答え、聞きたい」
「まあまあ。お腹空いてるとピリピリするでしょ。全部は食べてからだよ。ほらほら、テーブルと椅子も用意すっからさ」
碧ははしゃぐように床の荷物をよけて机を引き寄せ、椅子を用意する。
その椅子の数は、1つ、2つ、3つ……そして4つ。
4個目の椅子を見て、亜由美は眉を寄せた。
「なんで4つも……」
「ね。お母さんも一緒にさ」
碧の言葉に、亜由美ははっと息を呑んだ。
心臓がひっくり返るようにどきりと跳ね上がり、こわごわと振り返る。
……入り口に、懐かしい顔がある。
「え……おかあ……」
それは今年の正月に病院で会った……母だ。
「お母さん……?」
病気は回復傾向にあると言っていたが、まだまだ細くて顔色も悪かった。
その時に見た母よりも、今の方がずっとずっと憔悴して見えた。
「あ、の……えっと、なんで……おかあ……さんが」
母は真っ青な顔で亜由美に近づくと、頬をそっと撫でる。
冷たい手だった。
お母さんは亜由美に触れたまま、碧に頭を下げる。碧は全部分かった顔をして、笑顔を浮かべた。
「まあまあ、お母さん。ここ座ってよ……あ、アユアユ。心配しないでね。ちゃんと病院の許可? は取ってるみたいだし、表には病院のスタッフがいるらしいから。ね、瀬戸っち」
「そうです。すみません。無理やり呼び出しちゃって…あの、亜由美さん。ネタバラシをしますとね」
呆然と立ち尽くす亜由美の前に、瀬戸が顔を出す。
彼はフリルで彩られた箱を一つ、持っている。その中を亜由美に見せた。
そこに納められているのは、複数の封筒だ。
送り主は、亜由美の名前。そして住所……。
「あなたのお名前を聞いてもピンとこなくて、倉庫にあるんじゃないかなって、探したんです。そしたら、ここにあなたとの手紙の箱があって。この住所で知り合いの方に、色々と調べてもらいました。それでお母様に連絡を……碧さんには時間稼ぎをお願いして、その間にお母様を呼んだわけです」
「瀬戸っち~?」
碧につねられ、瀬戸は慌てて首を振る。
「あっ! もちろん、合法ですからね!……おっと、危ない。うどん、うどん」
そしてごまかすように彼はキッチンへと駆け戻っていく。やがて戻って来た彼の手には大きなたらいが掴まれていた。
「まあまあ。まずは食べましょう。熱いうちに」
机の真ん中に置かれた大きなたらい。
昔話でしか見たことのないような木のたらいの中にはお湯がたっぷり張られていて、その中にうどんが泳いでいた。
瀬戸は一人ひとりの前にそば猪口のような陶器の器を配る。そこには黒いつゆが揺れていて、たっぷりのネギと生姜が添えられていた。
「これにつけて食べるんです。蕎麦みたいに」
「釜揚げって茹でうどん?」
「茹でて水に締めず、上げてすぐに食べるから。だから本当に出来たてのうどん、なんです」
「へえ。うどんの刺身みたいなもんか」
碧も瀬戸も席についた。
呆然と立ち尽くすのは亜由美と母だけだ。
瀬戸が母をゆっくりと椅子へと座らせ、碧が亜由美の手をとり椅子に案内する。
「だから出来立てすぐと、食べすすめていく間で食感が変わっていくから、面白いですよ。でも熱いから気をつけて」
「熱いね」
ぽつりと、母が呟いた。
まるで尖ったナイフのようになった母の横顔には、深い悲しみが浮かんで見える。
当然だ。元気に毎日を過ごしていると思っていた娘が……いじめられて追い詰められていたなんて。
「違う、の。お母さん、私」
平気だよ。嘘だよ。オニッコ先生に会いに来たくて、それでサボっただけで、全部全部嘘なんだよ。
学校では友達も多くて、叔母さんや叔父さんにもよくしてもらって、大好きなハンバーグを作ってくれて、それで……。
年に数回会う時、すらすらと言える嘘が今は口からでてこない。
代わりに、噛みしめた唇の横に涙がはらはらと落ちていった。
「お母さん……」
「亜由美、ほら」
気がつけば、母がうどんを箸で持ち上げている。
てらてらと輝く白い麺を、つゆにつけて持ち上げる。
ネギと生姜をまとったその麺に、母はそっと息を吹きかけた。
その尖った口先や、箸をつかむ母の指先を見て亜由美は目を丸くする。
(ああ、また思い出した……)
それは幼い頃に母と来た香川旅行。
あの日も確か、母は幼い亜由美にうどんを食べさせるため、細い息を吹きかけてくれた。亜由美は猫舌なのだ。
あの日も、あの日以降も、今も、未来も。
きっと母は、どんなときでも、どんなことがあっても……うどんに息を吹きかけてくれるはずだ。
それは、彼女が亜由美の母親だから。
「生姜がきつすぎる……」
ぼろりとこぼれ落ちた涙を拭い、亜由美はわざとらしく大きな口でうどんを噛みしめる。
「だから、涙が出てきただけです」
はじめて食べた釜揚げうどんは、涙でしょっぱい味がした。




