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「……あ」
瓦投げのあと、会話もなく二人並んで展望台のベンチに座る。
そして10分、20分、30分……気づけば足元がふんわり赤色に染まって、亜由美は顔を上げる。
「わ……」
そして言葉を失った。
「……夕陽」
ちょうど夕陽が沈みはじめていたのだ。
今、亜由美が住んでいる叔母の家は、家と家が密集する住宅地の一角である。
かつて母と暮らしていた頃も、アパートの1階だった。
だから夕陽をじっくり見た記憶はない。思い入れもない。
……しかし今、目の前にある夕陽は恐ろしいほどに美しかった。
(ゆらゆらしてる……海の上も、町も……)
高台から見る夕陽はこんなにも美しいのだ。思わず立ち上がり、展望台の手すりを掴む。
まるで柿の実みたいなオレンジ色の丸い球体が歪みながら、落ちていく。
光は溢れて、瀬戸内の海を輝かせる。島の影が長く伸びて、揺れている。
町も空も何もかも、美しい色に染まっていく。
しかし空の上の方はうっすらと紺の色。
夜はじわじわと、迫ってきている。それに抗うように、夕陽はますます光を放つのだ。
(……この色、知ってる)
呆然と、亜由美は目前を見つめた。
そうだ。この夕陽を亜由美は知っている。
(昔、お母さんと……マリンライナーに乗ったとき……)
ずっと昔、母と一度だけ足を踏み入れた香川県。帰りのマリンライナーからは夕陽が見えた。
あの時飲んでいたリンゴジュースの味を思い出し、亜由美は思わず手すりを強く掴む。
「あそこ女木島だって」
碧が亜由美の背を叩いた。彼女は展望台に置かれた看板を見たのだろう。
それにはここから見える島の名前を記載している。
彼女が指さしたのは、海に浮かぶ長細い島。
ぼんやりと夕陽に照らされる島を見て、亜由美は目を丸めた。
「……あれが女木島?」
女木島は喫茶ダニエルのある島だ。あそこから船で高松市に戻り、さらに電車に乗り、バスに乗り継ぎここにきた。
ひどく遠くに来たように思えたのに、高台から見ると手に届きそうなほど近くに見える。
ぼんやりと柔らかく波の間に揺れる女木島は、とても優しい島だ。
優しいと感じたのは、店主である瀬戸のおかげでもあるだろう。
身長は見上げるほどに高く、それだけで萎縮してしまった。
しかしそれに気づいた瀬戸は、大急ぎで腰をかがめ視線を合わせてくれたのだ。
笑顔は柔らかく声はゆったりと、葉っぱが風にそよぐように優しかった。
「瀬戸さん……って何か不思議な人でした」
「ONIの大ファンなんだよ、あいつ」
亜由美の言葉に碧が笑う。
「私ONIと戦うつもりで島まで乗り込んだのに。瀬戸っちのせいで、全部馬鹿らしくなっちゃった」
「気を使ってくれるし、私、男の人が怖いんですけど、瀬戸さんは怖くなくて」
「わかる。あいつ男っぽさがないもん。あんな身長でけえのに。でもやるときはやるらしくって、この間は泥棒まで捕まえたってさ」
「真面目……そうですもんね」
瀬戸の生真面目そうな笑顔を亜由美は思い出す。
突然現れた中学生を見ても、疑う素振りもしなかった。
オニッコ先生が亡くなったと伝える時、腰をおろしてまっすぐに亜由美を見てくれた。
亜由美も真面目だと皆からいわれる……嫌味を込めて。
人から好かれる真面目と、きらわれる真面目。どこにその違いがあるというのだろう。
「アユアユ、お腹空かない? 美味しいうどん屋さんが近くにあるらしくって、そこ行こうと思ったんだけど」
「……町に……戻りたいです」
きれいな夕陽がゆっくりと沈むごとに、亜由美の気持ちも少しずつ落ちていく。それを察したように、碧が亜由美の背を叩いた。
「そっか。水族館も含めて、それはまた今度だね」
「君たち」
碧が自然に亜由美の手を握りしめた……その時。
「ちょっといいかな」
急に後ろから声が響き、亜由美と碧の肩がびくりと震えた。
その声があまりにも力強く、恐ろしく響いたからだ。
恐る恐る振り返ると、薄暗くなってきた展望台に一人の男が立っている。
それはスーツ姿の体格がいい男性だ。もう髪の毛は白いものが混じり、顔にはしわがある。
そして、その眼光が人を貫くほどに恐ろしい。
「やべ、こいつ私服だよ」
「……シフク?」
「私服のポリ」
碧はぼそぼそと、亜由美に囁く。捕まる覚えでもあるのか、それともそもそも警察が嫌いなのか。
碧は亜由美を背に隠して、男にまっすぐ睨みつける。
「あ……あたし、弁護士知ってんだからね! 話なら弁護士に聞いて! 関口っていう人!」
それは却って疑いを深くするのではないか。と亜由美はおろおろとしてしまう。
ただ真正面から見るのも恐ろしく、情けないけれど碧の背に隠れてこっそりと男の顔を盗み見た。
この男、補導員にしてはいかつすぎる。
交番にいる警察官よりも顔が怖い。
もし彼が碧の言う通りの警察官なら、もっと上の……ヤクザを相手にする警察官なのではないだろうか。
そんなことを考えて、亜由美は思わず碧の手を握りしめていた。
「み……碧さん、逃げましょう……」
しかし男は一向に気にする様子もなく、じりりと一歩迫ってくる。
「……いや、君たちさっき瀬戸って話をしていたようだけどそれは、瀬戸健のことか?」
意外な人物の名前が出て、亜由美と碧は顔を見合わせた。
その言葉は不信感を産むだけだ。「逃げるよ」と、碧が亜由美に囁く。亜由美は無意識に彼女の手を強く握りしめていた。
やはり慣れた靴を履いてきてよかった。学校指定のローファーは、一番足に馴染んでいる。
「君たち、もし瀬戸を知ってたら」
「……知ってても言うわけないじゃん、サツなんかに!」
ばーか。と、まるで子どものような碧の声だけが屋島山上に響き渡った。
こんなにも必死に駆けたのは、恐らく人生ではじめてだ。
碧の手に引っ張られ、まるで転がるようにバス停へ。
山上から屋島駅をつなげるバスはちょうど出発直前だったようで、亜由美たちを招き入れてくれた。
追いかけてくるな。追いかけてくるな。と祈りながらバスに乗り込むと、すぐさま扉が閉まり、左右に揺れながら動き始める。
二人は人のいない一番後ろの長椅子に滑り込むと、身を隠すように小さくなる。
進み始めたバスの向こうに刑事の姿がうっすらと見えて、亜由美は長いため息をついた。
「お……思わず逃げ出しちゃいましたけど、もしかして瀬戸さんの居場所を聞きたかっただけじゃ……なにか、賞を貰うとか」
「ああ、確かに詐欺を見抜いて賞状とか? 瀬戸っちなら、あり得るかも」
今更汗がどっと溢れ、息が乱れる。そんな亜由美の背を碧が優しく撫でた。
「でもさ。アユアユは見つかりたくないでしょ」
「私は……」
「ちょっとごめんね」
碧は突然、亜由美の右腕を掴む。
そして碧は無理やり亜由美の右袖をまくりあげ、腕を見つめた。
驚いて避ける間もない。そもそも二人はぎゅっと密着するように座っているのだ。
せめて碧の右側に座るべきだった……と、今更亜由美は後悔する。
「誰にされた?」
そこには、青くなった打ち身の跡がある……周囲は黄色くなり、中央は青い。
黄色の部分は直りかけているアカシだというけれど、そこにもう一度傷がつくので、もう何週間も治りかけては復活する、の繰り返し。
「転……」
「転んだって言い訳、あたし信じないからね」
碧の目は大きい。その大きな目に見つめられると、逃げようがない。仕方なく、亜由美は口を開いた。
「……クラスメイトに」
イジメのようなものがはじまったのは、1年くらい前からだ。
勉強ができるわけでもなく体育が得意なわけでもない。ギャルでもなく、オタクとしても中途半端。
(……それだけじゃない)
と、亜由美は思う。
亜由美の性格が駄目なのだ。と、自分でも分かっている。ぐじぐじと考えこむくせに何も言えない。
殴られてもつねられても。何もいわず何もないように、振る舞った。
そのせいで、イジメは加速した。
「お母さんは?」
「病気で入院してるから」
亜由美は笑おうとして、失敗する。心がぐらぐらと動いて、平気なフリが、もうできない。
「3年前に……病気で入院して、だから心配なんてかけさせちゃ……いけなくて」
うん。と、碧がゆっくりと頷く。そして彼女は亜由美の手を握りしめた。その手をそっと、彼女のお腹の上に置く。
大きなお腹は驚くほど熱くて固くて、亜由美は思わず目を丸めた。
「……多分さ、あたし。この子がアユアユと同じ目にあったら悲しい。どんなときでも頼ってほしいし、言ってほしいと思うよ……例えば、あたしが死にかけてる時でもさ」
碧は亜由美の腕を撫でながら、呟く。
「でもさ。言えないって気持ちも分かるんだ。娘だったこともあるから。うちもお母さん、身体が弱かったし」
碧の柔らかい髪の毛が亜由美の顔に触れた。
抱きしめられている、と気づいた瞬間。亜由美の中に溢れたのは嫌悪感ではなかった。
胸がぎゅっと潰されるような、泣きそうな。そんな初めての気持ちがあふれる。言葉が出ず、喉が震える。
「ね、アユアユ。していい我慢と、しなくていい我慢があると思うよ……だから今回、島に逃げてきたのはだいせーかい。アユアユ、偉い」
「なんで……そんなよくしてくれるんですか」
「んー。あたしのため」
碧は亜由美を見つめて笑う。
「あたし、妹がいるんだ。めっちゃ出来た妹ね。あたし中高とグレてて、小さい頃の妹のこと、構ってあげられなかったんだ。今でも迷惑かけっぱなしだけど。あの子、あたしのこといつも助けてくれるんだ」
気がつけばバスはもう山道を下り終えた。まもなく、まっすぐの坂道の向こうに、可愛らしい屋島の駅舎が見えるはず。
「瀬戸っちもね。はじめて会ったのにあたしのこと、助けてくれた。ONIのダンスも、あたしの支えになってた。だからあたし、誰か困ってる人がいたら助けようってそう思ってたんだ……おっと?」
ふと、碧は手元のスマホをちらりと覗き込んだ。何か連絡が来たのだろう。
彼女はそれを器用に操作したあと、いたずらっ子のような顔で亜由美を引っ張る。
「ね。あたしと、いー所、いかない?」
バスのアナウンスはちょうど、バスの到着を告げていた。




