6
奇跡とは起きるものなのだ。と、梨花は眩しい瀬戸内の輝きを見つめながら、そう思う。
「魚福特製、いりこスパイシーカレーですよー」
暑い空気の中、瀬戸の呑気な声が響いた。
瀬戸の声の大きさのせいだろうか。それとも夏の暑さを貫くほどに広がるスパイシーカレーのせいだろうか。
魚福のキッチンカーの周りには、始まりからずっとお客さんが絶えない。
日が落ち始めてから、さらに客が増えたようで、時に行列ができることもあった。
「カレーと相性抜群なのは、喫茶ダニエルの特製アイスコーヒーですよ~そっちもあわせてどうぞ! アイスコーヒー買われた方はこっちのコーヒーもどうぞ!」
……と、瀬戸は自分のキッチンカーの案内も忘れない。
斜め前に設置されたダニエルのキッチンカーでは、瀬戸に店を押し付けられた関口が顔色を変えながらコーヒーを仕込んでいた。
「せ……瀬戸さん。あの、あんまり、呼び込みすると、提供が……」
「何言ってるんです。なんでも勢いですよ! この波に乗っておかないと!」
魚料理のない魚福キッチンカーには、そんなに人も来ないだろう。そう後ろ向きに考えていた梨花は目を白黒させてカレーを注ぎ続ける羽目になる。
「梨花ちゃん、来たよぅ」
……来るのは新規の客ばかりではない。
常連のお婆さん、奥さん、息子さん。
いつも祖母の料理に舌鼓を打つ彼らを見て、梨花の心にきゅっと掴まれたような痛みが走る。
「聞いたよぉ、大変やったってねえ。ごめんね、手伝いにいけんで」
「……ごめんなさい、料理、いつものお婆ちゃんの味じゃなくて」
「何言よるの。うまいって聞いたけん楽しみにしてきたんよ」
熱々のトレーを受け取ったお婆さんたちは、まるで女子学生のようにはしゃぎながら、近くのベンチに移動する。
気がつけば空は薄暗く、まもなく花火が上がる。
この港エリアは花火が近くで見られることもあり、日が傾くにつれて人口密度が増えていた。
そして、店の前にも。
「何でこんなにお客さんが来るのか分かりましたよ、香西さん!」
客をさばきながら、瀬戸が大声をあげた。彼はスマートフォンをいじると、それを梨花に見せつける。
『こんちはーSOUです! 僕はいま、高松まつりにきてます~。食べ歩いて気に入ったやつどんどん紹介するからね』
そこに写っていたのは、茶髪にピアスといういかにも軽薄そうな男性だ。
動画サイトのライブ動画だったのか、いくつも画面にコメントが飛び交っている。
背景は高松祭の賑わい。まだ日が高い映像なので、数時間前だろうか。
「え、これが何……」
『すげえ人気らしいキッチンカーのカレー買ってきてみました』
瀬戸が早送りをした瞬間、見慣れたカレーが映し出されて梨花は息を呑む……それは、魚福のいりこ飯カレーだった。
男は目を輝かせて、そのカレーを画面いっぱいに映し出す。
『みてみて! 煮干し? いりこのご飯にスパイスカレーなんだって。珍しくない?……わ、うま! これ、めっちゃうまいわ。いりこ飯は甘いんだけどカレーがめちゃくちゃスパイス効いてる!』
「この人、SOUさんっていう、蝶子さん……鬼姫の知り合いの方なんですけど……え、なんで僕のこと無視して……」
がっくりと肩を落としたあと、瀬戸は苦笑して動画を消した。
動画から目を離して、キッチンカーの外を見ると、すっかり暗くなったその場所にはまだ十数人が行列している。
「まあ、この人が派手に紹介してくれたらしく……それで夕方くらいからご新規のお客さんが山盛りきたんですね」
軽薄そうに見えたが、あの男のファンは多いのだろうか。
確かに並ぶお客さんは動画の男性と年齢が近い女性が多い。しかしその中には、祖母の定食しか食べないと豪語している常連のお爺さんの姿も見える。
思わず怯えた梨花の背を、瀬戸が優しく押した。
「香西さん、まだ召し上がってないですよね。お友だちが店番代わってくれるみたいなんで、その間にどうぞ。それで一つお願いがあるんですが……」
瀬戸のお願いは簡単なことだった。写真を一枚、撮らせてほしい。それだけだ。
それだけが鬼姫……蝶子の遺言だったという。
(……結局、鬼姫と瀬戸さんの関係はわからないままだったけど)
梨花は器に盛られたいりこ飯カレーを受け取り、キッチンカーの隅に腰をおろす。
目の前の台に置かれているのは、湯気を上げるカレー。特製のスパイスをたっぷり使い、爽やかな辛さを目指した。
いりこ飯には、先日の鬼姫レシピから拝借し、実山椒もくわえてみた。そのおかげで夏向きの爽やかな香りがする。
(鬼姫のレシピでキッチンカー出した、なんで知られたら……さすがにお婆ちゃんも怒るかな)
手を合わせスプーンをつかみ……そして一口。
味見はしたけれど、本格的に食べるのははじめてだ。
「……あ、美味しい」
思わず、言葉が漏れる。それは自然に漏れた言葉だ。
いりこ飯は甘辛く、固いのではと疑っていたいりこも柔らかく苦みも少ない。
この甘さが、スパイシーなカレーによく馴染む。じわりと浮いた汗を拭い、梨花はふうふう息を吹きかけ、もう一口。
「美味しいなあ……」
呟くと鼻から、口から、爽やかな香りが抜ける。それと同時の肩の力も抜ける……そうだ。梨花は初めてスパイス料理を食べた時、同じように感じたのだ。
この感覚を、皆にも味わってほしい。そう思い、夢を抱いたのだ。
「……ッ」
カシャン。とシャッター音が聞こえ、梨花は慌てて顔をあげる。気づけば瀬戸がいたずらっ子のような顔でスマートフォンを向けていた。
「い、今撮るって聞いてない……」
「すみません、いい表情だったので」
くすくすと笑いながら、瀬戸も自分の器にカレーをよそう。飲食店の経験者なので、立ったまま食べるのもお手の物なのだろう。
大きな口で噛み締めて、彼はため息をつく。
「ここで終わらせるのは勿体ない味ですよね。香西さんがお店を新しくすればいいじゃないですか。得意のスパイシーカレー。お祖母様のレシピを借りて、アレンジしたり……」
「それは」
「常連が許すはずがない……って言いたい顔ですね」
瀬戸はキッチンカーの外を指す。
まだ客足は途絶えない。ただ、カレーを受け取った人たちは近くのベンチで味わっているようだ。
そんな賑わうベンチに、常連のお爺さんの顔が見えて梨花は固まる。
……きっと怒ってる。もしかすると食べ残してるかもしれない。打ち捨てられるかもしれない。
「誰がそんなことを言いました?」
瀬戸の言葉に梨花は恐る恐る目を凝らす。
そこに見えたのは夢中でカレーを食べる、お爺さんの顔だ。
常連のお婆さんたちは、2回おかわりした。と、瀬戸は梨花の顔を覗き込む。
「香西さんの夢は、叶いますよ。少しだけ、形は違うかもしれないですけど」
そろそろ花火があがるのだろう。間延びしたようなアナウンスとともに祭りのテーマソングが流れ始める。
カレーを手にする人も、カレーの提供を待つ人も、皆がそろって港の方面を振り返った。
瀬戸も眩しそうに港を見る。その横顔は少し幼く見えた。
ヒーローになりたいと、願う少年の顔が見えた気がする。
「……瀬戸さんの夢は叶ったの?」
「ええ、蝶子さんのおかげで」
瀬戸は力強い顔で笑った。
ああ、自分もいつかこんな表情をしたい。梨花は掌をぐっと握りしめる。
「私も……いつか、そう言えるようになりたい」
「なれますよ。何と言っても、伝統の味と新しい味のミックスなんですから」
瀬戸がそう言った瞬間、綺麗な花火の色が広がり人々の歓声が上がる。
それまるで、梨花の前途を照らす光のように空一面に美しい花を開かせた。




