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公爵の婚約者

一ヶ月ほどあとの話です。

本編に比べるとだいぶ長くなってます。





王家からオスカーの臣籍降下と爵位叙勲、魔導騎士団の司令としての就任が発表されて早ひと月。

世間としてはそれによってオスカーの社交界復帰は当然のこととして認識されている。

そうすれば避けられないのは夜会やお茶会の類で、それもあからさまに娘の売り込みの見え透いたお誘いばかりが持ち込まれるようになっていた。


「めんどくさい・・・」


この一か月は本当に忙しすぎて執務以外のことに手が付かないという実際の理由で逃げていたが、落ち着いてしまってはそうもいかない。

かといって断る理由を全てにつけるのは、もしかすると執務以上の難題なのかもしれない。


「では私の方で理由をつけてやろうか?」

「・・・兄上。そうしてもらえればありがたいものですが」


人の出入りが激しすぎて開けっ放しとなっている扉を律義にもノックしながら入ってきたのはオスカーの兄ウィリアムでこの国で最も位の高い人物だった。

そのウィリアムが作る理由なら誰も異を唱えることはできない。

だからありがたいとは思うが、普段の言動を見ると素直に受け入れることはできないのだ。


「気構えるなよ。簡単なことだ、婚約者を発表すればいい」

「・・・兄上、何言ってるかわかってます?」

「なんだ、いいじゃないか別に。この間晴れてプロポーズを受け入れてもらえていただろ?」

「なっん、なんで!?」


兄の口からでたことに驚いて思わず勢いよく立ち上がってしまった。

たしかにウィリアムの言う通り、先日長年思いを寄せていたスピカへ想いを告げたオスカーはそれを受け入れてもらっていた。

しかしそれはまだ誰にも言っていないことのはずなのだ。

そう思いながらもう一度どうしてと問いかけた先の兄はその様子を見ておかしそうに笑っている。


「カマかけたな?」

「その前に自分が浮かれてるって気が付け」


あきれたような言葉にようやく自分がはた目からもわかりやすく浮かれていることに気が付いたオスカーはそのまま萎んだように椅子に座りなおした。

婚約を発表すること自体はオスカーも賛成するところだが、いかんせん相手が相手だった。

オスカーと同じだけ、スピカも社交界から遠い位置にいたのだ。

しかも彼女は最初で最後のお茶会を最悪の形で経験している。

その陰湿さは大人になった今でも変わらないしむしろ悪化しているだろう。

そんな場に引っ張り出すことは気が引けるのだ。


「でも、そうすればスピカを社交界に出さなきゃいけなくなるだろう?」

「まあ確かにな。それでもお前の求婚を受け入れたんだ。遅かれ早かれそういうことになるというのは彼女もわかっているだろう」


彼女は賢い。

それも普通の賢さではなく、これまでの歴代の魔女の知恵や経験をほぼ全て受け継いでいるようで、正真正銘の生き字引ともいえる。

魔女自身は何となくで受け答えしているようだが、その都度その件に対して最も適した知恵を授けてくれる。

それもあって王家は魔女を重宝するのだ。

そんな彼女だからこそ貴族、それも王弟にして現在爵位の頂点ともいえる公爵の位を手にした男の求婚を何も考えずに受け入れたわけではないだろう。


だとすれば、結婚するということがどういうことなのかくらいはわかっているだろうとウィリアムは主張した。

それでも煮え切らない様子のオスカーだったが、たたき出されるように訪れたスピカの屋敷であっさりと了承されたことで今度は呆気に取られてしまう。


「別に、社交を避けていたのは不特定多数との関わりが面倒だったというだけで、引きこもり令嬢とか魔女だからとか理由をつけられたからこそこれ幸いと断っていただけですもの」

「でも、不特定多数と関わりあうことには変わらないよ?」

「魔女に必要ないから面倒だっただけですわ。でも、公爵夫人には必要でしょう?」


そうあっけらかんと言い放ったスピカが流れるようにオスカーに紅茶を勧めてくるので思わず受け取ったが、その言葉をよくよくかみ砕いてみるととんでもない威力を持っていた。

生来、魔女の特質ともいえるほどのマイペースさを持つ彼女は自分の意にそぐわぬ面倒ごとを嫌うのだ。

さらにいえば幼少期とはいえ社交での殺伐とした空気に晒されて気分を害したこともあり、元凶が居なくなったとはいえ本来ならばそんなところには二度と近寄りたくないことだろう。


もちろん普通の貴族女性はそんなことは許されないことかもしれないが、彼女の立場上大抵のことは免除される。

何故ならば王家は魔女シルヴィアの暮らしが何不自由なくおくれるように務めることを約束しているのだから、魔女が煩わしいと感じれば貴族女性らしい生活を放棄することもできるのだ。

それでもスピカはしっかりとオスカーの妻、アルデバラン公爵夫人となることの意味を真剣に考えて、それに必要なこととして社交界に戻ることを当然のこととして受け止めてくれている。


「ぁ、愛されてるね・・・俺」

「今更ですわね」


途端にそのことに気が付いて恥ずかしくなってはにかんだオスカーにスピカも少し頬を染めながら微笑んだ。


そうと決まれば早速オスカーがウィリアムへ報告すれば待ってましたとばかりに即時に発表がなされた。

その速さにはさすがのオスカーたちも若干引いたのだが、ウィリアムの「ようやく義妹になる!」という言葉にだいたいの心境は察することができてしまった。

苦節18年、互いに初恋を拗らせに拗らせた二人を一番近くでずっと見守ってきた彼にとってもその思いは一入なのだろう。

どことなく申し訳なくなってしまった二人はついでとばかりにいくつかのお祝いの品が送られてきたのを甘んじて受け取るしかなかった。




そんな微笑ましい王家のやり取りとは反して、国民、特に妙齢の貴族令嬢とその親は阿鼻叫喚となった。

長年表舞台から退いていた王弟を何も知らない一部の愚か者は彼のことをお荷物だとか引きこもりだと揶揄していた。

それが実際公衆の面前に立てばどうだ。

国王に引けを取らぬ見目、その才も国王自らが懐刀と称すほどであり、諸大臣もそれを認めているほどの実力で王族たる威厳もちゃんと持ち合わせている。


返り咲いたと同時に臣籍降下して公爵となったが、突如として沸いた優良物件に目を血走らせたのは令嬢も同じ。

オスカーはこの時32歳を迎えていたが貴族の結婚に年の差など関係はないようで、日々オスカーへ送られてくる釣書の中には10代のうら若き乙女まで入っていた。

そうして手のひらを返した愚者が必死に繋がりを作ろうとしていたところの発表なのだからみんな蜂の巣をつついたように騒ぎ出したのだ。


それに付け加えお相手がまた彼らの自尊心をせっついた。

彼女が何をしたわけではないが、むしろ何もしていないからこそ彼らは納得がいかずに騒ぎ立てていた。

それもそうだろう。

婚約者となったスピカは評判というほど評される場に姿を現したこともないのだが、それゆえに数少ない噂だけが独り歩きして彼女の印象を決定づけていた。


それもこれも全てかのメデイア・オルドミズが火元なのだが、ウィズフォレスト家が火消しをしなかったことでその噂自体が真実なのだと信じて疑わなかったものも多く、彼女は今現在もなお「王家のお茶会で失態を犯した引きこもり令嬢」のままとなっている。

ついでに「本当は醜女」とか「気狂い」だとか色々な尾ひれもついているのもあって、彼女はウィズフォレスト辺境伯の次女という高位貴族の女性ではあるが、あまり評判がいいとは言い難い女性として認識している者は多い。


だからこそ特に高爵位の女性たちはそれを認めるわけにはいかなかったのだろう。

発表の次の日から釣書は増え、ウィズフォレスト家に届けられるスピカ宛の嫌がらせも増えた。

なんとも精力的なことである。

ちなみに王家が認める実力派の貴族たちは前もってオスカーの仕事ぶりも見た目も、ついでにスピカへの重すぎる恋慕も周知の事実であったため、今騒いでいる者は王家にさほど信頼のおかれていない本当の愚か者である。




そんな中でもひと際目立つ妨害工作をしている家がある。

タラント辺境伯家である。

ウィズフォレスト家と同じ辺境伯の位を持つその家は領地内でとれる特産物のおかげでウィズフォレスト領に比べればいくらか栄えてはいたが、スピカの兄弟のように王城に仕える者は出していない。

そのためかなにかとウィズフォレスト家に一方的な対抗意識を燃やしているようで、そんなウィズフォレスト家の覆ることのない汚点とも言えていたスピカがオスカーと婚約したことに並々ならぬ反発心を燃やしていた。


釣り合いそうな女性をオスカーの元に送って既成事実を狙おうとしたり、スピカのありもしない不貞や犯罪の噂を流そうとしたり、一度はならず者に襲わせようとしたことまである。

お察しの通り全て彼女の弟子によって未然に防がれているが、やっていることはかつてのメデイアと引けを取らないものだ。

あれだけの出来事を目の前にしてよくもまあこんなことをしようと思う、と思ったところで当のタラント家はギリギリ高位貴族ではあるが王城勤めの者がいないためあの議会場にいなかったのだ。


よくよく見返してみれば釣書も嫌がらせもそういったあの日の出来事を見ていない人たちによるものだと気が付いてからは二人とも適当にあしらっている。

何度でも言うが、あの日あの場に呼ばれていない者は王家の信用がそれほど得られていない者たちなのだ。

非常に言い方は悪くなるが、国の運営にはそれなりに必要だが替えのきく駒に等しい。


そうして度重なる妨害工作も全く実を結ぶことのないまま彼らの鬱憤だけはたまっていく。

そもそも発表がされたというのに婚約者のスピカは一向に社交界に顔を出さない。

何度かアルデバラン公爵家の馬車がウィズフォレスト家へ訪れているところは見られているが、一時間も経たぬうちに帰ってしまう。

あまりにも短すぎる逢瀬にやはり愛のない政略結婚であり、公爵の何かしらの弱みを握ったウィズフォレスト家が彼を脅して発表させたのではと根の葉もない噂まで出始めた。

もちろん出どころはタラント家である。

実際にはスピカがオスカーの元に魔法を使って訪れていることの方が多く、目撃のあった馬車はスピカの父、ウィズフォレスト辺境伯宛の書類を届けているだけだった。


そんなこんなで、そんなことは知りもしないタラント家を中心に「社交に顔も出せないうえに脅しで公爵を独り占めしようとする卑劣な醜女」というレッテルが新たに追加された。

実に不名誉かつ謂れのないことであるがそれに眉を寄せたのはオスカーとウィリアム、そしてリリーベルである。

当の本人といえばどうでもいいの一点張りなのだが、たしかに王家の信頼を得る貴族はそんなことは全く信じてはいない。

むしろオスカーの執拗かつ熱烈な求愛に絆されたと見る人も多く、ついでにスピカの功績について知っている人も多かった。


スピカは弟子を取るにあたって魔力のある子どもを見極めるためにも慈善活動という名目で直接孤児院を訪ね歩いていたこともあり、さらに魔力持ちがいるかいないかも関係なく毎年寄付を怠らなかった。

国内の孤児院のほぼ全て、彼女の寄付金で生活を成り立たせているといっても過言ではない。

フードを目深く被り、その顔をしっかりと見たものはいないが、お嬢様は座っていてくださいと数人の侍女に怒られながら炊き出しを配っていた人物を見たものは多い。


それを知っている貴族や王家の信頼する貴族はそんな噂は全くの出鱈目だと判断できるのだから、その人たちだけでいいのではと言ったスピカを怒ったのは言わずもがなリリーベルである。

自分の容姿に無頓着なだけではなく、世間体の認識まで甘いとは大誤算である。


社交界において印象操作ほど大きなカギを握る物はない!こんなにもかわいい子を醜女などありえない!絶対に許さない!見返してやる!と力説するリリーベルに押されるままオスカーとスピカの婚約発表の夜会が開かれることになった。

その剣幕に引きつるスピカの手を取って「私が最高の美女にしてあげるわね!」と輝く瞳で言うリリーベルの少女期のベストオブままごとがリアル着せ替え人形(可愛い侍女に可愛い恰好をさせて遊んでいた)だったことはワイト侯爵家が絶対に外へと漏らさなかった特秘事項である。

この瞬間スピカはリリーベルの人形となったのだ。










ところで、タラント家にも結婚適齢期の女性はいる。

タラント家唯一の女子であるマリアンナはこの年20歳を迎えたばかりであるが、先日のお披露目パレードにて一回りも年上のオスカーに一目ぼれをしてしまったのだ。


5人兄弟の末っ子で蝶よ花と育てられたマリアンナはその期待に応えるように可憐な女性に育ったため多くの男性を虜にしてきた。

家族にも取り巻きの男性にもちやほやとされてきたマリアンナは例に漏れることなくオスカーも同じように虜になると信じて疑わず、執務室だろうが鍛錬場だろうが公爵邸だろうが取り巻きを使って押し掛けては接点を持とうとしていたし、スピカに対しての嫌がらせも積極的に実行していた。


あまりにもメデイアの行動をなぞっているものだからオルドミズ家の関係者か何かかと思い調べても全く繋がりは見つけられないのでひと先ず無関係ということで落ち着いた。

時代を開けずして弟まで厄介な女性に付きまとわれていることを聞いたスピカが「そういえば初代オリヴァー様も非常におモテになって厄介な女性に言い寄られていらしたそうよ?」と憐れみの視線を送ってくるものだから、そこはせめて嫉妬してほしいとオスカーは懇願してしまったのだった。




そんなマリアンナに絶好のチャンスと思しき機会が訪れる。

公爵の婚約発表のための夜会だ。

普段公爵の元にお伺いしている時はあまり華美なドレスも装飾品も化粧もしていない。

つまり自分の美しさを最大限見せることができていないのだが、夜会となれば話は別。

持ちうるもの全てをつぎ込んで着飾ればきっと公爵もマリアンナの魅力をわかってくれることだろうと意気込んだ。


もちろんタラント家も全面的にバックアップすることに決めている。

最初こそ一回りも違う公爵に愛娘をくれてやることなどありえないとタラント家当主も考えていたが、娘の心意気に感銘し釣書を送り、娘を送り、そこまでして煮え切らない公爵に業を煮やしていたところに婚約発表。

寝耳に水だったうえに相手は憎たらしきウィズフォレスト家の娘と聞いたものだから、薬でも盛ってしまえと際どいことまで言い出すほど全力で奪いに行く気持ちで娘を送り出すことに決めた。


しかし哀しいかな、どうしたって辺境伯。

オスカー(公爵)に溺愛され、リリーベル(王妃)がバックボーンとなったスピカには到底敵うはずもないのは明白だが、そんなことは知りもしない彼らは何故かすでに勝利を確信していたのだった。




それぞれがそれぞれのするべきことをしていれば、とうとうその夜会の日となった。

夜会なので始まる時間は夕方だったが、マリアンナは朝から準備に大忙しにしていた。

さすがに国一番のエステティシャンは王妃が使っているのか王城へととられてしまったが、それにも負けないエステティシャンは懇意にしている中にもいる。


朝から念入りに体を洗った後、この日のために誂えたドレスとそれとあうように見立てられたアクセサリー、美容にいい食べ物を食べ続けた肌は万全の状態となっていて化粧のりも最高である。

ドレスを作らせた仕立て屋は王都一の腕前を誇る者で、彼女が言うには「ご依頼いただいた他のどのお貴族様よりも素晴らしい出来栄えとなっております」というお墨付きをもらった。

つまりウィズフォレスト家はマリアンナよりも質の悪いドレスということだと確信し、深紅のドレスを着たマリアンナは淑女らしからぬ高笑いをしていた。

完全に悪女である。


ちなみに国一番のエステティシャンを呼んだのは確かにリリーベルだが、施術を受けたのはスピカである。

とはいえ肌艶も髪質の良さも天性のものを持っていたスピカにはそれほど過度な施術は必要もないため、彼女が準備を始めたのは午後になってからである。

前日から王城へと泊まっていたおかげで昼時まで惰眠をむさぼっていた彼女の肌はいつにも増してつやつやとしていたという。

そしてドレスもマリアンナと同じ仕立て屋を呼んでいたが、その時彼女は「王家からのご依頼」として承ったため「ご依頼いただいた貴族の中では一番」という表現を使った。

ちゃんと説明していないだけであって嘘は言っていないので仕立て屋は責められる謂れなどない。

得てして太鼓持ちが鍵となる客商売とはそういうものだ。


そうして刻々と時が過ぎ、ついに夜会が始まった。

下位貴族から会場に入っていき最後に王家が入場するため、ちょうど中間くらいの爵位の父を持つマリアンナだが、高位に近づくほどその数は減るのでさほど待つことなく王家の入場となった。

本来ならば公爵も高位貴族と王家の間に入場するはずだが、この夜会は彼のための舞台でもあるためか一緒に入場することとなったようだった。

国王の後ろに控えるように入場したオスカーは銀糸で細かく刺繍の施された上着にジレ、トラウザーズまで濃紺で揃え、唯一の装飾品であるアクアマリンのカフスが彼の飾り気のない精悍さを引き立たせていた。

夜会に相応しく落ち着いた装いのオスカーに誰もが感嘆の溜息を洩らしたが、しかしそこに婚約者であるスピカの姿は無い。

先日、婚約を発表したばかりとはいえ婚約者がいるならば彼女をエスコートするのが常識。

発表のための夜会ということで別に入って後から合流するのかと思いきや先ほどウィズフォレスト家は当主夫婦しか会場入りしていなかった。

婚約発表という名目なのに婚約者が会場にいないまま始まろうとしている夜会に、よもや噂の信憑性がと誰もが囁き始めたころ国王が全体へと声をかけた。


「みな、今宵はよく来てくれた。知っての通り、今日は我が弟の婚約という喜ばしき報告をみなに聞いてほしくこの場に集まってもらった。と、言うのに婚約者の姿がこの場に見えず不思議に思っていることだろう。私も驚いているのだが、なんと我が王妃リリーベルが義理の妹となる婚約者殿のことを人形のように着飾らせていてな。少々着付けの時間が押している。先に始めろとのことなのだが、申し訳ないが今しばらく歓談でも楽しんでいてくれ」


申し訳ないと苦笑する国王が王妃リリーベルに弱いことはこの国の貴族ならばよく知っていること。

しかしリリーベルが賢妃と知られているからこそ誰もそれを悪し様には思っていないが、そのリリーベルが夜会の時間に遅れるほどスピカに手をかけているということに皆驚いていた。


リリーベル曰く、素材がよすぎてどれほど手をかけても満足がいく仕上がりにならないらしいのだが、聞く人によっては時間をかけても人前に出せるようにならないと捉えられなくもない。

もちろんマリアンナはそう受け取った。

これならば公爵に付け入る隙もあると、場を盛り上げるオーケストラの緩やかな音楽が鳴り始めた途端マリアンナはオスカーの元へと向かおうとした。

とはいえマリアンナが一番に挨拶できるはずもなく、まずは宰相夫婦、次に数人の諸大臣がオスカーへと代わる代わる挨拶をしていてなかなか彼の側には寄れない。

その間にもマリアンナの取り巻きが尽きることなく褒めそやしてくるが、マリアンナにはもうオスカーしか目に入っていないため返事もおざなりとなっていた。


それからまた数人、マリアンナよりも立場の上の貴族たちがオスカーに挨拶するのを見送った後、ようやく彼の周りから人の波が消えた。

しかしチャンスとばかりに傍に寄ろうとしたマリアンナを無粋な王妃入場の声が妨げる。

遅れて入場した王妃は賢妃と呼ばれるのにふさわしく堂々と国王の隣へと移動し会場に集まる貴族を一度見渡した後、にこりと優雅に笑った。

薄い桃色から白へと変わるグラデーションのドレスにグリーンの装飾品を揃えたリリーベルはどこかやり切ったという清々しい顔つきをしている。


「ようやく満足のいく出来栄えとなったらしい。早速紹介したいところだが、ここはやはり未来の旦那様に紹介してもらう方がいいだろう」


よろしくオスカー、とどこかからかうような口ぶりで国王に話を振られた公爵はそれでも嬉しそうな面持ちで貴族たちの前に立つ。


「ようやく皆さんに自慢の婚約者をお披露目できます。実は私も今日はまだ愛しい人に会えていないのでこの時を心待ちにしていたのです。これだけの人を待たせたのですから、きっと義姉上は最高の仕上げをしてくださったことでしょう。それでは我が愛しき婚約者、スピカ嬢をご紹介いたしましょう」


オスカーの声に呼応するように大広間のドアが重々しく開かれ、そこに現れた女性の整った様相にドア近くの者から順に息を飲む声が漏れだした。


ふんわりと幾重にも重ねられた濃紺のシフォンには小さな粒上の宝石が散りばめられ、繊細な刺繍が施されていることのわかる真っ白なレースのチューブトップにも負けぬくらい白い肌は大胆にも曝け出されている。

だというのに少しも厭らしさを感じさせないのは彼女の纏う凛とした空気のおかげなのか、その肌に乗る重厚な首飾りのおかげなのか。

小さいとはいえ色とりどりの宝石が混ざり合ったネックレスの一番先、三角形の先にあるのはエメラルドであり、もちろんオスカーの瞳の色に近いものをスピカ自身が探し出した。

同じようにイヤリングと纏めたプラチナブロンドを飾るティアラにも揃いのエメラルドが使われている。

ゆっくりとしていながら決して遅くはない足取りで会場に入ったスピカが一歩一歩踏み出すたびに、額に下がったラクレットが僅かに揺れてシャンデリアの光を受けて煌めいた。


そしてそれらの宝飾品が霞むほどに澄んだアクアマリンの瞳は、ドアが開いてから一度もブレることなくオスカーを見つめ続けているのだ。

その瞳に誘われ迎えるようにオスカーもゆっくりと歩み始めれば、人垣は自然と二人の道筋となるように開けていく。


「まるで夜の女神のようだね・・・すごく、綺麗だ」


ちょうど会場の中心辺りで落ち合い示し合わせたかのように手を取り合ったオスカーがそう囁けば、スピカはそれに目尻を染め上げて嬉しそうに頷くだけに留めた。

その王子様然としたオスカーと初々しい少女のようなスピカの反応に、周りの紳士淑女はまるで恋物語のラストシーンを見ているように感嘆の溜息をついた。

そのまま舞台のクライマックスよろしく抱き合うか口づけるかをしそうな雰囲気に水を差したのはウィリアムの咳払いだった。


「二人の世界はそのくらいにして、ちゃんと紹介してもらおうか」


そうして初めて自分たちが会場のど真ん中で見つめあっていたことを自覚したのか二人は足早にウィリアムの元へと戻り一礼した。


「失礼しました。改めましてこちらが私の婚約者となりました、ウィズフォレスト辺境伯令嬢、スピカ嬢です。スピカ、一言いいかな?」

「はい、オスカー様。ご紹介にあずかりました、ウィズフォレスト辺境伯が次女、スピカにございます。この度は嬉しくもオスカー様にお見初めいただいたことにより婚約者という喜ばしきお話を結ばせていただきました。今後も彼を支える良き妻、良き領主夫人となれるよう精進してまいりますので、皆さまどうぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」


促すオスカーに応えてしっかりとした挨拶を紡いだ鈴のような声と見事なカーテシーにすでに会場中は彼女の虜になっていた。

同じように思わずスピカの纏う空気に飲まれていたのはマリアンナとタラント夫婦も同じで、タラント夫人など素敵・・・と口から零しているくらいだ。


そんな会場の雰囲気に満足げに頷いたのは国王夫妻とオスカーである。

リリーベルの素材がよすぎていくらやってもきりがないというのは本当のことでもあったが、実際にはそれは前日までに済ませている。

それなのにスピカの会場入りを遅らせたのはより彼女の存在感を強く印象付けるためだったのだ。

スピカはそこまでしなくても、と及び腰だったが、王家と一緒に入場すれば王家に目がいってあまり印象に残らなくなってしまうだろうとこれまたリリーベルに力説されて押し負かされてしまった。


リリーベルの根底には最高傑作を最高の舞台で見せびらかしたいという下心があったがそこは賢妃、一ミリも自分の欲望は見せずに晴れ舞台を整えて見せた。

さすが15年連れ添ったウィリアムは妻のその心理に気が付いていたが、彼も彼で弟の初恋相手という立場とは別に妹のように可愛がってきたスピカをあそこまでこき下ろされたことには腹立たしさしかなかったので好きなようにやらせていた。

実に職権乱用であるが、皮肉にもメデイアの件で不安の芽は早いうちに摘み取らなければならないと吹っ切れたウィリアムはついでに腐敗しきっている上層階級の掃除も始めようとしていたところだったのでこれを手始めとすることにしたのだ。


まず、スピカの件に関わらず今まで自分たちが頼りにしていた噂がどれほどに脆弱なものであるかを彼らは知ったことだろう。

その噂に踊らされてしてきた所業を悔い改めるもよし、しらを切るもよし、何にせよ今後の彼らの行動が自身の明暗を分けることになる。

弟の念願の婚約まで利用するなど我ながら嫌な吹っ切れ方をしたものだと思いはしたが、ちらりと視線を向けたオスカーもその隣のスピカも訳知り顔でウィリアムに頷いて見せるので彼らもこちらの意図など当の昔に知っていたのだろうこともわかった。


子供のころからオスカーの方が才があることは知っていたし、魔女の知恵を持つスピカなど一国の王の考えなど手に取るようにわかるだろう。

国王としては頼りないことこの上ないのだろうが、人を頼ることを良しとしないのならそもそも初めから魔女に頼ったりしていない。

この国の成り立ちからすでに他者の手助けから始まっているのだから誰も文句は言えまい。

そうとなればまず最初に情弱さを知らしめるという自身の目的が果たせたので、あとはこの場はもう楽しむだけでいいだろう。

ファーストダンスのために初々しい婚約者たちをホールへと促して、自身もリリーベルの手を取りいつ振りかのダンスへと誘ってみるのだった。






国王夫妻が率先して踊るのは実に10年以上ぶりで、にわかに会場は常よりも熱気立った。

それには思わず飲まれていたタラント夫妻もハッと我に返り娘を探し出す。

いまだ呆然としたままのマリアンナを見つけた夫妻は彼女をせっついて気付かせ状況の不利を知らせるためだ。


とはいえ元々お茶会での失敗で引きこもりをしたと噂されるような令嬢。

ファーストダンスはなんとか終えたようでもどうせすぐにまた失態を犯すだろうと高を括っていたが、その後もスピカは失態を犯すどころか宰相を始めとする要職につく貴族たちとは面識があるようで和気あいあいと談笑している。

タラント夫妻だってあれほどの役職を持つ人たちとは話す機会などないというのに、果てはそれぞれの夫人まで親し気に話し始めたのだ。


実をいうと現在の若手有力貴族の半分ほどの夫人はリリーベルを介してスピカと交流を持ったことがある女性で固められている。

噂話に流されず他者を貶めるような行いをしなかった真の淑女だからこそ魔女との交流を許されるのであり、それゆえに前国王やウィリアムの口添えの元で良縁に恵まれている。

いわば縁結びの神様とも言えるスピカの婚約となればお祝いの言葉をかけに駆け付けるのも当たり前といえた。


売り込むどころか近寄ることすらもできないまま、このままでは夜会が終わってしまうと焦るタラント家の心を読んだかのように不意に人の波が引き、その隙を逃さないようにマリアンナは二人の前に躍り出る。

婚約者とはいえスピカはいまだ同じ辺境伯家の娘なのでオスカーだけでいるときよりは話しかけやすい。

本当は着飾ったスピカと話したいがためにオスカーは挨拶の列に区切りをつけさせたのだが、マリアンナとその後ろに控えるタラント夫妻にはそんなことわかりようもなかった。


「わたくし、タラント家が長女マリアンナと申します。アルデバラン公爵にはいつも大変良くしていただいておりまして、ご婚約者様でいらっしゃいますスピカ様にお初にお目にかかれましたこと嬉しく思います」


名乗って早々にあたかもオスカーと親しくしているような発言をすること自体失礼極まりないが、スピカは全く気にした様子もなく笑顔で挨拶を返している。

本当にメデイアの再来だなと遠くなりそうな目を意識的に戻したオスカーも余裕の笑みでマリアンナに挨拶を返すがその視線はすぐにスピカへと戻っていた。

それだけでもどれほどにオスカーがスピカに惚れ込んでいて、マリアンナや他の女性には興味がないとわかるだろうに、悲しいほどに現実の見えていない彼女と虚栄心しかない両親には慮るなど土台無理な話だった。


「ウィズフォレスト家にスピカ様のような方がいらしたなんてわたくし存じ上げませんでしたわ。お噂では『失態を犯した令嬢』とか『人前に出られぬほどの醜女』とかそんなものばかりでしたもの」

「まあ、そうでしたの?社交界に出なかったのは、ずっと領地や王都の孤児院を中心に奉仕活動しておりましたからですの。いろんなことを教えて差し上げましたけれど、子供たちは呑み込みが早くて教えたことは何でもすぐに吸収してしまいますのよ?」


素晴らしいでしょう?と噂のことなど全く歯牙にはかけずに小首を傾げてみせたスピカだが、今の彼女の発言は聡い人間であればそれで気が付くはずのとても重要なことを示していた。


多くの孤児院に寄付や炊き出しを行うということは貴族であればしている人は少なくはない。

しかし、スピカのお膝元であるウィズフォレスト領、そして王都の孤児院というのは先日魔導士養成所として指名された場所でもある。

そうでなくともその二つは十数年前から魔女が魔力の多い子供たちを集めては力の抑え方を教えたうえで元の孤児院に戻している場所でもあることは周知の事実。

年齢的に考えてスピカも子供だった時から教えたことになるが年の近い貴族の子供が学のない孤児たちに教えを説くことも珍しいことではないのだ。


つまりスピカは今のあたりさわりのないたった一言で自身の正体をそれとなく示したことになる。

あの場所がどういったところであるかを理解できていれば彼女が魔女であると確信は得られずとも疑う余地となるはずで、現に聞き耳を立てていた幾人かはスピカの顔をよく見た後に顔を青ざめさせていた。

子供の時には絶対と言えるほど読み聞かせられる童話に出てくる魔女シルヴィアの特徴がスピカのそのままの通りだということに少しでも魔女への信仰心のある人ならば行き着いただろう。

そうでなくとも少なくとも彼女が魔女に関係する立場にあると気が付いた人物は多くいたようだ。

スピカの正体に感づいた人々は彼女に対して悪い噂をそのまま伝えるという失礼を働いたマリアンナを気の毒そうに見てはその場を離れていった。


そうすれば今スピカたちの周りにいるのは篩にかけられた推測に推測を重ねるという貴族特有の頭脳戦を放棄した愚か者だけとなる。

オスカーもスピカを見つめたままであるが、そのことを見越してそれぞれの顔を横目で覚えていた。

特段ここで断罪をするような真似はしないが、もう彼らの道行きは平たんなものではなくなったことをウィリアムと共に外から見守っていた重臣たちは確信している。


「それにしてもお二方はどのように出会われましたの?全く何の接点もなかったお二方がいきなりご婚約というお話を聞いてわたくし大変驚きましたの。ぜひお聞かせ頂きたいですわ」


不躾にもほどがある、とは誰の呟きか。

はたまた周囲の人間の満場一致の心が人まとめとなった思念の幻聴か。

どちらにせよなりふり構わず過ぎて取り繕いもおざなりな、ほぼ直球で売られた喧嘩に目を煌めかせたのはスピカではなくオスカーの方だった。

マリアンナの問いかけに勢いよく彼女を振り返ったオスカーの目は爛々と輝いていて、まるで少年のような表情にマリアンナはうっとりと見とれてしまった。


「私たちの恋の物語を聞いてくれるのかい?それはもう奇跡にも等しい、いやあれはもはや運命だな。バラ咲き乱れる庭園で涙に瞳を濡らす可憐な少女、あの瞬間を私は一生忘れはしないだろうね。それほどまでにあの出会いに私は衝撃を受けたんだ」

「オスカー様?」

「最初は君のことをバラの妖精だと思ったんだ」

「オスカー様」

「ほんの少し、兄上のお茶会をのぞこうと思っていただけなのに、いつの間に私は聖域に踏み込んでしまったのかと、」

「ああもう、どなたですの?今のオスカー様にウィスキーをお渡しになったのは!」


しかし最初の一言こそマリアンナの方へと視線を向けたオスカーだったが、二言目からはすでにスピカを見つめていて、周囲など目にもくれずに愛しい人へと睦言のように語りだす。

その異様さにすぐスピカがオスカーの手にしていたグラスを引っ掴み中身の匂いを確かめればその中身に原因があることを察せられた。


オスカーは別段酒に弱いということはないが、体調が万全ではないときには少量でも酔ってしまうことがある。

ここのところは執務や日ごろの鍛錬に加えてダンスレッスンなどの夜会の準備にも追われて疲労困憊と言っても過言ではない状態だったために飲むにしても酒気の弱い果実酒を中心に渡すように給仕には指示されていたはずだった。


だというのに、今オスカーの手にあったグラスの中身はウィスキー、一杯で酔わせるには十分だった。

こうなったオスカーはしばらくは使い物にならない。

取り上げたグラスをオスカーから離すように脇へと突き出せば心得たようにフローライトが回収していく。

ついでにアウイナイトがオスカーの背を有無を言わさぬ力で支えながら魔法の力も借りてその場から連れ出した。


「申し訳ございませんわ。オスカー様は少し酒気に当たられたようですのでしばしこの場を離れさせていただきますわ。皆様どうぞごゆるりとお過ごしくださいませね?」


主催はあくまでも王家だが本日の主役が酔って中座するというあきらかな失態も慌てることなくフォローし、その後もオスカーの護衛としてつき従っていた魔導騎士へとテキパキと指示を飛ばすスピカを見てはもう誰も疑うことはできないだろう。


スピカに関する噂など一つも真実は含まれてはいないということを。

公爵を脅して婚約などとんでもない。

どれほどに公爵が彼女を望んで婚約を結んだかはこのひと時でも充分に多くの人に伝わった。

公爵自らあのお茶会にて彼女を見初めたと発言し、互いに想い合い結ばれた二人の絆が昨日今日築かれたものではないことだって、子供が見聞きしたってよくわかることだ。

言葉やしぐさの節々にお互いへの愛情が感じられるというのに、どうして今更噂を信じられるというのか。


おまけに魔導騎士の態度から言って、彼女が彼らを動かすだけの立場を持っていることも見える。

ただの上司の妻となる女性へ対するものとは明らかに違う態度を彼らは取り、なんだったら団長であるアウイナイトがうっかり姉さんと呼んだのを聞いた貴族だっている。

彼女がただ社交界に出なかっただけではないことをここまで来てもわからないようではその者の貴族人生はすでに終わっているも同然だった。


ここ最近の全ての噂の元であるはずのタラント家ですら目前で目の当たりにした光景に呆然と彼らを見送ることしかできておらず、そんな彼らを周りの人々は憐れみの目で見ているのだった。






王家のみが使える休憩部屋に連れられたオスカーは大人一人が横たわっても余裕なほどに広いソファにぐったりと横になっていた。

スピカはそんなオスカーの傍らに椅子を引いてきて、まずは彼の額に手を当て気分の悪さを取り除くことにした。


「なんか、情けないところしか見せてない気がする・・・」

「働きすぎなんですわ」

「やってもやっても追っつかないんだよ。人手も足りてないし」


オルドミズ侯爵の件から芋づる式に多くの貴族の大小様々な悪いことが露呈していき、そんな彼らの役職を解いて追い出したことで今の国政はギリギリの人数でまわしているような状態だ。

この際小さな悪事は目をつぶることにしたとしても、一度手を汚して信用をなくした彼らに任せられることなど末端も末端だろう。


新しい人材を取り入れるにしてもそれを査定する時間がいるし、どうしたってしばらくは足りなくなった指示決定する側を使える人間が兼任していくしかない。

そしてその使える人間の中で最も優秀なのがオスカーなのだからやることがどんどん増えていくのもしかたがない。

今日のように酒に酔っていなくとも、ソファにぐったりと寝そべって仮眠を取っている姿をこの数週間でスピカは何度も見てきていた。


「真面目ねえ」

「ここで放り出すような男は嫌だろ?君としても、魔女としても」

「・・・そうですわね」


たしかにオリヴァーと名乗っていた間もちゃらんぽらんな雰囲気を演じながらもしっかりと仕事をこなしているのがわかったからこそ、スピカは館に入ることを許していたのだし、そもそも兄のためにと政の裏側へと身を投じたような人だ。

途中で放り出すはずもない。

本当に嫌だったり無理だったなら、彼は最初からその道を選ばないし、もし途中で続行が困難となったのならば素直に白旗をあげ周りの協力を仰ぐだろう。

オスカーはそういった線引きがはっきりとできる人であり、そんな彼だからこそ、スピカも受け入れることができた。


「アウイナイトとフローライトは大抵のことはできるように育てましたわ。使えるようなら呼んであげてくださいませ。彼らもどこまで口出ししてもいいものか手をこまねいてますもの」

「・・・助かる」


幾分か和らいだのか額に当てられたスピカの手を取ったオスカーはそのままその手に口づけた。

悪酔いによる頭の鈍さは今ので取り除くことはできただろうが、それでもやはり疲れ切っている彼はどこか辛そうだった。


「ねえ、オスカー様?まだ忙しく動かなければならないというのなら、毎夜数分だけわたくしにお時間をくださらない?」

「時間を?」

「ええ、数分。一分はちょっと少ないですけれど、五分程度。十五分ほどなら最適だわ」

「そのくらいなら、作れないこともないけど…?」


その問いの意図することがわからないながらもそう答えたオスカーに、スピカはにっこりと笑って彼の身体を少し引き起こす。


「ならば夜毎、この夜の女神が貴方を包み込みに参りますわ。」


そういって引き起こした彼の頭を抱えるように抱きしめて、小さくゆっくりと揺れながらトントンと優しくその背を撫でる。

その動きは母親が幼い子を寝かしつける時のそれで、気恥ずかしくなりながらも疲れ切ったオスカーの意識はすぐに遠のいていってしまった。

そしてしばらく眠り、目を覚ました時には悪酔いの頭痛も身体の倦怠感もすっかりとなくなっていた。


「・・・どのくらい?」

「今ので十分程度ですわ」

「魔法を使ったの?体がすごく軽い」

「いいえ、回復魔法も過ぎれば体に毒ですもの。そんな頻繁には使えませんわ。今のはただの仮眠」

「仮眠だけ?」


信じられないと、頭を抱えられた態勢のせいで見上げたまま目を見張ったオスカーがかわいく見えてスピカも嬉しさに目を細めて笑う。


「暖かくして、無理のない態勢で、心音を聞きながら眠ると人は常よりも深く眠れるのですって。短くともしっかりと睡眠ができれば疲れもよくとれるはずですわ。どうせ仮眠室のベッドにも行かない日も多いのでしょ?だったら、毎夜わたくしにその身を預けてくださいませ」


声色はいつもの通りに穏やかなものだったけれど、そこにはどこか責めるような響きがあり、彼女がオスカーの体の心配をしてくれていることが十分に伝わった。

あまり会いに行く時間さえも取れていない、不甲斐ない婚約者だというのに彼女はこんなにも心を砕いてくれている。

そんな彼女が愛おしくてオスカーは彼女の背に腕を回した。

いまだに頭を抱きかかえられたままのために、縋り付いてるような形になってしまったけれど、そんなことは全く気にすることもなくスピカも同じだけの力を込めて抱きしめ返した。


それから国政が落ち着くまでの間、オスカーは夜の決まった時間になると三十分だけ執務室の扉を閉めた。

侍従や文官は最初こそ何かといぶかしみはしたが、ある時うっかりとその時間帯に入ってしまった文官によれば、美しい女性の腕に抱かれて幸せそうに眠るオスカーの姿を見たとか見なかったとかそんな話がその日のうちに広まってしまい、それを聞いたウィリアムにからかわれたオスカーによって一時期はその時間帯に彼の執務室に近寄ることは一切禁じられることになる。

情勢が落ち着いたころにはオスカーの抱えていた仕事も適材適所に割り振られ彼は主に国防に関する仕事をこなしていたが、どれだけ多忙な時期も決して夜遅くまで仕事をすることはなく足早に自宅へと帰っていく。

そして彼の女神のゆりかごの中でその日の疲れを十分に癒すのだった。




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