8
夜。
私は王宮の中を、イトラの部屋に向かって歩いていた。
ネグリジェ姿ではあまりにあまりだと思い、ガウン状の上着を一枚羽織っている。シエンナには、「これが寝間着です」と言われて、夜はネグリジェだけしか用意してもらえないのだ。
ネグリジェ自体、この世界にきて初めて着たわけだけど、あまりに布地が薄いせいでほとんど体の線が出てしまっているし、ちょっと透けてるような気もする。
これは……寝間着というより、下着とほとんど変わらないのでは。
お願いだから、誰も通りがかりませんように。
この日の夕食は――なんだかもう夕食のたびにトラブルが起きている気がしてくる――私の身代わり宣言について、本気なのかとみんなから念を押される場になった。
こちらはその時間になるまで、すっかりその気で、自分の顔をイトラにさらに似せるためのメイクを、シエンナたちに助けてもらって試していたのだ。本気も本気である。
王様と王妃様は、心配する様子は見せ、「身代わりは正式に決定したわけではない」と前置きしながらも、どこか緊張感の緩んだ顔をしていた。……これはたぶん、イトラが後宮入りするより私が行ったほうがありがたいと、本音では思っているんだな。
姉妹なのに、この扱いの違い。
私は改めて、人格交換する前のリアの悪行ぶりがどれほどのものだったのかを言外に思い知らされた。
ただ一人、イトラだけが身代わりに反対して、食事そっちのけで大反論してきた。
それでも国王が実質ゴーサインを出しているものだから、私の身代わりはほぼ既定路線になった。
そうして夕食が終わって三時間ほど経った、今。人通りのない廊下を壁沿いに、足音を消して進みながら、人気のない暗闇の中で私はつぶやく。
「さすがに、あんな泣きそうな顔で反対されたままなしくずしっていうのもなんだし……。まだ寝てないはずだから、ちゃんと話し合っておいたほうがいいよね」
あの調子では、イトラが「自分こそが本物だ」と胤に乗り込みかねない。
そうして、あと十数メートルで目的地に着くという時。
廊下の壁にもたれる、長身の人影が見えた。
執事やメイド……ではない。
「……ダンテ?」
「そーだよ、場内の警備中でさ。リア様。なにしてんのかなー、こんなとこで」
ダンテは軽薄な笑みを浮かべて、廊下の真ん中に立った。
「うん、イトラお姉様と少し話そうと思って。そ、そこどいてくれる?」
私は上着の前を合わせた。本当、これ持ってきてよかった。
「へえ。なに話す気なのかなー?」
ダンテの意地悪そうな笑顔に、私の背筋に悪寒が走った。
……なんだか、変だ。警備というより、まるで待ち構えられていたみたい。ふつう、将軍が自ら夜警なんてしないだろうに。
「なにって、だから、身代わりのことだよ。決まってるでしょ?」
「ほう! 身代わり。そのために、なにとなにを持ってきたんでしょーか?」
「なにって……別になにも持ってきてないけど。別になにも、必要ないでしょう」
ダンテの圧が増した。
つい、後ずさりそうになる。
ダンテは音も立てずに私の横に来ると、私の背中側を覗き込んだ。
「ふーん、手にはなにも持ってないね。じゃ、とりあえず、」
「とりあえず、これでいいでしょう? あんまりじろじろ見な――」
「脱ぎな」
ぴた、と私の動きが止まった。
「いや……えと、なん……」
「怪しいものは持ってないんでしょ? じゃ、脱げるよね」
なんだ。いったいなんで一国の将軍が、一国の王女に、服を脱げなんて言っているのか。
状況が呑み込めなくて、私は立ち尽くしてしまう。身の危険すら感じかけて、私はさらにきつく上着の前を合わせた。
「あれどうした、固まっちゃって。おれの手で脱がして差し上げましょうか? それが嫌なら――」
嫌なら?
「――なにが目的でイトラの部屋に、夜中に行くのか。もう一度説明してみな」
ダンテの笑みが消え、眼光が鋭くなった。
でもその光には、後ろ暗さや粗暴さが感じられない。
直感した。彼は、なにかを守ろうとしている。
なにをって、イトラに決まってる。
なにから? それも明白だ。私からだ。
彼は私からイトラを守る必要がある。なぜ? ……それも、明白。
「……ダンテ。私って、かなりの問題児だったんだよね?」
「だったって過去形で言えるのかどうかは、分かんねーけどね」
「ダンテは、身代わりなんて殊勝なことを言い出した私が、なにか悪だくみしてるんじゃないかと疑ってるんだ? だから、イトラに悪さをさせないよう、こんな時間にここにいる」
「さすが、頭が回るねー。その頭をもう少し、まともなことに使ってくれたらいいんだけどな。だーって妹とはいえ別人を送り出すなんて、露見したらハウザールも困るけどあんたは下手すりゃあっちで死刑だよ? 普通やらないよねえ」
「死刑……かあ」
「そ。……で? なにをたくらんでんだ、あんた? イトラをどうするつもり? まさかもう、胤とつながってるとか? だとしたら、大したもんだけどね」
「そんなこと、……そんなわけ、ない」
「あんたが十二歳の時、王の冠を隣国の闇オークションにかけたでしょ? それをとがめられたら、今度は王立の水族館で毒草の粉を水槽にまきやがった。あの行動力に磨きがかかってれば、あながちできないことはないんじゃねえの?」
誤解だ。
ひどい誤解だけど、リアの人となりを熟知しているダンテはきっと、私がろくでもないことをしでかす気なのだとにらんでいた。
そして今、その現場を押さえたと思っている。
ナイフの一本、薬物の一つでも持って、詳細は分からないもののなんらかの悪事を、私が働くと確信している。
その確信に至らせたのは、今までのリアの行いなんだろう――聞いていると、確かにひどい。
でも。
「……ダンテ」
でも私はこの世界で、それを背負った上で生きていかなくてはならないんだ。今は、この人生が「私」なんだから。
「なんでしょう?」
「このことで、私、ダンテのことを責めたり、訴えたりとか、絶対しないからね」
「ああ?」
「身の潔白を示せる方法が、一つでもあってよかった」
私は、上着を脱ぎ棄てた。
廊下の夜気が、薄手の布地の内側に滑り込んできて、ぞくりとする。
ネグリジェ一枚になった私を見て、けれど、ダンテは顔色一つ変えなかった。
「……ふうん。なにも持ち込まないってことは、イトラの部屋にあるなにかをかっぱらおうとしてんのか? ……って、おい?」
「……まだ、潔白は示し終わってないよ」
強く奥歯を噛みしめて、私はネグリジェの裾をつかんだ。
そのまま一気に脱ぎ捨てようとして、ダンテがあわてて私の裾をつかんで直す。
「やめろ、おい」
「どうして? ……イトラはびっくりするかもしれないけど、私、全部脱いで彼女の部屋に行くよ。そして、なにもとらない。ただ話をするだけ。身代わりを承知してもらうために。イトラの許しが出ればだけど、ダンテも横にいていいよ。……今の私を信じてもらえなければ、どのみち身代わり――潜入作戦なんて、うまくいくわけないんだもの」
この世界には、電話もSNSもメッセージアプリもない。
シエンナに聞いたら伝書鳩のように鳥を使って手紙のやり取りくらいはできるらしいから、胤の内外での呼応は可能だ。
でも、お互いが遠く離れた状態で呼応し、不意打ちで胤を奇襲し、宦官を倒して、できれば……後宮も、稼働する前に潰す。
そのためには、連絡手段以前に、お互いの信頼関係が不可欠だ。
現代日本で、私が働いていた時間はそんなに長くはない。
でも、そこで思い知らされたことなんだ。自分の会社も、よその会社もそうだった。
信頼のないグループや組織は本当にもろくて、成果を出すためにどんなにがんばっても、内部での信用が機能不全に陥っていればほとんどの場合うまくいかない。
最悪、今の私の命は拾ったようなものなので、胤で身代わりがばれて処刑されても、あきらめがつかないことはない。
でも、後宮なんてものはこの世界に、グロファンの世界に、絶対に作らせたくない。
これは、私個人のわがまま。
でも、……そう、悪いわがままではないはずだ。後宮なんてもの、正気の沙汰じゃない。
そのためなら、……服くらい。
私は思い切って裾を持ち上げようとする。
「てええええい!」
「てえええええいじゃねえやめろ! 分かった分かったなんか別の方法で潔白を証明しようねおれから言っといてなんだけど! ね!? だからいったん服を……」
「やだ! いや! 放して!」
がちゃ。
と、ドアが開く音がして。
「ダンテ? なに騒いでるの?」
ダンテの向こうから、イトラの声がした。続いて、息をのむ気配。
……今ダンテは、ネグリジェ姿の私の裾を手に、嫌がる私につかみかかっている。
イトラが、地を這うような声を出す。
「ダン……テ……? なにを……しているのです……?」
「いや……イトラ……待っ……これは、違……」
いつも優しげなイトラの目が、きっと吊り上がった。
「ダンテえええええ!」
「違あああああう!」
三分程度の、ダンテと私二人がかりでの必死の弁解を経て、とりあえず。
イトラの誤解は解け、本当に幸いなことに、ほかの警備が駆けつけてこないうちに、私たちは三人でイトラの部屋に入った。
この世界でもランプの燃料は油のようだけど、光を増幅する技術があるそうで、ランプ一個の光でも充分部屋は明るい。
イトラが、胸に手を当てて息をついた。
「もう……びっくりしたではありませんか」
「そりゃこっちのセリフだよー。まさか男の前で全力で服脱ぎ出すとは思わねーもん」
ダンテがじろりと私をにらむ。
「わ、私だって好きでやったわけじゃ。……でも……」
「でも、なんだよ?」
「なんかこう、理不尽に怒られてる時って、こっちが負けないくらいの気合で相対しないと、必要以上に畳みかけてくる上司っていない? 前、先輩がそんな感じで無茶言ってくる上司のことにらみ返してて、やられっぱなしはよくないんだなあと思ったんだけど」
「上司い? あんたにそんなもんいないだろ。てかなんだそのゴミ野郎は。やったこともやられたこともねえよ、下のもんいびるなんて」
ふうん、グロファン……というかダンテの周りにはいないんだ、そういうタイプ。
私とイトラは天蓋つきのベッドの端に腰掛け、その向かいでダンテが椅子に座っていた。
ダンテは面白くなさそうに背もたれを前にして座り、その上に顎をのせてしかめっ面をしている。
「ていうかダンテ、私と一緒とはいえイトラお姉様のお部屋に入っていいの? 問題にならない?」
「イトラが騒がなきゃな。第一、おれはあんたが面倒起こさないようにってんで婚約したわけだからな。こんなひと悶着起きてる時に野放しにできねーだろ」
「あ、そうだ、ダンテ婚約してたんだよね。……私が面倒起こさないために婚約? なにそれ、誰と?」
するとダンテが、にらむどころか三白眼になって私に言ってきた。
「……わざと言ってんのか? 記憶喪失なんて、まだおれは完全には信じてねえんだよ。まさかとは思うけどさ。あんた一芝居打って、胤に入り込んだら胤と内応して、ハウザールを転覆させようとか企んでねえよな?」
「そんなわけないじゃない。そんなことして、なんの意味があるの」
私としては、至極正直にそう訊いたのだけど。
ダンテが、背もたれに両手を置いて立ち上がった。
「そのなんの意味もねえ迷惑行為を、散々やらかしてきたんでしょーがよ! 記憶がなくなったら常識人になるのかよ!? んな理屈ないよねえ!?」
「ダンテ」イトラが立ち上がった。ダンテの手の甲に自分の手を重ねる。「落ち着いて。リアが良識と常識を得たのなら、それはいいことではありませんか」
「だあってさ……。悪かったよ、騒ぐつもりじゃなかった」
ダンテは、しぶしぶといった感じで座り直す。
……前からちょっと感じていたんだけど。この二人、ずいぶん距離が近くない?
ダンテも、イトラには妙に気を許しているというか。
……あれ。もしかして。
「え? ……ダンテの婚約者って、もしかしてイトラお姉様?」
王女と将軍の結婚。それは、ありえるのだろうか?
そういえば、ダンテって妙に場内の評判いいんだよね。
今日もメイクの練習中にメイドの一人がダンテの話題を出してきて。
「ダンテ様は、王族でもないのに神からギフトを与えられた、特別なお方なんですよ! そんな人、本当にレアなんですから!」
と黄色い声を上げていた。
それを聞いた私はてっきり、ダンテのギフトって剣術関係かと思って、そう訊いたんだけど。
「えー違いますよ、確かに剣技においては優れておられますが、それは天性の才能と修練によるもので! ダンテ様のギフトは『内政』です。戦がない時はホウメイ様に軍事教練を任せて、デスクワークに忙殺されることも多いんですよ」
「な、内政~!?」私は思わず声をあげてしまった。「に、似合わな……い、いや、そうなんだ!?」
ほかのメイドも参加してきた。
「まあちょっと意外ですけどね~! だからダンテ様、下手な内務官よりずっと有能で。年中小競り合いばっかりのこの辺境で、軍隊が飢えたことがないのはダンテ様の手腕によるものなんですから」
私が髪に塗る油を溶いてくれていたシエンナに「そうなの?」と尋ねると、
「ええ。ダンテ様は、マネーゲームではなく、食料の生産量自体を上げることに特に熱心であられますね。家畜の育成、農業用具の貸出制度など、多くの改革を成し遂げておられます。戦においては傷病兵の手当てを厚くし自らお見舞いに行かれるなど、前線以外の重要性をよくご存じの方です」
と教えてくれた。
それを聞いて、口調や私への態度でダンテが粗暴な武辺者みたいに思い込んでいた私は、今更ながらに反省した。第一次産業の重要性を分かっていて、けが人にも優しいのかあ。
私はギャップに弱いので、ついダンテを、今聞いた話以上にいい人だと逆に思い込みそうになる。
いけないいけない。万が一にもギャップ萌えなんかして、ダンテを推してしまったら大変だ。
そんなことを思いながら、まさかダンテがイトラと特別な関係だなんて考えてもいなかった私が愕然としていたら、ダンテが深い深いため息をついた。
「あー。もうそろそろひっぱたきてー」
「リアにそんなことしたら、分かっていますね、ダンテ?」
イトラは凄みのある笑みを浮かべてから、私に向き直った。
「それで、リア。こんなに遅くになんの用です? ……察しはつきますけれど」
「多分当たり。イトラお姉様、私との入れ替わりを承諾してください」
「……リアなりに、いろいろなことを考えた結果そう言ってくれていることを、うれしく思います。ですが、危険です。もともとわたくしが負うべきことなのです。あなたがその身を他国の虜にする必要は、ないのですよ。内外で呼応する作戦は――考えつきもしませんでしたが――、わたくしにだってできることです」
目を少しうるませて、そう言ってくる。
イトラは、いい人だ。
そして、いい人がいい人であるからこそ損をする光景を、私は子供のころから見てきた。
学校でも、私生活でも、そして会社でも。
そしていつも、そうじゃない世の中だったらいいのになと思っていた。
優しい人たちをなかなか助けてあげられない、どうしても一番に保身を考えてしまう、無力で臆病な自分を情けなく思いながら。
今は違う。
だって、一度死んだから。保身して守る命がない。
ここからは世の中にためになることをすればするだけプラスになる、ボーナスステージだ。なら、やらないと。
そう自分に言い聞かせて、私はイトラに言った。
「お姉様、適材適所ってありますよね。私はお姉様ほどきれいじゃないですけど、今回の作戦に関してはやる気満々なんです。だから、優しいお姉様より私のほうがずっと向いています。……私、すっごく性格悪いんでしょ?」
「ああ。最悪だ」
椅子に座ったまま、ダンテがとても深くうなずいた。
「ダンテには訊いてないっ! と、とにかくそういうわけで。……イトラお姉様?」
イトラは、ダンテと私の間に立って肩を震わせていた。
「リアが……」
「え?」
「リアが……私を、きれいだと……優しいですって……妹にそんな風に褒めてもらえたのは、初めて……ッ」
「あ……そ、そう。なんですか」
イトラがつかつかと私に歩み寄り、私の右手を両手でとった。
涙をためたイトラの双眸が、星空のように輝いている。
「リア! 先日も広間での食事の時に、わたくしを国民に愛されてるだなんて! あなたこそ愛おしさのあまりむしゃぶりつきたくなるのを、人目があるから必死に耐えたのですよ! ついに、ついに私の想いが通じたのですね! いつかきっと、お互いを想い合う素敵な姉妹になれると! ついに、ついにその日が!」
感情をこめてそう言ってくる絶世の美女の顔には、こちらの腰が砕けそうな輝きがあった。
「う……っ。ごめんなさいお姉様、離れて」
「リア!? ……ご、ごめんなさい、わたくしったら勢いに任せて。不快だったのですね?」
「いえ、私……エモい美女だと女性キャラでも推してしまうヘキがあるので……危ないところでした。私、この世界で推しは作らないので。イトラが危険にさらされちゃうもんね……」
死神は、自重しながら生きなくては。
「? なんですって? 今なんと?」
「なんでもありませんッ。とにかくそれはそれとして、分かってくださいますね、お姉様?」
気を取り直してそう問い直すと、イトラは細い肩をかくりと落としてうなずいた。
「そうですね……お父様が本気でこの作戦をとるのであれば、ことはハウザールの存亡に関わります。わたくしでは、いざという時に弱気になってしまうかもしれません。……リア。お願いして、よろしいですか?」
「はい! 絶対に成功させます! そうしてこの国に帰ってきたら、必ずまたお会いしましょう!」
「ええ! 必ずですよ、リア!」
手と手を取り合う、私たちを横目に。
ダンテが、「だからオシってなんだよ……」と口をとがらせてぼやいていた。
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