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私の右の首筋にダンテの顎がかっちりとはまってしまい、彼の吐息で耳がくすぐられる。その息が、荒い。
「あ、あれ!? ダンテ、ど、どうしたの!?」
私の胸やお腹に、ダンテの体を包んでいる女物の服の向こうから、熱くて固い、男性的な肉体の感触が伝わってくる。腰に回されていたダンテの右腕が強く私を抱いて、私の背中が寝台からわずかに浮いた。
少しだけ苦しい。でも、離さないでほしいと思ってしまう。こんな感覚は初めてだった。
「かけがえがない、か……。よく分かったよ、……ようやくさ……」
うめくような声が、ダンテが食いしばった歯の間から漏れて、それからゆっくりと彼の体は私から離れた。
とはいっても、私の顔のわずか数センチ上。そこに、ダンテの顔がある。女装はしているけど化粧は落とした、彼の素顔。切なそうな、でも……なにかをいとおしむような顔。
ダンテの右手の指が、優しく私の唇をなぞる。そこにダンテの唇が近づいて、私の体はぴしりと固まった。
身じろぎもできずに、後ずさりしようとしても当然そんなことは不可能で、ただ細かく体が震えている。
その震えを感じ取ったダンテは、息を深くついた。
「……悪かった。ごめん。怖かったよね。婚約者だって、女の嫌がることをしちゃいけない……異境者は、蛮族じゃあない……」
ダンテが寝台から降りた。
「……おれは今夜はどこか、別の場所で寝るよ。ホウメイたちには適当に言っといて。ほんとに、……ごめん」
ダンテが、部屋の引き戸を開けた。
部屋の外は、暗かった。
「別に、私……ダンテがこの部屋にいて、平気だよ」
「おれが平気じゃないよ。ホウメイやアゾがいても、……なんでもない。とにかく今夜は、絶対なにがなんでも必ず絶対外で寝る」
ダンテが部屋の外に出た。後ろ手に引き戸を閉めようとする。
私は寝台から飛び降りて、その戸を止めた。
いつかのように、振り返ったダンテの顔を両手で左右から捕まえて引き寄せてから、背伸びをする。
唇を合わせた。
そして。
「……だからッ、嫌ではないよッ! ごめんね、追い出して! 今日だけね、今日だけ!」
そして、引き戸をぴしゃんと閉めた。
寝台に飛びのって、シーツを頭からかぶる。
またやってしまった!
足をばたばたと暴れさせていたら、引き戸がまた開けられる音がした。
私は身を起こしながら、
「あ、アゾ? ホウメイ? あのね、今日ダンテは――」
そう言ったけれど、そこにいたのはダンテだった。
「――うわあああああダンテ!?」
寝台の上で後ずさりした私の背中が、壁についた。
顔が燃えるように熱い。
「……リア様。なに、今の」
「い、いやなにって……」
「こっちは必死に抑えてるのに、どーいうつもりなわけ……?」
「だ、ダンテこそ、私に指一本触れないんじゃなかったの?」
「だって、リア様さ……なんか、前と違うじゃん。……そうか。記憶喪失になってから――」
ダンテがこちらにやってきて、私の手を取り、寝台から引き起こした。
床の上に立つと、さっきと同じように、背伸びをしただけでは届かないダンテの顔がすぐ上にきた。
「――それから、……今までとは違う感じで、リア様から目が離せなくなったような気がする……かも?」
「か、かもって。目を離せなかったのは、き、記憶喪失だからでしょ……?」
そう軽口を叩くのが、精いっぱい。
「あはは。でも、嘘ではないよ。……好きだ」
顎を指で上に向かされた。
顔が近づいてくる。
今度はもう、逃げようなんて考えることもできなかった。
唇が、さっきとは比べ物にならないくらい、穏やかに長く重ねられた。
もう、ごまかしようがなかった。自分の気持ちを。
「……リア様、なんで泣いてんの」
「……好きになったらいけない人を、好きになっちゃったなって」
「なにそれ? 婚約者なのに? この世で一番好きになっていい人じゃね?」
指先で涙をぬぐう。こんな時に泣くなんてよくないとは、分かっているのに。
好きになるのが怖いんじゃない。失うことに耐えられないんだ。架空のキャラクターでだってあんなに悲しいのに、こうして生きている人に、なにかあったら。
「うん。そうなんだけどね、私の心の問題。……こうなったらもう、『好きと推しは別物理論』で、押し通すしかないよね……好きではある、でも推しではない……推しは心にあって思うもの、好きという気持ちもそう、でも決して同じではないと……」
「うん。分からん」
「ダンテ。一つだけ、お願いがあるの」
「なに」
「死なないで。私も頑張る。だから、絶対死なないで」
「……とりあえず、全然死ぬ気はねーけど」
これを分かってもらうには、推しとはなんなのか、私が推した人はどうなってきたかを、事細かに説明しなくてはいけない。
それも、ゲームはもちろんアニメもアイドルもいない世界の人に。
私は意を決して、口を開いた。何万言を費やそうと、ダンテにことの深刻さを分かってもらうという決意を胸に。
しかし、私が言葉を発しようとするたびに、ダンテが何度も何度も細かくキスをしてきて、しゃべることはもちろん次第に息が上手く吸えなくなってきて、めまいがして、動悸が落ち着かなくて、とうとうなにも考えられなくなってしまい、最後は寝台に座り込んでしまった。
ようやく帰ってきたホウメイとアゾをなんとかやり過ごし、適当な言い訳をして部屋を出ていくダンテ――なんだかんだで今日は外で寝るらしい――を見送りもせず、私は再びシーツをかぶって眠れぬ夜を過ごしたのだった。
■
「おっはよー。さーてアゾ、化粧頼む化粧」
さわやかな朝日をバックに、そう言って部屋の戸を開けたダンテに。
「兄上、昨夜はどこにおられたのですか」
と、すっかり女装が板についたホウメイが半眼で突っ込む。
もちろんそれにはまともに取り合わないダンテは、部屋の壁を見て、
「……ホウメイ、なにあれ? あの張り紙。『推しがりません勝つまでは』『推すはいっとき、死神は一生』『みんな推さなくて、みんないい』『not推し but好き』……なんのこっちゃ」
「あれは、先ほどリア様が貼り出されて……僕とアゾは意味はさっぱりです。兄上、なにかご存じですか?」
「んー。原因の心当たりはあるけど、意味は全然分かんねーな。ねー、リア様」
「は、はいっ!? あのね、ばかばかしく見えるかもしれないけど、こっちは真剣なの! とにかくダンテは、危ない目に遭わないように気をつけてよね!」
すでに着替えとメイクを済ませた私は、しゃんと背筋を伸ばす。
「……相変わらず、わけ分からんけども。リア様がえらくおれのことを心配してんのは伝わってるよ。それはそうと今日は、確か午前から庭で茶会でしょ? 早く行こうよ、場を観察したい」
アゾが「ですので、ダンテ様をお待ちしていたのですが……。私どもはもう、支度が済んでおりますので」とクールに言う。
「やっぱおれに冷たい……」
ともあれダンテも変身を済ませ、私たちは四人で中庭に向かった。今日は従者たちを引き連れての会になる。
庭の中央につくと、ダンテとホウメイがそれとなく周囲に目を配った。
後宮の人間関係は、一つの要素でがらりと変わる。昨日までは互角の立場だったライバルが、次の日には一方に服従していることだってある。つまり、なんらかの弱みを握られるなどして。それを見逃さないために。
お茶会はつつがなく始まった。
胤のお茶は中華風のハーブティーという感じの香りのいい萌黄色の液体で、高そうなお菓子が添えられている。
食べ物だけじゃなく建物や服装も中華風なのに、お茶会はテーブルの間を行き来する立食パーティーのような形式だった。
私はアゾに耳打ちする。
「ねえねえアゾ、なんだかカジュアルな感じだね」
「そうですね、これまでに比べると。さらにもう一段格式ばった会になると、屋内で、決められた席に座って厳粛に行われるらしいですが」
移動や会話は自由で気楽だ。ただしマナーの指導者として胤の教育係が何人か巡回しているので、その人たちの前ではちょっと緊張する。
ふと見ると、ホウメイが庭にきていた小鳥たちを腕にとまらせていた。野鳥のようだけど、ずいぶん慣れてるな……。ということは、これが彼のギフト馴致なんだろう。
今日までに教えられた作法でお茶をいただき、一口大に切られたケーキを、ダンテが私に差し出してくれる。自分では取り分けたりしないのがこの後宮のマナーだ。
ただ、一目して異境出身と分かるダンテの給仕に、遠巻きにひそひそと揶揄するような声が聞こえてきた。それを、教育係は別に注意もしない。
大変腹立たしい。ダンテへの気持ちを意識した今は、なおさらに。
そりゃ、この大陸はそういう文化なのかもしれないけど。改めて、差別っていつでもどこでも嫌なものだ。
すると、今日までに結構仲良くなっていた、シメンカ、ランエイ、ニャフシャイン、シェラハ、ソウシソウといった面々が私の周りに集まってきた。
シメンカが、ダンテを一瞥したのでどきりとする。シメンカは育ちがよさそうだけど、ここでは育ちがいいイコール異境を見下す人、というのはありえる。
けれど、シメンカはにっこり笑った。
「ごきげんよう、イトラ」そう、私はここではイトラである。「その三人があなたのメイドね? その背の高い子、とても頼もしいし動作も洗練されているわ」
ランエイも、ダンテが使った茶器を自分のメイドに使わせ、自分の分のお茶を注いでいる。異境出身者が使ったものなんて使えない……なんて言われたらどうしようかと思ったけど、彼女たちに関しては杞憂のようで、よかった。
ニャフシャインとシェラハもだいたい同じようなものだったけど、ソウシソウだけはすっと目を細め、なにげない様子で隣のテーブルの茶器を使った。
この辺は、私の理解していない文化もあるのだろうから、直情的に糾弾するのはよくない……と思いつつもダンテを見る。すると、気にしていないと目配せしてきた。
慣れているんだな、こういうことに。いいような、悪いような。
そのソウシソウが、取り繕うように言ってきた。
「イトラ、あなたがいてくれるおかげで、この退屈な後宮が少しだけ楽しいわ。胤から離れた土地の方々とお会いする機会なんて、中央で暮らしているとなかなかないものだから」
……なんとなく、棘のある言い方のような気がするけど。これは皮肉が込められているのか、額面通りに受け取ってしまっていいものか。
すると、遊牧民風の服装のせいか、物おじしない性格に見えるシェラハがその印象通りに威勢よく言ってきた。
「でもねっ、これからどんどんつまらなくなっていくと思うの、後宮暮らしなんて! だって今はまだ珍しいものを見聞きすることもあるけれど、どんどん慣れていってしまいには退屈しきりになるにきまってるもの!」
近くに教育係はいない。
それでも、ニャフシャインがたしなめるようにシェラハに告げる。金糸のような髪を軽くかき上げ、上品な細い声で。
「言葉に気をつけたほうがいいでしょう。すでに後宮入りしたわたくしたちは、もう戻る場所がここにしかないのですから。ここなりの楽しみ方をなにか見つけなさい、とは胤の方々によくよく言い含められていますでしょう」
シメンカが、さすがに声のボリュームは落としつつ、お茶の椀をテーブルにたんと置いて言った。
「後宮など、まことに恥ずべき文化だわ。なに一つ意義なんてないものよ、一部の権力者以外にはね。後宮は後宮で楽しめばいいなんて考え方は、どうかしてるとしか思えない。選ばれて光栄? 稀少な女性のみが選ばれた場所で、ロマンチック? よく恥ずかしげもなくそんなことが言えるものだわ」
ランエイが、小声で私に教えてくれた。
「シメンカは国から送り出される時、そんなことを言って、国の女性たちから羨ましがられさえしたんですって。後宮そのものより、そんな風に考えている人たちのほうがよほど度し難く、情けないみたい。確かに、まともな神経があったら後宮なんてろくでもないって分かりそうなものよね」
シェラハが大きくうなずいた。「私の国にも、そりゃ多少のお金は入ったみたいよ。でも情けないわ、うちの王妃なんて浪費癖があるから、財貨のために後宮をありがたがりさえしていて。少しでもプライドがあったら、後宮のおかげでお金を儲けるなんて恥ずかしくてできないはずよ。ばかな男たちならともかく、女がそんなこと!」
真横にいたソウシソウが呆れたように言う。
「シェラハ、あなたお茶で酔ったの? ほら、教育係が近づいてきたわよ。だまらっしゃいな」




