第二夜『徒然』
家の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
アパートの外階段は雨で濡れていて、鉄みたいな匂いがした。
見慣れた二階の角部屋。
カーテンの隙間から、テレビの光が揺れている。
電気は点いていた。
誰かは起きてる。
それだけで胃が重くなる。
スマホを見る。
0時18分。
もう言い訳できる時間じゃなかった。
終電もない。
コンビニで時間潰してた、も通らない。
帰るしかない。
分かってる。
なのに、足が階段を上がりたがらなかった。
外の空気は冷たいのに、手のひらだけ嫌に汗ばんでいる。
鍵を握る。
冷たかった。
それだけで少し気持ち悪くなる。
帰り際の声が頭に残っていた。
『無理そうなら逃げろよ』
悠は、川を見たままそう言った。
軽い声だった。
冗談みたいに。
だから余計に頭に残った。
逃げる。
その言葉が、自分の中に無かった。
帰りたくなくても帰る。
怒鳴られても帰る。
空気が悪くても帰る。
それ以外を考えたことがない。
逃げていい、なんて。
誰にも言われたことがなかった。
アパートの階段を上がる。
一段ごとに、心臓が重くなる。
二階。
廊下。
自分の家の前。
ドアの向こうからテレビの音が聞こえた。
バラエティ番組だった。
笑い声。
ガヤガヤしたSE。
それが逆に怖い。
静かな方が怖い日もある。
でも、こういう“普通っぽい音”が流れてる時も嫌だった。
何を考えてるか分からないから。
父親が機嫌いいのか悪いのか。
母親が怒ってるのか疲れてるのか。
テレビの音じゃ分からない。
鍵を差し込む。
カチャ、と小さく鳴る。
その音だけで、身体が強張った。
帰りたくない。
喉の奥で、またその言葉が出る。
でも帰るしかない。
ゆっくりドアを開ける。
油の匂いがした。
酒の匂いも混ざっている。
「……ただいま」
声が少し掠れた。
返事はない。
リビングからテレビの音だけが流れている。
靴を脱ぐ。
なるべく音を立てないように揃える。
昔からの癖だった。
小さい頃、一回だけ乱暴に脱いで、
『脱ぎ方くらいちゃんとしろ』
と父親に蹴られたことがある。
別に強くじゃない。
でも、それ以来ずっと揃えるようになった。
廊下を歩く。
一歩ごとに床が鳴る。
そのたびに神経が擦れる。
リビングの横を通る瞬間、視線だけ向けた。
父親がソファに座っていた。
缶ビール。
灰皿。
テレビ。
いつもの光景。
でも今日は、目が合った。
心臓が縮む。
「……お前、何時だと思ってんの」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
でもその方が怖かった。
「ごめん」
反射みたいに口から出る。
父親が舌打ちした。
テレビの笑い声がやけに大きく聞こえた。
「連絡くらい入れろや」
「……ごめん」
「心配してんだぞこっちは」
その言葉に、少しだけ頭が真っ白になる。
心配。
どの口で。
そう思った瞬間、自分でびっくりする。
今までなら思わなかった。
怒られないことだけ考えていた。
でも今、
橋の下の空気を思い出してしまった。
『帰りたくない感じ?』
『同類は分かる』
『無理そうなら逃げろよ』
頭の中で、悠の声だけが妙に静かに響く。
「……聞いてんのか」
父親の声で我に返る。
「はい」
反射的に返事する。
身体が勝手に動く。
昔からそうだった。
考える前に謝る。
怒鳴られないように。
殴られないように。
空気が悪くならないように。
父親はしばらく俺を見ていたが、やがて舌打ちしてテレビへ視線を戻した。
「風呂入るなら早く入れ」
「……うん」
それだけだった。
なのに全身が汗ばんでいた。
部屋へ戻ってドアを閉める。
鍵は無い。
昔から無かった。
ベッドへ座る。
脚の力が抜ける。
スマホを見る。
0時27分。
通知は来ていない。
でも、なぜか画面を開く。
LINE。
何もない。
当然だ。
連絡先も交換していない。
名前しか知らない。
それだけなのに。
静かな橋の下を思い出してしまう。
部屋の外から、父親の笑う声が聞こえた。
その声に身体がびくりと反応する。
自分でも気づかないくらい自然に。
疲れた。
本当に。
天井を見上げる。
暗かった。
目を閉じる。
でも眠れる気がしなかった。
目を閉じても、神経だけが起きている。
父親の笑い声。
テレビの音。
廊下を歩く足音。
水道の流れる音。
その全部を、頭が勝手に拾ってしまう。
布団に入っても身体が落ち着かなかった。
スマホを見る。
0時43分。
また画面を閉じる。
数分後、また開く。
意味はない。
ただ、何かしていないと落ち着かなかった。
LINEを開く。
バイトのグループ。
学校の連絡。
どうでもいいスタンプ。
それをぼんやり眺める。
指が止まる。
検索画面。
何を打つわけでもなく、カーソルだけが点滅していた。
連絡先は知らない。
当然だ。
名前しか聞いてない。
それなのに、
妙に頭から離れなかった。
『同類は分かる』
またその言葉を思い出す。
同類。
嫌な響きだった。
でも、
少しだけ安心した自分もいた。
それが一番気持ち悪かった。
スマホを伏せる。
天井を見る。
暗い。
外の街灯の光だけが、カーテンの隙間から細く伸びている。
昔から、夜が嫌いだった。
静かだから。
音が少ない分、
家の空気だけがよく聞こえる。
父親が機嫌悪そうに息を吐く音。
母親が食器を置く音。
ドアを閉める強さ。
そういう小さいもので、
今日は危ない日か分かってしまう。
だから眠るまでずっと気が抜けない。
不意に、廊下が軋んだ。
身体が跳ねる。
足音。
ゆっくり近づいてくる。
止まる。
自分の部屋の前だった。
呼吸が浅くなる。
開くな。
来るな。
無意識にそう思う。
数秒。
でも、何も起きなかった。
足音はまた離れていく。
それだけで全身から力が抜けた。
心臓が痛いくらい鳴っている。
もう嫌だ。
毎日これだ。
何も起きてないのに疲れる。
枕に顔を押し付ける。
暗闇の中で、ふと橋の下を思い出した。
雨音。
川の音。
缶コーヒーの熱。
悠の声。
『俺も帰りたくない時、ここ来る』
あの時の声だけ、
妙に静かだった。
スマホを取る。
時計。
1時06分。
明日学校だ。
寝ないとまずい。
分かってる。
でも眠れない。
眠ろうとすると、逆に頭が冴える。
考えたくないことばかり浮かぶ。
学校。
家。
父親。
将来。
全部。
息が詰まりそうになる。
その時だった。
ブブッ。
突然スマホが震える。
肩が跳ねた。
反射的に画面を見る。
通知。
Instagramからだった。
知らないアカウント。
一言だけ送られてきていた。
『生きてる?』
心臓が止まりそうになる。
意味が分からなかった。
誰だ。
なんで。
混乱しながら画面を見る。
アイコンは初期設定のまま。
名前も適当な英数字。
気味が悪い。
でも。
その短い文章の感じに、
なぜか少しだけ見覚えがあった。
『生きてる?』
たったそれだけ。
ふざけてるみたいな文だった。
心配してる感じも薄い。
なのに、妙に悠っぽかった。
いや、でも。
連絡先なんて交換してない。
名前しか知らない。
じゃあ誰だ。
気持ち悪さと、変な安心感が同時に来る。
返信欄を開く。
閉じる。
また開く。
なんて返せばいいか分からなかった。
そもそも返していいのかも分からない。
知らない相手かもしれない。
いたずらかもしれない。
でも。
指が勝手に動いていた。
『誰』
送信。
数秒。
既読。
早かった。
次の瞬間、返信が来る。
『橋の下の鮭おにぎり』
思わず変な息が漏れる。
悠だった。
本当に。
なんなんだあいつ。
どうやって調べた。
いや、違う。
駅前で会った時、
バイト先のインスタグループを開いてた。
名前、見えてたのか。
そこまで考えて、少しだけ怖くなる。
でも不思議と嫌じゃなかった。
『勝手に追加すんな』
送る。
数秒後。
『ごめん』
『でも死んでそうだったから』
またそれだ。
簡単に言うなよ、と思う。
けど。
否定できない。
暗い部屋の中で、スマホの光だけが顔を照らしていた。
外ではまだ雨が降っている。
父親の笑い声は、いつの間にか止んでいた。
『死んでない』
打って送る。
既読。
少し間が空く。
それから。
『そっか』
それだけだった。
短い。
びっくりするくらい短い。
なのに。
その一言だけで、
少し呼吸が楽になる自分がいた。
意味が分からなかった。
スマホを胸の上に置く。
天井を見る。
暗い。
でも、さっきまでより少しだけ、
部屋の圧迫感が薄い気がした。
雨音が続く。
静かな夜だった。
眠れないまま、
それでも少しだけ目を閉じられる気がした。




