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隣の芝は赤かった。  作者: sui.


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第一夜『某、端緒』

駅前の明るさが、ずっと苦手だった。


意味もなく人が多くて、意味もなく音がする。

誰もこっちを見ていないのに、誰かに見られている気がする。


今日も同じだった。

駅前のコンビニは、夜になると妙に明るい。


 昼間は気にならない白色灯が、夜だけは浮いて見える。

 湿ったアスファルトの上に、四角く切り取られたみたいに光が落ちていて、その中を人が出入りしている。


 自動ドアが開くたび、温かい空気が外に漏れた。


 揚げたての油の匂い。

コーヒーマシンの蒸気。

 柔軟剤みたいな香りをまとった学生たち。


その全部が、どこか遠い。


 俺はコンビニの横の壁にもたれて、スマホの画面を見ていた。


 22時41分。


 通知はない。


 それなのに、画面を何度も点けてはそれを見ていた。


 連絡が来ていないか確認したいわけじゃない。


 むしろ逆だった。


 来ていないことを確認したかった。


 親からの連絡は何も来ていない。


 まだ機嫌が読めない。


 怒っているのか。

 寝ているのか。

 酒を飲んでいるのか。

 父親が帰ってきているのか。


 分からない。


 分からないのが、一番怖かった。


 雨が降っていた。


 小雨とも言えないような、中途半端な雨だった。

 傘を差すほどでもない。でも濡れる。


 空を見上げる。


 黒かった。


 何もなかった。


 昔から、夜空を見ても何も思えない。


 綺麗だとも、落ち着くとも思わない。

 ただ、暗いだけだった。


 コンビニから出てきたサラリーマンが、缶ビールの入った袋を揺らしながら俺の前を通り過ぎる。


 一瞬、目が合った。


 反射的に視線を逸らした。


 昔から、人と目を合わせるのが苦手だった。


 いや、違う。


 人の目の奥を読むのが癖になっていた。


 今、機嫌が悪いのか。

 今、面倒そうにしてるのか。

 今、怒鳴りそうなのか。


 そういうのだけ、無駄に分かる。


 小さい頃からずっとそうだった。


 玄関のドアが閉まる音で、今日はまずい日かどうか

 足音の速さで、父親が酒を飲んでいるか

 母親の食器を置く音で、話しかけていい日かどうかが分かった。


 だから人の顔色を見る癖だけが残った。


 別に欲しくて覚えた能力じゃない。


 スマホが震えた。


 肩が跳ねる。


 心臓が変な鳴り方をした。


 通知。


 バイト先のインスタグループだった。


『明日誰かラスト入れませんかー』


 それだけ。


 それだけなのに、息が詰まる。


 断ったら迷惑かもしれない。

 既読無視したら感じ悪いかもしれない。

 でも入ったら明日も家に帰る時間が遅くなる。


 指が止まる。


 画面を見たまま、数分経った。


 雨音だけが聞こえる。


 コンビニの室外機が低く唸っている。


 駅前の横断歩道では、赤信号を待つ人間たちが無言で並んでいた。


 みんな帰る場所がある顔をしていた。


 それがずっと不思議だった。


 どうして普通に帰れるんだろう。


 家って、そんなに安心できる場所なのか。


 俺にはよく分からなかった。


 小さい頃、一度だけ友達の家に泊まったことがある。


 夜、友達の母親が、


「お風呂先入っちゃいなー」


 って笑いながら言っていた。


 それだけのことを、今でも覚えている。


 怒鳴ってなかった。


 イライラしてなかった。


 物音に棘がなかった。


 あの家、静かだったな。


 思い出した瞬間、胸の奥が少し気持ち悪くなった。


 スマホをポケットに突っ込む。


 帰りたくない。


 でも行く場所もない。


 コンビニの軒下から出て、なんとなく駅の方へ歩く。


 濡れたタイルが滑りそうだった。


 駅前の喫煙所には数人が集まっていて、煙草の火だけが赤く光っている。


 煙の匂いがした。


 嫌いじゃなかった。


 父親も吸っていたからかもしれない。


 いや、違うな。


 あの匂いを嗅ぐと、

「今はまだ怒鳴られてない」

って気分になるからだ。


 ホームレスっぽい男がベンチで寝ていた。


 高校生の集団が笑いながら通り過ぎる。


 カップルが傘を半分ずつ使って歩いている。


 視界に入れないようにしながら歩く。


 別に羨ましいわけじゃない。


 ただ、見ていると自分が異物みたいだった。


 駅前を抜けて、川沿いの道に出る。


 この辺りは夜になると人が減る。


 街灯も少ない。


 だから好きだった。


 誰にも見られてない感じがする。


 橋の下で足を止める。


 川の水が暗かった。


 流れている音だけが聞こえる。


 スマホを見る。


 23時12分。


 そろそろ帰らないとまずい。


 でも、帰ったところで何がある。


 母親が無視してくるかもしれない。

 父親が酒臭い息で怒鳴るかもしれない。

 何もなくても、それはそれで怖い。


 静かな日の方が、逆に怖かった。


 爆発する前みたいで。


 橋のコンクリート壁にもたれて座り込む。


 湿っていた。


 冷たい。


 膝を抱える。


 なんか疲れたな。


 何をしたわけでもないのに。


 学校行って。

 笑って。

 バイトして。

 空気読んで。


 それだけで、毎日少しずつ削れていく。


 消えたい、とは違った。


 ただ、

「もういい」

に近い。


 その時だった。


「風邪ひくぞ」


 声がした。


 心臓が縮む。


 反射的に立ち上がりかけて、足がもつれる。


 橋脚の影に、人がいた。


 気づかなかった。


 同い年くらいの男だった。


 黒いパーカー。

 濡れた前髪。

 目の下に薄くクマが浮いている。


 夜に慣れてる顔だった。


 コンビニ袋を提げて、缶コーヒーを片手に持っていた。


 いつからいた。


 全然気配がなかった。


 男は俺を見たあと、特に驚いた様子もなく、


「座る?」


 と言った。


 変なやつだった。


 普通、知らない人間にそんな話しかけ方しない。


「……別に」


 喉が乾いていた。


 男は「そ」とだけ返して、勝手に橋脚の縁へ座る。


 それ以上話しかけてこない。


 なのに帰りづらかった。


 雨音が続く。


 川の音も混ざる。


 男はコンビニ袋からおにぎりを取り出した。


 鮭だった。


 包装を剥がして、一口食べる。


 そのあと不意に、


「帰りたくない感じ?」


 と言った。


 息が止まりそうになる。


 なんで分かった。


 顔に出てたか。


 警戒が先に来る。


 同時に、少しだけ腹が立つ。


 簡単に言い当てないでほしかった。


「……別に」


 また同じ返事が出た。


 男は笑わなかった。


 気まずそうにも、困った風にもならない。


「あっそ」


 それだけ。


 普通なら会話が終わる返し方だった。


 でもそいつは、そのままおにぎりを食べ続けた。


 沈黙。


 変な空気だった。


 気を遣われてない。


 でも放置されてるわけでもない。


 その距離感が妙に落ち着かなかった。


 男が缶コーヒーを一本こっちに投げる。


 反射的に受け取る。


「……なんで」


「温かいから」


 意味の分からない返答だった。


 缶はまだ熱かった。


 指先が少し痛い。


 男は川を見たまま、


「俺も帰りたくない時、ここ来る」


 と呟いた。


 その声だけ、妙に静かだった。


◆ ◆ ◆


川の音だけが続く。


 雨は少し強くなっていた。

 橋の上を車が通るたび、水を踏む音が響く。


 缶コーヒーを持ったまま、俺は座るか迷っていた。


 知らないやつの隣に座る理由なんかない。


 普通なら離れる。


 関わらない。


 それで終わりだ。


 でも、立ち去るタイミングも分からなかった。


 男はもう俺を見ていなかった。


 興味がないのか、気を遣ってるのか分からない。


 ただ川を見ていた。


 その横顔が、妙に疲れて見えた。


 結局、少し距離を空けて座る。


 コンクリートが冷たかった。


 湿ったズボンが肌に張り付く。


「そこ、染みるだろ」


 男が言った。


「……別に」


「その返し好きだな」


 笑った感じはなかった。


 からかってる風でもない。


 独り言みたいだった。


 缶コーヒーを開ける。


 湯気が少しだけ上がる。


 一口飲む。


 甘かった。


 普段なら選ばない味だった。


 沈黙。


 また雨音だけになる。


 こういう空気、普通なら気まずいはずなのに、不思議と耐えられた。


 話しかけ続けてこないからかもしれない。


 学校のやつらみたいに、

「なんか喋れよ」

って空気を出してこない。


 だから逆に落ち着かなかった。


 男がおにぎりを食べ終わる。


 包装を小さく畳んで、コンビニ袋に押し込んだ。


 その動作が妙に慣れていた。


 生活感があるというか、雑というか。


「お前、学生?」


 急に聞かれる。


「……まあ」


「高校?」


「うん」


 男は「そっか」とだけ返す。


 自分から聞いたくせに、それ以上掘らない。


 変なやつだった。


「そっちは」


「俺?」


 男は少し考えてから、


「いろいろ」


 と言った。


 意味が分からなかった。


「何それ」


「いろいろは、いろいろ」


 会話する気あんのかこいつ。


 少しだけイラつく。


 でも、その曖昧さが妙に自然でもあった。


 こっちも聞かれたくないことばかりだから。


 橋の上を救急車が通る。


 赤い光が川に反射した。


 男はそれをぼんやり見ていた。


「……ああいう音、苦手」


 小さく呟く。


 独り言みたいに。


「え」


「救急車」


 視線はこっちを向かない。


「なんか、身体が勝手に構える」


 そこで初めて、少しだけ違和感があった。


 その言い方。


 慣れてる人間の言い方だった。


 男は自分で言ったあと、

「あー」

と小さく息を吐いて、前髪を掻き上げる。


「まあ、お前もっぽいけど」


「……何が」


「音にびっくりするやつ」


 また心臓が嫌な跳ね方をした。


 見られていた。


 LINEの通知で肩が跳ねたのも。


 立ち上がりかけたのも。


 少し気持ち悪かった。


「見てたのかよ」


「いたから見えただけ」


 男は淡々としていた。


 悪びれる様子もない。


「……いつからいた」


「結構前」


「は?」


「コンビニ出た辺りから」


 普通に怖かった。


「声かけろよ」


「いや、知らん人に急に話しかける方が怖いだろ」


「今してるじゃん」


「今はなんか死にそうだったから」


 呼吸が止まりかける。


 男はすぐに、

「あ、別に本当に今にも飛び込みそうとかじゃなくて」

と付け足した。


「なんていうか」


 言葉を探すみたいに少し黙る。


「消えそうな顔してた」


 その表現が妙に嫌だった。


 図星を突かれた時みたいに腹の奥が重くなる。


「……知らないくせに」


「うん」


 男はあっさり頷いた。


「知らない」


 そこで会話が終わる。


 否定もしない。


 理解したふりもしない。


 それが逆に変だった。


 普通なら、

「そんなことないって」

とか、

「大丈夫?」

とか言う。


 でもこいつは言わない。


 ただ、そこにいた。


 雨がまた強くなる。


 橋の外側が白く煙って見えた。


 男が立ち上がる。


「コンビニ行くけど」


 こっちを見る。


「お前、肉まん食う?」


 脈絡がなかった。


「……は?」


「腹減ってるだろ」


「別に」


「またそれ」


 男は少しだけ笑った。


 初めて表情が動いた気がした。


 でもその笑い方も、どこか疲れていた。


「じゃ、いらないなら俺二個食う」


 そう言って歩き出す。


 黒いパーカーの背中が雨に濡れていく。


 なんなんだ、あいつ。


 知らないやつ。


 名前も知らない。


 なのに。


 なんで帰れなくなるんだろうな、と思った。


男がコンビニの明かりの方へ消えていく。


 橋の下にはまた雨音だけが残った。


 川の流れる音。

 遠くで鳴る電車の通過音。

 濡れたタイヤが道路を擦る音。


 静かだった。


 でも、さっきまでより少しだけ呼吸がしやすかった。


 缶コーヒーをもう一口飲む。


 ぬるくなり始めている。


 帰ろうと思えば帰れた。


 今ならまだ終電もある。


 親から連絡も来ていない。


 怒鳴られる前に帰れば、多分今日は大丈夫だ。


 なのに足が動かなかった。


 なんでだろう。


 別にあいつと話したいわけじゃない。


 仲良くなりたいわけでもない。


 ただ、帰るって選択肢だけが妙に重かった。


 橋のコンクリート壁に頭を預ける。


 冷たい。


 目を閉じる。


 疲れていた。


 本当に、ずっと。


 学校でも、バイトでも、家でも。


 どこにいても神経が休まらない。


 誰かの機嫌を見て、空気を読んで、音に反応して。


 それをやめる方法が分からなかった。


 昔、先生に言われたことがある。


『もっと肩の力抜いていいんだぞ』


 無理だった。


 抜き方を知らない。


 気を抜いたら殴られる場所で育った人間は、多分ずっと身体が緊張してる。


 自分でも気づかないくらい自然に。


 コンビニの自動ドアの音が遠くで鳴る。


 しばらくして、足音が戻ってきた。


 ビニール袋の擦れる音。


「いた」


 男だった。


 片手に肉まんを持っている。


 もう片方には缶のカフェオレ。


「帰ったかと思った」


「……そっちこそ」


「俺は帰るって言ってない」


 またその曖昧な返し。


 男は俺の少し離れた場所に座った。


 近すぎない。


 でも遠すぎもしない。


 その距離感が妙に自然だった。


 男がコンビニ袋を漁る。


「あ、やっぱ腹減ってる顔してるから買ってきた」


 肉まんを投げてくる。


 反射的に受け取る。


「……別にいら」


「冷めるぞ」


 遮るように言われる。


 湯気が出ていた。


 温かい。


 腹が鳴りそうになって、慌てて黙る。


 男がそれに気づいた気配がした。


 でも何も言わなかった。


 包装を少し開ける。


 白い湯気が顔に当たる。


 一口食べる。


 熱かった。


 舌が少し痛い。


「猫舌?」


「……違う」


「ふーん」


 会話が続かない。


 でも不思議と苦じゃなかった。


 男は缶カフェオレを開けながら川を見ている。


 街灯の反射で、水面が鈍く光っていた。


「お前さ」


 男が急に言う。


「家、怖い?」


 身体が固まる。


 心臓が嫌な音を立てた。


 肉まんを持つ指に力が入る。


「……なんで」


「いや」


 男はカフェオレを飲む。


「俺がそうだったから」


 その言い方は軽かった。


 でも軽すぎて、逆に変だった。


 まるで、

『昨日コンビニ行った』

くらいの温度で言う。


「……だった、って何」


「前は」


「今は違うの」


 男は少し黙る。


 それから、


「今もまあ、嫌いだけど」


 と笑った。


 その笑い方が妙に空っぽだった。


 作ってる感じもしない。


 でも自然でもない。


 なんというか、

“笑うことに慣れてる”

顔だった。


 男が前髪をかき上げる。


 袖が少しずれて、手首が見えた。


 細い傷が何本かあった。


 古いやつ。


 一瞬だった。


 見間違いかもしれない。


 でも目に入った瞬間、視線を逸らしてしまった。


 男は気づいてないのか、気づいて流したのか分からない。


 何も言わなかった。


「……お前、毎日ここいるの」


 気づけば聞いていた。


「毎日じゃない」


「じゃあ今日たまたま?」


「たまたま」


 男は頷く。


「でも、お前みたいなのはたまにいる」


「……俺みたいなの」


「帰れないやつ」


 また簡単に言う。


 簡単に言うなよ、と思った。


 でも否定できなかった。


 男は膝を立てて、その上に腕を乗せる。


「駅前さ」


 ぽつりと言う。


「終電近くなると、帰れない人めっちゃ増える」


「……そうなの」


「うん」


 川を見たまま続ける。


「喧嘩したやつとか」

「仕事行きたくないやつとか」

「家帰ったら一人のやつとか」

「死のうか悩んでるやつとか」


 最後だけ、やけに静かだった。


 空気が少し冷える。


「……見て分かるの」


「なんとなく」


「エスパー?」


「いや」


 男は少し笑う。


「同類は分かる」


 その言葉が妙に残った。


 同類。


 その響きだけで、少し息が苦しくなる。


 認めたくない気持ちと、安心する感覚が同時に来る。


 男は肉まんを食べ終えて、包装を丸めた。


「名前」


 不意に言う。


「え」


「聞いてなかったなと思って」


 そう言って、男はこっちを見る。


 初めてちゃんと目が合った。


 驚くくらい静かな目だった。


 怒ってない。


 探ってもない。


 でも、どこか妙に疲れていた。


「……別に言わなくていいけど」


 男が言い足す。


 その言い方がずるかった。


 強制しないくせに、逃げ道も塞いでくる感じがする。


 少し迷ってから、小さく名前を言う。


 男はそれを一回繰り返して、


「へえ」


 とだけ返した。


「そっちは」


「ん?」


「名前」


「ああ」


 男は少し考えるみたいに空を見て、


「……悠」


 と呟いた。


 雨音の中で、その名前だけ妙に静かに聞こえた。


 スマホを見る。


 0時02分。


日付が変わっていた。


胃の奥が重くなる。


今帰れば怒られるかもしれない。


でも、

帰らなくても怒られる気がした。

第一夜を読んでいただきありがとうございます。


静かな話ですが、少しでも何か残るものがあれば嬉しいです。


また次の夜でお会いできればと思います。

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