Chapter4 転調
最初に変わったのは、数値ではなかった。
「……来ます」
環の声は、小さかった。
それでも、そのひと言で、全員が同時に理解した。
相手が――
弾きはじめた。
整っていたはずの流れに、不意に差し込まれる、濃い陰。
規則正しいはずの処理が、わずかに“間”を持ち始める。
流れている。リズムも、構造も、破綻していない。
それなのに――
胸の奥が、ざわつく。
「……変口短調……」
環の唇が、音をなぞるように動いた。
「ショパン、第2番……」
凪が、はっと息を呑む。
「転調が多い……しかも、間が深い曲だ……」
相手は、なめらかに、しかし確実に主導権を奪いにきていた。
強く叩くわけでもない。
速く走るわけでもない。
ただ、“どこで入ればいいかわからない音” を置き続ける。
環の呼吸が、少しずつ浅くなる。
音を、追ってしまう。
置かれた間の意味を、無意識に探してしまう。
「……環?」
柊が声をかけたとき、環の身体が、わずかに揺れた。
「……だい、じょう……」
言い切る前に、視界が歪む。
音が、頭の内側で反響する。
間、間、間。
意識が、一拍、遅れた。
「環!」
柊は即座に立ち上がり、倒れかけた身体を抱きとめる。
「……っ……」
「無理をするな」
その声は低く、しかし迷いがなかった。
柊は環をソファへ横にし、そのまま隣に腰を下ろす。
「大丈夫だ。ここにいる」
環の肩に、確かな温度。
それだけで、心が、静かになる。
音はまだ続いているのに、胸のざわめきが、少し引いた。
「……すみません……聞きすぎました……」
「いい」
柊は短く言い、片手で環の手を包んだまま、もう片方でキーボードに触れる。
その背後で――
「……じゃあ」
凪が、眼鏡を押し上げる。
「ここからは、僕たちの番ですね」
蒼真が、静かに頷いた。
次の瞬間。
空気が変わった。
激しい連打。迷いのない加速。
――革命。
最初から最後まで、息をつかせない攻勢。
「速い……!」
凪の指が、踊る。
「でも、テンポは渡さない!」
蒼真が、低く笑った。
相手は一瞬、押される。
だが、すぐに反撃が来た。
軽やかに、小刻みに。
――小犬のワルツ。
「切り替えが早い……!」
「でも浅い!」
凪が、すぐに追い越す。
主導権が、一度、こちらへ。
しかし――
「……来るぞ」
蒼真の声が、低く沈む。
重く、堂々とした音圧。
――英雄。
「力で押してくる……!」
環は、ソファの上で、目を閉じたまま、その音を“感じて”いた。
怖くはない。
もう、ひとりじゃないから。
「……今です」
そのひと言で、すべてが噛み合った。
転調の、ほんの一瞬。
天才Duoが、同時に入り込む。
重なる指。重なる判断。
英雄の旋律を、連弾で奪い取る。
「このまま――!」
「離すな!」
音が、こちらのものになる。
最後の一打。
沈黙。
勝った。
凪が、深く息を吐いた。
「……終わりました」
蒼真は、ゆっくり椅子に背を預ける。
柊は、隣の環を見下ろした。
環は、穏やかな表情で眠っている。
その顔を見て、柊は小さく息をついた。
「……よくやった」
それは、誰に向けた言葉だったのか。
答えは、もう必要なかった。




