Chapter1 開発は、予定通りに始まらない
[アークシステムズ・オフィス/午前10時]
「……あれ?」
凪の声は、いつもより少し低かった。
柊はすぐに顔を上げる。
「どうした?」
「うーん……なんて言えばいいのかな……
“何も起きてない”のに、変なんです」
モニターに映るのは、ルーアン社・スマートオフィス化プロジェクトの事前共有資料。
要件定義、構成図、権限設計、移行スケジュール。
どれも整っていて、抜けも、重複も、曖昧な表現もない。
――あまりにも、きれいすぎる。
「きれいだな」
柊が淡々と言う。
「ですよね?でも……きれいすぎるんです」
凪はキーボードから手を離し、眼鏡の位置を直した。
「この規模の刷新で、“想定外”がひとつも書かれてないのって、逆に不自然じゃないですか?」
環は、凪の隣で資料をのぞき込み、小さく首を傾げた。
「……たしかに……
注意事項はたくさんあるのに、“困ったとき”の項目がないですね」
「そう、それです!」
凪がぱっと顔を上げる。
「普通はね、“ここは詰まるかも”とか、“切り戻しの可能性”とか、書きたくなくても書くんですよ」
柊は腕を組み、画面全体をゆっくり見渡した。
「つまり?」
「“迷う余地を与えてない設計”です」
凪は、はっきり言った。
「このシステム、使う側が考えることを前提にしてない」
その言葉に、環の胸の奥が、ちくりとした。
「……それって……
人の動きが、決められてるってことですか?」
凪は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐにやわらかく笑った。
「さすが環さん。
そういう言い方のほうが、しっくりきます」
柊の視線が、ゆっくりと環に向く。
「環、もう何か気づいてるか?」
「え?うーん……まだ、はっきりじゃないんですけど……」
環は資料の端を指でなぞる。
「……この配置……人の動線みたいだなって……」
一瞬、部屋が静かになった。
凪が、ゆっくり息を吐く。
「……それ、僕も思ってました」
柊は何も言わず、一度だけ深く息を吸った。
「予定通り、には進まなそうだな」
その声は落ち着いていたが、決して軽くはなかった。
そのとき、凪の端末に通知が入る。
「……あ」
「どうした?」
「蒼真さんからです」
凪は画面を見つめ、眉をわずかに寄せた。
「“まだ触るな”って……それだけ、送ってきてます」
柊は静かに頷いた。
「……わかった。じゃあ、まずは“見るだけ”だ」
◇
[同日/午後]
開発環境は、ルーアン社側が用意した、限定アクセスのテスト領域。
ログイン、権限確認、データ参照――
すべては仕様通りに動いていた。
「……ほんとに、何も起きませんね」
凪がつぶやく。
「ですね……でも……」
環は画面を見つめたまま、言葉を探していた。
「……“静かすぎる”気がします」
「環さんもそう感じます?」
「はい……なんていうか……
“待たれてる”感じがして……」
凪は、ゆっくり椅子にもたれた。
「……それ、エンジニア的にも、嫌なやつです」
柊は2人の会話を遮らず、全体のログを確認していた。
そして、ほんの一瞬だけ、指を止める。
「……凪」
「はい?」
「この権限継承ログ、一箇所だけ、時刻が揃いすぎてないか?」
凪はすぐに画面を切り替えた。
「……あ」
「どうした?」
「……ミリ秒単位で、全部、同じです」
環が息を呑む。
「それって……
人の操作じゃない……?」
「ええ。“人がやったように見せた処理”ですね」
凪の声から、冗談めいた軽さが消えていた。
その瞬間、凪の端末がもう一度震えた。
「……蒼真さんから、続きです」
凪は、短く息を吸ってから読み上げる。
「“今、見えたな。
それが入口だ”」
柊は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……よし」
環が思わず見上げる。
「柊……?」
柊は穏やかな声で言った。
「まだ、触らない。
壊さない。
動かさない」
そして、2人を見る。
「でも――
これはもう、ただの開発じゃない」
凪が、小さく笑った。
「ですね。
“向こう”も、もう気づいてます」
環は、胸の奥に広がる、ざわりとした感覚を、はっきり自覚していた。
――始まった。
派手な音も、警告表示もない。
けれど確かに、この設計の奥で、見えない戦いが、静かに動き出していた。




