Chapter13 支配者の焦り
[クロノス・ソリューションズ・分室・会議ブース/午後]
無機質な照明が、机の天板だけを白く照らしていた。
遮音性の高いブースの中には、空調の低い唸りと、キーボードの音だけがある。
辻井響は、モニターを見つめていた。
指は速い。
操作は正確で、迷いがない。
それは“作業”ではなく、“日課”だった。
背後で、常見紘一がコーヒーの蓋を閉める音がした。
「……今日も、同じだな」
「ええ」
辻井は視線を動かさずに答える。
モニターには、見慣れたログの列。
ルーアン側の裏口――“残してある扉”を経由して、必要なものだけを“排出”し、クロノス側で受け取る。
侵入ではない。攻撃でもない。
“回収”だ。この回収が、ある限り。
社長の椅子は、織原梨杏のものではあり続ける。
「……あの人は、まだ何も気づいてない」
常見が、確認するように言った。
辻井は短く頷く。
「気づけないようにしてる。
資料はこっちに寄せて、社内には残さない。
あとは、彼女が“守られている”と思っていればいい」
常見は鼻で笑った。
「守るという名の支配、か」
「言い方が悪いですね」
辻井は淡々と返した。
「彼女は、“社長”の器じゃない。
だけど、顔としては適任だった。
改革の象徴で、神話の主人公。
その神話を信じている社員が多いほど、こちらは楽になる」
常見は、カップを手にしたまま椅子にもたれる。
「……織原が自分で判断していると信じている限り、社内は静かだ。
静かな会社は、数字が踊らない」
辻井は、画面に視線を落としたまま、静かに言った。
「踊る必要がある数字だけ踊らせればいい」
——そのときだった。
辻井の指が、ほんの一瞬止まった。
ほんの、僅か。
瞬きの間よりも短い停滞。
それなのに、胸の奥に冷たいものが落ちた気がした。
「……?」
辻井は、ゆっくりとログを遡った。
表示は整っている。遅延もない。
応答は正常。何も、異常ではない。
——なのに。
「今、なにか……」
辻井が呟くと、常見が顔を上げた。
「どうした」
「……いや。“変”ってほどじゃない」
辻井は、言い直すように口を閉じた。
“変”ではない。“違和感”だ。
心拍が一拍、ずれたような。
自分の呼吸が、ほんの少しだけ遅れたような。
辻井は、手元のターミナルを切り替える。
ログの出力。転送先。
同期状況。すべて、正常。
「気のせいだ」
自分に言い聞かせるように言った。
だが——
違和感は、消えなかった。
常見が、淡々と口を挟む。
「最近、ルーアン側が静かすぎるんじゃないか?」
辻井は、視線を動かさずに返す。
「……アークシステムズの連中か」
常見の声が、少し低くなった。
「凪と、桐生。あの“天才Duo”がいる。
柊は……あいつは静かに全部を潰すタイプだ」
辻井は、唇だけで笑った。
「静かな男ほど厄介ですね」
「そうだ」
常見は、カップを机に置き、身を乗り出す。
「奴らが何も言ってこないのが気味が悪い。
ハッキングがあったのに、騒がない。
社長にも直接触れてこない。
——“動かない”のは、動けないからじゃない」
辻井の目が、ほんの僅かに細くなる。
「……動かないことで、こちらを動かそうとしている」
常見は頷いた。
「釣りだ。焦った方が負ける」
辻井は、指を動かした。
もう一度、同期状況を確認する。
転送量の推移。変化の有無。
数字は、滑らかに流れている。
——滑らかすぎる。
辻井は、息を止めた。
“戻っている”。
違和感が出た直後、まるで何事もなかったように、ログの波形が整い直されている。
整いすぎている。
「……常見」
辻井の声は小さかった。
「……なんだ」
「今の違和感、“気のせい”じゃない」
常見は一瞬黙り、それから低い声で言った。
「……やられたか?」
辻井は首を振った。
「“侵入”じゃない。“奪取”でもない」
指先が冷たい。
辻井は、画面の片隅にある転送ログを拡大した。
「……コピーだ」
常見の顔色が変わる。
「コピー……?」
「ルーアン側のクラウドに、こちらのデータを“持っていかれた”わけじゃない。
——“同じものを作られた”」
常見が、口元に手を当てた。
「証拠が……」
辻井は、淡々と言った。
「向こうが“証拠を残す”ための動きです」
沈黙が落ちる。
ブースの外は、何事もない平日の午後。
人の声が遠くで滲んでいる。
この静けさが、逆に2人を追い詰めた。
常見が、苛立ちを押し殺すように言う。
「……織原は?」
「今は、ルーアンにいる」
「社長は、まだ“守られている”と思っているか?」
辻井は答えない。答えられない。
その瞬間、辻井のスマホが震えた。
画面に表示されたのは、社内のチャット通知。
——ルーアン側から、ミーティング変更。
辻井は、眉を動かさずに読み上げた。
「……“戻りが1時間遅れます”」
常見が舌打ちしそうになり、寸前で呑み込む。
「遅らせた方がいい。
戻って顔を合わせたとき、焦りが表に出る」
辻井は、コーヒーの蓋を指でなぞった。
「焦りは、もう出ていますよ」
その言葉に、常見の喉が動いた。
辻井は、静かに続ける。
「……計画は、ずっと完璧だった。
織原を社長に押し上げ、彼女を神話に仕立て、彼女の口を閉ざし、数字を静かに運ぶ」
「クロノスとの繋がりも、高瀬玲子も、必要なときだけ使えばよかった」
辻井の視線が、冷たくなる。
「でも——」
常見が、続きを促すように見た。
辻井は、言った。
「……環です。
如月環が、余計なんです」
常見の眉が動いた。
「またその名前か」
「はい」
辻井は淡々と、しかし確信を持って言った。
「“見える人間”は厄介です。
数字を見て、空気を見て、人の表情の一瞬を拾う」
常見の声が低くなる。
「……あの女、前にも“事件”を連れてきた」
辻井は頷いた。
「クロノスの情報漏洩事件。
高瀬玲子が、環を犯人に仕立てたあれです」
常見は冷笑した。
「……高瀬は余計な感情で動く。
嫉妬で人を潰す。だから最後に負ける」
辻井は、画面を閉じるように手を止めた。
「けれど、彼女の“悪意”がなければ、ここまでスムーズに動かなかったのも事実です」
常見の目が鋭くなる。
「……辻井。お前、何が言いたい」
辻井は、静かに言った。
「“想定外”が増えています」
「アークシステムズ。環。そして……」
言葉を切り、続ける。
「織原梨杏自身」
常見が、息を呑んだ。
「……あの女が、気づいたと?」
辻井は答えなかった。答えは出ていない。
だが、“違和感”は出ている。
辻井は、スマホの通知をもう一度見た。
1時間遅れ。
それは、逃げの時間ではなく、“整える時間”だ。
焦りを隠し、平然と戻るための時間。
辻井は立ち上がり、ブースの扉に手をかけた。
「帰りましょう、常見さん」
常見も立ち上がる。
「戻ったら、まず織原の様子を見る。それから——」
辻井は、扉を開ける前に、短く言った。
「“守っている”と、もう一度言わせてください」
常見が、薄く笑った。
「守る……ね」
辻井は笑わない。
「ええ。
守るという名の支配を、彼女が信じているうちは」
扉の向こうの廊下に、冷たい光が落ちていた。
「私たちは、負けません」
その言葉は、宣言ではなかった。
——自分に言い聞かせる、呪文だった。
そして、2人は“予定より1時間遅れ”で、ルーアンへ戻る。
すべてがまだ支配下にあると、思い込むために。
◇
その頃。
ルーアンのどこかで、静かにコピーされた“証拠”は、消えない形で息をしていた。




